再会
翌日の8月18日火曜日。夏空の向こうに入道雲が見える天気の下、月本博幸は一日遅れで長いようで短い夏休みを終えた。
結局あの後病院に行ったところ、「あ~折れてるねえ」と頭頂部の禿げた医者に半笑いで告げられ、レントゲンを見せられながら説明を受けた。母がしきりにうんうん頷いていたが、正直どうでもよかった。骨折であればどこの骨を折ろうが大差ない。
静脈注射を受けて骨の位置を直し、シーネを包帯で固定して吊り下げた。坂道から転げ落ちた当初は痛くなかったが、その時になって鈍くうなるような痛みがだんだんと大きくなった。めちゃくちゃ痛かった。寝る前に鎮痛剤を飲んだが、夜中には腕の痛みで泣きながら起きた。
そんなアクシデントを乗り越えつつ火曜日の学校へ登校すると、
「おう、月本。骨折ったんだって?」
加賀美が声をかけてきた。同じFCひらやまのチームメイトで、クラスメイトでもある。
「うん。ちょっとチャリで転んでさ」
「おいおい、だっせえなあ。……それよりさ、お前は知らないだろうけど、昨日このクラスに転校生が来たんだぜ」
「転校生?」
「ああ、しかも女子で超美人。でもなあ、なんか変な奴なんだよ」
「どういうこと?」
「無口っつうか、無愛想っつうか……ま、お前も見れば分かるぜ。お、噂をすれば来た来た」
と言いつつ加賀美が教室前方のドアへ目を向けたので、月本もつられてそちらへ目をやった。
目を剥いた。
ほたるがいた。
彼女は平山市立葛田中学校の夏用セーラー服を身にまとい、校則ぎりぎりまで紺色のプリーツスカートを折り、白いソックスを履いて、二年生のカラーである赤いタイを身につけて、学校指定のカバンを手にもって、教室へ入ってきた。昨日の今日のことだからか、彼以外のクラスメイトも好奇の目で彼女を見た。なかんずく男子は露出された手足に目が釘付けのようだった。
「ほら、アイツ。五百蔵ほたるっつうんだけど……ってオイ」
「ハッ」
加賀美にはたかれ正気に戻る。
「大丈夫かよ。さてはお前、見とれてたな?」
「ばっ、そんなんじゃないから!」
「分かりやすいなあお前」
加賀美がニヤニヤと笑う。そして一転、深刻そうな顔をつくり、
「ただな、さっきも言った通り無愛想で無口なんだよ。お近づきになりたいんなら、それなりの覚悟が必要だぜ」
ほたるが彼女の席に着く。廊下側の前から三番目。月本の席からはお世辞にも近いとは言えない。彼女の隣の席の真田というソフトボール部の女子生徒が挨拶をしたが、ほたるは軽く頭を下げただけで言葉を発することはなく、カバンから分厚い本を取り出すなりその世界に没入し始めた。見ただけでめまいがしそうな分厚さである。
「あの本、何が書いてるんだろうな」
「さあ……」
ただでさえ活字を忌避しがちな中学二年生である。おしゃべりをするか教室内でドッジボールをするかのクラスメイトの中でただ一人何やら難しそうな本にかじりつくほたるの姿は、確かに異彩も異彩だった。
始業のチャイムが鳴った。8時20分。これから10分間の自習タイムに入り、それから朝のホームルームを行う。
月本は慣れない左手をなんとか動かしつつ、カバンから教科書類を出す。憂鬱な気分だ。物を持って動かすだけでも慣れないのに、今日から一か月、左手で文字を書かねばならないし、左手で箸を持たなくてはならない。こんなことなら左手を折っておけばよかった。
そんなことを考えていると、
「手伝う」
声をかけられた。親切な人がいたものだと驚きながら、
「ああ、ありがと――」
振り向いてまた驚いた。
ほたるが立っていた。
月本の左手が止まった。
ついでにクラスメイトの動きも止まった。普段8時20分になってもおしゃべりを続けるクラスメイトが、つい昨日転校してきた無口な五百蔵ほたるさんが自分から話しかけているところを見て、思わず口をとめた。
「一昨日ぶり」
「あ、ああ、うん。……一昨日ぶり」
「手伝う」
そう言って、ほたるは彼のカバンから筆入れ、国語の教科書、今日返す予定の少年漫画などを出し始めた。月本は黙ってそれを見ていた。
覚えていてくれた。
話しかけてきてくれた。
彼は嬉しさ7割苦さ3割の気持になった。一昨日会っただけの自分を覚えていてくれたことは嬉しかったが、あの日は最後に無様な姿をさらしてしまったので、どちらかといえば忘れてくれていた方がマシだった気もする。しかし無口で無愛想な彼女が、自分には話しかけてくれるというビップ待遇。なんだか胸がくすぐったくなる。
「どうしたの?」
固まる月本を見て言う。「ごめんなんでもない」と言い、ほたるに差し出される筆記用具や教科書類を受け取っては机に入れ受け取っては机に入れる。
5分もしないうちに作業は終わった。
「じゃあ」と言って自分の席へ戻ろうとするほたるの背中に、「あの」と声をかけた。
「なに?」
「……い、今読んでる本、どういう本なの?」
それはクラスメイト一定数の気持ちを代弁する質問でもあった。彼女の読んでいる分厚い本の中身を皆気にしないわけがなかった。ただ、なにぶん相手が無愛想ということだし、何人かは果敢にも聞いてみたが無視されていたのだった。
ほたるは自分の机の上に広げた本をちらりと見て、
「別に面白い本じゃない。偏微分方程式の解説書」
「へ、ヘンビブン?」
「松葉が読んでたから借りてみた」
「へ、へえ……」
何やら聞き覚えのない単語に思わず戸惑い、会話が途切れる。ヘンビブン、なんだろうそれは。方程式というからには数学なのだろうが、ヘンビブンなんて言葉は聞いたこともない。どうしようかと目を泳がせていると、ふと彼の目に、ほたるの首に巻かれた黒いチョーカーが目に入った。お洒落だろうか。そういえば、昨日もつけていたようなつけていなかったような気がする。
「――そのチョーカー」
「なに?」
「大事なものなの?」
蛍は首元へ右手をやり、
「うん。すごく大事」
「へ、へえ。誰かからのプレゼント、とか?」
「うん。松葉から」
また松葉という名前が出てきた。
月本はそれ以上二の句を告げられず、ほたるは自分の席へと戻っていった。
* * *
今日の4限は体育だった。夏真っ盛りの暑い時期にやる授業は――サッカー。これは男子のみで、女子はクーラーの効いた涼しい体育館でバレーをするらしい。
月本ら男子一同は、体育館の横にある倉庫で着替えている。この学校では、見学者も着替えなければいけない決まりがあった。
「マジで外出たくねえ……」
誰かがつぶやいた言葉に、皆心の中で同意した。東北地方の中でさらに北にあるこの地でも、夏には35度を超える日だってある。運の悪いことに、それが今日だった。最高気温35度で最低気温が24度。ここ数年で最高気温です、と全国放送のお天気キャスターがクーラーの効いているであろう涼しいスタジオで涼しい顔をして言った時は、思わずテレビを殴りそうになった。
学校指定の体育着を着てグラウンドへ出る。赤茶けた、整備もろくに行き届いていないような地面。放課後はここでサッカー部や野球部が灼熱の日差しを受けながら命がけで走り回っているのだが、ふと下を見れば、彼らのつけたスパイクシューズの足跡がくっきりと残っていた。整備が行き届いていない証拠である。
整列して挨拶を終え、今日の授業内容をリーゼントの高橋先生から説明される。高橋は見た目通りキレるとヤバいという噂だったから、ヤンチャな坊主どもも黙って話を聞いている。
月本が砂いじりをしているうちに説明が終わり、二人一組でボールを蹴る段になる。
「お前、五百蔵と知り合いだったのか」
ぞろぞろとボールを持って散る群れから離脱して、月本のところへ来た加賀美が尋ねてくる。
「知り合いっていうか……一昨日会っただけというか」
一昨日のことを思い出す。
そういえば、あの時「最近こっちに引っ越してきた」なんて言っていた気もする。同じ中学校に転入することまでは思い至らなかったが、よく考えなくても途中まで家が一緒だったんだし、同じ学区であることくらい考えつくものだ。
「知り合いだったことは別に驚かんけど……どうやってあの五百蔵の心を開いたんだ?」
「開いたかどうかは分からないけど……蛍を一緒に見たぐらいだよ」
「へえ、蛍か。それで五百蔵の名前もほたる。ロマンチックだな」
「やめろよ」
自分自身、あの時名前を聞いた時は嘘をつかれていると思ったが、学校でもほたると名乗っている以上、名前は本当にほたるなのだろう。
「とにかくお前だけはアイツと話せるんだよな。美人と話せるなんて羨ましいぜ」
「美人って……」
高橋が「おい加賀美ィ! サボんな!」と怒鳴ったので、加賀美は顔面を蒼白にして慌ててサッカーの方へ合流した。