友人からの相談
あれから間もないうちに、五百蔵ほたるが実は良家のご令嬢であるという噂が流れた。
ほたるの事情をわずかでも知る月本は心の中でご令嬢を養子と訂正しつつ、あの日見た黒塗りの高級車と青空に浮かぶ千切れ雲と赤い首輪をつけた柴犬の光景を思い出していた。
彼の中のほたるに対する評価は、幽霊から美少女になって金持ちの養子へと変わった。目まぐるしい変遷である。昨今の世論よりも手のひら返しが甚だしい。が、幽霊の方がまだマシだったかもしれない。幽霊は怖いけど他人の目には映らないだろうから、気安く話せただろう。しかし、彼女が金持ちの養子だとすれば話は変わってくる。ただでさえ深窓の令嬢とはすなわちわれら庶民が気安く話しかけてはならない世界の住人だ。しかも相手はとびきりの美少女。地位も容姿も、おそらく頭脳もすべてが備わっている。きっと、幼い頃から親同士の決めた許嫁がいるのだろう。彼女の養親に劣らない金持ちで、トム・クルーズみたいなイケメンで、テストでは毎回100点満点を記録するような完璧超人の許嫁。なぜこんな中学校に来たのかは知らないが、世間勉強の一環とかいうテキトーな理由がついているに違いない。
雲の上の話である。
別に自分がほたるとどうこうなりたいとは思っていないが、どんな顔をして接すれば良いのか分からなくなった。従来通り気安く話しかけて、もし黒服の屈強なボディーガードが出てきて連れ去られると思うと、それだけでちびりそうになる。
結局あれから、ほたるとはまともに口をきけていなかった。
心にしこりの残る出来事だったが、それだけをずっと気にしてもいられないビッグイベントが立て続けに迫って来ていた。球技大会と文化祭である。前者が9月上旬、後者が11月初頭に開催されるのだが、クラスの雰囲気はすでにそちらに向けて高まっているところだった。転校生というイベントはもはや過ぎ去ったものだった。
「月本、お前は文化祭でなんかやんのか?」
加賀美の問いかけに、
「僕はまあ……準備かなあ。演劇だろ? 役者にはなりたくないし」
彼らのクラス――2年3組は、文化祭で演劇をすることになっていた。演目は泉鏡花原作の天守物語。1917年作とかいう話で、つまり今から数えてだいたい100年も前のよく知らない文豪が書いたよく分からん作品である。図書委員の野口曰く、ほとんど意味の理解ができない。そんな難解な作品を上演する運びになったことには、もともと出し物決めでお化け屋敷と演劇のつばぜり合いが起こり、投票の結果僅差で演劇に決まり、それなら演劇は演劇で完全オリジナル脚本か既存の作品かという議論になり、演劇部の夢野と少女マンガ好きの飯島の舌鋒鋭い言い争いの末、たまりかねた担任の植木の鶴の一声もとい趣味で決まった、という経緯があった。
つまり、教師の趣味全開の劇なのだ。
放課後まで散々もめた自分たちにも責任はあるが、だからといって教師の独断で決めるなどという横暴があって良いものなのか。3組の諸氏は憤った。しかし誰も出るとこに出ようとはしなかった。しょせんはその程度の度胸しかないのだった。
そんなわけで、生徒たちにモチベは等しくなかった。放課後残って役者を決める時も誰もやりたがらないし、小道具だって何を揃えれば良いのか分からない。小道具の方は言い出しっぺの植木のジジイが責任をもって取り仕切ることに決まったが、役者の方は一向に決まらない。富姫、亀姫、姫川図書之助などなど、全く見も知らなければ聞いたこともない名前ばかり。まだロミオとジュリエットとかの方が聞き馴染みがある。結局、くじ引きで決められた。
現在、まだ役者が決まっただけで、小道具製作や受付を誰が担当するかは決まっていない。
月本としては裏方をやりたいのは山々だが、いかんせん骨折してしまったのでそれはできそうにない。かといって受付をするにしても、痛々しい包帯を巻いた男が教室の前に座っていると、逆に人払いになるだけかもしれない。
万事休す。
いっそ自分一人くらい、放逐してくれても良いものだが。そうすれば当日はブラブラと文化祭をめぐるし、仕事をするクラスメイトのパシリになるくらいであれば引き受ける。
「でもお前、骨折ってるもんな」
「そうなんだよなあ。裏方をやるにも悪い、受付をするにも悪い。あと二か月後に控えてるのに、余計なお荷物を一つ増やしちゃったね」
「五百蔵はナレーションみたいだな」
「ああ」
予想はできた。
彼女ほどよく通り、耳で聞いていて心地よい声の持ち主はなかなかいない。なぜあんな覇気のない表情に乏しい顔から、あんな綺麗な声が出るのか。
当のほたるは数人の女子生徒に囲まれていた。台本を持って何やら打ち合わせをしているようだが、昼休みなのによくやると思う。せっかくの休みなのだから、自分の自由に任せて時間を使いたいものだ。
ほたると目が合う。
そらす。
これも、ここ数日彼らの間で交わされているやり取りだった。
「……お前、五百蔵となんかあったのか?」
「なんかあったわけじゃないけど……ほら、この前のベンツ」
「ああ」
ベンツ、という三文字で言いたいことが伝わった。これはいい。これから加賀美と話をする時はすべてベンツの三文字で済ませよう。
「確かにあんなの見せつけられたならなあ。住む世界が違うって思い知らされるぜ」
「ベンツ」
「は?」
「だろう? もし五百蔵さんに将来を約束した相手でもいて、僕が馴れ馴れしく話しかけているのを見られて校舎裏に呼ばれて屈強なボディーガードにリンチされたらと思うとゾッとするよ」
「そこまでのことか?」
「ごめん、今のは盛った」
「おい」
脇腹を小突かれる。
昼休み終了五分前のチャイムが鳴る。ほたるにたかっていた女子生徒もいそいそと自分の席へ戻っていく。加賀美も「ごちそうさま」と空の弁当箱を風呂敷に包んで持ち、席を立つ。
数学の今野が教室に入ってきた。
* * *
放課後、今日はFCひらやまの活動もないのでのんびりと帰り支度をしていると、
「なあ、月本、加賀美……」
同じクラスのこれまたFCひらやまのチームメイトである東条が、何やら深刻そうな顔つきをして話しかけてきた。彼は2年1組なのでクラスこそ違うものの、何かと気が合うのでクラブの中でも仲が良い方だ。だから、この教室に来ることはさほど珍しくない。
しかし、いつもニヤニヤと締まりのない笑いを浮かべている東条が、この度なぜ深刻な顔を浮かべているのか、それが気になり彼らは身を乗り出す。
「おいどうした、東条。お前に似ずに真剣な表情だな」
「分かるか?」
「分かるよ。いつもヘラヘラしてるのに」
「俺、そんなヘラヘラしてんのか……?」
金属音が響く。野球部のノックの音だろう。東条は空席に座った。そこからしばらくは顔をうつむけていたが、やがて言う覚悟ができたのか、決然として首をあげた。
「実は俺、好きな人ができたんだ」
中学2年生といえば思春期真っ盛りの多感な時期。恋もしたければセックスもしたい、カッコもつけてモテモテになりたい。異性の目が気になり始める時期であり、親のパソコンでこっそりエロサイトを見てウイルス感染してぶん殴られる時期である。
だから、好きな人ができたというのも別段珍しくはない。クラブでも、早くも1年生の時から彼女をつくっている生徒は複数いた。
しかし、中2の男子は同時に周囲の目をやたらと気にするし、また他人を訳もなくおちょくったりする。だから恋をしても自分だけの内に秘め、彼女がいることを隠す不届き者も多い。
そんな中、堂々と「好きな人がいる」と告白するのは――
有り体に言って、面白い。
「マジで!?」
加賀美が叫んだ。
「おい馬鹿! 声がデケエよ!」
「おっとスマン……これ、もう誰かに言ったのか?」
「んなわけないだろ、お前らだと見込んでの相談だよ。他の奴らに言ったらどれほどネタにされるか……」
恋をするにも覚悟がいる。中学校とは難しい空間である。
「それで、その好きな人って?」
月本が助け舟を出す。
「ああ、お前らのクラスの夢野だよ。演劇部の」
おお〜。
どちらからともなくそんな声が出る。
演劇部の夢野。
最前、少女マンガオタクの飯島明美と演劇論争を繰り広げた、2年3組きっての豪傑だ。小柄な体躯で、いつも肩の下あたりまで伸びた髪をおさげにしている。素朴だが、一緒にいて楽しい女子のタイプ。
見る目があるな、と月本は思った。
「夢野かあ……でも意外だわ。お前なら、ソフト部の誰かを狙ってるかと思ったぜ」
「いや、ああいうのはパスだな。確かに普段よく喋るけど、一緒にいてもなんか疲れるんだよ」
「それ、分かるな。僕もイジられるのあんま好きじゃないし」
「だよな」
東条がうなずく。
「で、俺らに何をしろと?」
「お前ら、夢野とは仲良いのか?」
「よくも悪くもクラスメイトだよ」
「そうか。なら、まず彼女と仲良くなってくれないか?」
「なんでだよ」
「お前らが仲良くなって三人で話したりする。そこに俺が入るんだ。で、『コイツは1組の東条。ひょうきんでいいヤツだぜ』って紹介して、急接近するんだよ」
「そんなまどろっこしいことしなくても、告白すればいいんじゃないの?」
「月本は恋愛オンチだな。急に喋ったこともない男に告られてOKする女がいるか?」
「それでカップルが成立する例もあるけど」
「それは特殊なんだよ。少なくとも、俺は夢野がそんな軽い奴だと思いたくない」
東条はガバリと頭を下げた。
「頼む、この通りだ!」
月本と加賀美は顔を見合わせた。そして笑い、
「オーケー、いいぜ」
「それくらいなら協力するよ」
「本当か!?」
東条は今にも泣き出さんばかりに目を潤ませた。
「心の友よ――――――!!」
「うわっ、痛!」
そして遠慮なく抱きついてきて、月本の患部にダメージを与えたのだった。