婚約者を泣かせた女
「ふみこさん…っ君との婚約を…解消…うぅっ…させてほしい…」
御園文子が婚約者である九堂聖人にそう言われたのは、十八の誕生日を過ぎた頃だった。
彼は目に涙をいっぱい溜めて、白い肌は耳まで赤くなっていた。長いまつ毛も、涙でびしょびしょになっている。
鼻が高く上品で整った顔立ちをしているのに、普段は涼し気な眉目もくしゃくしゃになり恥も外聞もなく鼻を啜る様は幼子のようだった。
(困りましたわ…こんなに泣かれるとは思わなかったもの。)
文子の体が治って、その時聖人さんにお相手がいなかったら結婚してあげてもいいですわ、と言おうとしていた。
喉まで出かかったが、嗚咽を漏らしながら泣きじゃくる婚約者を見てやめた。
婚約者をこんなに泣かせるような女から自由にしてあげたい。
大切な彼には幸せになって、たくさんの子供に恵まれて笑顔の絶えない家庭を築いてほしい。
未練なんて一片も残らないように、文子は明るく言った。
「文子、たくさん勉強して、御園屋を盛り立てていけるように頑張りますわ。もう、聖人さんも泣くのはやめて、しっかりなさって!」
九堂はあまり羽振りが良くないし、聖人は婿入り予定だったので事業もしていないから、少し心配だった。
二人は筒井筒の仲で、なおかつ親の決めた婚約者だった。
文子は呉服問屋、御園の一人娘。
九堂家は堂上華族(旧公家)。昔、御園屋の主が若い頃、京都の呉服屋で丁稚をしており、九堂が明治維新の後東京へ移り住んでからも親しい付き合いがあった。
聖人は九堂家の次男で、文子の婿養子になる予定だった。
しかし、文子は十六才になっても月のものがこなかった。数年間、薬を取り寄せたり、色んな医者にもかかったが、原因は不明。
これから絶対に子供が産めないというわけではないが、産めるとも言えないと言われた。
九堂家当主も御園の両親も寛容で、二人の気持ちが固まっているのなら、結婚して養子を迎えてもいいと言ってくれた。
そして、両家の三度目の話し合いの時、文子は言った。
「聖人さんとは幼い頃からずっと親の決めた婚約者ですが…そういうしがらみを全て取っ払ってみたら、お互い気持ちも変わるんじゃないですか?」
「これ、文子!なんやその言い方は!」
聖人はショックを受けたようで、虚ろな目をしている。
しかし、文子の父が何か耳打ちすると、頷いて文子の目を真っ直ぐ見た。
「僕たち2人の気持ちは通じ合っていると思っていた…。でもね、文子さんがそうしたいなら、僕は反対しないよ。」
(聖人さんのことは大好きだけど、文子に、御園家に縛りつける覚悟はないですわ…)
まだ二十歳なのに自分の血を分けた子供を持てないと決まってしまうのは気の毒だった。
お妾さんを作っても、御園の血が入っていないため、子どもは家を継ぐことができない…。真面目な聖人はそんなことできないだろうと、文子は考えた。
また少し時間を置いて考えようということになったが、聖人の方もいつまでも結婚もせず家にいることもできない。
程なく、九堂から婚約解消の申し出があった。
好い人ができたのかと思ったが、あの泣き方ではどうもそういうわけではなさそうだ。
「あんたの従兄弟の時生を養子にすることになりそうやわ。」
文子の伯母は女学校を卒業し、新潟の豪農に嫁いだ。五男の時生は読み書き算盤が優秀らしい。伯母の見立てでは一番見込みがあると。
都の呉服屋へ来るとなると最初は戸惑うだろうが、まだ小さいので丁稚から仕込めばなんとかなるだろうと父は話している。
それを聞いても、御園屋は文子が盛り立てていくのだと心に決めていた。
(振袖も帯も触ったことのないような子供に呉服の何がわかるというのですか?
そもそも文子が跡継ぎになれないのはおかしいですわ!)
父にいくら訴えても文子に商いは無理だと言う。
(聖人さんは見た目がよくて、物腰も上品だから表立って店主になってもらって、文子が裏で牛耳るつもりでしたのに。)
文子は、婚約解消したというのに聖人のことを考えている。
未練があるのは文子の方かもしれなかった。
本当に好きなら一緒にいなくてはいけなかったと、文子は後に思い知ることになる。
婚約解消をした年の初夏。
文子は町で、袖を引かれたと思って振り返ったら、道で転んでいる少女に出会った。
言葉が通じず、記憶も曖昧なようだった。
最終的に外国人にも聞いてみたが、発音が難しく、彼女はふねと呼ばれるようになった。
2人は外国人邸の娘と思い、あらゆる所に尋ねたが親も知り合いも見つからず、言葉も通じないため、御園の家にて預かるということになったのだ。
呉服屋の主人である文子の父も、面倒見の良い人物で、身寄りがないことがわかると引き取ることにしたのだった。
天真爛漫な笑顔。エメラルドの宝石の瞳に黄金の波打つ髪。みんなお船が大好きになった。
もちろん文子も。
お船は時折、じっともの言いたげな表情で、文子を見つめる時がある。
そうすると胸がぎゅっとなって、お菓子や着物も、文子は持っているものをなにもかもあげてしまいたくなるのだった。
そして、お船から必要とされている文子がいなくなったら、お船までいなくなってしまいそうな、そんな気持ちがしていた。