訪れる変化
その年の夏は暑かった。ユウは特に夏が苦手なわけでもなかったが、今回の暑さにはすっかり参ってしまった。食欲がまったくわかず、そのせいなのか身体が怠い。
ある日の夕方、部屋で休んでいると扉が叩かれた。「僕だけど」という意外な声に、ソファから飛び起きる。扉を開けると、相変わらず不機嫌そうな顔をしたルーマが立っていた。
「どうしたの。こんなところに来るなんて初めてじゃない?……表からという意味だけど、もちろん」
空間転移など扉からではなく訪ねてきたことは何回かある。
ルーマはちょっと眉をひそめ、ユウの顔色を窺うような様子をみせた。
「散歩にでも行かない?」
珍しいルーマからの誘いに、ユウはすぐに反応できなかった。今まで彼が外出の誘いをしたことがあっただろうか。
返事をしないユウを見て、ルーマは不機嫌そうな顔になった。
「行かないなら、僕は帰るけど」
「あ、待って。行く行く」
慌てて答えると、ルーマはくるりと背を向けて歩き出した。
日が傾いてだいぶ涼しくなった庭を、ルーマのあとについて歩く。彼は振り向かず、話もせずに進んでいく。彼が何も言わないので、ユウも何も言わない。おしゃべりな部類に入るユウだが、ルーマと一緒にいると無言も苦痛ではなかった。
池のほとりに来て、ルーマはやっと振り向いた。
「この池、覚えてる?」
少しからかうような声音だった。
「覚えてるよ。七歳の時だったかな。ルーマ様には大変お世話になりました」
ルーマはにやりと笑った。
七歳の時、ユウは家庭教師から逃げ出し、ルーマを部屋から引っ張り出して庭へ遊びに来た。兄に習った葉っぱで作る船を、ルーマと一緒に池に浮かべたかったのだ。ルーマは興味なさげに近くの石に座って本を開いていたが、ユウが船を浮かべるのを見ていた。それでもユウは満足で、船がゆっくり水面を進むのを追いかけていた。
そのうち、池の魚がつんつんと船をつつき始めた。「お魚さんがきた!」とはしゃぐユウは、「気をつけてよ」というルーマの忠告なんて聞いていなかった。もっと近くで見たいと思い、池のなかにある岩へジャンプした。結果は、推して図るべし、である。
足がつかずにパニックになったユウを、ざぶざぶと池のなかに入ったルーマが至極冷静に抱き上げた。顔色ひとつ変えずに助けてくれたのだが、乾いた石にユウをおろした彼は怒った。いつものように嫌みを言うようなレベルではなく、文字通り怒鳴った。「気をつけろって言っただろ!」と。
怒鳴られて驚いたユウは泣き出した。ルーマは、わんわん泣くユウにケガがないかを仏頂面のままで調べた。擦りむいた肘を治癒術で治し、濡れた服も魔術で乾かすと、彼は泣きじゃくるユウの頬に手を当てて、「怒鳴って悪かったよ」と謝った。ユウが顔をあげると、彼は淡々と彼女を諭した。「自分の身は自分で気をつけなきゃダメだ。今日は僕がいたから良かったけど、一人だったらどうするの」と、ユウの目を見つめながら。
ごめんなさい、と謝ると、今度は申し訳なさで涙が溢れてきた。彼はちょっとだけ微笑んで、ごめんなさいを繰り返しながら泣きじゃくるユウを抱き締めた。
「あれで少しはお転婆がなおるかと思ったけど、全然なおらないね」
昔と同じ石に腰掛け、ルーマが鼻で笑う。空いたスペースにユウも座った。
「あら、ずいぶんおしとやかな淑女になったつもりだけど?」
「よく言うよ。淑女の仮面をかぶれるようになっただけだろ」
ばれている。
ユウはルーマに身体を寄せた。ルーマは特にそれを拒みもせず、黙って座っている。吹き抜ける風が心地いい。
「……君の面倒をみるの、嫌いじゃなかったよ」
ルーマがぽつりと呟いた。ユウは黙って彼の肩に頭をもたせかけた。
彼が姿を消したのは、それから数日後のことだった。
「姫様……」
ロベルトが困りきったような声で呼んだが、ユウは毛布をかぶって返事をしなかった。
外はまた大雨だ。部屋のなかが一瞬、雨の音で満たされる。
「姫様も、何もお聞きになっていなかったんですか?」
返事をしないことが返事になったらしく、ロベルトはため息をついた。
「気まぐれかもしれません。あと数日したら、ふらっと戻って来るかも……」
彼はそう言ったが、そう思っていないのは明白だった。ルーマがいなくなってからもう三日経つ。事件に巻き込まれた形跡もなく、彼は明らかに自分の意思で姿を消していた。調査や捜索をしようにも、異常気象のおかげで人員不足だったため、たいした調査は期待できなかった。
コンコンコンとノックの音がして、フェルディが顔をみせた。珍しい訪問客に、ユウはやっと毛布から出る。
「姫様、お体の調子はいかがですか」
「普通だけど?」
「あんたがこんなところに来るなんて珍しい」
ロベルトがむっつり言うと、フェルディは微笑んだ。
「その言葉、あなたに丸々お返ししますよ、ロベルト殿。陛下に呼ばれたのです。立場上、仕方ありませんよね」
彼はルーマの副官なのだから、確かに当然である。
「残念ながら、今回の件は私も寝耳に水でした。ですが、ひとつ気になることがあります。兵団長は、やたらと姫様の体調を気にされていました」
「別に変じゃねえ……ないでしょう。あいつ、姫様には甘いんですから」
ロベルトはフェルディの方が立場が上なのを思い出したらしく、口調を改めた。
「彼は、私に姫様の様子に気をつけるよう言いました。私は姫様とお話しするのは今回が二度目です。その私に姫様のことを頼むというのは少し違和感がありませんか?あなたに頼む方が妥当だと思いませんか?私は、この件がヒントではないかと思うのです」
ロベルトは眉間にしわを寄せた。
「あんたの言っていることはよくわからん」
「わからなくても結構です」
フェルディが微笑んで、ロベルトはそれにかちんときたようだった。
ユウはのろのろと起き上がった。
「フェルディ。遠征から帰ったあと、ルーマはずっと何かを調べてたでしょう?あれ、何かわかりますか?」
「私に敬語は結構ですよ、姫様」
そう断ってから、フェルディは眉をひそめる。
「私も気になって確認しました。兵団長が一番熱心に読んでおられたのは、この国の歴史書と魔術史……魔術の歴史の本です」
「そんなもん、あいつの趣味じゃねえ……ないんですか」
立場を思い出したロベルトがふてくされたような丁寧語を使う。
「その可能性もありますが、ちょっと異常なほどのめりこんでいましたからね。何かあると思いますけど」
フェルディの方はまったくぶれない言葉遣いだ。
ユウは毛布をはねのけた。
「その本、ルーマの部屋にまだある?」
「ありますよ」
「見に行く」
ベッドからおりると、ロベルトが「付き合います」と言って立ち上がった。フェルディも異存はないらしく、三人は心持ちこそこそとルーマの執務室へ向かった。
ルーマの執務室は、ユウの部屋がある王族の居住する棟の隣にある。できるだけ人に見られないルートでそこへ向かい、鍵はフェルディがあけてくれた。彼はそのまま本棚へ向かい、二冊の本を机の上に置いた。ユウが魔術史、ロベルトが歴史書を開く。それを後ろからフェルディが覗きこんだ。
「……ダメだ、わかんない。ロベルト、そっちはどう?」
「学問はさっぱりなので、全然ダメです。でも……」
ロベルトが本をユウの前にスライドさせる。
「破られてますよね、このページ」
「本当だ」
一見わからないが、前後で文脈が合わずページがとんでいる。探してみると、魔術史の方もいくつか破られたページがあるようだった。
「ルーマが持って行ったんだよね?」
「ええ、おそらく……」
ユウの問いにフェルディが答えた時、ロベルトが唇に人指し指を当てて立ち上がった。その手が剣の柄に伸びる。フェルディが何か呟いた。
ガチャ、と鈍い音がして扉が開く。
「これはこれは、姫様」
慇懃無礼に礼をしたのは、評議会議員のアドルフ・マッキンリーだった。
「騎士団の隊長殿と魔法兵団の副兵団長殿を従えて、如何されましたかな」
「あんたこそ何やってるんだよ、議員殿」
ロベルトが聞き返す。
「調査ですよ。裏切り者の部屋を調べる必要があるのでね」
「それはご苦労様。私たちも、何か彼の手がかりがないか見に来ただけよ」
ユウが微笑んで答えた時、机の上から本が消えていることに気づいた。フェルディの仕業らしい。
「姫様御自ら、有り難いことです。されど、姫様は大人しくされていた方がよろしいですよ」
アドルフ・マッキンリーは嫌な笑みを浮かべた。
「陛下は案じておいでです。姫様が、ルーマ殿から悪い影響をお受けになったのではないかと」
「杞憂よ」
毅然と言ったつもりだったが、アドルフには効かなかった。彼は配下の騎士を振り返った。
「姫様をお部屋へお連れしろ」
「はっ」
「お待ち下さい、議員殿」
フェルディが止めに入ろうとしたが、アドルフはそれも封じた。
「フェルディ殿、ロベルト殿、お二方は私とおいで下さい。聴取をするよう、言いつかっております」