85 このままではわたくし、同行の者とはぐれてしまいます
見上げたその先、岩の上部から垂れ下がっていたもの。
見たこともない大蛇だった。
見据えられてミリッサは後ずさった。
岩に登り始めていなくてよかった。
転げ落ちるところだった。
鉄鎖を放した。
ジャリンと、鎖は大蛇のすぐ横に落ちた。
そろそろ一歩二歩と退くと、蛇も歩調を合わせるかのように体を滑らせ、ジリ、ジリッと降りてくる。
おい。
おい。
待たんかい。
なんだよ。
ラン。
どこにいる。
何とかしろ。
蛇との睨み合いなど、経験はない。
しかもこんな大きな奴。
視点をどこにもっていけばいいのかわからない。
目を合わせていいのか。
そっと提灯を拾い、恐る恐る前に突き出した。
失せろ!
消えてくれ!
お願いだ!
しかし、願いは空しい。
大蛇は一気に岩を降り切ると、あろうことか、飛びかかってきた。
その俊敏さたるや。
わっ、わわわっ!
提灯を取り落とし、腰が抜けそうになるのをかろうじてこらえて、走り出した。
暗い径だ。
走るのは危険。わななく足。
しかし足は止まらない。
な、な、なんなんだ!
冗談じゃない!
クマザサの葉で顔が切れた。
このままではランとはぐれてしまう!
振り返った。
んが!
追ってくる!
距離がみるみる縮まる。
いかん!
これは、いかんぞ!
また走る。
元来た道を。
坂を駆け下り、駆け上り。
くっ!
まだ来てやがる!
どういう了見だ!
かなりの径を駆け戻ったところで、ようやく大蛇は追ってこなくなった。
しかし、径の横、シイの大木の一の枝に、その巨大な体を横たえた。
径のちょうど真上に。
そしてこちらを見据えて動かなくなった。
枝がしなって、蛇の頭がミリッサの顔のあたりになった。
まずい。
まずいぞ。
これでは、あいつの真下を潜っていくことになる。
できるはずがない。
ランと合流できない。
ますます夜が更け、この薄暗がりは完全な闇になるのでは?
そうなればもう一歩も先へは進めず、後退もできなるなる。
意を決して行くべきか。
蛇の下を、頭を下げて。
それとも、ランが戻るのを待つべきか。
それとも、茶屋町のあの家まで戻るべきだろうか。
果たして、戻れるのか。
戻れたとしても……。
いや、戻れるとは考えない方がいい。
きっと、あいだみちにはイレギュラーな対応のはずだ。
しかも、なんの「お礼」も持っていない。
クマザサの中をかき分け、迂回するか。
だめだ。
先回りされ、襲われるだけだ。
その時こそ逃げきれない。
そうか!
声をかけて、通してくれと丁寧にお願いして。
人の声を聴き分けるかもしれない。
なにしろ、ここは妖怪の径。あいだみちの体内。
「巳さん」
ミリッサはできるだけ恭しく聞こえる声を出した。
震えぬよう、心して。
「巳さん。通してくださいませんでしょうか。このままではわたくし、同行の者とはぐれてしまいます。どうしても会わねばならぬお人が待っているのです」
通じたか。
動きはない。
ミリッサは精一杯の勇気を振り絞り、一歩、踏み出した。
が!
だめだ!
蛇はたちまち鎌首をもたげたかと思うと、クワッと口を開いた。
人間の首など、ひと噛みで喰いちぎってしまう巨大な口を。
親指ほどの巨大な歯が並んでいるのさえ見える。
そして巨大な牙。
おい、おい。
巳さんよ。
俺を食らう気があるってことか?
そんなことはないんだろ。
その気なら、もうとっくにとっつかまって、ぐるぐる巻きにされて、頭から飲み込まれているはず。
「巳さん、巳さん、お願いです。通してくださいませんか」
また一歩。
が!
飛びかかってきた!
すんでのところで蛇の跳躍は届かず、地面に落ちた。
ミリッサはまたも走りに走った。
いい加減にしやがれ!
なんてことだ!
なんでこんなことに!
最初にランがおはぎを置いたところまで戻ってきていた。
振り返るとまだ蛇が追ってくる。
じり、じり、と。
やむなし!
茶屋町の家まで戻るしかない!
ん?
違うような気がする。
三叉路だったはず。
道は消えていた。
そうか。
茶屋町の口は、鍵が、と言ってたな。
用が済めば道も消えるってわけだ。
さすれば、こちらだが。
直進。
径は細く、すぐそこから笹に埋もれて判然としない。
けもの道のように、人の目にはかろうじて痕跡が残るのみ。
振り返ると蛇。
もう迷っている時ではない。
行くしかない。
いつもあいている口とやらに行きつくと信じるほかない。




