30 「私、一緒に行っても」「いいよ」
墨色のシャツの袖にチョークの粉をいっぱいつけて黒板を消した。
窓を閉め、モニターの電源を落とし、教科書や出席簿やプリントなどを鞄にしまい、目立つごみを拾い集め、照明と空調を落とした。
廊下にランの姿はない。
一階まで上がって共用ロッカーに鞄ごと入れた。
ここにもいない。
正門まで来ると、ここで待っていた。
毎日ではないが、こうして学生たちの誰かと、あるいはグループで駅までの道を降りていくのが常だ。
ほとんど、講義内容が難しすぎるとか、演習時間をもっと取ってとか、学食のメニューがどうのこうの、サークルの次のイベントがどうしたとか、他愛のない話をして親しみを深めていく。
だが、時には度を越した親しみ、つまり危険な罠を仕掛けてくる学生もいる。
いわば、ピンクトラップ。
体に触れてくるなど、必要以上に馴れ馴れしい態度をとったり、授業中には絶対に見せない艶然とした瞳を向けて来たり。
ストレートにご飯に連れて行って、などと誘いかけてくる学生もいる。
むろん、すべて無視、無反応。
ミリッサがこの大学で長く講師を続けてこれたのも、こうしたトラップにかからなかったからだ。
授業途中で休講となってしまった男性講師もいるが、きっと、そういうことじゃないかとミリッサは思っていた。
それに、大学に呼んでくれた親友ヨウドウの手前もある。
あいつに恥をかかせるわけにはいかない。
すっかり雨は止み、薄日が差している。
「待ってた? でも、今から用がある」
先鋭色彩技術論の授業のために、ミリッサはいろいろな工夫をしている。
授業名にある通り、色が人の行動や心理にどのような影響を与えるか、人によって感じ方は違うのか、そしてそれを空間計画にどう活かすか、がテーマの授業である。
座学だけでは、学習は深まらないし、また退屈極まりない。
そこで、多くのフィールド学習を取り入れていた。
フィールド学習といっても、教室を出て学内を歩き回るだけ。
学外に出ることも大学としては推奨していたが、それは表向き。手続きが面倒すぎる。
それに例えば、ショッピングセンターなどでフィールド学習でもしようものなら、二、三十人の女子学生を規律ある集団としてまとめ上げるのは至難の業。
おのずと学内で済ませることになる。
ただ、来週の授業は違う。
裏山で自然の木々や草花を観察し、心に響く何かを感じ取る訓練である。
それに、後期授業の中間点で、気持ちがダレてくるころ。
ちょっと足を延ばし、軽いハイキングまがいの時間はいい気分転換になる。
半期十五回の授業にも、計画的にリフレッシュは必要だ。
「あ、そうなんですね」
「一応、下見。毎年、行ってるけどね。念のため」
実際、下見は必須である。
どこまで行くかも例年通り、小さな滝の祠のあたりまでと決めてある。
ハイキングの目標地点、というわけだ。
しかし、大雨で増水していたり、山肌が崩れて通行できなくなっていたり、スズメバチの大きな巣が行く手を阻んでいたり、不安な要素も多々ある。
大切な学生に怪我をさせるわけにはいかない。
ミリッサはランに軽く手を振って、正門をくぐり、守衛室に向かった。
落胆し、きらきらする目を伏せて歩き始めたランを見て、気が変わった。
今からの用は、授業準備である。
学生に手伝えと言って、咎を受けることはない。
ランはデニムにスニーカー。いつものように軽快な服装。
運動神経も見るからに抜群。
大丈夫だ。
「裏山に行く。来週の授業のために」
と、声をかけた。
「えっ、じゃ」
エメラルドグリーンの瞳が見引かれ、輝きだした。
目の下の二つほくろも、大きくなったような気がする。
「私、一緒に行っても」
「いいよ」
そう言ってしまってから、気がついた。
「あれ、ラン、五限は。授業は?」
「サボリです」
「おいおい」
「へへ」
ま、いっか。




