⑤
アルテミスはカナリアーナを見詰めた。アルテミスは反撃しようとは、思わなかった。
アルテミスが死を覚悟した時ーーーー
ーーーーザシュッッ
アルテミスの目の前で、カナリアーナの胸元に大きな風穴が開く。カナリアーナの胸を貫き現れたのは『漆黒の鉤爪』。暗闇の中だから、はっきりは確認できないが、『雄々しい生き物の鋭い手』だとわかった。
「あと少し……だった、のに!」
カナリアーナは激しい血飛沫をあげて事切れる。血塗れのカナリアーナがアルテミスの上に倒れる。アルテミスは茫然としながら、カナリアーナを抱き締めた。
「今までありがとう」
カナリアーナがバランスを崩す前に『漆黒の鉤爪』は引き抜かれる。カナリアーナの後に佇んでいたのは、メルフィーナだった。
アルテミスがメルフィーナの両手を見た時には、メルフィーナの両手は普段通りの『人の手』だった。
「アルテミス様、どうして戦わなかったのですか?」
「メルフィーナに冷たくされて、僕は毎日傷付いていた。僕はもう、『仮初の幸せ』なんていらないんだ。カナリアーナに、僕の精神は救われたんだ。それなら、カナリアーナの望みのまま、僕は死にたかった」
「いつまで経っても、アルテミス様はお子様ですね」
「うるさい! いつまで僕を侮辱すれば気が済むんだ!」
「私のことを怨みなさい。あなたのご両親の命を奪ったのは、私です」
「どういう意味?」
「アルテミス、あなたの父は大賢者で、あなたの母は大僧侶だった。私はあなたのご両親と戦い敗れたのです。私は負けたことで、あなたのご両親と契約を交わしました。私はアルテミスの奴隷です。あなたの所有物です。今ここで私を殺してもいいのですよ」
「どうして! 君は………!」
アルテミスはメルフィーナの細い首を両手で絞める。メルフィーナは全く抵抗しない。ただ苦しそうな表情を浮かべていた。
アルテミスは、今まで一度も見たことがないメルフィーナの辛そうな顔を前にして、とても後悔した。
アルテミスは、すぐにメルフィーナの首から手を離す。
そしてーーーー
「あああああああああああああ」
怒りと苦しみで雄叫びを上げる。
アルテミスは天を仰ぐ。悲しみと痛みで頭が破裂しそうだった。
もう嫌だ!!! こんな人生!!!
アルテミスは力尽きるように、ベッドに落ちる。アルテミスはそのまま意識を手放した。
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ここはどこ?
『私』はのどかな平野に来ていた。青々とした木々が生え、色とりどりの花が咲き乱れる。
春のような陽気。ちょうどいい心地良さ。緩やかに流れる川の水は透き通り。その気持ち良さに、昼寝をしたくなる。だけどもう少し歩くのも良さそう。
『私』は背伸びをしながら、深く息を吸う。マイナスイオンが全身に行き届く。『私』は幸せにこの空間に、とても癒やされてひとりで微笑む。そこでふと、『私』とはなんだろう? と考える。
『私』は、私は、いつも辛かったはず。私とはいつも忙しかったかず。何故?
会社がブラック企業で、無理な仕事を要求してくるから。納期に間に合わせるために、会社に泊まり込み資料とパソコンと睨み合う。
それから頻繁に電話もあって、嫌味を言われたり、侮辱されたりで。本当は他の部署が良かったのに、望む場所で働けなくて。
それでも、憧れの都会で一人暮らしをして。ほぼ休みがない会社に勤めて、恋人もずっといなくて、友達と遊ぶ時間もなくて。
会社と家と、間にあるコンビニの往復だけの人生。寂しくて、癒やされたくて、野良犬を拾った。
きっと最近捨てられたんだ。チワワに似ている。小型犬で、路地の片隅で震えていた。私が近寄った時、吠えることもなく、噛みつくこともなく。
凄く悲しそうな目で、私を見て、体を小さくして、震えていた。首輪はしていなかった。私は小型犬を両手で抱き上げた。
野良犬は私から逃げることなく、震えて、怯えて、悲しそうな表情をしていた。
大好きな、あの子。『ユイナ』と名前をつけた。男の子なのに、ユイナって名前。ユイナが凄く可愛いから。
私は独身だし、経験もないけど。『ユイナ』を我が子のように愛した。空っぽの私に、『ユイナ』は生きるための希望だった。
ーーーーそうだ。『ユイナ』が病気で天に上ってしまった。虹の架け橋を『ユイナ』は渡ったのだ。
病気の『ユイナ』の看病期間はたった3日。ブラック企業勤めの私だったけど、10年働き続けて、初めて有給休暇をとった。普段は穏やかな私が鬼のような形相で、上司に申請した。私の誠意が伝わったようで、有給休暇が一先ず10日取れた。
だけど、『ユイナ』は4日目の早朝に、1分ほど痙攣して、苦しんで、『くぅん………』と小さく鳴いて、息を引きとった。
『ユイナ』は癌だった。日本の医療が進歩しても、『ユイナ』を救う薬はなかった。他の国に暮らしていたら、『ユイナ』は立派な治療が受けられて、助かっただろうか?
………ううん。この日本にいたから、『ユイナ』と出逢えた。『ユイナ』と過ごした3年間は、私の人生で一番輝いていた。
『ユイナ』とたった3年間しか、一緒にいられないと知っていたなら、私は会社を辞めて、ずっとずっと『ユイナ』のそばにいたのに。
私は『ユイナ』を埋葬した翌日、会社を辞めた。そして、腹いせにその会社のビルから飛び降りた。『私』は死んだはず。
ん? ってことは、ここは天国?
『ユイナー! ユイナー! どこー!?』
『ユイナ』に会えるかもしれない!
私は走り出す。大きな声で呼ぶ。行き止まりになる。私の正面には広大な泉があった。
深い碧色の綺麗な泉。神聖な雰囲気が漂っていた。女神様が現れそうな予感がした。
『はーい♡ 呼びました?』
『私が呼んだのは『ユイナ』です』
『あら〜? そうなの〜? でもごめんなさいね♡ ユイナちゃんは転生しちゃったわ♡』
『そ、そう………ですか』
『貴女も、『転生』しましょう♡』
『『ユイナ』は今、幸せですか?』
『ええ!? ん〜あんまり?』
『私! 私を『ユイナ』の近くに居させて!』
『今すぐには、無理だけど。将来は貴女のそばにユイナちゃんが来るようにしてあげるわ♡』
『ありがとうございます!!!』
『で・も♡ 『転生』した貴女が『ユイナちゃん』に気付くかは保証できないわ♡』
『大丈夫! 私と『ユイナ』は相思相愛だもの!』
『そう? 頑張ってね♡ 『如月 彩さん』』
『私』は気を失う。そして、記憶も喪失する。
『私』は身体を丸めて、虹色の架け橋をくるくるとゆっくり回転しながら降る。
『私』の魂は、運命に逆らうことなく、『与えられた身体』へと吸い込まれていく。
『私』の『第2の人生』の幕開けだ。
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