9 バイト中に馬券買うわけにいかないし
秋とはいえ、日差しはまだ強い。
ライスシャワー碑を一通り眺めてスタンドに戻った。
パドックとコース前の観覧スペースを最短距離で繋ぐ広い通路で、人通りが多い。
馬券売り場も隣接しているし、売店が並び、トイレもある。無料のお茶サービスもある。便利だ。
寒風の季節以外は扉が開け放たれ、風の通り道になって気持ちがいい。
ミリッサはこの通路が好きだ。
もう何百回も往復したことだろう。
通路に立ち並ぶ柱の陰。
以前は、そこここに置かれたごみ箱を机代わりに、投票用紙にマーキングする人が大勢いたものだ。
ミリッサもそのうちの一人だった。
今、紙の馬券を現金で買う人はごく少数となってしまい、馬券売り場は次々に縮小された。
代わりに、飲み物はもちろんアイスクリームやお菓子、立ち食い総菜の自動販売機が幅を利かせるようになった。
定番京都土産の自動販売機まである。
ただ、これは不評で、近く、ラウンジに改装されるらしい。
ケイキの大きなポスターが連続貼りしてあった。
ケイキちゃんこそ、独居老人のための話し相手ロボットを象徴する存在。
そのマスコット名である。
ミリッサは、教え子であり、サークル・R&Hの元部員が、このケイキちゃんの着ぐるみの中で死んだときのことを思い出した。
ここ京都競馬場で開かれたG1レース、倭の国ワールドカップの日、ちょうど今いるこの先で。
「あ、先生」
振り向くと、三人の女の子が立っていた。
「アイボリー」
「こんにちわ」
授業を受けている三回生。
「競馬?」
「いえ、バイトで」
「あ、そうだったな」
アイボリーは、ケイキちゃんの着ぐるみで、イベントを盛り上げるアルバイトをしている。
ミリッサとほぼ同じ背格好。あの巨大着ぐるみに入るにはうってつけだ。
「ジンも来てるんですか?」
「来てるよ」
「どこかで会えるかな」
にこりと笑った。
二人、仲が良い。
一見、優しい娘だが、実は活動的で頑張り屋。
勉強第一で真面目。正直だし信頼して任せられる。
授業から受ける印象としては。
ミリッサはそんな評価をこの娘にしていた。
「バイトって、お昼休みの時じゃないのか?」
「ええ。でも、いつもこの時間に来るんですよ。打合せとか準備があるので」
あの日と同じように、イベントは今も、昼休みに開かれる。
通称「傾聴財団」の利用者拡大のためのPRイベントである。
正式名を、日本再生・活力創造・しあわせ度向上財団という。
お年寄りの人材発掘と再活躍を推進することを目的にして設立された団体だが、実態は、話し相手ロボットレンタル業。一人暮らしの高齢者の生活の質向上のためのサービスだという。
皮肉を込めて、老人再生財団などとも呼ばれている。
あれから三ケ月か。
そんな言葉が口から出かかったが、そのバイトをずっと続けているアイボリーに言うべきことではない。
「朝早くから大変だな」
「でも、仕事ですから」
アイボリーは屈託なく、
「学部の先生」と、バイトの同僚らしき女の子に紹介してくれている。
同じ大学の学生だろうか。見覚えはない。
「バイト仲間?」
「ええ。競馬サークルですか?」
「そう。どう? 君達も」
「うーん、土日は全部バイトで詰まってますし」
まんざらでもない笑顔を見せつつも、そんな気はないのだろう。
「アイボリーは? ジンが喜ぶと思うけどな。今日だけでも付き合ってあげたら? せっかく競馬場にいるんだし」
「ええ。でも、バイト中に馬券買うわけにもいかないし」
「あ、いや、バイト終わってから。昼過ぎには終わるんだろ」
くどく聞こえたのか、アイボリーはふと視線を泳がせた。
聞けば、午後から夜にかけては、場内にあるプチカジノ型遊園地「ポーハーハー・ワイ」で、誘導係のバイトがあるという。
後で覗いてくださいね、と手を振るアイボリーを見送りながら、ふと視線を感じた。
老人。
今時珍しく壁際に新聞紙を敷いて座り込んでいる。
目が合った。
また、こいつだ。
痩せこけて皺だらけの男。左目が開いていない。
六十代だろうか、七十を超えているだろうか。
よれよれの作業服姿で、足を引きずるようにとぼとぼ歩く白髪を、何度も目にしている。
なぜか、目が合うこともしばしば。
縁起でもない。
ミリッサはあわてて目をそらした。
馬券購入締め切りまでもう時間がない。急がねば。
背に灰色の右目がまだ追ってきているのを感じていた。