鴇島家の噂
新九郎、瑞江さんの旦那と話す
大学祭が終わった次の月曜は代休だった。瑞江さんは三味線を出して来て、縁側でつま弾きながら、なんとなく暇そうにしていた。
新九郎は思い切って麻美がここに下宿したがっていると伝えて見た。一つには大学祭の時の麻美の働きを見て、新九郎はやはりこいつこそ俺の女房に相応しいと考えるようになったからだ。そのためには麻美との距離を縮めておきたい。しかし新九郎は今のところ籠の鳥みたいな暮らしだ。ならば麻美を、同じ籠に連れてくる事が早道だろう。そう考えたのだ。
だが瑞江さんの反応は微妙なものだった。高価な大島紬を麻美に気前よく与えてしまったくらいだから、麻美を気に入っていないはずはないのだが、あたしの一存では決められないから、旦那と相談してくれの一点張りだった。
鈍い新九郎はそんな瑞江さんの微妙な女心など気づきようもなかったのだが。
次の週末、瑞江さんの旦那である海北善綱が一週間ぶりに訪ねてきた。どうやら瑞江さんが呼んでくれたらしい。
新九郎にとって善綱は、瑞江さんという女性をある意味共有してきた遠縁の年長者なので、面と向かって挨拶するのが煙たい存在だった。だが麻美のためだと割り切って善綱に会いにいくことにした。
そう言えば麻美と知り合ってから新九郎は瑞江さんと親しく過ごす時間が減っていた。瑞江さんが不機嫌なのはそれが原因なのだろうか?女性心理に疎い新九郎はそんな些細な事すら判断がつかない。
「海北の小父さん、お久しぶりです」
「ああ、新九郎さん、おはいりなさい」
瑞江の旦那である善綱は名の売れた日本画家だが、本人は絵師と呼ばれるのを好む気さくな老人だ。善綱は頭を丸め口髭と顎鬚を蓄えた大男で、普段から紋付き袴姿が多いのだが、今日は休日のせいか作務衣という気楽な格好で長火鉢の横で寛いでいた。
瑞江さんは黙って座卓を出し、二人分の茶菓を置くと奥に引っ込んでしまった。どうもこの件については自分では結論を出したくないらしい。
「今日は小父さんにお願いがあってきました」
新九郎は神妙に切り出す。
「うん、瑞江から聞いたよ。新しい下宿人の事だね」
「はい」
「まあ、瑞江がうんと言えばわたしゃ誰でも構わないんだが、なんで自分じゃ決められないなんて言い出したんだろうね」
「希望者が若い女性だからでしょうか?」
「ほう、女かい?その女は新九郎さんのこれかい?」
善綱は小指を立ててみせる。
「う~ん、まだそこまでの関係ではありません。親しい女友達くらいの関係です」
「いい女かい」
「ええ、滅多に見ないような美人ではあります」
その点については新九郎も断言できる。
「ふうん、そんなにいい女かい。だからかな?」
善綱は顎鬚をさすりながら何か考えこんでしまう。彼は新九郎と違い、瑞江さんの仄かな嫉妬心に気づいているようだ。
「その女の名前は?」
「麻美です。本人は、九州の時任性を名乗っていますが、叔父さんの家に養子に入ったそうで、正確には鳥の鴇に島と書いて、鴇島が本来の苗字だと思います」
「鴇島?もしかして、あの松涛の鴇島かい?」
善綱はギョロリと目を剥いて驚いた様子を見せた。
普段は柔和な笑顔しか見せない海北が達磨のように大仰に顔をしかめて見せた。
「ええ、小父さんも鴇島の家を御存知なんですか?」
新九郎は怪訝に思って訊ねる。
「うん、まあね、そうか鴇島の女かい?なるほどこれはちょっと厄介だな」
「厄介?」
「うん、まあ、若いあんたは知らないと思うが、あそこは以前からいろんな噂の絶えない家でね」
「うわさ?悪い噂ですか?」
「あながち悪い噂ばかりじゃない。むしろ今は慈善事業で有名なくらいだしね」
「慈善事業といいますと?」
「うん、震災孤児や、海外の戦災孤児を引き取って教育を与え、里親を探したり、養子縁組をして養家を見つけたり、成人すると勤め先を見つけるような事をずっとやっているんだ」
「へえ、それは知りませんでした。でも、それなら良い事尽くめじゃありませんか」
「うん、それだけなら問題はないんだがね」
「他にもなにかあるんですか?」
「まあ、こういう機会だから、鴇島の家について私が知っていることは洗いざらい話しておこう。話を聞いた上で、新九郎さん自身が、そのお嬢さんとどうつきあうか決めればいいだろう。少し長い話になるがいいかね?」
「はい、お願いします」
新九郎は少し胸騒ぎを覚えながら居住まいを正した。
「鴇島の家は、浅井のような古い家柄ではない。まあ明治の頃からのし上がった家だと思っていい。主に長州出身の維新貴族の引きでいろんな商売を成功させて大きくなった家だ」
「長州の維新貴族というと、桂小五郎とか伊藤博文とか山県有朋とかですか?」
「うん、まあ木戸孝允なども鴇島家に関わった一人かも知れん。この件は本筋とは関係ないから、そのくらいでいいかね」
「ええ」
「鴇島の家は面白いことに世襲の商売と言うものが無い。代々、家業を変えながら大きくなった家なんだ。今の屋敷がある土地は、明治時代に鍋島家から譲り受けたそうだ。先々代はブラジルでコーヒー農園を開いて成功し、そこに大きな洋館を建てた、先代はオーストラリアで人間豚の商売をやっていた」
「人間豚?」
「ああ、今の人は知らないだろうな。金持ちから遺伝子を預かって、その遺伝子を埋め込んだ豚を育てておいて、その金持ちが病気になったときに、豚から臓器を取って移植するっていう商売さ」
「なんか血なまぐさい話ですね」
「うん、その件も本筋とは関係ない。問題は当代の鴇島さんだ」
「はあ、当代はなにをやっている人なんですか?」
「うん、ここからは虚実入り交じった話なんだがね、当代の本業はどれがそうなのかはっきりしない。生産を請け負うだけの大きな工場をたくさん持っていたり、人工臓器の会社を持っていたり、あとパソコンの会社やら、その教室やら、転職斡旋業の会社も持っていたな。だが会社の方は持っているだけで、実際の経営は子供や娘婿の部下に任せきりらしい。それで本人は何をやっているかというと、さっきも話したが、これがどうも養子縁組の斡旋をやたらとやっているんだ」
「養子縁組ですか?そういえば麻美も遠縁から養子になったと言っていました。そのことでもお金儲けをしているんでしょうか?」
新九郎は慎重に麻美が孤児だったことは明かさなかった。そういえば麻美も以前養護施設にいたといっていた。鴇島家の事業と何か関係があるのだろうか?
「まあ、養子縁組をたくさん仲介しているのは確からしいんだが、それで金儲けをしているという話はついぞ聞かない。ただね、今の日本の政治家やら、警察官僚やら、宗教法人の教祖やら、最高裁の判事やら、身近なところでは新九郎さんの大学の教授の中にも、鴇島に養子縁組を仲介してもらった人がいると言う話だ。そら藤野先生なんかもそのお一人だそうだ」
「え?藤野教授が?本当ですか?」
「いや、どこまでが本当で、どこから噂に過ぎないのかはあたしも良くは知らない。あくまで噂だがね。まあ養子縁組の大半は震災保護児童や海外の戦災孤児だというし、見返りも求めずに養子縁組を仲介するだけなら、大金持ちの慈善事業で話は済むんだが、当代の奥さんというのが、これまたすごい女らしい」
「すごい女?」
「ああ、当代の奥さんというのは、長州出身の元華族の娘らしいんだが、なんでも一時期は川崎のソープランドで一番の売れっ子だったとか、有名人をお客にとって、その伝手で知り合った連中の子供をたくさん産んでいるとか、そういう噂もあるお人なんだよ」
「それって、もしかして代理母をやっていたということですか?その子供を客相手に養子に出したんでしょうか?でも、あくまで噂ですよね?それって」
「うん、藤野先生の長女の紗耶香さんだったかな?この子は教授の奥さんの代わりに、鴇島の奥方が代理出産した子だという話だ」
「え?紗耶香ちゃんですか?彼女とは僕も去年会いましたよ。綺麗で利発そうなお嬢さんでした。でもそれって本当にあった事なんですか?」
「うん、まあ、あれもこれも噂だ。だが鴇島に関する噂の中にはもっとすごいのもある」
「その代理母をやっていた奥さんの話よりすごい話ですか?」
「うん、鴇島の家に逆らったら、人間でも会社でも暴力団でもなんでも綺麗に消されてしまうという噂さ」
「それって、何か根拠のある噂なんですか?」
「だから噂だよ。噂の根拠なんてそうそう確かめようがない」
「じゃあ実際に鴇島の家に逆らってつぶされた家があるっていう事ですか?」
「うん、そこが問題だ。割とよく聞くのは、もう十年くらい前の話だが、そら暴力団がアメリカの海兵隊の特殊部隊に襲われて、一晩で壊滅させられたって事件があっただろう?」
「ああ、あの事件は連日連夜報道されていましたから、僕も覚えています。僕が小学校のころの話ですよね。海兵隊の退役軍人の一団が、暴力団事務所を襲って、誘拐されていた女性たちを助け出したって話でしたよね?でも結局犯人ははっきりしなかったし、噂ではアメリカに逃げてしまって、日米地位協定の関係で捕まらなかったって言うんでしょう?」
「まあ、やられたのが暴力団で、襲ったのがアメリカの海兵隊かも知れないという話だから、警察の捜査もそれほど熱心じゃなかった。そもそも被害届を出すはずの暴力団が非合法組織だし、関係者がほぼ全員死んでしまったから、警察も動きようがなかったみたいだ。ただ当時もアメリカの海兵隊の特殊部隊が日本の暴力団を襲撃するなんて話は民放のでっち上げだと言われたもんだ。それであの事件の裏にも鴇島の家が絡んでいたという噂が、後から出てきたんだ」
「暴力団を鴇島の人達が襲ったって言うんですか?ちょっと待ってくださいよ。僕は何度か鴇島の家にお邪魔したことがあるんですが、あそこの家って御当主の定近さん以外、ほとんど女性ばかりですよね。浅井の家みたいに用心棒を兼ねた書生なんてのも一人もいなかったし」
「そう、だから噂さ。ところで当主の奥さんという人には会ったかい?」
「いえ、そういえばまだ会っていません」
「機会があったら一度会っておくといい。わたしゃ春の園遊会で一度お見かけしただけだが、すごい美人で、おまけにとんでもない切れ者らしい。じゃあ、メイドさんたちは見たかい」
「ええ、浅黒い肌のラテン系かアジア系みたいな外国人のメイド長がいました。あとは僕らより若い子ばかりでしたよ」
「その奥さんというのがソープ嬢だったときに、店を変われと強要する暴力団員に誘拐されて、それでメイドさんたちが怒って暴力団を襲い、奥さんを取り戻したついでに暴力団を壊滅に追い込んだという噂もある」
「そんな、漫画やアニメじゃあるまいし、じゃあの可愛いメイドさんたちは戦闘メイドだとでもいうんですか?そんなの信じられませんよ」
「うん、まあ、どれも噂に過ぎないけどね」
「この間の大学祭のとき、鴇島のメイド長のイストさんが大学まで来てくれて、女子大生にビクトリア朝時代の料理やら、お茶の入れ方やら、メイドの立ち居振る舞い全般を教えてくれました。でも、どう見ても本職のメイドさんでしたよ」
「本職のメイドねえ、でもそれっておかしいと思わないかい?」
「おかしい?」
「今時、そんな本格的なメイドがいるなんて、どこでそういう訓練を受けたんだろう?」
「そういえば確かに、でも、う~ん、例えばイギリスとかにはそういう専門学校があるのでは?」
「うん、まあ、そういう考え方もあるにはあるだろうね」
「ほかにもそう言う話があるんですか?」
「うん、そうだな、これは五、六年前の話だが、山手通り沿いに本店を持つ大きな中華料理屋が一晩でもぬけの空になったって事件もあったな」
「中華料理屋ですか?」
「うん、そら中目黒のあたりにあったろう?煉瓦造りの。あのチェーン店全部が一昼夜のうちにもぬけの殻になったって事件だ」
「ああ、そう言えば未だにあそこって廃墟のままですね」
「あの中華料理屋は後で分かったんだが、チャイニーズマフィアのフロント企業で、その経営者の息子というのが、とんでもない極道で、鴇島の娘たちを誘惑したり、当主の妹の婚約者をさらって強姦しようとして、やっぱり鴇島に報復されたらしい」
「ちょっと待ってくださいよ、それっておかしくないですか?」
「うん?」
「だって妹の婚約者なら男でしょう。なんで男が男に強姦されたりするんです?ゲイですか?」
「ああ、新九郎さんは知らなかったのかい?その婚約者というのは、この間爆弾テロに巻き込まれて行方不明になった大使の安堂薫だよ」
「ああ、あの両性具有である事をカミングアウトして有名になった安堂大使ですか」
「そうそう、鴇島の当主の妹の輿莉子と言ったかな?その夫が安堂薫大使なんだ」
「ふうん、鴇島の家って、ずいぶん色んな人たちが集まっている家なんですね」
「なんでもペリー提督の後に来た、ハリスが連れてきた、通訳のアーネスト・サトーに教わったユニークネスという言葉を、御維新以来の家訓にしている家だとか言っていたな」
「確かに家としてはユニークですね。でも結局噂以上の話はないんですね」
「まあ、そうだね」
「じゃあ、鴇島家の隆盛をやっかんだ者が流した、ただの噂に過ぎないんじゃないですか?」
「そういうこともあるだろうね。なにせ、今の日本では、警視総監から政治家から経済界の重鎮に至るまで、鴇島家と養子縁組で絡んでない大物を探すほうが難しいと言われるくらい、あの家は日本の中枢にがっちり食い込んでいるからね」
「養子縁組でそこまで?でもそれは悪いことでしょうか?」
「いや、それに関しても不思議に悪い噂は一つも聞かない。鴇島の当代は政治にも無関心だというし、資産数兆円と言う大金持ちで、会社もいくつも持っているのに、自分から何かするということはない人だという」
「じゃあ、問題ないじゃないですか」
新九郎は正直なところ海北善綱老人の長話に苛立ちを覚え始めていた。
これって結局、麻美をあきらめさせるために、長々と善綱老人が聞き齧ったという、根も葉もない噂話を聞かされただけではないのか?しかし鴇島の家が、敵対する組織を消したという点は気になった。
麻美という女の優秀さも、考えたら特異といえるレベルかも知れない。これは後で調べる必要があるだろう。だがその噂が本当だったとしても、俺にとって、鴇島の家との縁が深まるのは悪いことじゃないだろう。
強い家、実力のある家との婚姻は、浅井の家にも有利に働くのではないだろうか?そういう政治を自然に意識するあたり、新九郎も生まれながらに大名の子孫なのかも知れない。
「それで、麻美の件はいかがでしょう。下宿を許可していただけますか?」
「うん、新九郎さんが今の話を聞いた上で、それでも鴇島の家の関係者と付き合うというなら止めはしない。ただ」
「ただ、なんです?」
「その麻美さんという女性に一度会わせてくれないか?」
「ええ、いいですよ。やはり本人に会っていただくのが一番だと思いますから」
「うん、そうだね。鴇島の女は皆、すごい美人だそうだからね、それも一度拝んでみたい」
「麻美は美人なだけでなく、大学の成績も優秀ですし、運動神経も抜群です。行儀作法もできた女だし、裁縫もできるし、きっと気に入っていただけると思いますよ。じゃあ、これから呼びましょうか?」
「うん、そうだね。じゃあ、そのお嬢さんが来たら、また連れて来ておくれ」
「はい、じゃあ」
新九郎が挨拶して立ち上がろうとすると、また善綱老人が呼び止めた。
「新九郎さん、それともうひとつ、こういう機会だから、あんたに頼んでおきたい事がある」
「はい、なんでしょう?」
「瑞江の事だ」
「おかみさんのこと?」
新九郎はとうとう来たかと、改めて正座しなおした。この機会におかみさんと切れろと言うことか?
「ああ、今までうやむやにして悪かったと思うが、私に万が一の事があったら瑞江の事をよろしく頼む」
海北は剃り上げた頭を深々と下げてみせた。予想もしなかった話に新九郎は驚いた。
「頼むって、だって、おかみさんは一人前の大人じゃないですか?」
「そう言う意味じゃない。あれにも人並みに女の幸せを味合わせてやって欲しいという意味さ」
「それって…」
「うん、まあこれは年寄りの繰言だと思って聞いてくれ。私が言うのもなんだが、瑞江はいい女だろう?あれを花街からここに植え替えたのは私だが、所詮日陰に咲く花だ。可哀想だが私じゃあ、もう充分に水をやることも出来ない。それにこの歳じゃあ、いつまであれの面倒を見られるかもわかったものじゃない」
「それは、麻美の件との交換条件ですか?」
「とんでもない、あんたは浅井の家を継ぐ身だし、私にとっては主筋にあたる家の大事な預かり者だ。そのあんたに条件なんて付けやしないさ」
「じゃあ、おかみさんの話はどういうことなんです?」
「私ができない水やりを、今までどおり、時々でもいいからやって欲しいって頼みごとさ。あれを新九郎さんにけしかけたのは、実はあたしなんだが、今ではあんたにきっちり惚れておる。あれを気にいってくれているなら、後生だから、瑞江の事も忘れないでやっておくれ」
「…わかりました」
やんわりとだったが、善綱は新九郎と瑞江さんの関係を認めた上で、今後も関係を続けて欲しい、自分に何かあったら後を任せるからよろしく頼む、と言い渡されてしまった形だ。
これが普通の若い男なら、瑞江さんをとるか、麻美を選ぶか、そう言う選択肢を突きつけられたと真剣に悩み始めるところだったろう。だが新九郎は、本妻に子がいない家を妾腹の子が継ぐような世界で生まれ育ってきた男だった。だから瑞江さんの事もあまり深刻には考えなかった。なにより海北さんはまだ元気なのだし、その件はしばらく棚上げでいいだろうと勝手に決めてしまったのだ。そのあたり新九郎は、無責任とは違う意味で、自分で思っている以上に、お坊ちゃん育ちの男だったのだろう。
それに今は何より麻美のことだ。
新九郎は部屋に帰るとワクワクしながら携帯で麻美を呼び出した。麻美はワンコールで出た。
「麻美か?下宿の件、ここの持ち主の海北の小父さんに話しをつけた。オーケーだがお前に会いたいと言っている。すぐ来られるか?」
「うん、もちろんすぐに行くよ」
「クルマで迎えに行こうか」
「ううん、そこまでしてもらうのは悪いよ。イストに送ってもらうから大丈夫」
やんわりと断られてしまった。麻美は一体どうやって来るつもりだろう?
待つうちに母屋の玄関のベルが鳴った。新九郎が慌てて玄関にでると、冠木門の向こうにでかいマイバッハの黒塗りのリムジンが止まっていた。あっけに取られて見ていると、先日文化祭を手伝ってくれたメイド長のイストが、うやうやしく一礼してリムジンのドアを開けた。
降りて来たのは麻美だった。
瑞江さんにもらった大島紬を粋に着こなして優雅に歩を進めてくる。
リムジンは麻美を下ろすと、しずしずと走り去り、玄関には麻美だけが残った。
「新九郎来たよ。この面接に通れば、ボクはここに住めるのかい?」
「面接?うん、まあ、そんなにかしこまらなくてもいいさ。ただ旦那も昔の人だからな、ボクはやめたほうがいいかもな」
「ああ、大丈夫、ボクがボクっていうのは、新九郎の前くらいだから」
「そうなのか?」
「うん、そうなのさ、ボクみたいな大女がボクっていうほうが、ギャップがあって萌えるだろう?」
「今更ギャップ萌えかよ。まあいい、それだけ軽口がたたければ大丈夫だろう。こっちだ」
新九郎は麻美の手を引いて、まずは瑞枝さんの居間に向かう。
「おかみ、麻美がきたぜ、旦那に取り次いでくれるか?」
瑞江さんは、さっきの憂鬱な様子とは打って変わって、明るい声で麻美を出迎えた。
「あら、いらっしゃい。その大島、着てくだすったんですね」
「はい、これしか大人の方に気に入っていただけそうな服を持っていないものですから」
麻美は柄にもなく、はにかむ様子を見せた。
「お嬢さんがその大島を着ていれば、落とせない殿方なんていやしませんよ。ささ、こちらです」
なんとなくはしゃいで見えるおかみの案内で、新九郎と麻美は書院に向かう。
なんで瑞江さんは、急に機嫌よくなったのだろう?やっぱり麻美を気に入っているのか?
鈍い新九郎は瑞江さんの女心がまったく理解できていない。彼女は新九郎が海北善綱から瑞江の事を頼むと言ったこと、それを新九郎が素直に受け入れたと海北から告げられたことで、すっかり機嫌を直していたのだ。
善綱が待つ母屋の書院はこの家で一番大きくて立派な部屋だ。そこに呼ぶということは、善綱も鴇島をバックに持つ麻美をそれなりに重要視しているということなのだろう。
善綱、麻美に惚れる
「小父さん、麻美が来ました」
ふすま越しに声をかけるとすぐ応答があった。
「ああ、新九郎さんかい、入っておくれ」
「お邪魔します」
新九郎は、襖を開いて驚いた。善綱は黒紋付と仙台平の袴に着替えて扇子を持ち、違い棚の前に正座して待っていた。いつのまに着替えたんだろう?
麻美は、廊下の板敷きに優雅に正座すると、その場で三つ指突いて丁寧に頭を下げ、綺麗なアルトの声で口上を述べ始めた。
「お初にお目にかかります。トキトウ麻美と申します。このたびは、こちらに下宿させていただきたく、不躾ながらお願いに参上いたしました」
袖を捌いて、さらに深く辞儀をする。その振る舞いは新九郎から見ても、理にかなっていて美しいものだった。
「ああ、そんなにかしこまらないでおくれ、それにそこでは寒い、どうぞ中に入っておくれ」
「はい」
麻美はそう返事をしたが、変な仕草を始めた。頭を下げた四つん這いの姿勢のまま、廊下から書院に膝をついたまま入りかけて、もじもじと行きつ戻りつしている。
「どうした麻美、足でも痺れたか?」
新九郎が不安になって訊ねると、善綱は自ら立ち上がって座敷と廊下との境まで来てしまった。
「驚いたお嬢さんだ。今時室町式礼法かい?そんな気を遣わなくていいから、入っておいでな」
「室町式礼法?」
「新九郎さんでも知らないか。まあ無理もない、このお嬢さんがやっているのは、室町時代にはやった、古い武家の作法なのさ。ささ、入っておいで」
善綱が差し出す手を、麻美はおずおずと取ると、顔を伏せたまま、書院の下座に座り込んでしまった。
「そこは端近だ、どうぞこちらへ」
「はい」
善綱が促す。麻美は返事をしたものの、また書院の端っこで顔を伏せたままだ。
「麻美、もういい、小父さんはお前の顔を見たいんだそうだ」
新九郎は面倒になって、強引に麻美の手を引いて、善綱の下座に麻美を座らせた。
麻美は善綱の間近には来たが、さっきから、三つ指ついて、ずっと顔を伏せたままだ。
「さあ、お願いだ、どうぞ頭を上げて私にあんたの顔を見せておくれ」
「はい」
麻美はちらっと、視線上げるがまたすぐに伏せてしまう。
「やれやれ、驚いたお嬢さんだな」
善綱は、新九郎の方を向いて苦笑する。
新九郎はさっきから、どういうルールに基づくやり取りなのか見当もつかない。
「麻美、もう礼法とやらはいい、顔をあげろ」
新九郎がはっきりと命令口調で告げた。
「はい、新九郎さま」
麻美は良く通る綺麗なアルトの声でそう答えると、両手を膝に移し、やっと顔を上げた。
「こ、これは…」
麻美の顔を見たとたん善綱がのけぞるような仕草をした。
一言も発することなく、食い入るように麻美の顔を、身体を凝視し続ける。
麻美の目尻は紅でもさしたように赤くなってきた。
善綱の無遠慮な凝視に色白の頬を紅潮させはしたが、臆する事もなく正面からの視線を受け止めている。
麻美は珍しく、唇にも紅をさし、髪も高く結い上げていた。
善綱が取り乱した様子で手を叩いた。瑞恵さんが襖を開けてこちらをのぞき込む。
「おかみ、硯箱と紙を持って来ておくれ」
善綱はかすれ声でいうと、ふらふらと立ち上がり、麻美の前にぺたりと座りこんだ。
そうしていると、大男の善綱の方がなぜか麻美より小さく見えた。
瑞恵さんが硯箱と和紙の入った蒔絵の箱と毛氈を持ってきた。
善綱は毛氈を畳の上に広げると、半切くらいの大きな和紙を文鎮で固定し、硯で墨を摺り始めた。
「麻美さんと言ったね。すまんが、一枚だけ絵姿を描かしておくれ」
「はい、このままでよろしいですか」
「うむ」
善綱は面相筆を持って和紙に向かうと、一気呵成に麻美の姿を写し取っていく。
たちまち、柔らかな筆致で、麻美が和装で正座した姿が描かれていった。
切れ長な瞳を半ば伏せ、畳の上に長い脚を折り、背筋を伸ばして端座する麻美の絵姿は、本人以上に美しく見えた。




