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第六話 黒魔王

本日4話目の更新です

 次に俺が目を覚ますと、目の前にあったのは天井だった。そして自分がベッドの上で寝ているという事に気づく。周囲を見るとここがどうやら病室で、俺がそのベッドの上に寝ている状態にあるという事が分かった。

「お、目が覚めたか」

「起床」

 目が覚めて最初に見たのは、眼鏡野郎とリア充野郎だった。

 端的に言えばドングリとカゲだった。

「うわぁ……」

「おい、なんだその嫌そうな顔は」

「失礼」

「いや、だって考えても見てみろよ。目が覚めて最初に見た顔が野郎二人って……そりゃテンションも下がるわ」

「悪かったな野郎で……っつーか、まあ元気そうで何よりだよ」

「同意」

 ほっとしたような声を出すドングリとこくりと頷くカゲ。この二人が心配してくれていたことぐらいは俺でも分かる。だからこそ、軽口を叩いて大丈夫なところをアピールしてみたのだが……さすがに幼い頃からの腐れ縁もあってからその辺の意思伝達は滞りない。

「……ってそうだ! おい、あれからどうなったんだ? 決闘の方は? 俺は……俺は……」

 こいつらと軽口を叩いていたおかげなのか、ようやく自分がどうして意識を失ったのかを思い出した。アルと戦った後、俺も意識を失ったんだった。

 意識を失う直前、何やら周囲がギャーギャーとうるさかった記憶があるものの、そのまま意識を失ってしまって分からずじまい。

 だが俺が最も心配しているのは、

「…………俺は……勝てたのか……?」

 声が若干震えていたのはどうにも判断がつきにくかったからだ。

 あれは勝てたといってもよかったのだろうか。あの直後に俺も意識を失ってしまったので勝負の決着という物がどうなったのかが把握し切れていない。

 ドングリとカゲは二人して顔を見合わせて、難しそうな表情をしていた。

 そして少しの沈黙の後、ドングリが説明に入った。

「まずはじめに、あの勝負が終わったあと闘技場は大混乱になってな。世界を救った勇者様とお前がガチバトルをおっぱじめやがった上に勇者様を一撃とはいえ叩き潰しちまったんだからな」

「あれから三日経ったけど、未だに色々大混乱中」

「そもそも、あの卒業生主席・次席の決闘っつーのは基本的にあんなガチバトルをするためのもんじゃねぇ。卒業生の首席と次席がそれぞれの六年間の努力の結晶を披露するための場だ。形式的に決闘とは呼んでいるが、それぞれが学んだ魔法や剣技を披露してそれでおしまい。それが普通。まあ、演舞とか演劇? とか、そういう類のもんだな。よって、基本的にあの卒業式の決闘に勝敗は無い」

「勝ち負けを正式に決める人はいない。だから……勝敗を決めるのは、アキトとアル二人の意思」

「当人同士がどっちが勝った、どっちが負けたかを決めるしかないってことだ。第三者に頼もうにも、相手が勇者じゃどうしても意見は勇者寄りになっちまうしな。以上、説明終了」

 …………言われてみればそうだった……。

 勇者と本気の決闘をしようとすると、どうしてもめんどうな事になる。

 だからこそこの学園の卒業式のシステムを使わせてもらったのだが……こういう場合はどうやって勝敗を決めればいいのかをまったく決めていなかった。

「はぁ……どうしよう……」

「どうしようもこうもねぇだろ、バカ。それぐらい考えとけ」

 今回は言い返そうにもそれが出来ないのが悔しい。

 でも、本当にどうしよう。あの勝負、俺は勝てたのだろうか。それとも……負けたのだろうか。

「そういえばアルは……」

「ああ、あいつならあの後運ばれて、勇者パーティの人に回復してもらってたよ」

「あの魔法使い、かなりヒステリック」

「だよなぁ。お前のことを殺しかねない勢いだったぜ。相変わらずうるさかったな、あの女」

 この五年の間に勇者パーティの面々と顔を合わせることはあった。特に魔法をメインに使うとある少女はアルに惚れていて、そんなアルを倒そうと頑張っている俺のことを快く思っていなかったのは知っている。

「んでまあ、アルはあの後お前が目を覚ましたら呼んでくれって言い残してどっか行った」

「もう呼んでるけど」

 どうやらカゲは既に自分の影を人型にしてアルを呼ぶために飛ばしているらしい。

 となれば、もうすぐアルが来るかもしれない。

「ッ……」

 体を起こそうとすると、体中に痛みが走った。金色の魔力の拒絶反応のおかげで体にはかなりのダメージが蓄積しているようだ。

「おい、あんまり無茶するなよ」

「まだ安静にしておくべき」

「とはいってもな……アルが来るんだろ? だったら、俺だけベッドで寝てるのって……なんだか悔しいだろ」

「また変なところで意地を張るなお前は」

「呆れる」

 本当に呆れているのか、二人は呆れたようにため息をついた。

 うるさいな。とにかく負けたくないんだよ。あいつには。

 とかなんとか考えていると、不意に病室の扉が開いた。

 そこに立っていたのは、もう傷を完ぺきに直したアルの姿だった。あの時、思いっきりバッサリと斬ったのでちょっと心配だったんだけど……怪我が無さそうでよかった。

「さて、俺らは邪魔みたいだから出ていくか?」

「了解」

 グリカゲの二人は静かに病室を出ていき、残ったのはアルと、やせ我慢をしてアルの前に突っ立っている俺だけどなった。カーテンの隙間から差し込んでくる日の光のおかげで、まだ時間的に昼間なのだということが分かる。

 しばらく病室の中を沈黙が支配していたのだが、先に口を開いたのはアルだった。

「……怪我は大丈夫なのか?」

「まあ、一応な」

「……そうか」

「……………………」

 何を言えばいいのか分からず、互いに黙り込んでしまう。

 どうやら窓は開いているようで、入ってくる風がカーテンを揺らし、病室内に外の新鮮な空気を送り込んでくる。

 窓の外のすぐ傍にある木々が風に揺られており、爽やかな風と共に音を運んでくれていた。

 沈黙内の病室ではその音はより一層際立って聞こえてきており、それが気まずさを加速させる。

 俺としてはあの決闘がどうなったのかを早急に話し合う必要があるのだが、あの日の決闘は最終的にどういう事になったのかイマイチ覚えていない。

 だから俺から切り出すのはどうにも躊躇われる。しかし、このままずっと黙っているわけにはいかないだろう。とりあえず何か話そうと口を開こうとした瞬間、

「アキトの勝ちだ」

 まるで先手を打つかのように、アルがそう言った。

「…………そうなのか?」

「ああ。あれは紛れもなくアキトの勝ちだよ。…………完敗だ」

 俺はアルの言葉に思わず頬をかいた。アルは完敗と称したものの、結局最後の一撃まで俺はアルにぜんぜんダメージを与えられていなかった。最後の一撃が決まったのはあれはおそらく運が良かったからだ。

 あの時たまたま、『白い救世主ホワイトセイヴァー』に宿った過去の勇者の魂が俺の事を助けてくれなかったら、負けていたのは俺だ。

「……なら、ありがたく頂いておくよ」

 ここで下手に遠慮して「やっぱりアキトの負け」なんて言われたら(言われないだろうけど)大変なことになるからな。

「君のアリスに対する想いには、本当に……負けた。だから、私はアキトに負けたのだろう。これは君の勝ちだ。約束通り婚約も取り消す。だから胸を張って、アリスを迎えに行ってやってほしい」

「……? 何言ってるんだアル。迎えに行くのは俺じゃなくて、アリス様の好きな人だろう?」

 俺はきょとんとした顔でそういいつつ、自分でもなんだか悲しくなってきた。

 そうなんだよなぁ……アリス様には他に好きな人がいて、それは俺じゃないんだよな……はぁ。畜生。いくら彼女の幸せの為とは言っても、やっぱりちょっと悲しい。

 後悔なんて微塵もしていないけど。

「…………………………………………いや待てアキト。君は本当に、気づいていないのか?」

「は? 何が」

「いや、だから……」

 と、アルがまた何か意味の分からない事を言いかけたその時。


「――――――――!」


『ッ!?』

 聞き間違えようのない声が。

 アリス様の悲鳴が、聞こえてきた。


 ☆


 アリスはあの決闘の日以来、気が気ではなかった。

 自分のために戦ってくれたあの少年の安否が気がかりだった。

 しかし、学園も卒業して王族としての公務を習い始めなければならなかった。だからお見舞いに行こうにもなかなか抜け出すことが出来なかった。

 アリスはこの五年で魅力的な少女へと成長した。その美貌が憂いの表情をしていると、周りの若手の騎士たちが見惚れるほど。

 そんな周りの様子に気づくこともなく、アリスはとある少年の事を思いながらため息をつく。彼女の手にはあの時、アキトと出会った時彼に読んでもらった絵本があった。あの決闘の日にアキトが倒れてから肌身離さず持ち歩いている。お守り代わりとして。

 医師の話ではアキトは体全体にダメージを負っており、回復には少しの時間がかかるそうだ。勇者パーティの魔法使いに彼の治療を頼もうとしたが、頑固な姿勢で拒否している。

 そして決闘から三日経ったある日。

 ついにアキトが目覚めたらしく、カゲの『影の軍隊シャドウアーミー』によって作り出された影人形が連絡してきてくれた。

 いてもたってもいられなくなったアリスは侍女の制止を振り切って治療室まで駆け出して行った。アキトには話したいことがたくさんある。伝えたいことがたくさんある。今日はそれをぜんぶ伝える。

 そのために走る…………いや。

 走って、いた。

 彼女の足は自然と止まり、体全体が動かなくなっていた。

(えっ……?)

 動きたいのに。今すぐにでも駆けつけたいのに。それなのに、体が動いてくれない。

 じわりじわりと黒い『何か』がアリスの体を包み込んでいた。

 まるで得体のしれないモノに自分が塗りつぶされていく感覚。

「――――――――ッ!」

 彼女に出来たのは。

(アキトくん………っ!)

 自らが想いを抱く少年の名を、心の中で呼ぶことだけだった。


 ☆


 アリス様の悲鳴を聞いて、俺とアルは同時に部屋を飛び出していた。そしてすぐにグリカゲの二人が駆けつけてくる。 

「おい、今の悲鳴……」

「間違いない、アリス様の声だ! 一体なにが……ッ!?」

 俺は体のあちこちから強烈な痛みを感じ、思わず顔を苦痛に歪めてしまった。今はそんな場合ではないのに、走る速度もガクンと落ちてしまう。

「アキト。お前はまだ……」

「あんまり無茶すると、また傷が開くぞこのバカ」

「んなこと……言ってる場合じゃねーだろッ……!」

 痛みなんて我慢すればいい。痛みを訴えてくる体を無理やり動かし、俺は懸命に走り続けた。彼女にもしものことがあったらと思うと考えただけでも恐ろしい。

 そんな得体のしれない恐怖に身を震わせながら俺は必死に走った。走り続けた。グリカゲの二人はそんな俺の意思を汲み取ってくれたのか、もう何も言わず、アルは俺の方にチラリと視線を移して、そのまま何も言わないでくれた。俺たち四人はアリス様の悲鳴のした方に走り続けた。だが、唐突にその足は止まる。

 ゴォッッッッッ!! と、膨大な魔力によって、俺たちのすぐそばの壁が吹き飛ばされた。強烈な衝撃によって吹き飛ばされた俺たち四人は、そのまま壁に叩きつけられてしまった。

 俺は体中に未だダメージが完全に治りきっていないせいか、壁に叩きつけられた瞬間、体中に激痛が走る。

「おい、一体なんだこりゃ……」

「……意味不明」

 グリカゲの二人はどうやら無事のようで、アルに関しては言うまでもないだろう。アルは瞬時に聖剣を現出させて構えて臨戦態勢に入っている。

 俺たち三人も遅れながら、突如として壁を破壊した何かを見極めるべく、土煙の中に潜む影に目を向ける。

「くそっ。はやくアリス様のところに行かなきゃならないってのに……!」

 今、手持ちの武器は……何もない。魔法で応戦するしかないってことか。この影は禍々しい魔力を持っている。油断ならない相手だ。そもそもここは王宮内。その王宮内にどうしてこんな輩がいるのか分からない。でも、なんだ。この感じ。確かに禍々しい魔力を持っている。でも……その中にも優しくて気持ちの安らぐ……そう、アリス様のような魔力を……。

「…………!」

 まさか……! 最初に気づいたのは俺だった。だが、それに僅かに遅れてカゲやドングリも気づく。

「……なぁ、アキト。どうやら俺たちの方から行かなくても済んだみたいだぜ」

 ドングリはタラリと冷や汗を流しながら、やや顔をひきつらせながら言う。

 カゲはごくりと喉を鳴らし、土煙の中にいる人影を見つめていた。

「なにしろ、向こうから来てくれたみたいだからな」

 土煙が、晴れる。いや、晴れたというより斬り裂かれたという表現の方が正しいだろう。

 そしてその中から現れたのは――――、

「アリス、様……?」

 漆黒のドレスを身に纏い右手に禍々しいどす黒い剣を手にした、アリス様だった。

 その目に意識は既になく、虚空を映すのみ。彼女の周囲は黒い邪悪な魔力が渦巻いており、まるで魔力そのものが意思を持っているかのようだった。

「……………………………………………………………………………………」

 アリス様のその顔からはもうあの笑顔は消えていて。

 俺が好きになった女の子の意識は、完全に別の何かに塗りつぶされていることが分かった。

 驚愕に目を見開いている俺たちだったが、中でも一番の驚きを見せていたのはアルだった。アルは聖剣をぎゅっと握りしめながら信じられないモノでも見るかのような眼でアリス様を……いや、アリス様に憑りついているモノを見る。

「お前は……魔王!?」

 ……魔王、だと!?

「ち、ちょっと待て、魔王ってなんだよアル!?」

「間違いない。アリスに憑りついているアレは、魔王の魔力だ」

「魔王はお前が倒したんじゃなかったのかよ!?」

 俺がアルに問いただす間もなく。

 アリス様は黒剣をすっ、と上に掲げた。

「……『黒魔王デモンセイヴァー』」

 そして、振り下ろす。

 たったそれだけの動作。たったそれだけの攻撃。だがたったそれだけの一撃が、ドッッッ! と目の前の床を文字通り吹き飛ばしてしまった。とてつもなく巨大で邪悪な魔力の一撃が炸裂し、俺たち四人は成す術もなく吹っ飛ばされ、破壊された王宮の壁から飛び出して空を舞う。

「がッ……はッ……ァ!?」

 防御魔法で防ぐ間もなかった。それほど速く、強力な一撃だった。明らかに常軌を逸している。こんなの、ただのニンゲンから生み出せるような魔力ではない。

 仮に防御魔法を発動できたとしても、簡単に割られて終わりだっただろう。アルですら、聖剣での防御が間に合わなかった。

 落下の衝撃を何とか魔法で軽減させた俺たちは、すぐさま体勢を立て直して上からゆっくりと降りてくるアリス様を見据える。落下の衝撃など存在しないかのように軽やかに着地したアリス様。その瞳にはもはや感情は無く、魔王の操り人形と化していた。

 その光景を見た俺はぎゅっと拳を握りしめ、魔王に対する怒りがふつふつと湧くのを感じた。なんだ。なんなんだよこれ。わけがわからねぇ……! なんで、どうしてアリス様がこんなめに遭わなくちゃならないんだよ……!

「ッ……! 魔王、貴様……!」

 アルも同じ思いなのかギリッと歯を食いしばり、魔王の魔力を睨み付ける。

『勇者……貴様に対する恨みは忘れてはおらぬ……よくもこの儂をこうも哀れな存在へと換えてくれたな……! この五年、貴様を忘れた時など一度もない……許さぬ。許さぬぞ。勇者ァァァアアアア嗚呼ぁァぁアアああアァァアァああアァッっッッ!』

 もはやただの怨念の塊へと変化した魔王は、どうやらアリス様の体を乗っ取ることで辛うじて存在を保っているようだった。だがその憎悪は離れている俺たちにも存分に伝わってきて、俺ですら寒気を感じたほどだ。この憎悪を直接向けられているアルは……いったい、どれだけのプレッシャーを受けているのだろうか。

「見たところ、復活したというよりはただの残滓に近い感じなんだが……それでも化け物だな、やっぱ」

 ドングリは眼の前の光景……荒れ狂う邪悪な魔力を見てそう判断した。

「魔王の力の残滓がアリス様の体を乗っ取り、勇者に復讐しにきた?」

「この五年何も無かったってことは、おそらくここまで力を取り戻すのにかかった時間って見るのだ妥当だろうな……っつーか、これ……」

 カゲとドングリが冷静に現状を把握しようと努めているようだが、正直今はそれどころではない。

 暴風のように邪悪な魔力が吹き荒れて、アリス様に近づくことはおろかこのままだと吹き飛ばされそうな勢いだ。

「どうすりゃいいんだ?」

 そんなの決まっている。もう一度、勇者の力で魔王を打ち倒すしかない。

 今度こそ、完全に。

 でも、問題は……あの魔王がアリス様の体を乗っ取っているということだ。アルが何も手を出せずその場で聖剣を構えていることしかできていないということは、おそらく現状どうすればいいのか分からないということだ。

 倒すだけなら出来るかもしれない。だが、アリス様の体を傷つけずに助け出す方法が分からないということなのだろう。

 俺たちがどうすればいいのか分からず手をこまねいているのにもお構いなく、アリス様……否、魔王はその剣を振るう。それだけで闇の魔力の斬撃が生み出され、俺たちに向けて放たれた。通り過ぎた地面を削り、破壊しながら迫りくる。アルは聖剣から金色の魔力を生み出して咄嗟に壁を生成する。闇の魔力と金色の魔力が激突し、スパークを起こしたがそれも一瞬。魔王の力がまだ不完全なせいか、その威力はアルの力に劣っているように見えた。

「アル、アリス様を戻すにはどうすればいいんだ!?」

 良い答えが返ってくるわけがないと思いつつも俺は僅かな可能性を求めてアルに縋り付く。

「…………金色の魔力では……魔王を倒すことしかできない。私が倒した魔王も、その体はある魔族の体を乗っ取っていたものだ。魔王とはそもそも魔力生命体で、やつは他人の体を乗っ取ることで力を得ることが出来る……私たちは当時やつが体を乗っ取っていたその魔族の体ごと魔王を倒した……だから……」

 アルのその声は徐々に小さくなっていき、その声には諦めの色を帯びていた。

 つまりそれは、アリス様の体ごと倒すしかないということ。だけどそれは、アリス様の死を意味するということぐらいこの場にいた誰もが分かっていた。

『勇者ァァアアアァァァアアァアァ!』

 魔王の怨念はアルを目の前にしてさらに増大しているようだった。荒れ狂う膨大な魔力。その狭間で、俺は視た。

「…………ッ!」

 魔王に乗っ取られているアリス様の体が、その魔力に耐えかねているかのように……傷を作り、微かに血を噴きだしていることを。あれは俺が金色の魔力による拒絶反応のダメージと似ている。以前は魔族の体を乗っ取っていたことを考えると、人間の体では魔王の魔力に対する拒絶反応が出てしまうのではないのだろうか。

(いや、そんなことはどうでもいい! あのままじゃ、アリス様が……アリス様が!)

 どくん、どくんと心臓の鼓動が早まる。俺は今までこれほどの恐怖を感じたことがなかった。大切な人を失ってしまうかもしれないという恐怖。それをはじめて感じていた。体全体が震えて、目の前が真っ暗になりかけていた。そのせいか今さら体中の痛みを感じ始めていて、さっき吹っ飛ばされた時のダメージもあってか思わずガクン、と膝を折る。このまま痛みと疲労に任せて倒れかけた……その時、だった。

「おい、倒れてる場合じゃねーぞ」

「倒れるのはあと」

 俺を、ドングリとカゲの二人が支えてくれた。そのおかげで倒れかけた俺はなんとか踏ん張ることに成功し、足を地面にしっかりと踏みしめる。

 都合よく忘れて思い出した痛みのことなどもはやどうでもよくなっており、俺は今度こそ倒れないようにしっかりと目の前の魔王を見据える。

「アキト。受け取れ」

 カゲが自らの影から剣……俺の『白い救世主ホワイトセイヴァー』を引っ張り出す。どうやらとってきてくれたらしい。俺はそれをありがたく受け取ると、鞘から引き抜いた。

「サンキュー」

 あの金色の輝きは既に消失しており、剣は見慣れた白銀の輝きを取り戻していた。

「あ、アキト、どうする気だ!?」

 剣を引き抜いた俺をぎょっとした目で見るアル。

「決まってるだろ。アリス様を助ける」

「無理だ! ああなったらもう……乗っ取られた人間を助ける方法は……」

「やってみなきゃ分からないだろ!? それにアル。お前たちはその魔王に乗っ取られていた魔族を助けようとしたわけじゃないんだろ? だったら、助からない可能性もまた完全にないわけじゃない」

「そうだが……しかし……」

 分かってる。可能性は限りなく低いかもしれない。

 それでも、大切な人が魔王なんかに乗っ取られて黙っていることなんて俺にはできない。それに根拠だってある。あの魔王の邪悪な魔力の中にアリス様の……優しくて、温かい魔力を感じた。だからアリス様は完全に取り込まれたわけじゃないということは分かっている。アリス様は確かあの日の、俺が初めてこの『白い救世主ホワイトセイヴァー』を手にした日に襲撃してきたあの魔族の一件があってからお守りの霊装を持つようになったはず。

 王族に与えられるものなのだからその効力はかなり高い。おそらく、それによってアリス様の意識はギリギリのところで保たれ、だからこそアリス様の魔力を感じられるのだろう。そう考える。今は少しでも希望を求めて戦うしかないのだから。

 相手は魔王? それがなんだ。

 そんなことはそれこそどうだっていい。

 俺はただ、彼女のために戦うだけ。そんなの、はじめからわかりきっていたことじゃないか。俺は剣を構え、そして俺をずっと支えてくれた二人の親友に声をかける。

「悪い……今回はけっこう無茶なことやりそうなんだけどさ。助けてくれないか?」

「は? なに当たり前のこと言ってんだお前」

「今さら過ぎる」

 ドングリとカゲはニヤリと笑うと、それぞれの武器を取り出す。

 俺はその二人に心の底から感謝しつつ――――二人を信じて、アリス様に向かって一直線に駆け出した。アリス様を取り巻く魔王の魔力は触手のように怪しく蠢き、幾数もの刃と成って襲い掛かってきた。空気を切り裂き、殺意をのせて放たれたそれに対してカゲの秘術が発動する。

「させない」

 俺の周囲に人の形をした影が現れた。これはカゲの秘術、『影の軍隊シャドウアーミー』による影の兵隊たち。兵隊たちはそれぞれの手に影の武器を手にすると、俺に襲い掛かってくる魔王の攻撃を片っ端からはじき出している。

 どうやらあの職種のような魔力は威力は高いものの、さきほどの剣ほどじゃないらしい。本当にやばいのはあの黒い剣。あれが一番やばい。魔王は今のところ俺たちの事を取るに足らない相手だと思っているのかあの黒剣を使おうとしない。

「今がチャンスだな。俺たちを舐めているからあの黒剣を使おうとしない。今の間に道を作る!」

 ドングリはそう言うと、巨大ハンマーを取り出して魔力を集約させる。

 学生にしては明らかに桁違いのその魔力量に大気が震え、そして大地が震えた。

「『魔神の一撃デビルインパクト』ォッ!」

 ゴン! と、ドングリがその巨大なハンマーを地面に振り下ろすと、その地面が砕け、破砕し、そして魔力によって生み出された衝撃を生み出した。

 その一撃は魔王の魔力から生み出された刃たちを総べて薙ぎ払い、打ち砕いていく。その衝撃破による破壊で生まれた一本の道。

 二人の親友が創り出してくれた道を、俺たちは一気に駆け抜けてアリス様と対峙した。

 近くで見てもやはり彼女の目に意識はなく、虚ろな瞳だけがそこに在った。

「アリス様!」

 俺はそんな彼女に呼びかける。外からでは無理なら。だったらアリス様が内側から魔王を追い出すしか、アリス様を救う方法がない。彼女の意識はまだギリギリ残っている。なら、彼女の力に少しでもなれるように俺は呼びかけるしかできない。

「アリス様、聞こえていますか! アリス様!」

『五月蠅い……虫けらが!』

 ぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞ!! と、今度はアリス様の周囲を取り巻くようにして人の形をした何かが現れる。見慣れたそれは、俺にある魔法を思い出させた。

(カゲの『影の軍隊シャドウアーミー』!? こいつ、魔法をコピーしたのか!)

 その人の形をした魔力は一斉に襲い掛かってくる。

「くそっ。『白い救世主ホワイトセイヴァー』!」

 魔導書を起動させる。しかし、勇者の魂の力を借りてのアシストはせず、俺はあくまでも敵の攻撃を捌き続けることに専念する。ドングリとカゲもあの魔力人形たちに対して攻撃しているが、人形たちは際限なく出現していた。

「おいアキト! こいつらは俺たちがなんとかするからお前はアリス様のところにいけ!」

「頼んだ」

「ッ! 分かった!」

 人形そのものは強さは大したことは無く、俺は人形たちを叩き潰すと再びアリス様の元へと駆け寄った。たった十数メートル程度の距離なのに、果てしなく遠い道のりに感じる。彼女の虚ろな瞳からはまだ何も感じ取れず、俺の中には焦りが募った。

 魔王はアリス様の体を使って黒剣を振るい、漆黒の斬撃を飛ばしてくる。あれをくらうわけにはいかない俺は痛む体を懸命に動かしてステップや地面を転がることでなんとか回避していく。目に魔力を集中させて、相手の魔力の流れを読むことでなんとかできた芸当だった。

 だがとてつもない威力を秘めた斬撃であることには変わりなく、避けたとしてもその衝撃を身に受けてしまい、少しのダメージが蓄積していった。

 その少しのダメージが、今の俺にとってはとてつもなく大きい。だが俺は足を止めるわけにはいかなかった。攻撃を避けつつ、きっと今も戦っているであろう彼女に向かって駆け寄る。

「アリス様、今行きます! だから……だから……!」

 無事で、いてください。

 それだけが、俺の願いだ。

 ただ彼女が無事でいてくれさえすればいい。

 もしも神様がいるなら……いや、きっといる。

 俺がその存在の証明だ。だから……だから神様。

 どうかアリス様を助けてください。

「ッ…………!」

 焦りを感じている間も、俺の体にはダメージが蓄積していく。あの黒剣……『黒魔王デモンセイヴァー』といったか。あれもおそらく魔導書の一つだろう。

 とてつもない威力だ。完全開放した『白い救世主ホワイトセイヴァー』と同等の威力を感じる。いや、使用者が魔王なだけにその威力は更に向上されているように思えた。この『文字読みの魔法』の効果のおかげか、俺は目に魔力を集中させることで魔力の流れを読むことが出来る。それを利用して回避を続けていき、魔力の流れから攻撃コースを予測。

 これがなければきっと俺は死んでいる。アリス様がかつて優しい魔法と言ってくれたこの魔法のおかげで俺は生きているんだ。

 だったら、アリス様を助けることだって……!

 スレスレで死の恐怖が駆け抜けていくのを感じながら、俺は懸命に走った。そしてついに、『白い救世主ホワイトセイヴァー』の届く距離ににアリス様を捉える。魔王の方もまさかここまで接近されるとは思わなかっただろうか。それでも瞬時に『黒魔王デモンセイヴァー』を振るい、俺はそれを『白い救世主ホワイトセイヴァー』で受け止めた。

 思い一撃が加わり思わず膝を折りそうになるが、そんなものは微塵も見せず俺はしっかりと彼女の目を見る。『白い救世主ホワイトセイヴァー』は魔導書としてのランクが高いおかげか、それとも勇者との戦いの一件で眠っていた勇者の魂が戻ったおかげか、なんとか黒剣とのつば競り合いには耐えてくれている。

「アリス様、聞こえますか! 俺です。アキトです!」

 彼女の返事はない。こんなにも近づいているのに、彼女の傍にいるのに、どうしてこんなにも苦しくなるんだろう。どうしてこんなにも悲しくなるのだろう。

 でも今はその声を押し殺し、俺はひたすら彼女に呼びかける。

 剣がミシミシと嫌な音を立てているが、それでも構わず叫び続ける。

「アリス様! 魔王なんかに負けないでください、アリス様には好きな人がいるんでしょう!? やっとその人に想いを伝えられるのに魔王なんかに負けてもいいんですか!?」

 間違っても彼女を斬りたくはない。だから、俺にはこうすることしかできない。今はただただ自分の無力感が恨めしいと思った。どうして俺は勇者じゃなかったんだろう。どうして俺は彼女を助ける力を何一つはじめから持っていなかったんだろう。

「……………………………………………………………………………………」

「ッ!」

 ゴガンッ!! と、なんとかつば競り合いにまでもっていっていた『白い救世主ホワイトセイヴァー』を力任せに跳ね返し、アリス様は魔王に操られるがまま再び剣戟を繰り出してくる。俺はそれをなんとか受け止め、いなし、そして受け止める。そう無暗に攻撃をしかけるわけにはいかない。

(アリス様……!)

 彼女のは相変わらず無表情で、冷たい顔をしていて。アリス様なのにアリス様じゃないような。そんな、顔をしていた。

 そんな顔をするような人じゃないのに。魔王のせいで意思を捻じ曲げられている。俺が幸せになって欲しかった人なのに、今はこうして剣を交えている。

 それがどうしようもなく辛かった。そう、思ってしまっていたせいだろうか。

「うっ!?」

 気が緩んだのか、戦意が僅かとはいえそがれてしまったせいか、それとも集中力を途切れさせてしまったせいか、俺はついに今の均衡を崩す。

 鋭く、そして重い黒剣の一撃。それにより俺の手から相棒ホワイトセイヴァーが弾き飛ばされた。空を回転しながら舞う白銀の剣を視界に収めながら俺はやばいと感じていた。

 丸腰となった俺に対し、アリス様は再び黒剣を振り上げる。

(防御魔法……はダメか! いくらなんでもあの一撃を防ぎきれるとは思えない。避ける? いや、この距離じゃ無理だ……!)

 さきほどスレスレで過ぎ去ったものとは違う。今度は明確に、そして確実に迫りくる死の恐怖がどっと押し寄せてくる。ギラリと怪しく、鈍く光る黒い刃の輝き。その輝きはまるで人間の血を欲しているように見えた。

 俺はこのまま死ぬのだろうか。あの剣に斬り裂かれて、何も出来ないまま……。

 諦めかけ、走馬灯でも蘇りかねないほど濃密に凝縮された刹那の時間――――そこで俺は、確かに聞いた。

「……………………………………………………………………………………やめて」

 アリス様は確かにそういった。魔王ではなく、アリス様自身の意思の言葉。虚ろな瞳からは涙が零れ落ち、頬に一筋の雫が零れ落ちる。

(泣いている?)

 今にも斬り裂かれそうなその瞬間、俺はそんなことを思った。だが、実際にその刃は俺を斬り裂くことは無かった。

「アキトッ!」

 黒い刃の一撃を、金色の剣が完全に防ぎ切ったからだ。

「ッ! アル!」

「無事か、アキト」

「……ああ。なんとかな。ありがとう」

 アルが咄嗟に俺の前に立ちふさがって黒剣の一撃を防ぎ、更に魔王の波動を金色の魔力による結界で完全に防御している。完全に復活したわけではない魔王の攻撃ならば、アルの聖剣が完全に防ぎきるようだった。

「はぁっ!」

 アルは聖剣を一気に力任せに振り上げ、黒剣を跳ね返す。剣の軌跡に金色の輝きが伴い、彼が勇者なのだとこの状況だというのに思い知らされ、そしてちょっと羨ましいと思ってしまった。

 勇者の強力な一撃によってぐらりと体制を崩したアリス様。だが、さすがは魔王と言うべきか、すぐに体制を立て直そうともがく。

 その時、アリス様の周囲を取り巻く黒い影から、何かがドサリと地面に落ちたような音がした。

「あ…………」

 目を向けてみると、地面に力なく落ちたのは、一冊の絵本。あの日、俺がアリス様に読んだ……アリス様のお母様の、形見の絵本。古代文字で書かれた、今となっては読める人がそうはいない絵本。

 アリス様はきっと、あれを常に持ち歩いていたのだろう。あの絵本は彼女にとっても大切な思い出で。

 そして落ちた絵本が、俺にはアリス様が助けを求めているように、思えた。

(アリス様の心はやっぱりまだ、生きているんだ!)

 そんなことを勝手に確信する。体に力が戻ったような気がした。

 再度しっかりと大地を踏みしめ、俺は立ち上がる。

 同時に魔王は何かを感じ取ったかのように全身から更に魔力を放出し、黒い波動を放った。凝縮された漆黒のエネルギーは俺たちを焼き払うかと思われたが、アルは再び金色の結界をはることで漆黒の波動を防ぐ。

 黒い魔力の波動は結界を食い破らんとするかのように執拗に位ついているが、金色の結界は魔王の攻撃を微塵も通す気配が無い。

「……アキト、私が君をアリスのところまで導く」

「アル?」

 魔王の攻撃を結界によって防いでくれているアルの姿は、俺には後姿しか見えない。今のアルがどのような表情をしているのか俺には分からない。

 でも、

「最初、私は諦めていた。魔王に憑りつかれた者はもう助からない。乗っ取られたまま魔王となる。そう思っていたし、事実これまで歴代の勇者が魔王に乗っ取られた者を助け出すことに成功したなんて記録はなかった。だからこそ諦めていた。だがアキト、君は諦めなかった。力の差を前にしても諦めず、仲間と共に突き進んだ。…………だったら、勇者である私が真っ先に諦めている場合じゃないだろう?」

 今のアルの表情は、なんとなくわかる気がした。

「アリスを迎えに行ってやってくれ」

「…………分かった。任せろ。それと……ありがとう」

「気にするな。私だって、アリスは助けたい」

 アルの確かな意思を感じ取った俺は、次に背後からの声に気づいた。

『アキト、受け取れ!』

 グリカゲの二人が何かを投擲してきた。俺はそれを空中でつかみ取る。その正体は、さきほど弾き飛ばされたはずの『白い救世主ホワイトセイヴァー』だ。

「さっさと決めろ、頼んだぜ!」

「アリス様、連れ戻せ」

 俺は二人の親友の気持ちの籠った贈物をぎゅっと握りしめ、力いっぱい叫ぶ。

「任せろ!」

 その声を合図にするかのように、アルは結界を解除。同時に聖剣に魔力を集め、それを斬撃として放った。聖剣から放たれた一撃は魔王の波動を斬り裂き、俺がアリス様の元へと向かうための道が現れる。

 俺はその道を、白銀の剣を片手に駆け抜ける。

「アリス様!」

 白銀の剣と漆黒の剣が再び激突した。今度は残りの魔力を惜しみなく投入し、なんとかあの黒剣と対抗させる。とはいえ、相手は魔王の剣。さきほどのつば競り合いの時も含めて『白い救世主ホワイトセイヴァー』も限界が近づいていた。

 激しいスパークが起こる中、白銀の刃に亀裂が入り、ビキビキビキビキビキッ! と嫌な音が聞こえてくる。しかし、相手そのものも一筋縄ではいかない。

 神速の剣戟を仕掛けてくる魔王に対し、俺は眼の力も使いつつギリギリのところで対抗する。剣を振るい、刃をぶつけるたびに白銀の欠片と俺の体から血飛沫も舞い散る。敵の剣そのものを受け止めたとしても、その余波によって俺の体は所々が斬り裂かれていた。でもそんなことはどうでもよかった。今の俺の目には、しっかりと彼女の目が……いや、彼女の目から零れ落ちた涙が見えている。

 彼女が助けを求めているのならば、いくらだって力が湧いてくるし、どんなことだって出来そうな気がしてくる。

 アリス様は助けを求めている。今も必死に戦っている。だったら俺は、そんな彼女の手を掴みたい。

 たとえ物語のヒーローにはなれなくても、勇者になれなくても、金色の魔力を得られなくても、ただただ彼女のことさえ守ってあげればそれでいい。

 決死の想いで剣を振るう。彼女の名前を叫び続ける。

 だが、その瞬間はついに訪れる。

 俺の相棒として幾度ものピンチを乗り越えてきた『白い救世主ホワイトセイヴァー』が限界を迎えた。

 黒い軌跡を伴った降り下ろしの一撃によって、『白い救世主ホワイトセイヴァー』の刃が砕け散った。

 抵抗を無くした黒剣はその刃を以て俺の体を容赦なく斬り裂く。鮮血が舞い、俺の意思とは裏腹に体が意識を手放しかけた。

「ぐ、あッ……!」

 舞い散る鮮血の中、俺は朦朧とする意識の中で確かに見た。

 虚ろだったアリス様の瞳が確かに揺れ動くところを。そして、体が微かに震えているところを。

(ここ、だ……!)

 ここを逃せば本当に後はないと感じた俺は最後の力を振り絞り、力任せに体を動かした。

 いくらなんでも斬られ過ぎた。もしかすると本当に死ぬかもしれない。

 これが、最期かもしれない。

 無意識のうちにそう感じた俺は、自然と体が動き、その言葉を口にしていた。

「――――――――アリス」

 魔王も今の一撃で俺を殺したと確信し、油断していたのか行動が僅かに遅れる。いや、体を動かしたくても動けないといった方が正解か。

 俺はその隙を利用して、剣を棄ててアリスの体を静かに抱きしめた。ほのかに漂う華の香り。柔らかい体。それらには彼女の温かさがこもっているような気がした。

「アリス……お願いだ。戻って、きてくれ」

 彼女の華奢な体を抱き締めながら俺は祈り、願う。彼女が魔王に負けないように。

『なにヲすル、この虫けラが……ぁッ!?』

 すぐ耳元で剣を振るおうとする音が聞こえてきたが、それはすぐに止まった。アリスの体は動きをとめ、ただひたすら俺に抱きしめられていた。

『なンだ!? このからダに、留まレなイ……!?』

 アリスの手から、剣が滑り落ちた。まるで手から力が抜けてしまったように。

『ガあぁアアあァあアああァあアアアアアァッ!?』

 やがて、アリスの体から何かがすうっと抜けていくような感覚がした。彼女の身を纏っていた漆黒のドレスも砕けちり、あとに残ったのは彼女に似合う、純白のドレス。

 何かが砕け散ったような音がして、そして静寂が辺りを支配した。先ほとまで荒れ狂うように攻撃を仕掛けてきた魔力はもうどこにもなかった。

 俺はぼうっとする頭で、優しい声を聞いた。

「…………やっと、名前で呼んでくれたんですね」

 その声はもう、人を思いやれる温かなものに戻っていた。

「…………前から、名前で呼んでたと思いますけど」

「『様』ってついてたじゃないですか。そうじゃなくて、ちゃんと『アリス』って呼んでくれた」

「そっか…………」

「そうですよ。それに、私はまだあなたに言いたい事がたくさんあるんですから。だから……」

 アリス様……いや、アリスは頬に涙を流して、今度はぎゅっとアリスの方から抱きしめてくれた。

「……死なないで」

 温かい感触を感じながら、俺の意識は傷口から溢れだした出血と共に消えた。



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