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「秋にぃー。お・は・よ・う」
朝食を食べていた僕の後ろから妹の春が突撃してきた。
春はその細い腕を僕の首に絡めてくる。
「はいはい、おはよう」
「反応薄いー」
「それはすいませんね。てか近いよ」
そんなこと言われても毎日こんな突撃が来れば、慣れてしまうどころか呆れてしまう。
それより朝食のパンが食いかけなんだ。早く放してほしい。
「にししし。こんなにも可愛い妹がハグしてあげてるんだよ? 嬉しいでしょ」
春は悪戯な笑みを浮かべて自分の席に座った。
全く仕方のない奴だ。
「そうですね、嬉しいですよ」
「もう、またテキトーな返事ばっかして」
返事が雑になるのも仕方ないだろう。
いったいこのやり取りを何度したことやら。
正確には覚えてないけど、少なくとも二、三十回は超えてると思う。
春も飽きないなぁ。
「それより、早く朝食食べなよ。遅刻するよ」
「大丈夫。遅刻する時は秋にぃも一緒だよ」
「僕は先に行くからな」
僕は食パンの最後の一欠けらを食べ、立ち上がる。
「むー、ちょっとくらい待ってよ。薄情もの」
しかし、春は頬を膨らませて、明らかに怒ってるアピールをしてきた。
「全くウチの我儘お姫様きたら」
「にししし」
僕は仕方なく腰を下ろした。
遅刻しない程度には待ってあげよう。
待たないと春は不貞腐れるから要注意なのだ。過去に何度も経験済みだ。
そうなると手に負えないし、ひたすら甘やかさないと機嫌が直らないから性質が悪い。
「秋にぃー」
「なに?」
「今、何考えていた」
おっと、僕の妹は心でも読めるのか。怖い怖い。
「何でもないよ。それより早く食べなよ」
「はーい。あ、パパとママは?」
リビングに僕以外誰もいないことに気がついたようだ。
「二人とも昨日から帰ってないみたい。仕事かな?」
「ふぅーん。ま、いっか」
春は関心が薄そうに聞き流した。
父さんと母さんが揃って帰らない日は、ちょくちょくある。
あまり驚くことでもない。
けど、いつもなら帰れないと一言連絡があるのに、今日はなかった。
初めてだなこんなこと。
何かあったのかな?
「食べ終えた! 秋にぃ行こ」
家を出るころには、遅刻しない程々の時間になっていた。
「春ももう少し早く行動しようよ」
「まあまあ、遅刻しないんだから良いじゃん」
春の言う通り遅刻したことはないが、毎日遅刻ギリギリの登校になっている。
「それにこんな可愛い妹と、毎日腕を組んで登校してるんだよ。嬉しいでしょ」
春はにっこりと笑う。
「そうだね」
いつものことだが、僕は妹の笑顔には勝てそうにない。
この笑顔を前にすると、多少の我儘は許してしまう。
特に最近、一歳年下の妹はやたら大人びてきている。
いや、大人びていると言っても中学一年。まだまだ子供っぽいところだらけだ。
けど、それでも春と、春の同級生とでは全然雰囲気が違う。
髪の毛を伸ばしたり、ゆるふわなパーマをかけたりしだした。スカートの丈とか、バッグの装飾品とか、身だしなみが大きく変わった。
他にも腕を組む時、昔なら僕をグイグイ引っ張る形だったのに、今では隣に寄り添うように組んでくる。
あと笑顔が変わった。子供のような純粋な笑みと、小悪魔的な笑みの二通りがある。
二つのギャップの差は誰もがイチコロだろうと、兄ながら思っている。身内贔屓かな?
きっと僕の妹は、僕と違ってさぞモテモテなのだろう。
あれ? けど春の浮ついた話は聞いたことがないな。
「ねえ、春って彼氏いないの?」
「……」
春は無言で腕のホールドを強めた。痛い。
「何でそんなこと聞くのかな、秋にぃ?」
あ、これ怒ってる時の笑顔だ。
春は怒りながら、笑顔を振りまくことができる。器用だな。
今も笑っているはずなのに、春の後ろに修羅が見えるよ。
「は、春は可愛いのから気になったんだよ」
少しおどおどした口調になったが、仕方ない。
どうか怒りませんように!
「か、可愛い! そんなこといきなり言うなんて……」
あれ? なんか機嫌良くなった?
兄である僕に可愛いと言われた程度で喜んだのかな?
可愛いなんて言われ慣れてると思うんだけどな……。
機嫌治してくれたなら何でもいいんだけど。
「龍泉地君おはようございます」
「秋君おはようございます」
僕が教室に入ると、クラスメートたちが挨拶をしてくれた。とても畏まって……。
呼ばれ方は、苗字の龍泉地か名前の秋、なんだけど皆必ず後ろに"君"をつける。
呼び捨てでいいよ、って言ってるんだけどね……。
「お、おはよう」
もう毎度おなじみだが、どうもこのクラスメートは僕に対して尊敬の意の様なものを持っている気がする。
いや、クラスメートどころか町全体か……。
理由はおそらく分かっている。
僕がこの小さな村の村長の息子だからだろう。おまけに龍泉寺は、元々このこの辺り一帯の大地主で、僕はその本家の長男だから。
この村の団結力は強い。それに父さんはカリスマ性のある人だ。素直に尊敬できる人だ。
そのせいで、僕も敬うべき対象として見られている。
僕には父さんほどのカリスマも能力もないのにね……。
いくら小さな村だからって、五百人位の村人がいる。
彼らは、偉くも何ともない僕を敬うからいつも対応に困る。
同級生にも敬語で話される僕の心労はたまる一方だよ……。
僕の同級生は八人。僕を含めたらこのクラスは九人だ。
これでも多い方だ。
一つ下の春の学年は五人らしい。
ここ数週間で何人もの若い人たちが村を離れていった。
中にはろくに仲の良い友達もいたので、とても悲しい別れだ。
またいつか会えるかな。
二年前までは、さらにもう少しいたらしいが、山崩れや流行病によって多くの人が亡くなったらしい。
らしい、と言うのは、僕もその流行病にかかって生死を彷徨っていたことが原因だ。
僕はその時意識がなく、これは親から聞いた話だ。
数日に及ぶ病との戦いの末、僕はどうにか生き残れた。
しかし、ひどく危険な状態が続いたせいか、目が覚めた時、僕の瞳はなぜか赤くなっていた。とは言っても真っ赤ではなく、黒ずんだ赤位の色合いだ。これには少し驚いたけど、日常生活にさして影響もなかったので気にはならなかった。せいぜい太陽が今まで以上に眩しく感じるようになったくらいだ。
それよりも辛かったのは、もう一つの病の影響だ。
記憶が混濁した。
友人や、近所のおばちゃん、おじちゃんたちを忘れてしまった。
さすがに家族までは忘れていなかった。それだけは幸いだった。
家族を忘れていたら、僕は誰を頼りに生きていけばいいのか分からなくなっていただろう。
しかし、忘れてしまった人と顔を合わせる時、悲しい顔をされたのは胸がひどく痛んだ。
いくら思い出そうとしても思い出せない。
それが苦しかった。
けど、僕が忘れてしまった人たちの僕を心配する表情を見る方が、もっと苦しかった。
その表情は頭からこびり付いて離れなかった。そして夜な夜な僕を追い詰めていった。
心配してくれている人たちの表情が、徐々に僕を責めているようにしか見えなくなってしまった。
胸の中で何かが暴れていた。なんとも言葉にできない苦しさがあった。
それでも、僕が今のようにいられるのは、春のおかげと言うのが大きい。
知り合いを忘れた苦しみから、暗く塞ぎ込んだ僕に、春はひたすらずっと傍にいて笑顔で話しかけてくれた。
話すことは他愛のないことだ。
今日はいい天気だね。日向ぼっことか気持ちよさそう。蝉がうるさいね。けど蝉取りしたいね。クワガタとかもいたらかっこいいのにね。
そんなことばかり話してきた。
僕は次第に春の笑顔に元気づけられていった。
苦しくても頑張ろう、って。
そんな気遣いを当時小学五年生の妹がしていたのだ。
春の中身はきっと今の僕よりもずっと成熟しているんだと思う。
あんなにも塞ぎ込んでいた僕を立ち直らしたのだから。
春は父さんのカリスマと、看護師をしている母さんの優しさの両方を受けついてるんだろうな。
僕は席に座った。
クラスのみんなが今日も元気でなによりだ。
こんな生活がずっと続けばいいな。
もうあんな苦しみはいらないよ。
「今日も妹さんとイチャイチャしながら登校したらしいな」
「兄妹なんだから、仲良くして当然でしょ」
「まぁ、そういうことにしといてやるよ」
親友のからかいは、いつものことだ。
「痛っ」
なんだ?
不意に僕に何かがぶつかった。あたりを見回しても何も落ちていない。
何か飛んできたよね?
「どうした?」
「い、いや、なんでもないよ」
窓から何か入って来たのかな。
今日は快晴だし、心地よい風も入ってきてるし、こういうこともあるのかな。
けど一体何が飛んできたのだろう?




