文明開化と異世界からきた巫女
異世界で巫女をしていたフィーネは、友人のミレーユが妊娠中、悪魔に襲われたのを救うため、悪魔を退ける力がある「聖槍」を使ったが、お腹の中の子供はそれが原因で天に召されてしまった。
そのことをずっと後悔していた。
すると、神様がフィーネを、あの時死んでしまった子どもの転生先へ送ってくださったのだ。
明治16年夏。
それは奇しくも文明開化の時代。
政府主導により、日本は西洋化が劇的に進んでいた。
フィーネは、東京は日本橋の呉服屋の娘、御園文子に出会い、転んだのを助けてもらった縁から、共に暮らすようになった。
呉服屋を兼ねた屋敷は全て木と紙でできており、広々として、きちんと手入れがされている。
フィーネは履いていた靴を脱がされ、植物で編んだ床板が敷かれた部屋に通された。
転んだ際汚れたからと、フィーネが着ていた巫女の礼服を脱がせ、文子は珍しそうに袖やヒラヒラしたリボンベルトなどを引っ張って眺めている。
礼服の代わりに着物を着せてもらった。袖が長くだらんとしていて、お腹はコルセットほどは締め付けないが、小股にしか歩けず動きづらい服だと思った。
フィーネは、文子に親友ミレーユの面影があるかと探してみたが、全くなくがっかりした。
文子は栗色のやわらかなウェーブを描いた髪を他の女性のように丸く結わないで束髪にしており、ぱっちりとした黒い目をした、気が強くわがままそうな印象の娘だった。
ミレーユは知的で大人しい娘だったし、顔立ちも民族からして違う。
(でも、間違いなく聖槍の力の存在を感じる…。)
フィーネは、文子の中の聖槍の力を回収するつもりだった。
「お名前は何と言いますの?」
フィーネは言葉がわからない。
すると、文子は自らを指差すと、名前を繰り返す。
「ふみ。ふみ。」
文子様は、戸籍上はふみという。
◯子は皇族や公家のみが使用していた名前だったが、明治中期には一般庶民にも広まり、かな名前に子をつけて名乗るようになった。
今度は傍らの年配の女性を指差す。
「くに。」
何度か繰り返すと、飲み込みのいいフィーネ様はそれぞれの名前だと理解した。
「…フィーネ。」
「いね?じゃないわね…」
「フィーネ…」
「ふね…お船ちゃんね?」
少々違うが、まあ…と肯定する。
幸いにも、言葉が通じず、身元のわからないフィーネの面倒を御園家で見てもらえることになった。
雨風をしのげて、布団に寝かせてもらえて、とても感謝している。問題は食事だった。
変な匂いがする、何か緑のものが浮いたスープ。きのこや、野菜が入っていることもある。
塩っぱい魚。塩っぱい何かの野菜。
干した魚や烏賊などはゴムのようだった。
米というのは粘り気があって味がしない。糊が喉にへばりつくようだ。
食事とは祝福だ。糧を与えていただけること、主のお恵みに感謝して、今日食事に事欠く人々にも助けがあるように祈り、残さず食べるのが巫女であるフィーネの信条だった。
…生まれて初めて食事を残した。かろうじて吐き出さなかった自分を讃えた。
目の前の人々はそれらを美味しそうに食べている。音を立ててスープを啜るのに驚いた。
この国の食べ物は何もかもが塩辛い。
とうふやうどん、そばなら、少し食べられた。
しかし、この国の人は何でもズルズル啜りながら音を立てて食べる。
口を閉じて、食べるときは一口で。啜って音を立てるのは品がないと母から厳しく教えられていたので、どうしても食欲が失せる。
あまりに食欲のないフィーネを見かねて、文子があんパンというものを買ってきてくれた。たまに口調が強くなりやすいものの、人情に厚い娘らしかった。
丸くて、甘い豆のペーストが入っているそれは、風味はちょっと変わっているものの間違いなくフィーネが食べ慣れたパンだった。
(美味しい…。)
久々の小麦の香りと味に、涙がじわりと出た。
これが毎日食べられたら…
『主よ、この食事の恵みを感謝します。
このかてに力づけられて、
さらに神の国をきずいていけますように。』
フィーネは国の言葉で神様に祈った。
さらに、身ぶり、手振りで何とかパンを作りたいことを文子に伝えようとする。
「パンのお店に行く?まあ、もっとパンが欲しいの?」
築地の外国人居留地近くにパン屋ができたらしいと話す文子。
フィーネは、ふるふると首を振って違うと伝える。
「パン…」
台所を指差すと、ようやく伝わったようだった。
よく横浜に舶来の布を買い付けに行く文子は、お店で聞いて、めりけん粉(小麦粉)、ボットル(バター)、砂糖などを買ってきてくれた。フィーネは自分でパンを焼くことにした。
まず、りんごや柿などの果物の皮を使い、酵母を作る。
容器に果物の皮と水を入れ、冷暗所に放置。
泡が出るまで発酵させた液に粉を加えてさらに放置し、パン種を作る。
小麦粉、塩、水、パン種を捏ねた後、バターを練り込む。
物珍しそうに見ていた文子が、発酵させて膨らんだパン生地を触って、子どものほっぺたみたいだわと言ってつつきまくる。
粉をつけないと指に生地がベタベタついてしまうので、打ち粉の付いた手で思い切り粉をつけてやった。
勢いが良すぎたため、二人共粉まみれになってしまって笑った。
文子にも手伝ってもらって成形してから休ませたパンを網で焼く。
香ばしい香りが屋敷の外まで広がって、店の前を通る人は思わず覗き込んだという。
「いただきます。あっつ!」
焼き立てのパンに文子はかじりついた。
中は火傷しそうに熱い。
フィーネが、一口にちぎってから口に運ぶのを見て、文子も真似して冷ましながらゆっくり食べ、バターの香り豊かなパンを味わい、噛みしめた。
子供の頃母に教わったのを思い出して作ってみたが、存外うまく焼けた。
たまにでいいから、これを食べられたら生きていける。
文子はフィーネのパンづくりを見て感動し、パンを作って売りましょうよと言うけどそんなにたくさん作る場所も竈もない。
それに、まだパンを食べ慣れない人も多いようだった。
文子はフィーネに付き合ってパンを焼くうちに、毎日でも食べたいなんて言うようになった。
西洋菓子もこの頃には菓子店で売られるようになっていた。
ケーキ、ビスケット、シュークリーム、アイスクリームなど。
ナッツやドライフルーツなども手に入るようになり、偏食のフィーネはパンがない時はそれを食べた。
新しもの好きの文子はとびつくようにして何でも買ってきて、フィーネに食べさせてはニコニコしている。
これらの菓子は、元の世界でもなかなか口にできないような贅沢品だった。
この世界でも甘いものは貴重なのに、人に食べさせて喜ぶ文子は変わっているとフィーネは思った。
そうして、何くれとなく好くしてくれて快活な文子様にフィーネ様は好感を持った。
2人は姉妹のように仲良く暮らしていた。
ところで、明治初期の女性の着物の色は、紺、藍鼠、納戸(青緑)など。柄は縞や格子、矢絣と、地味なものが多かった。
当然、金髪の豊かな巻き毛に、宝石のような緑の瞳のフィーネにはちぐはぐで似合わない。
フィーネは元いた世界でも流行に興味がなく、この時代の風変わりな洋服も着たいとは思っていなかった。
むしろ地味な灰色の縮緬の浴衣をたいへん気に入っていた。
文子は自分で仕立てて着るのも好きだが、それより西洋人の顔立ちのフィーネを着飾りたかった。しかし、似合わせるのに四苦八苦した。
横浜に行けば洋服店があるが、庶民が日常着るような服ではなく、高価でとても小遣いでは買えない。パンの材料や菓子を買いにいくついでに、文子はしばしば店へ通っては、憧れを強くした。
赤や紫などの合成染料を使用した鮮やかな銘仙を買い付け、日傘や手提げバッグなどの洋品を合わせてようやく身なりに満足がいったかと思いきや、文子は新たな挑戦を初めた。
ある時、父にねだってミシンを買ってもらったのだ。
洋服の縫製は複雑で、ミシンが必須だった。
かなりの高級品だったはずだが、文子は、婿取りにかかるはずだった金子が浮いたからよ、などと言って舌を出している。
そして、外国人邸に赴いて頼み込み、古着の洋服や子供服があれば譲ってもらい、糸を解いたり襟や布を剥がしたりして、研究を重ねた。
出来上がったのは、シンプルな白のブラウスに、幾何学模様のスカート。
靴は元々フィーネが履いていた洋靴を合わせた。
「うん、我ながら良い出来ですわぁ。
やっぱりお船ちゃんには洋服が似合いますわね!」
文子は満足気に頷き、今度はそれに似合うショールやら手提げ鞄など選び始める。
そうして、フィーネが身につける服は徐々に洋服が増えたが、その殆どが文子の手によるものだった。
フィーネは文子の才能を存分に活かすモデルであった。
そしてもちろん、文子は洋服を着たフィーネを、着せ替え人形のように見せびらかして歩いた。
そんなことをしていれば、当然目立って噂を呼ぶ。
じきに、技術を買われて在日外国人の専属にならないかという話が出た。
また、その後、越後洋服店の工員にも雇用が決まった。
フィーネは文子が羨ましかった。彼女は巫女以外の生き方を知らない。親友の結婚に戸惑い悩んだ時期もあった。
「ふみちゃん、洋服の店、いいな。」
元々知能が高く、耳も良いフィーネは、拙い言葉で会話ができるようになっていた。
「お船ちゃんもお店しますか?ほら、パン屋とか。パンを売り歩けばお金になりましてよ。軽いから運べますし。」
「…やります。」
一度は無理だと思ったが、文子を見ていると失敗しても何度も挑戦したら道が開けるんじゃないかと信じられた。
色々試してみて、生地を仕込みさえしておけば売れ行き次第で追加することができることがわかった。それに、焼き立ての方が喜ばれた。
巫女をしていた時は、世俗とは隔離されて暮らしていた。永遠に続くような静寂の中、誰もが深々と頭を垂れ、顔を見るのも恐れ多いと避けられていた。
こんな風に人々に面と向かいあって、賑やかな社会の輪に加われるのが何だか楽しかった。
(ミレーユもこんな風に思ったかしら…)
ある時、パンを町で売り歩いていた時、道の先を行く人力車から降りた女性がパンを買いに来てくれた。
「パンをふたつ。おいくらかしら?」
人力俥に乗っているもう1人の人物が洋服を着ているので気になった。佇まいから、貴族ではないかと思われた。
かたかたと震えながら人力俥に乗る男性を見るフィーネを見て、身分の高い人物に恐縮していると思ったお付きの女中は宥めるように、パンが珍しゅうて食べたいと仰っただけだからと言う。
その男性に脅えたのではない。その人に憑いている猿の魔物が恐かったのだ。人を襲わないということは従えているようだが、気に当てられて、フィーネは倒れてしまった。
目を覚ますと、とんでもなく広い部屋に寝かされていた。
「大丈夫ですか?」
今まで見たことのないような、品のある男性が側にいて、切れ長の瞳が心配そうに覗き込んでいた。色白で鼻が高い。細おもてで、中性的な美しさだ。
先程人力俥に乗っていた男性とは、よく似ているが別人のようだった。
「はい。ごめんなさい。」
さっきの猿の魔物の気配はないが、屋敷には結界や封印の気配が濃い。
この家では魔物を使役しているのだろうか。
言葉をうまく話せないフィーネを心配して、着物には住所を書いた札を縫いこんである。
それを見せると、御園家に連絡してもらえた。迎えが来るまで寝ているようにと言われた。
その男性は、顔は中性的ながら、背は高かった。
フィーネの他に誰もいないので、足は崩しており、気怠げなのが何とも色気を醸し出している。
散切頭の髪は真っ直ぐで、しっかり櫛が入っていて清潔そうだ。
ゆったりとした浴衣から、少し骨の浮き出た鎖骨や、長い足の脛が少し覗いている。
フィーネの元いた世界では、男性が素足をさらけ出したところは見たことがない。何となく見てはいけないような気がし、目のやり場に困って話題を探す。
「パン買った人…の…」
フィーネは、あの魔物をなんと言ったらいいかわからず、口ごもる。
「この家、守るもの、ある…?」
男性はすこし目を細めただけで、何も答えない。伝わらなかったのか、口元はゆるく笑みを作ったままだった。
「お船ちゃん!心配しましたわ!」
女中のくにではなく、文子が迎えにきた。
「やあ、文子さん!来てくれたのかい。」
男性は文子を見て、すぐに立ち上がり側に寄って優しく見つめる。
「聖人さん。お久しぶり、ですわね…」
「元気そうだね、文子さん。久々に顔を見られて嬉しいよ。」
文子は気まずそうに、聖人は心底嬉しそうに話している。
彼は九堂聖人と言って、文子の幼なじみらしかった。
お盆や風呂敷を返してもらい、お礼を言ってお暇する。
「パン、旨かったよ。残っているのは全てうちで買い取らせてもらうね。」
「ありがとうございました。」
「良かったら、また遊びにおいで…。文子さんも。」
聖人は腕を組んで手を着物の袂に入れたまま挨拶する。様になっており、何とも粋な姿だった。
「元婚約者の家に、そんな気軽に行けるわけないですわ…」
「聖人さま、文ちゃんに会う、嬉しい。」
「そんなんじゃありませんわ!
…でも、聖人さんには幸せになってほしい。」
本当は会えるかも、と期待してわざわざ文子が迎えに行ったのだった。
聖人に会った後の文子はしょんぼりとして見えた。
今回倒れた原因は魔物憑きの女性に出くわしたせいだが、今後同じようなことが起こらないとも限らない。
幸いにもお得意さんもできていたので、パンは売り歩くのではなく、注文を受けて直接お届けすることになった。
ある時、フィーネはコックがパンの作り方を教わりたいと言っていると、九堂家に呼ばれた。
文子は洋裁関係の仕事で不在だったため、フィーネ1人でお伺いした。
半日ほど、パンの作り方を教えて焼き上がるまで、客間でお茶をいただいた。
苦いお茶にはピンク色の菊花の形をした上生菓子が添えられており、とびきり甘くてなめらかで、頬っぺたの下が落っこちるかと思った。
(この国にはこんなお菓子もあるのね。もしかしたら、身分の高い方が召し上がるようなものならこの国の食事でも私の口にあうのかも。)
そんな事を考えていると、客間に妙齢の女性が訪ねてきた。聖人の母親だった。
「こんにちは。お船さん、今日はおおきに。」
「お邪魔してます。」
「シャレたお洋服着てはりますな。よう似合てますわぁ。」
「……。」
褒め言葉だと思うが、何となく悪意を感じて、笑顔だけを返した。
「お茶、お代わりいります?」
「いいえ、パン、できた、帰ります。ごちそうさまでした。」
追いたてられるような気持ちがして、帰ろうとすると台所に聖人が現れた。
「少し話があるんだ。」
「話…言葉、あまり…」
「いいから!少しだけお借りするね。」
コックは、焼き上がった食パンを並べながら頷く。また何かあれば連絡してほしいと伝え、聖人の部屋へ連れて行かれた。
本当は、パン作りを教えてもらうというのは口実だったと言われてドキッとした。
呼び出したのは聖人だったということだ。
「文子さんのことなんだけど…。最近、体調崩したりはしていないかい?」
「はい。元気です。」
「そうか。じゃあ君が文子さんを守っているんだね…。」
フィーネは、文子の聖槍に引き寄せられてくる妖怪や鬼を遠ざけるようにしていた。
おそらく、以前は幼なじみの聖人が祓っていたのかもしれない。
妖怪たちは、文子の生気を吸う。すると文子は決まって体調を崩した。
九堂は呪い師の家系らしく、妖怪や鬼を結界や封印で祓っていた。
もしかしたら、それを利用すれば聖槍の力を封印することができるかもしれない。
フィーネは聖槍の封印方法を探るため、九堂に入り込むことにした。
最初は、聖槍を自身に移すことが目的だった。だが、文子自身に聖槍を使う能力がないため、フィーネに移すのは困難だった。明治日本では聖槍は役に立たなかったからだ。
長らくキリスト教徒は弾圧されてきた。その影響で、信仰の力は失われていた。
しかし、明治維新以降、福沢諭吉など知識人による影響でキリスト教の信者は増加している。
それとともに、文子様にも聖槍の力の兆しが見えた。また、フィーネも九堂の協力により力を取り戻し始めた。
時代の変化に伴い文子が妖怪に狙われることも減っていった。
聖槍は封印して、今後もし何かあった時は聖人とフィーネが守ればいいと考えていた。
聖人に淡い憧れはあった。
巫女だった時には男性との恋愛はできなかったし、考えたことはなかった。しかし、九堂に通ううち、婚約の打診が来て、迷ったが受けることにした。
異世界に来て、もし巫女ではない違う人生を歩めるならば、結婚して子供を生みたいなとは思っていた。
文子と婚約は解消されているし、聖人であれば身分もしっかりしていて、聖槍封印のための術も学べて、申し分ない相手。そう思っていた。
もしかすると文子は聖人とフィーネの婚約をよく思っていなかったかもしれない。でも、本当のところはわからない。
なぜなら洋服店の工場で指導していく体制ができた矢先、文子が病に倒れたからだ。
文子の立場を思えば、婚約に異論を唱えることはできなかっただろう。
聖人はそれから人が変わったように、フィーネを責め始めた。
「お前が文子さんの力を奪った妖怪なんだろう。巫女などと、封印したいなどとでまかせを言って騙したな…?」
「違うの…」
うまく、言葉が出てこない。
文子が倒れた原因は病気だ。医者が言うには、婦人病だった。
必死に拙い言葉で説明したが、聖人には言葉が届かない。
(もし、もしも元の世界にいたら、治癒魔法で治せたかもしれない。
でもこの世界に生まれてしまったから、文ちゃんは若くして…。努力して夢を叶えるところなのです!神様、どうか文子をお救いください…。)
聖人は、毎日食事もろくに取らず、蔵に籠もって呪いの研究をしている。
当主である兄が嗜めるも、煩いと書物を投げつける始末だった。
それに怒った式神が、聖人を痛め付け、地下牢に無理やり監禁してしまった。
聖人の母親には元から気に入られてはいなかったが、ああなったのはフィーネと結婚したせいだと責められた。
申し分ない相手と思っても、周りの人間も含めて結婚を決めるべきだと思い知った。
聖人が心配で、手作りのサンドイッチを差し入れた。しかし、空を見つめたり、爪で木の柱に何かを書いていて、フィーネのことなど全く見えていない様子だった。
乾かないように濡れ布巾をかけて置いておいたが、布巾も中身もカラカラになって、皿を下げた。
(パン、旨かった。またおいで。)
ふいに、あの時の聖人の言葉が蘇る。以前なら思い出す度に温かい気持ちになったのに、今は喉から胃に氷が滑り込んだようになるばかりだった。
(でも、この生き方を選んだのは私だから…)
巫女だった時の平穏と安寧はなく、不安と苦しみで先は見えない。踏みしめる度に地を歩く足は傷つき、その先に見えると信じて幸福を渇望する。
そして、聖人は文子が亡くなる前、地下牢を壊して行方をくらませたのだった。
文子の葬儀の後、聖人は戻ってきた。
放心していたが、なぜか憑き物が落ちたように大人しくなった。
その理由はかなり長い間、フィーネにはわからなかった。九堂に嫁入りし、何年も経ってようやく判明した。