ハロウィンのプレゼント
「おはようございます、硲さん」
「あ、おはようございます」
硲美紅璃は反射的に挨拶を返してから、誰だっけ、と思う。美紅璃に声をかけてきたのは美紅璃の友人が見たらさぞや弄りたがるであろう綺麗な黒髪をした人物だ。しかも腰まで長く、艶やかである。こんな人物がクラスメイトだったら、普通、忘れないと思ったが、美紅璃は周りへの関心が極端に薄いため、忘れていた。
十月も末だというのに、クラスメイトの名前も出てこないようでは終わっている。だが、あまり周りを気にする気になれなかった。
美紅璃の母は女手一つで美紅璃をここまで育て上げてきた。立派な人だと思う。けれど母の職業を聞けば、みんなが眉をひそめ、蔑んだ。まあ、風俗で働いている、と聞いて好印象を抱く方が難しいだろう。
小中学生の頃はそれでよくいじられた。風俗という言葉の意味もよく知らないだろうに「こいつの母ちゃん、風俗で働いてんだってー」と笑ってきた男子には不快感しか覚えなかった。片親ということでも色々言われたし。それで、人と関わるのが面倒くさくなったような気がする。
だから関わらないで来た。高校デビュー、なんて言葉もあったような気がしたが、美紅璃はちっとも興味が湧かなかった。
まあ、別に、他者と比べて自分は素晴らしいなんて思わないし、自分に対しても関心が薄かったから、正直、自分のことさえどうでもよかった。
そんな自分に、声をかけて、髪を触らせてほしい、と毎週土曜日に家まで来てくれる由比ヶ浜咲咲音という存在が、美紅璃の中でだいぶ特別なのは、わかっていた。
けれど、咲咲音以外に興味を持つことはできなかった。先日、席替えになったけれど、前後左右の人間を覚えるほど義理がたい性格をしていない。
それに、美紅璃はほぼ初対面といっても過言ではないこのクラスメイトが、既に嫌いだった。堂々としていて、容姿が綺麗。だけど、上から目線なのが伝わってくる。
今、名前を聞いたら絶対に揉め事になる。そう直感した。だが、目の前の御仁は美紅璃をじっと見下ろして動く様子がない。気まずい。
「あの、何か用ですか?」
沈黙と周囲からの視線に耐え兼ねて、美紅璃は聞くことにした。改めて顔を見ても、顔がいいということしかわからず、名前は欠片も出てこない。まあ、名前を呼ばなくてもやり過ごせるだろう、と美紅璃はコミュニケーションに臨む。
すると、上から目線美人が、すいっと美紅璃の眼前に顔を寄せる。顔と顔がくっつきそうなほどに。美紅璃は表情筋が死んでいてよかった、と安堵した。顔がいいのがいきなり近づいてきたのである。普通なら顔がひきつったことだろう。
心臓に悪い、と美紅璃は息を飲んだ。
「硲さんって、ヘアケアどうしてるの? 春の頃より髪の色艶がよくなってるよね?」
「え、ぇ?」
ヘアケア? 色艶? 春の頃より?どういうことだ? と美紅璃は色々戸惑ってしまう。いきなりヘアケアについて聞かれることも戸惑うし、春の頃から観察されていたのか、と思うと不気味な気がした。
それに、距離の詰め方がおかしい。「髪を弄らせてほしい」と美紅璃に言った咲咲音だって、こんな詰め方はしなかった。パーソナルスペースがおかしい人なのではないだろうか。それとも、美紅璃がおかしいだけで、今はこれくらいが普通なのだろうか。
名前も知らない人に、咲咲音のことを紹介するのもどうか、と思うのだが、「正直に答える」以外の選択肢が残念ながら思い浮かばない。
「へ、ヘアケアに詳しい友達に教わって、櫛をよく通すようになっただけ、です……」
「硲さん、友達いたんだ」
それは失礼では、と思ったが、美紅璃が他者とコミュニケーションを取らないのは確かなので、否定もできない。確かに、咲咲音以外に友達はいない。
唯一の友達。それが咲咲音なのだとしたら、かなり特別な存在だな、と美紅璃は自分の中に占める咲咲音の割合を噛みしめる。最近は髪結い以外にも、ショッピングに行ったり、ライブに行ったりする。いつぞや再現に挑戦したアイドルのライブに行ったときは母に笑われたっけ。あんたみたいな朴念仁にも、あんなかわいいオトモダチができるもんなのね、とこれまた失礼なことを言われたが。
まあ、咲咲音といるのは楽しい。周りに興味や関心のない美紅璃が、アイドルのライブに行って、一緒に握手会に並ぶくらいには。咲咲音は美紅璃の世界を広げてくれた恩人だ。
「その友達って?」
「……」
聞かれて、美紅璃は悩む。
即答しなかったのは、このなんだか高飛車そうな美人が、少し気弱な咲咲音と相性が悪そうな気がしたからだ。咲咲音は学校の「コスプレ部」という部活に所属しており、ヘアメイク動画は学校の公式YouTubeでもかなりの再生数を誇る。が、そんな咲咲音のヘアメイクを断り続けている部員がいるという。
咲咲音は滅茶苦茶人の髪を弄るのが好きだが、本人はというと、髪質が終わっていて、男子みたいなベリーショートヘアにしている。女の子の坊主なんて、時代が違えばいじめの対象になり得た。だが、今は女の子でもベリショが流行っているのと、咲咲音の技術と人のよさで咲咲音を悪く言う人はほとんどいない。
ただ一人、コスプレ部のエースを除いて。コスプレ部のエースは「自分のヘアケアもろくにできないやつに自分の髪は任せられない」と咲咲音のコンプレックスを撃ち抜くような言葉を吐いたという。とても顔がよくて、髪も手入れが行き届いていて、手足もすらりと長く……
と考えたところで、美紅璃がはたと気づく。
「……コスプレ部の高田栄子さん?」
「え、今?」
はっとした。しまった、名前がわかっていないことを隠し通すつもりだったのに、符号した名前を呟いてしまった。
そう、美紅璃の目の前にいる美人なのにちょっと感じの悪そうな女子、それがコスプレ部エースの高田栄子だった。まさか、自分と同じクラスだったなんて知らなかった。
まあ、美紅璃は神経が太いので、しまったとは思ったが、開き直ることにした。
「確かに、ブラックアイコとミルクアイコを足して二で割ったような顔立ちのよさですね」
「アイドルと比較するなんてなかなかの度胸してるじゃない」
ひくひく、と栄子のこめかみが震えたような気がする。が、美紅璃はそれくらいでびびらない。
「というか、硲さんでもアイコ×3☆ミ知ってるのね」
「はい。ライブにも行きましたし、握手会も一回だけ。私は箱推しなので、グッズ系集めるの大変です」
「いきなり情報量多くならないで」
「高田さんだって、顔面だけで情報量多いですよね。顔面偏差値という言葉の意味を実感しましたよ」
ちなみにブラックアイコは人気すぎたのとミルクアイコは夢女が多かったのでハニーアイコとしか握手できなかったんですけど、とお構い無しに美紅璃は続ける。そう、彼女は普段、人と話さないため、どのくらい人に話していいのか、具合がわからないのだ。
クラスのコミュ障陰キャだと思っていたやつが今流行りのアイドルのオタクだとは思っていなかったのだろう。見世物感覚で美紅璃と栄子のやりとりを見ていたクラスメイトたちも固まっている。
とにかく、と美紅璃は立ち上がる。
「コスプレ部はハロウィンイベントがあるんですよね? あたしにヘアケアの仕方を教えてくれたのは、あなたが突っぱねてる由比ヶ浜さんです。ハロウィンイベントのコスプレのヘアメイク、頼んでみたらどうですか? あたしからは以上です」
「うるっさいわね!!」
美紅璃の発言に怒鳴り返す栄子。美紅璃はぼそっと栄子にしか聞こえないように「化けの皮」と呟いた。栄子が硬直する。
それを見て、美紅璃は溜飲を下しつつ、廊下に去った。
何よりもまず、これで咲咲音が喜ぶといいな、と考えた。クラスの中で自分の印象がどうなろうと、それは相変わらずどうでもいいのだ、それよりも、いつも与えられてばかりだから、少しはお返しがしたい。
なんだかんだ言って、咲咲音がエースのヘアメイクを担当したいのはわかっていた。あんなに綺麗な髪なのだ。それに、ハロウィンイベントなんて、コスプレイベントである。髪型なんていくらでも凝れるのだ。
渋々といった感じで、咲咲音にヘアメイクを任せる栄子と、嬉々としてヘアメイクをする咲咲音の図が容易に思い浮かぶ。少しもやっとしたけれど、咲咲音が笑ってくれたらいい。
「……もやって何?」
自分の心情に、美紅璃は苦笑する。
咲咲音が特別、という感情が、特別すぎておかしくなっているようだ。
友人も、親友も越えた、何か未満の感情。
自分だけの前で笑ってくれればいいのに、なんて。