第4話 具現・殺戮-3
それから泰智は別室に案内された。
泰智のアバターメイクを解析している間に色々と質問をされ、一つずつ答えていくと係員も今回の事は単なる事故だったと理解してくれたようだった。
一時間ほどのデータチェックが行われ、泰智のアバターメイクには違法な改造はされていないことが証明された。
疑惑は晴れたが、この後の大会をどのように進めるかでまた場は揉めることとなった。
残り時間と両キャラクターの残りヒットポイントから考えると泰智が勝っていた可能性が濃厚だが、ゲームが中断してしまった以上そこから勝敗を断定することは難しかった。
普通ならばこのような際には再試合が行われるのだが、肝心の岩田のアバターデータが消滅してしまっているのでそれもできない。
アーノルドのデータ復旧を待とうという話になったが、不幸なことにデータの復旧は困難だということだった。
岩田が一度帰宅してバックアップデータを持ってきたのだが、それを用いてアバターメイクへデータ転送しようとすると原因不明のエラーが出て正常に動作しなかった。
岩田はよほどこの大会に賭けていたのか、新しくアバターメイクを購入してそこに改めてアーノルドのデータを転送するとまで言い出した。
係員がそのことを泰智に伝えると泰智もそれを承諾した。
岩田のデータ破損に少なからず負い目を感じていたというのもあるし、このまま試合が有耶無耶のままに終わるのは泰智にとっても煮え切らない結末だった。
だがそこまで意気込んだ岩田の期待を裏切り、新しく購入したアバターメイクに対してもパソコンは原因不明のエラーを吐き出した。
様々な手法が試されたが、結局アーノルドが復活することはなかった。
まるでアーノルドという生命が完全にこの世から消滅したかのようだった。
アーノルドでの大会参加が絶望的となり、岩田はやりきれない悔しさに歯噛みしながらも渋々大会の辞退を決めた。
事実上の棄権扱いとなったわけだが、色々と考えた結果、泰智もまた二回戦進出を辞退することにした。
このままトーナメントを進めてもどこか後ろめたい気がしたし、当初の目標である一回戦通過が叶った以上、それでよしとすることにした。
会場から去る際にもう一度岩田に謝罪をして、泰智は重い足取りで帰路についた。
試合に勝利したという満足感など微塵もない、苦々しい気持ちだった。
会場を出る頃にはすっかり夕暮れ時になっていた。
「はあ……ついてないなぁ」
落胆しながら泰智は溜息を吐いた。
心待ちにしていたベルの公式試合第一戦はなんとも言えない微妙な結末で幕を下ろした。
最後の超必殺技がヒットしていたし、残り時間も数秒しかなかったことを考えるとあの試合は泰智の勝ちと考えていいのだろうが、結局二回戦にも進めず、もしや他人のデータを破壊してしまったのではないかという自責の念も少なからずあった。
大会はあの後どうなったのだろうと泰智は気になったが、何を考えようにも気分は上の空だった。
「まあいいか。また来年出ればいいんだし」
もともと今回は泰智にとって腕試しのような参加だった。
去年観戦しに行ったメイキングファイター決勝戦のあの雰囲気。あの熱気。
魂を震わせるようなあの歓声に少しでも近いものを感じてみたくて大会へ参加したのだ。
それ以上のものは求めていない。試合前の緊張感や興奮に触れることはできたのだから、今回はそれで納得しよう。
そう考えながら泰智は閑静な住宅街へと入った。駅から自宅までのちょっとした近道だ。
昼間は子供たちが走り回っているのだろうが、陽が落ち始めたこの時間帯では周囲に人気はほとんどなかった。
そこへ、前方から二人の男が歩いてきた。
二人とも黒いスーツ姿にサングラスをかけており、服の上からでも盛り上がった筋肉が存在を主張していた。
「――止まれ」
すれ違うだけだと思っていた泰智は、男が発した言葉が自分に向けられたものであると気づけなかった。
「え?」
だが二人の男が自分の目の前で歩みを止めたことで、ようやく泰智も今の制止の声が自分を呼び止めるものであったことを理解した。
「横山泰智だな?」
「え、あの……?」
「どうなんだよ?」
男たちが交互に泰智に話しかけてきた。
「あ、は、はい。そうです……けど」
手を伸ばせば触れられる距離まで近づいてみると、泰智と男たちの体格はまさに大人と子供だった。
泰智が低身長であることを除いても男たちは背が高く、まるでその筋の人間のように威圧的な風貌だった。
見知らぬ強面の男二人にいきなり呼び止められた泰智は僅かに怯えながら、思わずじりじりと後退してしまう。
「今日開催されたメイキングファイターの大会に出場したな?」
「は、はい」
「間違いねえ、こいつだぜ」
男たちはなにやら納得したように泰智をじろりと眺めた。
ただならぬ雰囲気に泰智が逃げ出そうと後ろを振り向いたとき、背後から新たに二つの足音が近づいてきたことに気がついた。
「おい、逃がすなよ?」
「はい。大丈夫です」
後ろからは別の二人組が泰智の退路を断つように近づいてきていた。
皆同じように黒いスーツにサングラスを着用しており、もうどう見ても堅気の人間には見えなかった。
屈強な男四人に周囲を囲まれた泰智はたちまち恐怖に竦み上がった。
「あ、あの、僕、お金もってません……!」
カツアゲなら別にそれでもいい。とにかく泰智は突然訪れたこの窮地を脱したくて堪らなかった。
「おい、本当にこんな弱っちい奴がデバイサーなのかよ? 俺でも楽勝で殺せそうだぜ」
「黙ってろ。――君、アバターメイクは持っているな?」
「ア、アバターメイク……?」
「お前らが大好きなおもちゃだろうが。さっさと出せよコラ」
「おいマジで黙れ。――君のアバターメイクに用がある。見せてもらっていいか?」
「そ……それは……」
泰智は咄嗟にポケットに入れているアバターメイクを右手で抑えた。
金銭を取られるのはまだ我慢できても、アバターメイクに何かされるのはどうしても嫌だった。
この中に入っているベルは泰智にとってかけがえのない分身……云わば家族のような存在だ。
いくら脅されても、これをこんな危険そうな者たちに渡したくはなかった。
泰智がアバターメイクを出すのを渋っていると、先程から乱暴な口調で泰智を威嚇している男が苛立ったように一歩泰智の方へ近づいてきた。
「めんどくせえ。もう攫っちまおうぜ。その方が手っ取り早いだろ」
「…………そうだな」
「ひっ!」
日常会話の一環のような気軽さで飛び出た『攫う』という言葉に泰智は息を呑む。
もはや疑う余地もなく、この男たちは泰智に何らかの危害を加えようとしている。
攫うということは、もしや誘拐? 身代金の要求材料にされるとでもいうのだろうか。
「う、うわあああああ!」
あまりの恐怖に脇目も振らず駆けだす泰智。
「おっと、逃がすわけにはいかねえな」
だが周囲を囲まれている上に体格でも圧倒的に劣っている泰智は容易く男の一人に腕を掴まれ取り押さえられる。
力強い男にガッチリと掴まれては、泰智の力では到底抜け出せなかった。
「ぼ、僕の家はそんなに裕福じゃありません! 僕を誘拐しても身代金なんて払えません!」
「うぜえガキだな。二、三発殴って黙らせようぜ」
「よせ。ギア・デバイサーかもしれないんだぞ。極力、手荒な真似はやめろ」
「おい、車をこっちまで回せ。彼には車の中で事情を説明するぞ」
「解りました。すぐもってきます」
「うわあああああっ!」
誘拐されるという恐怖に、泰智は泣き叫ぶしかなかった。
いくら人気が少ない住宅街とはいえ悲鳴が周囲へ響くのを避けるためか、男の一人が右手をきつく泰智の口許へあてがった。
「もが! もががっ!」
「暴れるなこのクソガキ。あーくそ殴りてえ。なあ、一旦眠らせちまわねえか?」
「そうだな。このまま騒がれても面倒だ。おい、あれ持ってるか?」
そう言うと男の一人が懐から怪しい錠剤の入った小瓶を取り出した。
会話の内容からそれが睡眠薬であると泰智にもすぐに察しがついた。
小瓶から三錠を取り出し、男はそれを泰智の口の中へ放り込んだ。
「んぐぅ!」
なんとか呑みこむまいとする泰智の抵抗も空しく、ガクガクと頭を揺すられた衝撃で錠剤を呑みこんでしまう。
「よし、運ぶぞ」
泰智が薬を呑みこんだのを確認した男たちは泰智をしっかりと拘束したまま強引に歩かせた。
車のエンジン音が聞こえてきて、先ほど車を用意しに行った男が戻ってきたのだと判った。
――僕は……これからどうなってしまうんだろう……。
恐怖と涙で滲んでいく視界。
泰智はこの後の自分の行く末を想像する。
このまま男達に連れ去られ、涼子は莫大な身代金を要求されるのだろうか。もし要求額を払えなければどこかの国に売られたり、臓器を売られたりするのだろうか。
そんな恐ろしい想像ばかりが頭を駆け巡る。
――いやだ。助けて……誰か助けて……!
藁にもすがる思いで泰智が祈ったそのとき。
――ザッ。と、泰智の視界にノイズが走る。
テレビが故障したような鋭いノイズが数回続き、次の瞬間、泰智の頬を何か得体のしれない風が掠めていった。
それは銀色の風だった。
否、よく目を凝らしてみると、それは文字列だった。
脈絡のない記号や数字の羅列。細やかな記号の連なりが蛇のようにうねりながら宙を泳いでいた。
しかも一つだけではない。幾つもの似たような文字列が泰智の周囲に現れて、それらは規則性をもって一箇所へと収束していく。
――なんだ、これ。
やがて文字列は密集し何かを形成していく。
――人……?
文字列がある程度形になってきたところで、それが人の姿を象られていっていることに泰智は気がついた。
足首から次第に膝が構築されていき、それとは別に右手の指先が、細やかな頭髪が、銀色に輝く文字列によって輪郭を露わにしていく。
異様な光景だった。どこからともなく現れた謎のコードが、独りでに人の姿を形作っている。
――だが何よりも奇妙なことは、その光景を男たちが全く気にしていないことだった。
日常では有り得ない現象がすぐ隣で起こっているというのに、彼らはそちらを向こうともしない。
そしてついに文字の彫像が完成したとき、出来上がったその造形に、泰智は瞠目した。
「ベ、ベル……?」
「あん?」
泰智の呟きを聞き咎めた男たちが、泰智の凝視している場所を見やる。
「どうした?」
「知るかよ。いいから早く車に乗せちまおう。誰かに見られると面倒だ」
男たちはすぐにその場所から視線を外して、車の方へ泰智を引きずるように連れていく。
そこには何の動揺も驚愕も窺えない。彼らにとって今この状況は何の異常もないのだ。
「――」
だが泰智には……泰智の視界には、決して正常とは言い難い光景が写り込んでいた。
白金のように煌めき、しかし真綿のように繊細な銀の髪。
透き通るような純白の肌。全身を覆うクロムシルバーのメタルスーツ。そして見事に整えられた美麗な顔立ち。
見間違えるはずもない。紛れもなく、ベルがそこにいた。
泰智たちからほんの数十センチメートルしか離れていない場所にひっそりと佇んでいる。
その姿はあまりにも幻想的で、美しく、まるでそこだけ絵画を張り付けたかのように周囲から浮いていた。
そんな少女がすぐ傍らにいるのだ、男たちが気づかないはずはない。
だが彼らはベルに目線を向けようともしなかった。
――この人たちには……見えてないのか?
あるいは、自分こそがおかしくなってしまったのかもしれない、と泰智は思った。
男達に誘拐されそうになっている恐怖から、おかしな幻覚が見えているのだろうか。
まどろむ様な意識の中、泰智はベルの視線がそっと自分の方へ向くのが見えた。
《命令を》
姿だけでなく声まで聞こえてきた。
だが相変わらず男たちには聞こえていないようだ。
幻覚だけでなく幻聴まで聞こえたとなると、いよいよ泰智は自身の状態の健全性を疑った。
よもや先ほど呑まされた薬がさっそく効果を現し、自身の意識を不明瞭にさせているのだろうか、と。
「――め、命令?」
《私の機能を定義してください。私はその機能を属性として継承します。私に命令を》
「おい、こいつなんか変じゃねえか? 急に黙りやがったぜ」
「まさかもう薬が効いたのか?」
「なんでもいいぜ。ほら、さっさと車に乗り込めガキ」
気がつけばもう車の前まで連れていかれていた。
三人の男が泰智を抱きかかえるようにして背を押し、車内に乗せようとしている。
運転席には既に一人の男が座っており、いつでも車を発進させられる状態にある。
この中に乗り込んでしまえば、もうどこへ逃げることも叶わない。
「ベル……」
《はい》
錯乱した脳内ではもう何も考えられず、ただ動物的な本能から、泰智はすがるようにベルへと手を伸ばした。
――助けて。ベル……助けて!
《はい》
――視界を一筋の閃光が過ぎ去った。
途端、右肩にのしかかっていた重圧が消えた。
泰智が視線を右肩へ向けると、先程まで肩を押さえていた男の手が弧を描きながら宙を舞っていた。
「……え?」
呆けた声は誰からともなく発せられた。
その場にいる誰も、いま起こった出来事を正確に把握できなかった。
――実際に左腕を斬り飛ばされた男ですら。
「――あ、あぁ……ア……ああああああああああああああっ!!」
だが理解よりも早く、左腕に襲いかかる激痛が男に事実を宣告した。
腕を切断された男が痛みとパニックに悲鳴をあげるのを聞いて、他の男たちの意識も覚醒した。
「な、なんだ! どうしたんだよ!」
「う、腕がああァああぁっ!」
「落ち着け! どうなってる!」
斬り落とされた腕から噴き出る鮮血を浴びながら、男たちは阿鼻叫喚して狼狽え続ける。
誰もがいま何が起こったのかを理解できていないようだ。
だが泰智にとっては、何が起こったのかなど明白だった。
振りぬかれた銀の剣、『ミルキークォーツ』。
ベルがその手に携える鋭利な輝きこそがなによりの証明だった。
だが彼らは全く事態を把握できていない。刃物を右手にくゆらせる少女になど目もくれず、ただ説明できない現象に怯えていた。
そこへ、ベルが再びミルキークォーツを振りかざす。
「ま、待っ――」
制止の声も間に合わず、ベルのミルキークォーツは、腕を失くして地面にのたうちまわる男へと無慈悲に振り落とされた。
ザシュ、という聞いたこともないような音が響き、次の瞬間には男の頭は宙を舞っていた。
一太刀で首を両断したミルキークォーツの軌跡が、血の半円を住宅街の壁に刻む。
それを目にした男たちの表情が恐怖に歪む。
「ギアだ! ギアを出したんだ! こいつはやっぱりギア・デバイサーだ!」
そう言うと男達は次々と懐から拳銃を取り出した。
だがその銃口は一箇所に定まることなく、両手の中で怯えたように震えるだけ。やはり彼らにはベルの姿が見えていないのだ。
錯乱する男たちを置き去りにしてベルが疾走する。
実際に見えていない男たちどころか、泰智にすら目で追えない程の速度で一瞬にして男に肉薄したベルは、躊躇なくミルキークォーツを男の腹部へと突き刺した。
「ぅぐおああ!」
突き上げられた男の身体が宙へ浮く。
銀の剣に貫かれながら、そのまま男の身体が空中で停止する。
逆流した血液が男の口から吐き出され、それがベルの顔へと拭きかかった。
「ここだ、ここにギアがいるぞ!」
たとえ見えていなくとも、その異常な光景からそこにベルがいると残りの者達にも判ったのだろう。
残った一人と、運転席にいるもう一人が同時に拳銃の銃口をベルの方へと向ける。
だがベルの斬撃の方が遥かに速かった。
ベルは男の腹部に突き刺したまま、ミルキークォーツを横薙ぎに振り払った。
奔る白刃。突き刺していた男の腹部もろともに、ミルキークォーツはその隣で銃を構えていた男の両腕をも切断した。
「ぐああああああああ!」
見えない刃に斬りつけられた男はもはや戦意喪失し、やにわに悲鳴をあげながら逃走した。
運転席にいた男も慌てて車のエンジンをかけ、逆方向に車を発進させようとする。
それを鉄面皮のまま眺めたベルは、斬り落とされた腕の中に収まっていた拳銃を拾い上げた。
そのまま銃口を男の背に向けて構え、緩やかに引き金を絞った。
乾いた音が響くと、逃走していた男が前のめりに倒れ込む。
そこへ淀みなく二発、三発と銃弾を撃ち抜くベル。
男の息がないことを感じ取ったのか、ベルは用済みとなった拳銃を投げ捨て、走り去る車へと視線を向けた。
「うっ……!」
あまりの惨状に、泰智の喉元へ苦いものが込み上げてくる。
周囲に飛び散った大量の血液。三つの屍。
――その地獄を生み出したのが他でもない、自分が愛情をこめて作りあげたベルと同じ姿をした少女なのだという事実が、何よりも泰智を揺さぶった。
泰智を拉致しようとした四人組の最後の一人。車で逃走をはかった男に向かって、ベルはミルキークォーツを上段に構える。
《オーバーブレイクコマンドを発動します》
ベルが何をしようとしているのかは泰智には判らないが、その身体から発せられる無機質で冷たい殺意が、最後の男を抹殺すると告げていた。
――や、やめて……。
ベルと車は直線上。車が住宅街を抜けるにはまだ遠い。逃れようもない距離――。
「ベル! やめて!」
今にもミルキークォーツを振り抜こうとしていたベルの両手がピタリと止まる。
ベルはそのまま、ゆっくりと泰智の方へ向き直った。
「――ひっ!」
その姿に泰智は戦慄した。
おびただしい返り血にまみれ、髪も肌もスーツも、全てを鮮血に染めたその姿には、泰智があれほど見惚れた美しさの面影など微塵もない。
血に濡れた剣を携えながら、無残な残虐の跡地に佇むこの少女は、今の泰智にはただ畏怖の対象でしかなかった。
「もう……やめて……ベル」
二カ月もの間、寝る間も惜しんで丹精に作り込んだキャラクター……否、ベルは泰智にとってそれ以上の存在だ。
家族のように、自らの分身のように愛したその姿が血に塗れて暗く淀む姿は、泰智には直視に堪えなかった。
ベルは静かに武器を下げると、無言のまま泰智の方へ歩み寄ってきた。
「ひっ――あぁ……」
反射的に後ずさる泰智。
今はただこの少女が恐ろしかった。
泰智もまた男たちと同じように、この得体の知れない少女から本能的に逃れたいと思った。
――そのとき。
ダダダダ、という銃声が住宅街に響いた。
その直後に強烈な爆発音。
泰智が驚いて音のした方を向くと、そこには爆炎をあげながら炎上する一台の車があった。
車はコントロールを失って住宅街の壁に激突し、ほどなく駆動を停止した。
それは先ほど逃走した、男たちの最後の一人が乗っていた車に違いなかった。
いったい何が……泰智がそう考えたそのとき、ベルが視線を別の方向へ向ける。
泰智がその視線の先を追うと、そこには新たな人影があった。
住宅街の民家の屋根の上から地面を見下ろす一人の女性。
紅の髪を風になびかせ、軍服を着こなしている。
一目みて人間離れしていると直感させるその容姿や出で立ちは、ベルと同じ匂いを漂わせていた。
手にはサブマシンガンらしき銃器を携えており、おそらくあれで車を撃ち抜いたのだろう。
その鋭い眼光はまっすぐにベルと泰智を射抜いていた。
――いったい、何が……どうなって……。
一向に事態が解せない泰智の視界が徐々に霞んでいく。
短期間に襲いかかった恐怖と緊張、驚愕や動揺。そして先ほど男たちに呑まされた睡眠薬の効果が出始めたことも合わさって、泰智の意識は急速に沈んでいった。
ふっと膝の力が抜けて身体が地面に吸い込まれる泰智。
その身体を誰かがそっと抱き支える感触が伝わってきた。
意識が完全に途切れる間際、泰智は冷たく硬い金属の温度を感じていた。
「――ああ、そうだ。確かにギア・デバイサーだったよ」
爆炎の狼煙が立ち昇るのを、風鷹は携帯電話を片手に遠く離れたビルの屋上から眺めていた。
緑の短髪が風に揺れる。
まだ幼さの抜けきっていない風貌には、しかし見る者を竦ませる鋭利さが内包されていた
。
『間に合わなかったということ?』
電話口からは若い女の声が聞こえてくる。
「みたいだな。あいつら、俺が行くまでは勝手に動くなと言っておいたんだが、先走っちまったようだ。まあどの道マイカの方が先に到着してたから結局あいつは取られてただろうけどな」
『スメラギ・マイカもそこに?』
「ああ、見えるぜ。なんならここで決着をつけてやろうか」
『駄目よ。今出ていけば二対一。あなたでも危ういわ。ただでさえスメラギ・マイカの能力はあなたと相性が悪いんだから、深追いはしないで』
「ふん。了解。帰還する」
そう言い残して風鷹は通話を切り、再びビルの屋上から地上を見下ろした。
先程まで穏やかだった街並みが一転して喧騒に包まれだしてきた。
どこかで女性が悲鳴を上げているのが聞こえる。
ギアが暴れたのだとしたら、その標的となった風鷹の部下四人の末路は一つしかない。凄惨な虐殺の痕跡に住宅街は騒然となっていることだろう。
「これでまた新しいギア・デバイサーが現れたわけか。いい加減うんざりするな」
風鷹は辟易したように嘆息を漏らす。
「……いつまで続ける気だマイカ。どれだけ足掻いても無駄だ。お前も、その新入りも、全員まとめて消してやる」
憎しみの言葉を紡ぎながら、風鷹は虚空を睨みつけた。