第1話 世界を滅ぼす気力が出ません ──アースこころクリニックにて──
──アースこころクリニックにて──
目を覚ますと、知らない空の下だった。
灰色の雲。
金属の鳥が、空を裂いて飛んでいく。
地面は黒く、やけに固い。
鉄で舗装されているのか?
行き交う人間たちは、奇妙な衣をまとい、
掌の中の小さな光る板に話しかけている。
魔法かと思った。
だが、誰も驚いていない。
「……ここはどこだ?」
返事はない。
ただ、人々は俺を避けるように通り過ぎていく。
胸の奥に、ずしりと重い虚無が落ちた。
戦争は終わった。
誰も残らなかった。
勝者も敗者も、もういない。
あの裂け目を通って、俺は逃げてきたのか?
力が抜け、膝をつく。
そのとき、壁に貼られた看板が目に入った。
『アースこころクリニック 心の悩み、ご相談ください』
アース。
皮肉な名だ。
かつて俺が滅ぼした星の名と、同じ。
だが、なぜだろう。
その白い文字が、救いのように見えた。
ベルが鳴り、ドアを押す。
小さな待合室。
観葉植物と、淡い照明。
静かな空気が流れている。
受付の青年が慌てて立ち上がった。
「す、すみません初診の方ですか? お名前は……」
「アークル=ヴァル=ゼルグ」
「……えっと、カタカナでお願いします」
数分後、診察室。
白衣の女医が、柔らかく微笑んでいた。
「こんにちは。白石夕凪と申します。今日はどうされましたか?」
俺は口を開き、少し考えてから言った。
「……世界を滅ぼす気力が、出ません」
白石は一瞬だけペンの動きを止め、
「なるほど」と頷いた。
「それは最近のことですか?」
「はい。二千年前からです。」
「けっこう長いですね。」
沈黙。
時計の針の音が、やけに響く。
「眠れていますか?」
「夢を見る。焼け落ちた街と、泣く声だ。」
「それはつらいですね。無理に忘れようとしなくていいですよ。」
白石の声は、なぜか懐かしかった。
戦いのない世界で初めて聞く、穏やかな音だった。
ふと、胸の奥が熱くなる。
だがその熱は魔力ではなく……涙のようなものだった。
「……あなたは、心が疲れ切っています」
「心……?」
「ええ。勇者に勝つことより、自分を赦す方がずっと難しいんです。」
白石はカルテにさらさらと書き込みながら、微笑んだ。
「治療には時間がかかります。でも、通ってみませんか?」
俺は少し迷った。
だが、初めて戦わなくていい選択を前にして、静かに頷いた。
「……わかった。では、また来週。」
診療カードには、文字が並んでいた。
アースこころクリニック
次回予約:木曜日 10:00
担当医:白石夕凪
外に出ると、陽が射していた。
見知らぬ世界の空は、なぜか少しだけあたたかかった。




