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グラウンドで

 玄関前に立つほたるを凝視する。


 彼女は学校指定の紫色のジャージ姿で、茶色いローファーを履いている。なんともちぐはぐな格好だ。急いできたのだろうか、と月本は思った。それにしてはほたるの息は全く乱れていない。平生学校で見かける如く、取り澄ましたような顔を崩していない。あたりに自転車や車の影はないから、たまたま近場に寄っていたのだろうか。


 ほたるの格好に混乱した月本だったが、「兄さん、終わりましたよ」という美香の言葉で我に返る。リビングへ引き返すと、美香は母親の服を着せてソファーに寝かせた松葉を指さした。髪が濡れ、湯気が立っている。最前の臭気や汚泥は全て払われていた。すると松葉の元々の美貌が際立ち、ついでに胸にたわわに実った乳房が際立ち、腹から股にかけたラインが際立つ。

 思わず唾をのんだ。

 早く引き取ってもらおう。これ以上ここに松葉を置いていたら、たとえ妹が見ている前でもどうなってしまうか分かったもんじゃない。

月本は玄関に戻った。


「と、とりあえず上がってよ」


 ほたるは言うとおりに靴を脱ぐ。ソファーでいびきをかき始めた松葉をちらりと見たが、彼女は相変わらずの無表情だった。育ての親が醜態を見せたことにも動じていないらしい。大した胆力だ、と月本は何故か感心した。もし父か母がほたるの前でゲロでも吐いたら、今後一生彼女とは口をきけないし、親とも口をきかない気がする。


「お茶でも飲む?」

「いらない」


 ほたるは立ったまま、月本を見ている。彼女の眼力は強い。見られるととてもやりづらい。一挙手一投足を観察されている気分だ。


「と、遠いところから疲れたでしょ? 休んでいきなよ」

「大丈夫」


 ほたるは松葉をひょいと担ぎ上げた。月本はぎょっとした。中学生とはいえ立派な男の自分が苦労して担いできた松葉の身体を軽々と持ったのである。しかも肩を貸すではなしに、小脇に抱えて。キャンプ用具を持ち運ぶような気軽さでほたるは松葉を担いだのだ。


「じゃあ、帰るから」

「え、あ……」

「なに?」

「……いや。気をつけて帰ってね」

「うん」


 ほたるは靴を履いて帰った。


***


 翌日の体育の時間、月本が左手でのろのろと着替えを済ませてグラウンドへ出ると、体操服姿の女子の姿があった。どうやら女子の球技大会の種目たるソフトボールの練習のため、グラウンドの一部をこれからの授業で使うらしい。


 男子は不服そうに彼女らを見やっていた。

 先日までサッカーを2面使ってやっていたのに、急に1面でしかやれなくなった。今日から球技大会に向けての練習期間ということで室内球技組の連中は体育館へ引っ込み、いくらか人数が減ったとはいえ、だ。授業中、腹いせとばかりにわざと女子の方へボールを蹴飛ばして邪魔する小僧もいる。その度にリーゼントの高橋にドヤされる。その時は恐れ入ったという風に身を縮こまらせているが、数分経てばまたイタズラを開始する。転がってきたソフトボールをあらぬ方向へ投げたり、パンツ見えてるぞーブラの紐見えてるぞーなどセクハラ発言さえもする。


 月本はそんな悪ガキたちの生き恥を眺めながら、グラウンドの隅で砂いじりをしていた。骨折して2週間ほど経とうとしているが、治っているかどうかよく分からない。吊るすのはやめたが、未だに副木は必須だ。この前風呂に入る際に包帯を外してみたら、肘が全く動かなくて驚いた。すっかり筋肉が固まっている。


 グラウンドをキャンバスにしてそろそろと当てもなく描いていく。猫型ロボットを描く、ネズミのキャラを描く。下手くそな線の集合をしばらく眺め、右足で乱暴にかき消す。彼には絵心がなかった。絵心というより手先がおぼつかない。中一の時に技術の授業で木片を鋸で両断した際、蟻のような蛇行を描く切り口を見て先生に「木に力負けしてる」と言われた。クラス一同は大爆笑であり、月本は恥じ入る思いだった。


 どうにかして上手い絵を描けないものか。

 グラウンドの土を歩く変な虫をしゃがんで見ながらボーッとしていると、自分の上に影が覆い被さる。顔を上げると、逆光なのではっきりと顔は見えないが、それでもほたるだと分かった。

身体に緊張が走る。


「何してるの?」


上から低く通る声が落ちてくる。


「砂いじりだよ」

「なにそれ?」

「砂をいじってるんだよ」


 月本はひと握りの砂を見せた。ほたるはそれを凝視して、何を思ったか右手の人差し指をズボリと突っ込む。深度はないのですぐに手のひらへ至る。そして動かす。くすぐったい。それ以上に恥ずかしい。


「な、何してるの?」

「探してる」

「何を?」

「お宝」

「お宝なんかないよ」


 そう言うと、ほたるはすっと指を離した。少し残念に思いながら砂を落とす。


「五百蔵さんはどうしたの?」

「サボり」

「だ、駄目じゃないか、サボりなんて」


 月本はぎょっとする。

 女子体育の村坂むらさか先生は、高橋ほどではないにしろ怖いという評判である。いくつ年を食っているのかも分からない外見にも関わらず矍鑠かくしゃくとしており、背筋もシャンと伸びれば、給食だって全部食べる。そして鋭い眼光と鉤鼻は、生徒たちを畏怖させるに足るものだ。これは噂だが、月本らが入学するよりも以前、平山中学校にはこの市一帯をしめる不良がいた。しかしタイマンで村坂にコテンパンにやられて以来頭を丸め、悪さをしなくなった。その不良は自ら市にはびこるヤンキーどもを退治して、平山市に平和が訪れたという。平山中の生徒であれば誰もが一度は聞く伝説である。


 やまんば。


 誰かが村坂をそう呼んでから、彼女のあだ名はやまんばに決まっていた。

 そのやまんばの授業をサボりでもすれば、いくら転校生とてどんなひどい目に遭わされるか分かったもんじゃない。包丁で解体された挙句鍋にして食われることだってありうる。


「大丈夫」


 しかしほたる嬢は例の如く大丈夫の一点張りである。


「大丈夫って……五百蔵さんはソフトボールでしょ? 参加して来なよ」

「それよりも」


 と月本にずいと顔を寄せる。端麗な彼女の顔の中で、一際異彩を放つ目が彼を射抜いた。


「昨日はありがとう」

「昨日……ああ、いいよ。僕もなんか見捨てられなかっただけだし」

「松葉もありがとう、って言ってた」


 ほたるは口を閉じる。

 沈黙。

 月本もかける言葉が見つからない。お礼を言ったならばもう戻っていいだろうに、なぜかほたるは何かを期待しているように彼の前から動かない。

 動いた。

 彼女はしゃがんだ姿勢のまま両足を器用に使って、()()()と月本の横まで移動してきた。


「月本は、球技大会は何をするの?」

「僕は見学だよ。ほら」


 包帯でぐるぐるに巻かれた腕を示す。


「……ごめんなさい」

「あ、謝るようなことじゃないから……」


 駄目だ。

 どうしても彼女との会話が続かない。どうしようかと考えあぐね、この学校に伝わる七不思議でも教えてやろうかと考えていると、彼らのもとへ女子生徒が一人駆け寄ってきた。


「ちょっと、五百蔵さん!」


 勝気な声でほたるを呼ぶのは、2年3組学級委員長の姫野ひめのまどか。誰もやりたがらない委員の仕事に積極的に立候補した変わり者だ。委員長の名に違わず、正義感が強い。クラスメイトからも委員長という名で呼び親しまれていた。


「なに?」


 ほたるが立ちあがった。


「なに?じゃないでしょ! 五百蔵さんもソフトボールのメンバーなんだから、ちゃんと練習して!」


 そう言ってほたるを引っ立てようとする。が、動かない。大地に縫い付けられたかのように、彼女の身体はピクリとも動かなかった。

 そのほたるの顔は、月本へと向けられている。全くの無表情だから、何を言いたいのか分からない。


「……練習に戻ったら?」


 恐る恐る言ってみると、ほたるはこくりと頷いて、己を引っ張る委員長を逆に引きずって戻っていった。

 なんだったんだろう。

 月本は煙に巻かれたような顔をしてグラウンドの隅にしゃがんでいた。


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