お嬢様疑惑
放課後になった。担任の原田がホームルームの終わりを告げるとともに、生徒たちはいっせいにカバンを持って教室を飛び出る。「廊下を走るなー!」と叱られているのは、たいてい運動部。部活動の時間が待ちきれずに走り出すのだ。
月本は左手でカバンを持つ。なんとか今日一日を乗り切ることができた。とったノートはミミズのような字で埋め尽くされているが、まあ読めないこともない。そもそも右手で書いても汚い字なのだから、彼は全く気にすることもなかった。しかし、普段使わない左手の筋肉はしっかりと今日の疲労の蓄積を物語っていた。今なら握力を測ると20kgを下回るかもしれない。小学校3年生の時以来の数値である。
「大変そうだな」
右手でヒョイと楽そうにカバンを持っている加賀美が声をかけてくる。
「まあ、初日を乗り切れたんだから、明日からはもう少し楽になると思うよ」
「そんなもんか?」
「それより今日も練習だろ? 早く帰りなよ」
「ウチらは6時からだろうが。まだ焦る時間じゃない」
やがて窓の下、赤茶色のグラウンドに、野球部やサッカー部などの姿がちらほらと見えてくる。あそこに立っているのは基本的に二年生と三年生。一年生は平山中学を取り囲む田んぼのあぜ道を何周も走らされている。それを見る度、月本は気の毒だと思った。ボールを蹴ったり白球を打ったりするスポーツの部であるのに、まるでこれではまるで陸上部ではないか。そんなことを野球部の広瀬に言ってみたところ、友達と駄弁りながら走るのは意外と楽しいとか何とか。
「僕はもう帰るよ」
「お、マジか。じゃあ俺も」
教室を出る月本に、加賀美がついてくる。二年生の階と言われる三階から一階へ降り、玄関で靴を履き替える。靴を履くためにかがんだら、骨折の患部に血が流れ込んだせいか鈍痛が走った。
「おい、あれ」
ふいに加賀美が声をあげる。彼の指さす方向を見ると、流麗な亜麻色の長い髪を風になびかせる後ろ姿があった。周囲の生徒が魅了されたように彼女を見ている。
「ほ――五百蔵さんか」
「やっぱ後ろ姿もすげえキレーだな。街中で後ろ姿が美人だけど顔見たらザンネンって人は結構いるけど、五百蔵は後ろも前も美人だからすげえよ」
何やら失礼なことを口走り始める加賀美を置いてさっさと歩きだすと、襟首をむんずとつかまれた。
「ぐえっ」
「なに勝手に帰ろうとしてんだよ。水臭いぜ」
「そんなに臭うかな、僕」
「水に臭いはねえよ。それより、ここで転校生を見つけたのも何かの縁だし、ちょっとつけてみようぜ」
「はあ? ストーカーじゃないか」
加賀美は悪い笑顔を浮かべ、
「興味本位だって。別に家までついてくわけじゃねえから。お前もどうせ暇だろ? なら付き合えよ。謎の美少女転校生の放課後に密着取材、ってな」
それは取材ではない。
あくまでも断ろうとする月本を無理やり引っ立て、人混みにコソコソ隠れながら尾行を開始する。が、彼らの初めての追跡劇はものの1分で終わることとなった。
学校の正面玄関を出てあぜ道を歩いたすぐの道路に、一台の車が止まっていた。黒光りのする長い車体の自動車である。一目見て高級車だと分かる。ベンツかな、と月本が思うと、
「おい、あの車すげえな! ベンツか?」
ほたるを尾行していたはずの加賀美も同じことを考えていたらしい。ベンツ以外の高級車の名前を知らなかったから適当にベンツと推察したのだが、加賀美も同意見ならこれはもうベンツに間違いない。カタログにどう書いていようがベンツだ。ベンツでなければ霊柩車である。
「いくらするんだろうね、アレ」
「さあ、1億くらいか?」
二人がそんな風にベンツの値段について話し合っていると、彼らの少し前を歩いていたほたるの亜麻色の後ろ姿が他ならぬそのベンツに吸い込まれた。
唖然とした。
ほたるを腹に入れたベンツはエンジンの駆動音を上げ、それから片側一車線の狭苦しい道路を悠々と我が物顔で去っていく。それを目で追う。両側を民家で囲まれた道路に入り、ベンツの姿が見えなくなっても、彼らは呆けたようにベンツの消えたT字路を見ていた。
まるで白昼夢だった。
宇宙人、というワードが月本の頭によぎった。一見脈絡のない連想だが、浮世離れした美貌を持つ少女が、金持ちの象徴たるベンツに乗って帰る。恐らく執事が運転しているのだろう。それも白い髭を立派に蓄えた、老練の執事だ。ゴールド免許で安全運転、家に着けばドアを開けて、お嬢様、どうぞなどと言う。きっと松葉という育ての親は、かなりの金持ちなのだろう。住む世界が違う。その意味で宇宙人という連想は、当たらずとも遠からずだった。
「……見たか、アレ」
しばらくして、かすれ声のような小声で加賀美が言った。
月本がうなずく。
「……彼女の親御さんの車、かな」
「そうだろ」
沈黙。
二人の悪ガキは、クラスメイトがベンツに乗って帰っていった現実を見て、呆けたようにあぜ道の真ん中に突っ立っていた。下校する生徒に邪魔そうな目を向けられる。そんな視線には全く気付かなかった。
五百蔵ほたる。
夏休み明けに平山中学校に転校してきた美少女の謎は、暴かれるどころかますます深まるばかりだった。
一方先程走り去った黒いベンツの中。
運転座席に座っているのは白ひげを立派に蓄えた老練の男性などではなく若い女性。それもとびきりの美人だ。ほたるとはまたベクトルが違い、こちらは芯の一本通っていそうな顔立ち。切れ長のつり目に高い鼻、深紅の唇。新進気鋭の若手女優かモデルのような女性は、なぜかはこんな暑い日に、こんな町中で白衣を羽織っていた。車内はクーラーが効いているが、彼女の額にはうっすら汗が浮かんでいる。
女性は愉快そうに笑っている。
実際愉快だった。
彼女は運転席からほたるをつけ回していた二人の中学生男子を眺めていた。片方はそこら辺にいそうな精悍な男子で、もう片方は可愛い顔立ちで髪の長い、中性的な好男子。あと自分がもう少し若ければ、惚れていたかもしれない。彼は右腕を吊っていた。骨折でもしたのだろう。
そんな二人の中学生セットが、この車を見た途端に目をひん剥いて固まった。見るからに高級そうな車にビックリしたのだろう。わざわざ知り合いから無断で拝借した甲斐があったというものである。
「あの子たち、知り合い?」
水色のハンカチで汗を拭き取りながら、後部座席に問いかける。ほたるはカバンを膝の上に置き、行儀よく両手をその上に載せてじっとしている。
「うん、クラスメイト」
「へえ。仲良くなった?」
「さあ」
女性――松葉は苦笑した。
やがて瓦屋根の軒並みから、ガソリンスタンドやコンビニ、電器屋などが並ぶ比較的都会的な場所に出た。平山市の中枢である。
ベンツは青色のコンビニに停車した。ちょうど店内から出てきた中年男性が、その車体を見てギョッとする。松葉は勝ち誇ったような笑顔で会釈しながらコンビニに入った。
ものの5分と経たないうちに出てくる。片手には小さいコンビニ袋を持っていた。
「お待たせ」
運転席に座ると、レジ袋からセブンスターの箱を取り出し、一本咥えて火をつけた。
紫煙を吐きながら後方を見る。
ほたるはカバンを膝の上に置いてその上に両手を組んで虚空を眺めていた。無表情だが、女の自分から見ても可愛いと思える。さしずめあの中学生男子どもも、惚れた挙句に追いかけてきたのだろう。
車を出す。
「今日はハンバーグがいいな」
「分かった」
「冷蔵庫に食材、あったっけ」
「無かった」
「じゃあ買いに行かなきゃね」
ベンツはまたしても不釣り合いなスーパーマーケットの駐車場に停まった。