36 何をしでかすか分かったものじゃない
ミリッサは、実は、その男を見知っていた。
あの事故の前後だろうか。
呼び止められたことがある。
振り返ったミリッサにこう言ったのだった。
お客様、女性職員に手を出さないで下さい。
は?
失礼千万。
しかし、ここは競馬場、しかもルリイアの職場。
悶着は起こしたくない。
なにか、誤解でもあるのではないでしょうか。
と、丁寧な受け答えをしたが、嵩にかかったのか、男はこう付け加えた。
苦情が出てるんですよ。
誰から、とは聞かなかった。
ルリイアのはずがない。
この男の捏造だ。
よほど、ふざけるな、と言ってやりたかったが、ぐっと我慢。
するとこうきた。
時と場合によっては警察を呼びます。
腹に据えかねたが、ルリイアのことを思うと、結局は不問にしたのだった。
ルリイアにもこのことは伝えていない。
この男、ルリイアの上司か同僚か。
一方的にルリイアに好意を寄せている、異常な面のある男、なのだろう。
いずれにしろ、ルリイアが気付かないはずがない。自分で対処するだろうと。
「心底、いやな奴」
清掃員は、男から目をそらし、ますます小声で言った。
「元々は、あの亡くなった女の人に興味があったみたいだけどね」
「え、え?」
「亡くなった娘さんに」
「そうだったんですか!」
「どこのボンボンちゃんか知らないが、コネで入社して、ああやって女性を付け回して。ルリイアさん、変態上司を持って大変だけど、気をつけなさいよ。最近、疲れているみたいだけど、あいつが原因?」
「あ、いえ、そんなことは。ありがとうございました」
手を止めたことに礼を言ったのか、忠告に礼を言ったのか分からなかったが、とりあえずは清掃員を解放し、いや、解放され、ルリイアは小さなため息をついた。
「苦労してるみたいだな」
微妙な笑顔を見せるルリイア。
振り返ると、変態上司アサツリはまだこちらを見ている。
ルリイアは、今度は大きくため息をついた。
話を戻そう。
「清掃業務は委託?」
「ええ」
競馬場の清掃関係の作業は、一括して専門業者に委託しているという。
マルタクリーンという会社だそうだ。
関西一円で手広く事業を展開しているそうで、ここ京都競馬場も一つの現場ということになる。
「さっき言ってたキオウミさん? ここの担当課長?」
「ええ、京都南部を統括されているようで、競馬開催日の土曜日曜は、時々来られています」
ノーウェがその男の娘。
初耳だった。
もちろん警察は、この男にも事情聴取しただろう。
我々としても、話は聞いておいた方がいいかもしれない。
「紹介してくれないか」
「はい、もちろん。私もお悔やみを言わなくちゃいけませんし」
「そうか、遅ればせながら、だね」
「ええ。でも、今日は、来てるかな。聞いてみますね」
「うん。後で」
次に会った警備員からも、清掃員と同じように、当日の現場に人影はなかったと聞かされた。
清掃員以上の老男性だが、こちらもかくしゃくとしている。
よく通る大きな声で、新たな情報を得た。
押収された監視カメラのデータが警察から返却されたという。
もう、秘密事項でも何でもない。
ご覧になりますか、と聞いてくれる。
もちろんである。
ミリッサは、ルリイアの仕事ぶりをまた垣間見たような気がして心が温かくなった。
信頼され、慕われている。かわいがられている。
そうでなければ、彼らが自分の孫娘のような年齢の、かつ新人職員に、このように接してくれるとは思えなかった。




