後日譚③ 白石夕凪のカルテ ──地上に生きる医師──
夜のクリニックは、今日も静かだ。
患者の波が引き、廊下の明かりだけが残っている。
私はカルテを閉じ、深く息をついた。
この仕事をしていると、
時々、本当に“心”というものが見えた気になる。
でも、きっとそれは錯覚だ。
人の心なんて、誰にも完全にはわからない。
私にできるのは、ただ隣で話を聞くことだけ。
机の引き出しを開ける。
古びた診療カードが二枚。
アークル=ヴァル=ゼルグ
ミリア=ノート
どちらも、奇妙な患者だった。
彼らの語る“異世界”の話を、私は半分信じて、半分笑っていた。
けれど、不思議なことに、
二人が通っていたあいだ、クリニックの植物がよく育った。
あの日、壊れた時計も、気づけば直っていた。
偶然かもしれない。
でも――もしほんの少しだけ、
世界のどこかに“魔法”があるのなら、
私はそれを「回復」と呼びたい。
窓の外では、春の雨が降っている。
街の灯が滲み、静かな夜の匂いがする。
机の上には、新しいカルテが一枚。
今日来た青年の言葉が、まだ耳に残っている。
「最近、世界を救う気力が出ません」
私は少し笑って、ペンを取った。
「じゃあ、世界は少し休ませておきましょう。
代わりに、あなた自身を少し救ってください。」
カルテに小さく書き込む。
再診:いつでも
そして、灯りを消す。
翌朝。
いつも通りの街。
通勤の人々。
すれ違う顔の中に、ふと、見覚えのある後ろ姿を見た気がした。
振り返っても、もう誰もいない。
でも、そのとき胸の奥で、なぜかあたたかい風が吹いた。
私は小さく笑って呟く。
「おはようございます、アークルさん。
……今日も世界は、生きていますよ。」
完
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
この物語は、「滅ぼす」でも「救う」でもなく、“生きる”という選択を描きたくて書きました。
魔王という存在が、人として心を取り戻す。
勇者も医師も、同じように迷いながら、それでも前に進んでいく。
そんな小さな希望を、少しでも感じてもらえたなら嬉しいです。




