プロローグ2
ほたると並んで夜道を歩く。
ついさっき蛍の飛び交っていた川沿いの道を外れ、大きなカーブを描く舗装道路に合流する。ここまでくればもはや幽霊とか妖怪の気配はほとんど感じられなかったが、それでもたまにしか車両の通らないここで安心するには、月本は臆病すぎた。それでも彼がビビらずにいられたのは、ほたるという同行者が得られたことが大きい。
彼女は口数の多い方ではないらしく、月本の質問に対しても「うん」「違う」などと短い返答で済ませることが多く、ホワッツやホワイで質問をしても手短に、簡潔に答えることに終始した。そんな面接のような会話でも、月本のビビりはだいぶやわらげられ、さっきまで抱いていたほたるへの恐怖心はすっかり消えていた。
質問を通して得られた情報は断片的だった。年齢は14歳であること、最近育ての親の引っ越しでこの県に移り住んできたこと、その育ての親に勧められて浴衣を着こんで下駄を履いて蛍を見物しに来たこと、育ての親の名前は松葉ということ等々。全体的に育ての親の絡む答えが多かった。両親はいないのかと聞くと、彼女は表情を変えないままうつむいた。やってしまった、と彼は後悔した。それ以上の質問を続けることはできなかった。
「そういえば、さ」
信号が赤色に明滅する十字路を二人は横断した。
「この町の噂話、知ってる?」
「噂?」
ほたるは首をかしげる。
「平山大学の白山キャンパス、そこに医学系の施設が集まってるんだけど、そこで非合法にクローン人間が造られてるんだって。知ってる? クローンって。僕も詳しくは知らないけど、イデンシ技術だかを使って、全く同じ生物を創るんだって。法律で厳しく取り締まられてるらしいけど、あそこでは秘密裏に技術の開発を進めてるとかなんとか。それで何をするのかっていうと」
彼は押していた自転車をとめた。
「戦争。国家テンプクを目論んでるんだって。まあ嘘だろうけどさ」
二人は田んぼのあぜ道を歩いていた。両脇に広がる果てしない水田。田舎では見慣れた光景である。左手には、田んぼに囲まれた小学校が見える。教師が軒並み退勤して明かりの消えた校舎は、なんだか幽霊でも出そうな凄みを帯びていた。
ほたるはだんまりを決め込んだ。月本はまた、しまった、と思った。暗い雰囲気を変えるために聞くからに嘘だろうと思える噂話を披露してみたが、彼女のお気に召さなかったようだ。手持ちにはただでさえ弾丸の数が少なく、その中でも一番ネタになりそうな噂をチョイスしてみたが、悪手だった。
「戦争、って言ったけど」
ほたるが口を開いた。月本は傾注する。
「クローン人間を作っただけじゃ、国には勝てないと思う」
「そうかな。日本国憲法9条にはセンリョクのフホジがうたわれている、って社会の増田先生が言ってたよ。だから、ちょっと戦争しかければ勝てるんじゃない?」
「日本には自衛隊も警察もいるし、武器の輸出入も法律で規制されてる。裏ルートがあるなら別だけど」
「……そっか」
田んぼのあぜ道を抜けてまた道路を歩き、やがて人家が見えてくる。それに伴い、道路の両脇にも等間隔に街灯が据えられ、夜の闇を照らし出し、おかげでさっきまではぼんやりとしか見えなかったほたるの顔がはっきりと見えた。
月本は息をのんだ。
ものすごい美少女だということは分かっていたけど、改めてまじまじと見つめると、脳内補完したモンタージュとは比べ物にならない。ここまで来ると、もはや作り物なんじゃないかとすら思えてしまう。長い睫毛に縁どられた切れ長の茶色がかった目、透き通るように白い肌、亜麻色の絹のような髪の毛。なかんずく目が印象的だった。吸い込まれそうな錯覚を覚えるほど、彼女の眼力は強かった。
「どうしたの?」
ほたるは不思議そうに聞いてくる。もっとも、不思議そうにしているのは声音だけで、顔に浮かべる表情はほとんど変わっていない。どうやら、表情の乏しい性格らしい。
「い、いや、なんでも……」
顔を真っ赤にして目をそらす。そんな月本をなおも不思議そうに、珍しいものを見るような目でほたるは眺めていた。
やがて一級河川の星鳴川にかかる大橋を渡り、そこからは勾配のきつい下り坂になる。そこを下るとスーパーやパン屋などのひしめく広場に合流し、いよいよもってあの世からこの世に帰って来られたという安心感がひしひしと湧いてきた。
そして、月本はやや大胆になった。
目の前にあるのは、勾配のある坂。そして自分の脇には自転車と美少女。今の時間なら歩行者はほとんどいないし、急に横道から飛び出してくる車もない。彼は中学二年生、役者がそろえば即興劇の一つくらい、演じてみたくなるものなのだ。ありていに言えば、どこかのドラマかアニメで見た青春っぽいことをしてみたくなったのだった。
自転車はパンクしてしまっているが、それでも速度は出るに違いない。
「あ、あのさ!」
「ん?」
「ここ、結構キツい下り坂だよね? ここをさ、こう、チャリに乗って降りると、すごくスピードが出て気持ちがいいんだ。ブレーキもかけずに、さ」
「そう」
「だ、だからさ、僕のチャリに、乗ってみない? それで二人で降りようよ」
ほたるはやや逡巡した。
「でも、二人乗りはダメだって、松葉が」
「大丈夫! イマドキみんな二人乗りくらいやってるし、一回くらいしてみなきゃ損だよ!」
嘘である。嘘であるが、気の大きくなった月本は、なんとか説得するためにこんな嘘をついてみた。それにほだされたのか、
「じゃあ」
と言って、ほたるはとてとてと小股で彼の後部座席の方に近づいた。それにすっかり気をよくして、月本は肩にかけていたエナメルのバッグをカゴに入れて、自分もサドルにまたがる。「乗りなよ」と言うと、ほたるは横座りに自転車の荷台に乗った。彼がバッグからタオルを取り出して敷こうとしたが、ほたるは「大丈夫」と辞退した。それならば、より安全なように正面を向いて座ればどうかと言ってみたが、浴衣を着ていて股を開きにくいということだったので、それ以上は言えなかった。
「しっかり捕まってくれよ」
「うん」
月本がハンドルを握ると、ほたるがぎゅっと彼の身体にしがみついてくる。いいにおいがした。同じ人間とは思えないいいにおい。そして背中には二つの柔らかいもの。控えめに言って最高にハッピー。
「よし、行くぞー!」
若干ふらついたがすぐに態勢を立て直し、二人を乗せた26インチの変速ギア付きママチャリが坂にさしかかる。数秒も経たないうちにぐんぐんと加速し、やがて全力で漕ぐ以上のスピードが出始める。周囲の光景にもやがかかり、軌跡写真のように後方へ流れ出す。
「ヒャッホ―――――――――――――――――――――!!!!!」
意味もなく、夜空に向かって叫んでみた。この世に自分とほたるの二人しかいないような気がする。自動車のライトや民家の明かり、それらすべてが視界から消えた。世界は二人の世界だった。
余裕が出てきて上空に顔をやる。夏の大三角が浮かぶ星空。雲はもう一つも見当たらない。
楽しい。
週四日夜遅くまでサッカーの練習、それ以外の日は鬼ばばに勉強しろ勉強しろとさいなまれ、思春期の心にはうっぷんが溜まっていた。勉強、サッカー、確かに大事だ。おろそかにしてはならない。けど14歳のお年頃は、遊び盛りたいお年頃なのだ。
そしてハイになっていると、
「月本、前」
「え?」
視線を戻す。
木から伐採されたらしい大きな枝が落ちていた。
驚いて思わずハンドルを無茶苦茶に切る。
たまらずママチャリは横転、ぐわっしゃーんという音とともに、月本とほたるの身体は投げ出された。
「いってぇ……」
右手首がじんじん痛む。いまだかつて味わったことのない鈍痛。両ひざからはひりつくような痛みが伝わってくる。思いっきりすりむいた。絆創膏だらけは避けられないだろう。
そこで、自分の心配などしていられないと気づく。
「ほ、ほたるさん! 大丈夫!?」
ほたるは彼から少し離れたところに倒れていたが、何事もなかったかのように起き上がった。
「ほたるさん……」
「びっくりした」
それだけ。
痛みに苦しむような素振りも見せない。
「ご、ごめん。僕が調子に乗ったばっかりに……」
「わたしは大丈夫。それより、月本が心配」
こんな時に、自分の心配をしてくれるなんて。彼は場違いにも感動を覚えた。
「ちょっと、右手が痛いかな……」
「折れてるかもしれない。明日病院に行った方がいい」
「でも、明日から学校だし」
「関係ない」
有無を言わせぬ口調に、月本は思わずたじろぐ。
「分かったよ。その、本当にごめん。ほたるさんも病院、行った方がいいよ」
「わたしは大丈夫だから」
月本はカゴの歪んだ自転車とエナメルバッグを回収し、痛む右手をかばいつつ左手で自転車を押した。途中でほたると別れ、家に帰ると、ものすごい心配そうな顔を浮かべた母親に出迎えられ、小言を言われるわ抱きしめられるわで困惑した。なぜ帰りが遅くなったのか、なぜ電話の一本も入れてくれなかったのか。質問攻めにあった。すでに時刻は午後11時を回っていたのである。
翌日、病院へ行くとやはり尺骨が折れていた。初めて骨折をし、首に注射を打たれて乱暴に骨を戻され、鎮痛剤を処方されて帰ってきた。
かくして、彼の夏休み明けデビューは一日の遅れを喫したのであった。