エピローグ:陽だまりの残照
あの卒業式から、七年の歳月が流れた。
大学を卒業し、都内のITベンチャーでシステムエンジニアとして働く俺、夏目陽向の日常は、それなりに忙しく、充実していた。あの頃の自分が見たら、きっと驚くだろう。人見知りだった俺が、今ではチームリーダーとして後輩の指導をしたり、クライアントと丁々発止のやり取りをしたりしているのだから。
あの復讐劇は、俺の人生の大きな転換点になった。すべてを壊し、すべてを捨てたことで、俺は初めて自分の足で未来を歩き出すことができた。空っぽになった心を満たしてくれたのは、新しい出会いと、仕事への情熱だった。
そんなある日の午後、取引先との打ち合わせを終え、カフェで一息ついている時のことだった。
「……陽向、くん?」
不意にかけられた声に顔を上げると、そこに立っていたのは、見間違えるはずもない、かつての恋人だった。
天野川姫奈。
彼女は、高校時代よりもずっと大人びて、洗練された雰囲気になっていた。けれど、その瞳に浮かんだ驚きと困惑の色は、昔のままだった。
「……天野川さん。久しぶり」
俺が平静を装ってそう言うと、彼女はびくりと肩を震わせた。
「あの……その、ごめんなさい、急に声をかけて……」
「いや、大丈夫。元気そうで何よりだよ」
俺がにこりと笑いかけると、姫奈はますます戸惑ったような顔になった。気まずい沈黙が流れる。彼女は何か言いたそうに唇を震わせ、やがて、絞り出すような声で言った。
「あの時のこと……本当に、ごめんなさい。私、ずっと……陽向くんを深く傷つけて……」
「ん?ああ、高校の時のこと?」
俺は、本当に忘れていたかのように、少し首を傾げてみせた。もちろん、忘れるはずがない。俺の「完全記憶能力」は、今も健在なのだから。でも、俺の中で、それはもう「過去の出来事」というフォルダに分類され、鍵がかけられたデータでしかなかった。
「もう七年も前のことだろ?若気の至りってやつだよ。俺も、ちょっとやりすぎたしな」
からりと笑ってそう言うと、姫奈の瞳が大きく見開かれた。そして、その目にみるみるうちに涙が溜まっていく。
「違う……違うの。陽向くんは、悪くない。私が……私が全部、愚かだったから……」
「まあまあ。それより、結婚したんだって?友人から聞いたよ。おめでとう」
俺が話題を変えると、彼女はハッとしたように涙をこらえ、「あ……うん。ありがとう」と小さな声で答えた。その左手の薬指には、シンプルな結婚指輪が光っていた。
「……陽向くんは、今、幸せ?」
おずおずと尋ねる彼女に、俺は迷いなく頷いた。
「ああ。すごく楽しいよ。仕事も面白いし、いい仲間にも恵まれてる」
俺の屈託のない笑顔を見て、姫奈は何かを諦めたように、ふっと力なく微笑んだ。
「そっか……よかった。じゃあ、私、これで……」
そう言って立ち去っていく彼女の背中は、ひどく小さく、寂しげに見えた。
俺の許しでも、罵倒でもなく、「もうどうでもいい」という事実が、彼女を今になって深く傷つけているのだろう。後悔という名の十字架は、案外、許されないことよりも、気にさえされないことの方が、重くのしかかるのかもしれない。
俺は、もう冷めてしまったコーヒーを一口飲んで、席を立った。
それからさらに数ヶ月後。
今度は、もっと予期せぬ再会があった。
大学時代の友人の結婚式の二次会。その会場で、俺は信じられない人物と顔を合わせた。新婦側の友人として参加していた、皇凱斗だ。
「……よう、夏目。久しぶりだな」
向こうから、わざとらしいほどに馴れ馴れしく声をかけてきた。七年の月日が、彼を少し落ち着かせたようだが、その瞳の奥に宿る傲慢な光は変わっていなかった。
「皇か。奇遇だな」
「奇遇、ね。お前、まだ東京にいたんだな。相変わらず、地味な格好してるじゃねえか」
明らかに、マウントを取ろうとしているのが透けて見えた。俺は苦笑しながら、「そう見えるか?」と返す。
「ああ。俺は今、親父の会社で役員やっててさ。この間も、デカい契約まとめてきたとこだよ。姫奈とも、まあ、色々あったけど、結局俺が幸せにしてる。お前が惨めに捨てた思い出も、俺たちにとってはいいスパイスになったってわけだ」
得意げに語る皇の話を、俺は「へえ、すごいな」と適当に相槌を打ちながら聞いていた。どうやら彼は、今もなお、俺に対して「勝った」と思いたくて仕方がないらしい。哀れな男だ、と思った。
「なんだよ、その態度は。悔しくないのか?」
苛立ったように、皇が低い声で言う。
「悔しい?何が?」
「とぼけんな!俺がお前の女を奪って、お前は惨めに復讐ごっこした挙句、俺たちは幸せになった!お前は負けたんだよ!」
声を荒らげる皇に、周りの客がちらちらと視線を向ける。俺はやれやれと肩をすくめ、グラスに残っていたシャンパンを飲み干した。
「皇。お前って、七年前から何も変わってないんだな」
「……何?」
「俺は、お前に負けたなんて一度も思ったことないぞ」
俺は、心からの笑顔で言った。
「むしろ、感謝してるくらいだ。あの時、天野川さんを君が引き取ってくれなかったら、俺は今頃どうなってたか分からないからな」
「な……にを……」
皇が絶句する。
「まあ、頑張れよ。君が『幸せにしてる』彼女と、末永くお幸せに」
俺は皇の肩を軽く叩くと、その場を離れた。背後で、皇が何かを叫んでいたが、もう興味はなかった。
勝ち負けなんて、どうでもいい。
俺は、過去の女のことで未だに勝ち誇ろうとする小さな男に成り下がることもなく、過去の過ちに囚われ続ける女を哀れむこともない。
俺は、俺の人生を生きている。
会場の外に出ると、夜風が心地よかった。スマホを取り出すと、現在の俺の恋人から『二次会、楽しんでる?終わったら迎えに行くね』というメッセージが届いていた。彼女は、俺の過去も、この少し厄介な記憶能力のことも、すべて受け入れてくれる、太陽みたいな人だ。
俺は、彼女に『ありがとう。もうすぐ終わるよ』と返信しながら、夜空を見上げた。
空には、綺麗な月が浮かんでいた。
かつて、俺の世界の中心だった月。
でも、もう俺は、その月明かりがなくても歩いていける。俺自身の足で、もっと明るい未来へと。
あの復讐は、何も生まなかったかもしれない。
でも、すべてを壊したあの場所から、俺の本当の人生は始まったのだ。
過去の残照がふと心をよぎることはあっても、それはもう、俺の明日を照らす光にはならない。俺にはもう、新しい太陽があるのだから。
【追記:姫奈】
カフェを出て、雑踏の中を一人で歩く。
陽向くんの、あの屈託のない笑顔が、瞼の裏に焼き付いて離れない。
私は、ずっと彼に許されたかったのかもしれない。ううん、許されなくてもいい、せめて「お前のせいで俺の人生はめちゃくちゃになった」と罵ってほしかったのかもしれない。
そうすれば、私はこの罪悪感を背負いながらも、「彼の心に深い傷を残した存在」として、彼の記憶の中で生き続けられたから。
でも、違った。
彼の態度は、「もう、どうでもいい」だった。
私は、彼の人生において、もう何の価値も持たない、ただの過去の一ページにすらなっていない、空気のような存在だった。
結婚して、夫である凱斗に愛されて、幸せなはずなのに。
どうしてだろう。胸にぽっかりと空いたこの穴は、涙を流しても、何をしても、決して埋まることはない。
私が本当に失ったのは、陽向くんという恋人ではなかった。
私が捨ててしまったのは、陽向くんがくれた、あの陽だまりのように温かく、純粋だった頃の、自分自身だったのだ。
もう二度と、あの頃には戻れない。
【追記:皇】
夏目が去った後、俺は一人、バーカウンターでグラスを煽っていた。
「感謝してる」?「引き取ってくれて」?
あいつ、何を言っているんだ。俺が、あいつの捨てた女を拾ってやったとでも言いたいのか。
違う。俺は、勝ったんだ。あいつから、姫奈を奪い取った。そして、姫奈は俺を選び、今も俺の隣で笑っている。それが事実だ。
なのに、どうしてだ。
あいつの、あの余裕のある笑顔が、脳裏から離れない。まるで、俺が必死に守り、勝ち取ったと思っているものが、あいつにとってはもはや何の価値もないガラクタだと言われているような……。
苛立ちに任せて、酒を呷る。
そうだ、あいつは負け惜しみを言っているだけだ。強がっているに決まっている。
俺は勝者で、あいつは敗者だ。
そうじゃなきゃ、おかしい。
俺が姫奈に与えているこの「幸せ」が、偽物だなんてことが、あってたまるか。
俺は、自分にそう必死に言い聞かせ続けた。




