プロローグ1
新作です。よろしくお願いします。
「マジでクソだなこれ……」
月本博幸は泣きそうな声音でぶつぶつと独り言を言いながら、暗い道を進んでいた。
何がクソかって、あそこから帰る前に忘れ物に気づけなかったことだ。それもその忘れ物がソックスの片割れだとか五号球のサッカーボールとかならまだしも、よりにもよって携帯電話を置いてきてしまった。これもまたクソだ。そして何より自転車がパンクしたことがクソだった。クソクソクソ。おかげでこんな恐ろしい夜道を、自転車を手で押しながら歩いて帰る羽目になった。
彼は暗くて人気のない場所が苦手だった。一言で言えば、臆病者だった。お化けとか幽霊とか、迷信を信じている種類の人間だった。髪をざんばらに振り乱した落ち武者の霊とか恐ろしい一つ目の妖怪とか、そういったこの世の者ならぬ魑魅魍魎が今にも道から飛び出てくるんじゃないかと思うと気が気でない。おまけにこの道には民家も少ない。廃墟同然の空き家や開いているところを見たことがない店ばかりが、亡霊のように立ち並んでいる。そしてジジジ……という不協和音を奏でながら明滅する街灯。時折頬を撫でる生暖かい風。彼の知る怖い話によれば、妖怪が出てくる時は生臭い風が吹いてくるということだったから、いつこの草のにおいがする風が豹変するか、考えるだけで気が狂いそうになる。
時刻は午後9時半を回っている。
中学校の部活であればこの時間はとっくに練習を終え家に帰っている時間帯だが、月本の所属するサッカークラブは午後6時から活動を始めて9時まで練習をするので、自然このような遅い時間になる。それだけならまだ我慢ができたものの、練習場までのこの怪談スポットのような道はどうにかならないのか。昼や夕方に通る分には問題ないが、友人と連れ立って帰るにさえ時折ぞっと背筋が冷たくなるのだ。今のように一人でいると本当に半狂乱になって泣いてしまいそうになる。
「お化けなんていないお化けなんていないお化けなんていない……」
彼はうつむきながら呪文のように自分に言い聞かせる。そうだ、お化けなんて非科学的なものは存在しないのだ。昔も幽霊の正体見たり枯れ尾花と言うじゃないか。こんなもの全て気のせいだ。女性の甲高い悲鳴は梢を吹き渡る風の音で、白い帷子を来た女はこじゃれた案山子。怖がっているから見たくもないものが見えてしまうのだ。
そう、お化けなんていない!
決然と顔を上げる。
暗い夜道を一匹の猫が横切った。
この世の終わりみたいな悲鳴が出てしりもちをついた。自転車が支えを失い、道路わきの溝に落ちる。その音でさらに驚く。
腰が、抜けた。
「何だよ……何なんだよも~~」
誰にぶつければいいのかも分からない不満や怒りが口をついて出る。なぜ自分がこんな目に遭わなければならないのか。鳥居をくぐるときは一礼して参道の脇を歩き、お盆には墓参りを欠かさず、曰くつきの場所には絶対に近づかない自分が。今日は8月17日、夏休み最後の日なのだ。なんで一か月の夏休みを、こんなフィナーレで飾らねばならないのか。
10分ほどして正気に帰り、溝から自転車をどうにか引き上げてまた歩き始める。まだまだ家は遠い。
やがて昭和の名残のような街並みが消え、両脇を丈の高い草に囲まれた砂利道に出た。右手には川が流れている。今は暗いのでよく見えないが、明るい時間にここを通ると、たまに鯉が泳いでいる様子を見ることができる。
あたりがだんだんと光り始めた。小さな星のような光。
蛍だ。
数十匹の蛍が、あるいは川辺の葦の葉にとどまり、あるいは空中を浮遊し、さながら夜空を地上に下ろしたような趣が漂っている。
月本も中学校に上がるまでは生の蛍を見たことがなかった。サッカークラブ「FCひらやま」に入部してこの道を通るようになって間もなく、この辺には蛍が生息していることに気が付いたのだった。ネットによれば、どうやらヘイケボタルというらしい。
発光する蛍を見ていると、彼の恐怖心はだんだんと和らいでいった。さっきまでは忘れ物をした自分を恨んでいたが、そのおかげでこのような幻想的な光景を見ることができたのだ。捨てる神あれば拾う神あり。今はしばしこの蛍の飛翔を見ていたい。自転車を砂利道の脇にとめ、川べりに腰を下ろす。
どれくらいそうしていただろうか。
そろそろ帰ろうかと思って腰をあげ、脇を見た月本はいまだかつて感じたことがない戦慄を覚えた。
人が、いた。
自分の右方30センチの距離。そこにさっきまでは確かにいなかった人影が、腰を下ろしていた。
幽霊だ。
とっさにそう思って逃げようとしたが、脚が地面に縫い付けられたように動かない。膝は面白いほどガクガク震えているのに、脚が上がらない。逃げたい。逃げたいという気持ちばかり急いて、肝心カナメの身体は全く言うことを聞かなかった。ホラー映画や小説の、幽霊に遭遇して何分も棒立ちしている登場人物を見て「なんでコイツらは突っ立ってるんだ。さっさと逃げれば良いのに」と思っていたが、人間、真の恐怖に襲われると身体は凍り理性が吹き飛ぶということを、彼は身をもって思い知った。
薄暗くてはっきりとは見えないが、幽霊は女らしい。浴衣のようなものを着て、長い髪の毛をそのままに垂らし、膝を抱えて座り込んでいる。
こっちを見ていない。それは川の方を見ていた。蛍を見ているのだ、と月本は思った。
「きれい」
幽霊が喋った。いや、幽霊が喋るものか。コイツらは冒頭決まって「うらめしや」と言って、それから恐ろしい力を使って人間を呪い殺すのだ。そんな訳の分からない連中が「きれい」だなんて人間臭くて情感豊かな語彙を持っているはずがない。
「これ、蛍?」
「……うん」
問いかけに答えてしまった。よく分からないが、幽霊と口をきくと駄目だった気がする。
「なんていう蛍?」
「ヘイケボタル……だと思う」
「ふーん」
幽霊がこちらを向いた。折から、空を覆っていた雲が晴れて月が姿を現していたので、幽霊の顔が月光のもとにおぼろげに浮かび上がった。
とんでもない美少女だった。
高校生くらいだろうか。
透き通った瞳と高い鼻、形の良い顎なんかが見えた。それだけでも、ものすごい美少女だということが十分すぎるくらいに分かった。そういえば、幽霊って美人というのが定石だったっけ。
「名前」
「え?」
「名前、教えて」
「ヘイケボタル」
「違う。あなたの名前」
「……月本」
「月本」
幽霊は繰り返した。低いが、よく通る、美しい声だった。
「……あ、あなたの名前は?」
「私?」
「そ、そうだよ。人に名前を聞くときは、自分も名乗らなきゃいけないって決まりだろ」
幽霊は再び川の方へ顔を向けた。
そこには、相も変わらず蛍が飛んでいた。
「――ほたる」
「ほたる……? 嘘じゃないの、それ」
「本当。私の名前はほたる」
嘘だ、と月本は思った。そんな都合の良い話はない。たまたま蛍を見に来たらたまたま幽霊に出くわして、そしてその幽霊の名前がほたる。できすぎている。自分は化かされているのだろうか。目の前の少女の生き物くさいペテンにかけられようとしているのだろうか。
「それじゃあ、ほたる――さん。なんでこんな時間にこんな場所にいるの? もう寝る時間だろう」
「蛍を見に来たから」
「……ああ、もしかして夏休みの思い出に?」
ふと、蛍と夏休みが彼の頭の中で結び付けられた。夏といえば海、山、祭り、肝試しなどと様々な経験の宝石箱だが、その中に蛍の観察が入っていてもおかしくはない。もしこの幽霊が幽霊ではないとすれば、ひと夏の思い出作りにわざわざこんな田舎へ来たのかもしれない。
「うん」
ほたるは頷いた。やけに人間くさい理由だ、と思った。もしかすると本当に幽霊ではないのかもしれない。
「ひ、一つ聞いていいかな」
「なに?」
「ほたるさんって……その、幽霊じゃ、ないんだよね?」
「うん」
即答。
月本はほっと胸をなでおろした。まだ騙されている可能性はあるが、自分を人間だと思い込む幽霊は聞いたことがない。それよりも、人間であればこれほど心強いものはない。男として情けないが、人通りの多いところに合流するまでついて来てもらおう。
「ほたるさんの家って、どこらへん?」
「ちょっと遠い。あっち」
彼女が指さした方向は、月本の家の方向と同じだった。
「そっか。僕も遠いんだけど、よかったら一緒に帰らない? 自転車、パンクしちゃってさ」
「うん」
ほたるは立ち上がり、女性にしては早い足取りで歩き始めた。
「ちょ、ちょっと! そっちは逆!」
慌てて自転車を押し、彼女の後についていく。