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LEO番外編

作者: 鳶


「ミシェル、君、一体どうしちゃったの……」

彼女が突拍子もないことをするのは昔から慣れていた。

大怪我で死にかけて私が執刀したこともあるし、人が変わったように派手な化粧をしたり、突然LEOに入隊したときも私は大して驚かなかった。それが彼女の個性というか、見事に破天荒なところであるが、しかし。

「拾った」

それがまさか、子供を拾ってくるなんて。

「こ、子供なんて煩くてめんどくさくてとにかく嫌いだって言ってたじゃないか」

「コレは別件」

「コレって言わない!」

さすがに動揺して私は語尾を強めた。本人も承知の上である……ことを信じたいが、犬や猫を拾ってくるのとはわけが違う。

ミシェルの後ろでうろつく少年を見やれば、ばちりと目がかち合った。今にも唸り声を上げて噛みついてきそうだ。

最近与えられたものなのか、新品の真っ白なシャツと黒のパンツ。それに全くそぐわない雑に伸びた髪と、隙間から覗く鋭い目つき。

「野生動物みてぇだろ」

「うわっ、触んなクソババア!」

「だれがクソババアだ、このクソガキ」

「ああちょっと、乱暴はいけないよ」

少年の首をひっ掴むのを宥めるとどうにか離してくれたが、ミシェルの怒りは収まらない。次は私のネクタイが容赦なく引っ張られて、喉から蛙のような情けない声が出た。

「捨ててきていいか」

「さっきと、言ってることが、真逆だ……」

貶すつもりは全くないのだが、はっきり言って彼女に子育てはできない。だいたいミシェル自身がろくに育てられていないのだから、いろはを解れというのも土台無理な話である。

「弟子にすんだよ」

「弟子ってまた……」

突拍子もない。私が言わんとすることを理解したのか、ネクタイを掴む手がぱっと開かれて後ろへ二、三歩よろめく。

ここに来るまでミシェルにどんな事をされたか知らないが、少年の苦い顔がすべてを物語っている。

「君もどうして着いてきたんだい?」

「弟子になったら飯が食えるって」

「ミシェル……」

私は更に頭を抱えることになった。恐らく少年もいい育ちではないと予想してはいた。まさかその日の食事でこの戦場にまで釣ってくるなんて考えには至らなかったが。

「見込みがあればだけどな」

「はぁ!? 話がちげーだろ」

「弱い弟子はいらねーんだよチビッ子」

「チビじゃねえ! 十五歳くらいだ!」

「二十八のお姉さんになんて口利いてんだ貧弱ネズミ」

「二十八とかババアじゃん!ゴリラババア!」

「もうそのくらいにして……」

その場が医務室などではなく私の自室であるのが唯一の救い……いや、まずいかもしれない。ここで巻き起こされた少年とお姉さんの喧嘩の大音量に、扉を開けばたくさんの野次馬が集まっていることだろう。

「ミシェル、もっと具体的に説明してくれないか?」

「……任務先で見つけたんだよ。第2LOSTから逃げ回るなんて、並の人間じゃない」

「もしかして、その子」

「ああ。能力者だ」

「君が言うなら本物だろう」

やけに静かだと思っていたら少年はすっかり目移りしたようで、私の部屋のボトルシップを眺めていた。その痩せ細った体と小さな背丈は、とても15歳には見えない。

「近々Aから声がかかったときのために、Jの人員を確保しておきたい」

「LEOの人手不足もそこまで来たか……」

「はは、特にAは死に急ぎばっかりだからな」

「……ミシェル」

特殊部隊は少数精鋭といえども、戦闘も多く精神の摩耗も激しいため入れ替わりが多い。カウンセリングと称して隊員たちの様子を探ったりしたが、健全な人間なんて実際ここには一握りもいないのだろう。

そして、次にAの異動があったときこそ、ミシェルの番だ。

「どうした?」

「――いや、何でもない。ところでこの子、部屋はどうするの?」

正式な隊員として迎えたわけではない少年に、割り振れる部屋を手配しているのか。ミシェルが他人に配慮できる性格とはお世辞にも言えない。むしろ私に少年を紹介したことすら奇跡に思えるくらいなのだ。

「……考えてなかった」

その返答に、やっぱりと眉尻を下げて笑う。

少年は瞳をまるくして、こちらを不思議そうに見ていた。




「ほらカルン、起きて」

「うー……」

ミシェルが部屋を訪ねてきたときからこんなことになるだろうと思ってはいたが、少年は私の部屋に居候する形になった。カルンという名前もそのあとに聞いたもので、意外と人懐こい性格も最近知ったばかりだ。

ちなみに司令部から長々と説教を受けたミシェルは、ふてくされつつもカルンを正式入隊させるために尽力している。

「今日こそミシェルに『ギャフンと言わせる』んじゃなかった?」

「……命中率八割の壁……」

起きてはいるがもぞもぞと毛布にくるまるカルン。寝癖のある髪を撫でつけると、隙間から茶色の瞳が覗いた。

「よしよし、1ヶ月でよくそこまで扱えるようになったね」

「……ジェドが褒めてくれなきゃ1日でやめてる」

「ミシェルはスパルタだからねぇ」

弟子にすると突然連れて来られたその日からミシェルの特訓はスタートし、現在29日目。その数々を端から見ている私からすれば、よく付いていけているなと目を見張るほどの成長速度だ。

「今日は野外だって言ってた」

「ライフル?」

「いろいろ。動物を狙うんだ。『もし遭難しても食っていけるから』って」

「理由が『動いてる的を狙え』じゃないのが彼女らしいよ」

ベッドから這い出たカルンは文句を言いながらも、てきぱきと訓練服を着込んでいく。

前は服に隠れてやつれていた体は、訓練とバランスのとれた食事の成果か幾分しっかりしてきた。背丈ばかりは今すぐに取り返しは利かないけれど、まだ成長期なんだからあと30㎝くらいは伸びるだろう。

「なんか軽く食べれるものある?」

「サンドイッチなら」

「食べる」

具だくさんのサンドイッチに噛み付いて飲み込むこと4回。ぺろりと平らげてしまったカルンにペットボトルを渡す。

「ジェドは今日も研究室?」

「今日は医務室かな。怪我したらすぐおいで」

「怪我なんかしねーよ」

道具一式を詰め込んだリュックを背負い、カルンは嵐のように部屋を飛び出していった。

「カルン、気をつけて――って……もう行っちゃった」

数分で用意したにも関わらず、毛布と寝間着はきちんと畳まれている。ここにあるものはどれもミシェルが与えたもので、カルンがここに来たときすら私物はひとつもなかった。

ミシェルはまさか傭兵時代の癖まで弟子に教え込んではいないだろうか。

いつ死んでもいいようにしている気がして、どうしても彼女のその癖だけは好きになれなかった。




最初はただの気まぐれだ。

LOSTと出くわした道端の孤児なんてあっけなく死ぬもんなのに、しぶとく逃げ回る薄汚いガキが一人。ボサボサ髪の隙間から覗く目は、確実になにかを捉えていた。

面白いと思った。こいつを戦場に連れていったらどれだけ殺せるのか、私は興味があった。

「おいクソガキ。ここで野垂れ死ぬのと、化物殺して飯食うの、どっちがいい?」

今日食うものに困る貧民街と、今日死ぬかもしれない戦場。

子どもに進ませるにはあまりに過酷な選択だった。

しかし腐った血溜まりの中でそのガキは、化物を殺す、と獣のような声で言ったのである。



「はい今ミスった腕立て伏せ~」

「くそったれ……!!」

悪態を吐きつつ、律儀に腕立て伏せを始めるガキに笑いが込み上げた。道端にいた時より着実に成長はしていても、大きな銃の反動に耐えられるほどの体はまだ出来上がっていない。

「殺す気かババア……」

撃ち損じてペナルティを与えられるたびに異なる言語を用いているが、今のところすべて私に解読されている。

「今のは中国語だな? 口はクソみてぇに悪いけど頭はいい」

「脳みそも筋肉じゃねぇのかよ!」

「残念だったな。筋肉がないぶんお前の負けだ」

カルンが元々いた場所は、様々な国の除け者たちが集まる街。そんな掃き溜めで子どもが生き残るために必要なことだったのかもしれない。

「しかし、異国語なんて教えるような人間が――」

いたのか。そう問おうとしたのを通信機のノイズが遮った。

『ミシェ――、――れ――に――』

所々が途切れて雑音が混ざる通信は主旨を把握できない。ただ私の名前が呼ばれているということは、至急向かわなければいけない事態があるのだろう。こういう時はだいたい面倒な説教か、誰も受けたくない任務が待っている。

重い腰を上げて腕時計を確認したが、まだ昼には早い。少しの希望を込めてこちらを見るガキを一蹴した。

「しばらく本部に戻るから、お前は自主練な」

「ゲッ、休憩じゃねーのかよ」

「当たり前だチビ」

腕立て伏せを止めたそいつに身長の半分ほどあるライフルを手渡す。サボるにしてもこの貪欲なガキなら動物を狙うくらいはするだろう。


「……五ヵ国語は叩き込まれたんだよ」

本部へと足を進める私の背中に聞こえたそれを、振り向いてまで 誰に、と聞くことはしなかった。



本部の廊下を歩けば、あちこちでざわつく隊員が目についた。小走りに司令部の扉をくぐると、階級の高い制服の人間たちがこちらを向く。一瞬で何かまずい状況なのだと気付かされた。

「悪い。森の通信状態が悪くてな」

「森!森だ!」

「おい、落ち着け」

ひとりの諜報隊員が切羽詰まった様子で私の腕を掴む。手当てすらしていない肩の傷から血が滴って、床に転々と染みを作っていた。

「彼、第2LOSTに追われて戻ったらしいの」

司令部の隊員が傷にタオルを当てながら言う。白い布地は瞬く間に赤く染まっていた。肉体的なダメージもさることながら、精神的な疲弊が見受けられる。

「森と言ったか」

「そうだ、追いかけてきたんだ、あいつ楽しんでる! みんな殺された。殺された! 目の前で! 血を吹き出して!」

殺されてしまったと何度もうわ言を呟く男を見て、私は司令部を飛び出した。ホルダーに入れた拳銃の残弾は三ある。充分だ。

「他にも向かわせるが、直ちに捜索を……ってフィッツロイ!?」

隊員が私に呼び掛けるのをもう行くと雑に返して、廊下を駆け抜けた。事情を察した隊員たちが端に避けていく。

こんな感覚は久しぶりだ。頭は嫌というほど冴えている。心臓も忙しなく血を送っている。だというのに、血が通っていないかのように指先から温度がすっと引いていく。

「クソッ!」

言いつけを守り自主練をしているだろうガキの死体が思考の隅にちらついて、自分の足を力任せに叩いた。




「もういいかーい」

不気味な笑い声が背後から響く。微かな音も立てないようにとまばたきすら忘れて、木の影で必死に息を圧し殺した。

「どこにいるかなぁ」

見つかれば死ぬ。それだけは確実だ。

師匠と入れ違いに現れた全身が血塗れの男。

すぐに師匠やジェドが教えてくれた、LOSTとかいう敵だとわかった。恐らくすでに数人殺したあとだ。そこに師匠も含まれていないといいが。

持ち前の逃げ足で隠れることには成功した。ただ、木の後ろでずっと見つからないというのも無理な話だ。現にここまで追ってきている。……足音が止んだ。

様子を窺うしかないと幹から顔を覗かせた瞬間、手のひらが俺の首に絡まった。

「見つけた」

「あ"っ……!」

息ができるかできないか微妙な力で絞まるそれを引き剥がそうと指をかけたが、相手は片手でおれの首を掴む大人の男だ。引っ掻くばかりでろくな抵抗にならない。

肩にかけたライフルが地面に落ちて音を立てる。にやついた顔でおれを見る男にこれで一発でもお見舞いしてやりたかった。

「第2LOSTってさ、みんな能力持ってんの。知ってる?」

そう言うとおれの顔を地面に押し付け、膝の裏に馬乗りになった。首の圧迫感がなくなって息を吸い込むと、男にべったり付いた生臭い血のにおいが鼻をつく。

「は、しらね、あ"あ"あ"!!」

腕が熱い、と思ったとたん痛みが頭を支配して、目の前の青々とした雑草は真っ赤に濡れていた。おれの左腕を貫通したらしいナイフが土まで深く刺さっている。

「もっと叫んで怖がってよ。これから死んじゃうんだし」

男は楽しそうに笑って、おれの背中を拳で押さえつけた。さっきとは違う息苦しさに呻くと次は背骨を指でなぞられる。嫌な感覚に体を捩るが、腕は縫い付けられて足は男の体重で動かない。

「原理とかわかんないけど、触った人間が弾け飛ぶんだよね。これ俺の能力」

「はッ、それで返り血まみれかよ! 悪趣味サイコ野郎!」

「うんうん。これから威勢なくなってくのが楽しみ」

「い"っ……!」

ナイフの柄を深く押しては、痛がるおれをくつくつと笑う声。人を殺すことに快楽を覚えた男は、師匠が言うように“化物”にしか見えなかった。

「はー……」

「あれ、ぼーっとしてきちゃった?」

「うるせ……」

「やっぱり子どもは脆いな」

「っああああ!!」

出血と痛みで思考が覚束なくなったところに、脇腹へ更なる激痛が走った。男が言っていた能力とやらでやられたのかもしれない。悪態を吐こうにもまともな息ができなかった。

「ほら、ママ助けてーって言ってみて」

「いだ、いたい、いたいッ」

「痛いじゃなーくーて」

傷口を抉る音がうるさい。鉄の匂いで鼻がおかしくなりそうだ。

「てめぇぶっ殺す……!」

息も絶え絶えでなにが殺す、だろう。虚勢を張るのも大概にしろと自分で自分に苦笑した。これじゃ死ぬ前に師匠から見捨てられそうだ。


「よく言ったクソガキ」

銃声とともに地面に降った赤い飛沫はおれの血じゃなかった。

ここ一ヶ月で見慣れたブーツが視界に入って、背中にずっと乗っていた重りを力ずくで蹴飛ばす。木の根に転がったそれはぴくりとも動かなかった。

「生きてるか?」

「しにそう」

これだけ血が出てるのにニヤッと笑って言う師匠に腹がたつ。しかしそれを怒る力もないので黙るしかない。ナイフごと腕に布を巻くまでが笑えるくらい丁寧で鳥肌が立った、なんていうのは言わないほうが身のためだろう。

「いまジェドが手術の準備を……待て、何してる」

応急措置を終えた師匠は、信じられないものを見るような目でおれを見ていた。それもそうだ。おれは落ちていた拳銃を辛うじて無事な右手で握り締めていた。

「あとしまつ、だよ」

「やめろっ――!」

乾いた銃声は師匠の顔の横を通り過ぎ、後ろに立つ男の頭部に命中した。

第2LOSTが絶命した場合、数分程度で第1LOSTへ移行する。ジェドが教えてくれたことだった。これであの男はやっと永遠の死を迎えたのだ。

「なに、殺すとでも思った」

「……クソガキ。撃つ前に言え」

第2LOSTでさえ、急所の頭部を破壊すれば確実に殺すことができる。そしてそれを知らないはずがない師匠が頭部を撃ち損じて、しかも気付かなかったというのはおれにとって不思議なことだった。

なぜ一発で仕留めなかったのか、そう聞く前におれの意識は煙のようにふっと消えていた。




ここ数日の昼の患者が少ないのをいいことに私は夜勤を申し出た。いつもはコーヒーを淹れるのだけれど、今晩のお供はホットミルクだ。

橙色の暗い照明だけが照らす廊下を歩いて、ひとつの病室の前で足を止める。報告書だけ残して消えたと司令部が騒いでいた彼女は、恐らくここにいるだろう。

扉を開いて踏み入ると、やはりそこには見知った顔があった。任務のたびにぼろぼろにして帰ってくる制服が、また新品に変わっている。

「寝なくていいの?」

驚いた様子のミシェルに湯気の立つコップを渡す。彼女は小さく頭を振った。

「あとで時間が空いたときに寝る」

「そんなこと言って、明日……もう今朝には任務じゃないか」

サイドテーブルの置き時計は夜という時間をとっくに過ぎて、本部は静まり返っている。秒針が静かな部屋によく聞こえた。

「任務に出たら、このアホ面がしばらく見られないだろ」

切り傷や瘡蓋が目立つ頬をつつきながら彼女が言う。つい私は口元を抑えて笑ってしまった。

「要するに心配なんだよね」

「お前は……もういい」

昨日ミシェルがカルンを連れ帰ったときは、こちらが卒倒するかと思ったのである。血だらけだし、怪我は酷いし、ベテラン看護師がドクター!と私の背中を叩いて喝を入れたくらいだ。

幸い命には関わらなかったにしろ、こんな無茶は金輪際辞めてほしい――というのも、きっと無理なのだろう。彼女が戦場に生き、少年がその背を追う限り。


「……ここ、どこ」

眠り続けていた少年の声。それに反応したのはミシェルが早かった。

「起きたかクソガキ」

「ちょっとミシェル乱暴……カルン、ここは病室だよ」

安心しきった顔のくせして、今まで握っていた手をパッと離すところがなんとも彼女らしい。

カルンの目にかかる前髪を払って額に手をあてる。熱は少しあるが、経過は良好だった。

「気分は? 悪くない?」

「へーき……嘘ついた超痛いかも」

「だろうね。麻酔も切れてるし。痛み止め入れるよ」

まだ意識がはっきりしないようで、カルンはぼそぼそと呟くように記憶をたどっている。

横でなに食わぬ顔をしているミシェルは、膝の上で拳を強く握り締めていた。傷がつく前にと指先をほどいて、代わりに手すりを掴ませる。

怒っているときなんて触れただけで爪を立てるのに、凹んでいるときはいたずらが主人にバレた犬のように大人しい。彼女はそれに気付いているだろうか。


「師匠もおれを捨てる?」

少年の中で何をどこまで整理したのか、私にはわからなかった。投げかけられた言葉はそれだけだったから。

「捨てない」

ミシェルが勢いよく立ち上がり、木製の椅子が大きな音を立てて床を転がった。きっとこれは拾ったミシェルと拾われたカルンの間でしかわからないことで、私が口を挟めるようなものではないのだろう。

「弱いよ、おれ」

「私の教え方が悪いって?」

「おれの出来が悪いんだってば」

「お前の親が言ったのか」

私が決して踏まないようにしていた脆い境界線を、ミシェルがあっけなく越えた。見開いた瞳が恐怖に染まっていく。

「そう言って、お前を捨てたのか」

カルンは決して馬鹿じゃない。普段から頭の回転が早く饒舌な少年が黙り込むのは、すなわち肯定の意だ。

「また捨てられるくらいなら死んだほうがマシだとでも?」

「何のこと?」

「あの時LOSTがいなければ撃ったのはお前自身だった」

「どうしてそう思うんだよ」

「後始末だと言ったからだ」

それを聞いた途端に、カルンはベッドの手すりを思い切り叩いた。

「……知ってて外したなババア」

ミシェルのほうが何枚も上手で、惨めで堪らない。

事情を知らない私にもそんな悔しさは伝わってくる。動けば傷が開くなんて野暮な警告はできなかった。

「歯ァ食いしばれ」

そう言って平手どころか拳を振りかぶるものだから、私は慌てて彼女の名前を呼んだ。

「ミシェル!」

目を瞑ったカルンを襲ったのは確かに大きな衝撃だったと思う。なにせあの彼女が壊れ物を触るように、そっと頭を撫でていたからだ。

「いいか、カルン。二度とするなよ」

杞憂でよかった半分、こちらまで気恥ずかしくて見ていられない。呆けて落としてしまったカルテを取ると不格好に角が欠けていた。

いつぞやに頭はどうやって撫でるんだと聞いてきたときは野良猫に情でも沸いたかと驚いたけれど、まあ、野良猫といえば野良猫だったのだ。

そんなに愛しそうに名前を呼んでしまえば、もう野良ではないのだけれど。

「……しねーよバァカ」

それきりカルンは毛布を頭から被って黙ってしまった。

ミシェルもミシェルで挨拶すらなく病室を出てしまい、残されたのは私と毛布にみのむし状態のカルンだけ。

「よかったね、カルン。ところで、いつから師匠って呼ぶようになったの?」

「ジェドきらい」

「ええ、ひどいなあ」

朝を迎えた窓から、ほのかな光が射し込む。この陽がカルンにどう見えているのか、その瞳の力さえ私はまだ知らない。


少年と出会ってから、やっと一ヶ月が経とうとしていた。



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