8 サークルの掟
騎手たちが飛び出してきた。
それぞれの馬に駆け寄っていく。
「馬が教えてくれる」
これは、サークル・R&Hのモットーである。
数年前、ミリッサが数名の学生から要請を受け、新サークルの顧問に就いた時、なにか標語めいたものを、と考えたのがこれだ。
パドックで馬をよく見ろ。数か月前のデータより、数日前の調教の出来より、今の馬を、というわけだ。
とはいえ、それぞれの学生で予想手法は異なる。
それはそれでいい。
馬が教えてくれる、にはさらに意味がある。
サークルの活動のもう一つの根幹。研究活動である。
このサークルが大学からかろうじて承認された理由。
かつてのレジェンド馬たちが紡いできた栄光の歴史、系譜、親から子へ引き継がれた夢、関係者たちの努力と賭け、などを研究するというもの。
研究と銘打ってはいるが、実際は、そのめくるめく物語を、涙目になってひも解くこと。まるで長大な叙事詩を読んで感動する、そんな活動。
輝かしい経歴、敗北の歴史、度重なる怪我と不調、奇跡の復活、追い求めたもの、友情など。
レースを見るだけではわからない。レースは一つの結果ではあるが、その前にも後ろにも、豊かな物語の草原が広がっている。
こういったことを知り、感じることがもう一つの競馬の純粋な楽しみ。
ギャンブルやって、勝った負けたと楽しんでいるだけのサークルじゃないですよと。
名前で決めると言われたジンは、三回生。
データを読むのは面倒過ぎて自分には合わない、だから馬名からでも馬番からでも、いくつか選んでおいて、オッズを見ながらパドックで最終決断、というタイプ。
前走着順も、脚質さえ、ジンには無用のデータ。
かといって、的中率が低いかというとそうでもない。
黒い短いパンツから伸びる陽に焼けた素足が眩しい。
今日はクリーム色のワンピース姿。
秋華賞だから女性らしい服にした、と。
いつものモノトーンのTシャツより、女性らしいのかどうかわからないが、学生たちは無関心。
無視されたのか、諾という反応だったのか、女の子のやり取りの真意は中年男に分かるはずもない。
ジョッキーも全員総出演の第一レース。
先ほどまでとは一変した、気合を入れた馬の行列。
「あーあ、悩むよねえ。パドック見ても全然わからないし」
「うん。でもそこが競馬の面白いところ」
「面白い? そう? わからないことが?」
「ちがう?」
「はぁ。最近、どんどん面倒になってきてるかも、予想」
サークル顧問として聞き捨てならない言葉だが、ジンが本気でそう言っているわけではない。
ジンとミャー・ランのいつものじゃれ合いである。
「んなこと言って。あんた、予想なんて前からしてないし。それに、ミリッサが悲しむわよ」
「えーっ、センセー、聞こえてた? ゴメン!」
拝む仕草を見せたジン。
栗毛色の長い髪を緩く編み込みにし、いつも白いキャップをかぶっている。
自分をボクと呼び、少年のような言葉づかいが混じる、初々しい元気印の娘だ。
授業では少し的を外した質問を投げてくる。
「また、トカゲに聞いてる」
と、ミャー・ランにからかわれている。
「トカゲって言うなって言ってるだろ!」
「三四郎」
「そう」
「で、そのトカゲはなんて言ってる?」
「もーお!」
水色に黒いストライプの入ったトカゲ。
光沢のある体長二十センチほど爬虫類がジンの背に貼り付いている。
彼女のペットだ。
大流行しているペットロボット。
そのトカゲが、首をくいっと捻って、ミャー・ランを睨んだ。
ペットロボット、人によって好みは千差万別。
犬やコアラといったノーマルなものから、昆虫型も人気はあるし、怪談ものやナメクジといったものまである。
アニメ可愛いものから、本物かと見まがうリアルなものまで。
元はと言えば、独居老人や入院中の子供たちの話し相手として開発されたものだ。それが今や、世の女の子にとって最大の関心事、というほど急速に広まりつつある。
「ボクは十一番のゴールドボートが固いと思うな。逃げ切ると思うよ。ニジニシキの差しは届かないと見た」
トカゲの三四郎が、ジンとよく似た少年の声で言った。
競馬予想ソフトがインストールされているわけではない。
ロボットの価格帯によって大きく性能は異なるが、人と概ね同じように考え、同じようにふるまえる。
世界中の人工知能の最先端は、日本の女性向けのマスコットロボットに集約されているといってもよい。
ランはチラと暖かな笑顔を三四郎に向けたが、すぐにパドックの最後の一周に目を凝らし始めた。
ミャー・ラン。
彼女はどこに行っても目立つ。
ピンク色と若草色と銀色の混じった、いわゆるフェアリーカラーの髪を肩甲骨辺りまで伸ばしている。
身長は大きくないが、体の線が起伏に富んで、しなやかに動く。
両目の下にある二つほくろが愛くるしい。
機嫌が良いと大きくなり、悪い時は小さくなるような気がする、不思議なほくろ。
もちろんそんなことはないだろう。
思い過ごしに違いない。
ランのエメラルドグリーンの魅惑的な瞳の先、最後の一頭が地下馬道に消えた。
ジンとランは互いの買い目を披露しあってから、じゃ、と別々の方向に歩いていく。
ハルニナも、ちょっと笑みを見せただけで、さっさとスタンドに戻るようだ。
ミリッサは、スタンドの席に戻ろうか、はたまた、どこかをぶらつこうか、とパドック横の大階段を見上げた。
巨大な時計。長針が五十一分を指している。
ファンファーレまで十九分。
さあ、まずは、今日の運気を高めてくれるところへ。
そうだ、ライスシャワー碑へ。脇のベンチに、ちょっと座って……。
サークルの掟 その二。
他人を束縛しないこと。
パドックは一緒に見るし、レースも一緒に見る。
しかし、それ以外の時間は、食事も含めてよほどのことがない限りひとり。
このルールを決めたのは、一年ほど前。
女の子同士。学年も違う。
必ずしも全員が仲が良い、というわけではない。
現に、今の三人にしても。
ミリッサでさえ感じている。
ジンはハルニナと馬が合わない。
ハルニナも、誰かと親しいかといえば、そうではない。特にミャー・ランに対しては冷たいと感じるほどだ。
ミャー・ランは以前、極端な無口だった。口を開けば片言の日本語。
最近でこそ自然な口調だが、誰とも、同学年のジンに対してさえ打ち解ける様子はない。
そんなことに気づいて、導入したルールである。
返し馬のテーマ曲が流れてきた。
今日一日の幸運を告げる前奏曲。気分が上がる。聞きなれたメロディー。
馬券購入の締め切りまで、もうあまり時間はない。