87 いったん、小休止と参ろう
む。
滝音が。
先ほどより少し周囲が明るくなっているように感じる。
少なくとも暗闇ではない。
このままさらに明るくなってくれれば、ますます好都合。
だが、雨が降っている。
蛇は追っては来ない。
もう、いいだろう。
逃げおおせた。ということにしておこう。
かといって、引き返すつもりは毛頭ない。
ランのことが頭をかすめるが、もはやどうしようもない。
けもの道は谷に向かっている。
足を滑らせながら、ミリッサは再び谷筋に降りていった。
獣たちが水を飲みに行くための道なのかもしれない。
降りたところで、水辺で行き止まりかもしれない。
となれば、引き返すことになるかもしれない。
そしてその先、どうするかはまた別の問題。
今は下りてみるしかない。
下るにつれて滝音が大きくなってきた。
街の灯は見えなくなった。
希望はあるが、不安もまだ大きい。
しかも、もうへとへと。
雨に濡れて体力も消耗している。
思考さえ、ままならない。
なんでこんなことに。
という思いだけが繰り返し沸き起こる。
ちくしょ。
また、足を滑らし、尻もちをついた。
掌が切れた。
ちくしょう!
傷は深い。
蜘蛛の巣が顔に覆いかぶさる。
灌木の藪を通り抜けるのに手間取って、息が切れる。
くそ!
木の枝で顔を打った。
額が切れた。
血が流れ、目に入る。
くそ、くそ!
しかし、ようやく滝つぼが見えるところにまで来た。
あと少しで沢に到達する。
少しづつ明るくなっていくように感じることだけが、心の支えだった。
獣たちの水飲み場だったら、また、この斜面を登ることになる。
そう思うと絶望的な気分になる。
とうとう滝つぼに降り立った。
さほど大きな滝ではない。
雨とはいえ、増水もしていないようで、水も濁ってはいない。
掌で沢水をすくった。
たちまち血が混じる。
急いで飲む干す。
一口、二口、三口。
手と顔を洗った。
鮮血が水に溶けてゆく。
傷口を擦りすぎて、また血が流れた。
「おのおのがた、しばし、小休止と参ろう」
あえてふざけた調子で声に出し、この状況を笑える心境に持っていこうとした。
手近な石に腰を落ち着けた。
一応、後ろを振り返る。
蛇は見えない。猿もいない。
あたりを見回した。
木々の様子からすれば、高山ではなさそうだ。
先ほど見た街の明かりの多さからすれば、とんでもない山奥でもない。
少なくとも大峰山中でもなければ大雪山系でもない。
あとは何とかして街まで降りるのみ。
ここは日本だ。外国であってたまるか。
いや待て、あの灯はまさか妖怪の街?
忌々しい。
のこのこ入っていけるか。
いや、好都合か。
あそこでランを探せば。
ええい、くだらんことを考えるな。
ロールプレイングゲームじゃないんだぞ。
頼む、雨よ、やんでくれ。
滝つぼの向こう側に小さな岩穴があることに気づいた。
ふうむ。
首を振った。
あの中で雨宿り……。
まさかな。
徐々に明るくなっていると感じたが、それは思い違いだったようだ。
まさに夜。
あいだみちの中より、幾分明るいというだけのようだ。
街の明かりが、かろうじて、この山中にもごくごくわずかな光をもたらしていただけ。
ここで朝まで待つか。
いや、雨に濡れたままでは体力が持たない。
蛇もいつ何時。
行動を起こすべきだ。
ミリッサは太ももをパシリと叩き、気持ちを奮い立たせた。
いてててっ。
ズボンに血がついた。
立ち上がった。
体中が痛い。
さあ、どうする。
暗がりの中を下山する。
これしかないが。
そんなにうまくいくか。
沢は、先ほどより水量が多い。
けもの道は滝つぼのところで消えている。
道らしきものさえあれば下っていけるのだが。
街が近いのなら、どこかに道はあってしかるべき。
と、思いたい。
しかし、気持ちは最短距離。
道がなくとも、このまま無理やりにでも沢沿いに下る。
そう決めた。
谷は狭い。
通れなくなれば、水の中を歩くか斜面を登るしかないが、体を濡らしたくはない。
斜面は登れないほど険しくはないように見えた。
沢の右岸を慎重に下り始めた。
足を濡らしながら歩くより、少し上の斜面を行った方が都合がよさそうだ。
草や枯れ枝や石ころを踏みながら、沢から離れないように、転んだりしないように慎重に斜面を進もう。
と、いくらも行かないうちに、やれうれしや、踏み跡があった。
道だ!
よし!
この道を行けば、必ずやあの街に。
前を向いた。
ん?
んん?




