ガールミーツボーイ
これは架空の「家」に生じる様々な出来事を絡めた、恋愛小説というか、もう少し軽いボーイミーツガールもののお話です。結婚という少し重い課題で娯楽作品を目指しています。
「ここ空いてる?」
大学の学食でマミ姫にそう声をかけられ、浅井義友はすぐ返事ができなかった。声をかけて来たのはトキトウ麻美、通称マミ姫と呼ばれる女子学生だった。
義友は黙って頷いた。実際は驚いて言葉を返せなかったと言うのが正直なところだ。
彼が即答できなかったのは、マミ姫が同じ教養学部の中でも知らない者のいない美女だったからだ。そもそも今までろくに話した事も無い。そんな美女がなんでまた急に?
マミ姫は長身容姿端麗の見本のような女子で、義友と同じゼミに所属している。だが、今まで一対一はおろか親しく話したことは一度もない。なにより彼女は美人過ぎるせいで、いろいろ口の端に上りやすい女子だった。
曰く
学生が彼女にするには、大人びて美人過ぎる女。
同年代相手の恋愛なんて絶対考えられない。
社会人の金持ちの彼氏がいるに違いない。
学生なんて相手にしないお高い女。
告白して振られた男子学生は星の数。
ツンドラ、極地方の永久凍土地帯とつんけんしていてドライな女をかけたシャレ?
氷の女王、クールビューティ
女吸血鬼
エトセトラ、エトセトラ
マミ姫は、そんな風にさまざまな噂が絶えない超絶美女だった。
彼女の美貌に憧れていながら、声をかける事も出来ない男子学生たちは、反動からかマミ姫を恋愛の対象外と見なしていた。酷い奴になると妖怪変化のように言ったりもした。
だがそれは別に彼女のせいではないだろう。マミ姫の普段の言動は中性的で服装も地味な方だったし、別にお高いお嬢様キャラと言う訳でもない。ただ垢抜けた女子が多い文系女学生のなかでも、マミ姫は一頭地抜けた美人だっただけだ。自分から出しゃばる事はしないし、オープンな性格でもないので、同性の間で人気者になれるタイプでもない。着ている服は、いつも黒っぽいスーツでブラウスも白しか着ない。就職活動中みたいな地味服ばかり着るせいで余計に大人びて見えるのかも知れない。
ともかく、近寄りがたい級の美女というのは、度胸のない男子からは敬遠されるものなのだ。
義友はと言うと、マミ姫を黒いネクタイでもしめれば、葬儀屋かメン・イン・ブラックの様な奴だと思っていた。彼がマミ姫に持っていた印象は、跳び抜けた美女だけど妙に地味で冷たく見える女、そんなところだった。
それにどんな美女だろうが、義友にはマミ姫と関係を持てない別の事情もあった。それは彼の両親が課したある制限のせいだった。
そういえば、義友は一度だけマミ姫の和服姿を見たことがあった。
和服と言っても、それは男装だったけれど。
マミ姫は義友も所属している文化人類学ゼミの研究発表会で、剣豪宮本武蔵の装束を再現して剣舞を見せてくれたのだ。
彼女は武蔵の装束を自作して自ら着用し、ご丁寧に髷まで結い、その装束の材質から縫製にいたるまで詳しい説明をしたあとで、二刀流の型までやってみせた。
手縫いだという着物の出来も良く、武蔵が着用したという立附袴に緋色の羽織も長身のマミ姫に良く似合っていた。ただし、彼女は武蔵を演じるには美形過ぎた。なんというか宝塚の男役のスターが武蔵を演じているみたいだった。マミ姫なら武蔵の敵役の厳流佐々木小次郎の方が似合っただろう。
いずれにしても剣道の経験が長い新九郎にとっては、宝塚風のゴージャスな武蔵より、マミ姫が演じた二刀流の型のほうがはるかに興味深かった。
二天一流を参考にしたらしいその演武は、剣道の理に適っていて、しかも美しかった。マミ姫は太刀と長脇差を両手に構え、ピウピウと刃音を立て、二刀を軽々と振り回して見せたのだ。
使用した刀は、刀身も造りも摸造刀とは思えない見事なものだった。武蔵の差し料「武蔵拵え」を再現したらしく、海鼠鍔を持ち細かな地沸がある明るく冴えた刀身だった。
演武の後で興味を持った藤野教授が刀身を調べたところ、二本とも刃引きもしていない真剣そのものだったと言う。しかも教授がナカゴを改めたところ、その刀は和泉守兼重の作で、試刀家山野勘十郎による金象嵌の試し銘まである重文級の代物だったそうだ。
それを聞いた義友は、マミ姫自身より彼女が一体どこでそんな日本刀を手に入れたのか、そちらの方に興味が移ってしまった。
一方マミ姫の演舞の方は、危うさを毛ほども感じさせない見事なものだった。だが顔の寸前に刃風を感じるような位置で見学していたゼミ生たちは、後でそれが真剣だったと知り、一様に冷や汗をかいたという。
何より義友が感心したのは、二キロはあるはずの日本刀を片手に一本ずつ持って振り回していたのに、マミ姫が顔色ひとつ変えなかった事だ。
確かクールビューティと呼ばれるようになったのはそれからだったと思う。
そんな風にマミ姫は飛び切り綺麗な女子だが、一風変わった人間で、女っぽい色気を感じるタイプではない。普段から誰とも群れず、他の女子学生ともほとんど口を聞かない。無口なせいで、かえって神秘性が付加されている。
それにマミ姫は美人なだけでなく勉強もできたし、運動能力も優れていた。
義友自身、午前中はバスケットボールの試合観戦に行って、マミ姫の華麗なプレイに魅了されて帰ってきたばかりだ。
女子学生のバスケの試合は、マミ姫の大活躍の御蔭で、義友の所属する白組の圧倒的な勝利に終わったのだ。
その白組を勝利に導いたヒーロー、もといヒロインがいきなり隣にやってきたのだ。
義友でなくても、対応にこまってしまっただろう。
確かに今日は体育祭なので、学食もそれなりに混んでいる。
だがなぜ彼女は、わざわざ俺の隣にきたんだ?
「ア・リ・ガ・ト」
マミ姫はどんな男でも蕩かす様な笑顔を浮かべ、なぜか少したどたどしく礼を言うと、義友の隣に腰を下ろした。かなり背が高いのに身ごなしは猫のように滑らかだった。座ると急に小さくなったように見えた。テーブルの下に織り込まれた白くて長い太腿を見て、ああ、こいつやたらと脚が長いんだ、と義友は納得してしまった。
そう言えば義友は、マミ姫が他の男に笑顔をみせているのすら見た記憶がない。
いつの間にか、そんなに混んでいたのか?
義友は周りを見回して怪訝に思った。席は結構空いている。
ただし、必ず隣に誰かがくる程度の混み具合ではある。
もしかして誰かに纏わりつかれるのが嫌で、一応ゼミの知り合いで、無難と思える義友の隣を選んだのだろうか。義友は今さっき同じゼミ生の陣内薫から聞いたばかりの話を思い出していた。
マミ姫のトレイには学食で一番安いビーフカレーが載っている。
カレーもなんだかマミ姫に似合わない気がする。
スカトロ好きな御姫さまとか。
義友はマミ姫についてあれこれ考えているうちに浮かびかけた妄想を慌てて打ち消した。
空想と連想と、それに続く妄想は、幼少のころから両親に厳しく躾けられた反動でついてしまった癖だ。だが今はそれをやっていい状況ではないだろう。
「新九郎?でいいんだよね」
義友がぼんやり考えていると、マミ姫が妙に親しげに、彼のミドルネームで呼びかけてきた。
「浅井義友だ。新九郎は家の跡取りに付けられる名乗りだから」
これはいつも言っている事なので、すぐ口にだせた。
義友は以前、受けねらいでゼミ生同士の自己紹介の席でアザイ・シンクロウ・ヨシトモと名乗ったことがあった。だが見事に滑ってしまった。ゼミ生のだれも、その名前に反応しなかったのだ。ただ一人受けてくれたのは、指導教授の藤野先生だけだった。
「そうか、そうか、君は織田信長に滅ぼされた、浅井一族の知られざる子孫というわけか」
そんな風に教授はひとりで受けまくっていた。
考えてみたら、浅井長政に新九郎と言うミドルネームがあった事や、豊臣家や徳川家に嫁いだ姫たち以外に浅井家の子孫がいたことを知る学生なんて、そうそういるわけがない。
「そう?新九郎の方が格好いいのにね」
マミ姫はため息を吐くような甘い声音で言う。
今度の声は、もうたどたどしい呟き声ではなかった。気持ちの良いアルトの声だ。
図体のでかいマミ姫に似合いの落ち着いた声音でもある。
義友、いやここからはマミ姫に合わせて新九郎と呼ぶことにしよう。
その新九郎は、マミ姫の台詞を聞いて、なんだか背筋がゾクゾクしてきた。
なんだろう?今の感じは。
悪寒?いや、むしろ快感とも言える違和感をマミ姫の声に覚えてしまった。
「まあ、どっちでも好きな風に呼べば?」
強がって見せたが、新九郎の鼓動は高まっていた。
未だかつて、こんな風にマミ姫からお言葉を賜った男子など見たことがない。
「ボクはトキトウアサミ。あだ名はマミだけどあんまり好きじゃないから、できればアサミと呼んで欲しい」
彼女もわざわざそんな風に名乗った。
これも新九郎が属している同じ文化人類学のゼミの自己紹介の時に、マミ姫自身が言った台詞の繰り返しだった。
「トキトウは本来鹿児島の名家の姓ですが、自分は一切関係ありません。名前も良くマミと呼ばれますが、アサミです。どうぞよろしく」
彼女はそんな風に感情を交えず切り口上で言ったものだ。
ただし、マミ姫がボクと名乗ったのは今日初めて聞いた気がする。
彼女は、ゼミの会話の中でも、常に客観的なしゃべり方をして、普段は一人称を使わない。
教授から指名されても「自分ですか?」などと、男みたいな口をきく。
もしかして、こいつボク少女を引きずっているせいで今まで無口だったのか?
そんな風に思っていたら、マミ姫が妙な事を言い出した。
「ああ、トンカツ定食、やっぱり、そっちの方がよかったかなあ」
マミ姫、いや、本人が嫌がるのだからやめておこう。
麻美は、新九郎のカツ定食を隣からのぞき込んで、本気で悔やんでいる様に言う。
とても新鮮だった。
未だかつて、麻美がこんな風に感情を露わにして何か言うのを聞いた覚えがない。
しかしトンカツ定食の方が良かったって、学食メニューを前に超絶美女が言うセリフか?
「トンカツ好きなの?」
新九郎はなんとなく聞く。
「うん」
テーブルに両手をチョコンとかけて頷く麻美の仕草は、座高が低い分、小学生の女の子のようにも、躾けのよい子犬のようにも見えた。
長い睫にびっしり縁取られた瞳を見開き、訴えかけるような眼差しを新九郎に向けてくる。
付け睫毛でもマスカラでもなさそうだ。
その上麻美の瞳は青みがかった不思議な色をしていた。
その深い碧の瞳を見つめていると、思わず引き込まれそうになった。
超絶美女が今度は超絶美少女に化けた。
「よかったら取れよ、まだ手を付けてないから」
新九郎は思わずそう言ってしまった。
「本当?ありがとう」
麻美は新九郎の皿からトンカツを一切れ、細く長い指で慎重につまみあげると、そっとカレーのルウに入れた。
「やた!これでカツカレーだ」
小さな声で呟いた。
すご~く、嬉しそうだった。
「それだけでいいのか?」
「うん」
「じゃあ、喰おうか」
「うん」
新九郎はドキドキが収まり、今度はなんだか楽しくなってきた。
最初、麻美の様な超絶美女と並んで食事を摂るのはけっこうなプレッシャーだと思った。
だがそれは杞憂に過ぎなかった。
麻美のカレーの食い方がなんというか、妙に子供っぽかったからだ。
額に垂れかかる長い黒髪を指でかきあげて、耳の後ろに回す。
その女っぽい仕草を見ていて新九郎は気づいた。麻美の黒髪はなぜか額の左右から下にだけ、ちりちりしたウエーブがある。まるで剣道の面摺れの跡みたいだ。
まさかな。
でも背の半ばまで伸びた、艶やかな後ろ髪は綺麗なストレートヘアだ。なぜ額の左右だけウエーブがあるのだろう。彼女の性格からして、そこだけパーマをかけたりはしそうにないのに。
新九郎の密かな疑問をよそに、麻美はフウフウと形の良い唇をすぼめて、カレーのルウを冷まそうとする。
「ムムン」
口に含んだら、まだ熱かったのか、カレーが辛かったのか、今度はハフハフと空気を吸い込んで軽くむせ、薄い胸を拳で叩く。慌てて水を飲む。
福神漬けをリスのようにポリポリ音を立てて齧る。
極めつけはトンカツの食い方だった。スプーンで四等分してカレールウにつけ込み、吟味するように一口ずつ食べている。
そんなにトンカツが好きだったのか?こいつ。
「おい、もっと取っていいぞ、カツ」
新九郎は縁起を担いでカツ定にしたものの、この後の競技で走らなければならないと思うと、あまり食欲がわかないでいた。
「本当?じゃあもう一切れだけ」
新九郎の食べかけの皿から、麻美は一番小さなカツの切れ端をうれしそうに拾う。
「もらってばかりじゃ悪いから、ボクのカレーもあげるね」
新九郎がなにか言う前に、麻美はカレールウを一さじ、定食のライスにかけてしまった。
「えっ?」
ちょっと待て、そのスプーン、今さっき口に含んでいたよね?
思いっきり舐めてしゃぶっていたよね?
これって間接キスになるのでは?
新九郎は戸惑った。このカレー食ってもいいものなのか?
その時、こちらを見つめている複数の視線に気づいた。
一つ向こうのテーブルに同じゼミの学生がたむろしていた。
彼らは食事を中断して、新九郎たちに注目していた。
一人、ニヤニヤしながら見ている女子がいるが、連れの男子の方は大自然の驚異を目の当たりにしたような表情を浮かべている。彼らも麻美の振る舞いが信じられないのだろう。
新九郎自身もそうだった。
「カレーおいしいよ。食べたら?」
麻美は他人の視線など眼中にないように言う。
「ああ、うん」
カレーじゃあ間接キスにはならないよな?
そう思い直してルウのかかったご飯を箸でつまんで口に運ぶ。
こちらに注目している男たちの溜め息が聞こえてくるようだった。
やっぱりか?お前らもそう思うよな。
まあ間接キスは別にしても、カレーは確かに旨かった。
学食のカレーなんて馬鹿にして今まで喰った事が無かった。
ちゃんと肉も野菜も入っている。
いや待て、麻美はわざわざ少ない肉のある所を選んで新九郎にくれたのか?
さっきのカレーのガキっぽい食い方といい、カツ一切れであんなに喜ぶ様子といい、妙に気遣いが良いところといい、麻美の振る舞いには、お高いお嬢様の印象などまるでない。
なんだ、麻美って結構いい奴だったんじゃないか。
まったく噂なんて当てになりゃしない。
そんな風に思えてきた。
だが、ゼミ生たちの視線も気になった。
後で、あいつらにも、もっと麻美と話すようにいってやろう。
そうすれば、本当は麻美が気さくでいい奴だって分かるだろう。
またぼんやり考えていると、麻美がなにか聞いてきた。
小首を傾げて新九郎に問いかけるさまが妙に可愛い。
新九郎は眼の前の麻美に注意を戻した。
「ねえ、新九郎はこの後なにか競技にでるの?」
あ、俺の事、新九郎と呼ぶ事にしたんだ。
じゃあ、俺も、麻美と呼ばせてもらおう。
新九郎はそう思って、できるだけさりげなく答えた。
「俺はあと千メートル走が残っている。麻美は?」
千メートル走への出走が、実は新九郎の憂鬱の種だった。白組の勝敗がかかっている。
「ボクの方はもう全部終わった。じゃあ応援に行くからがんばってね。さっきバスケの応援に来てくれたお返しだ」
本当かよ?麻美のような超絶美女が俺を応援してくれる?
なんだか夢みたいな話だった。
「ああ、たのむな」
やっと笑顔でそう返すことができた。
返事をしてから思った。麻美はあんなにたくさんいた女子バスケの観客の中に新九郎がいた事に気づいていたのか?もしかして、こいつ俺を意識している?まさかな。
新九郎千メートル走で勝つ
籤で当たった千メートル走なんてだるいだけだと思っていた。
でも新九郎は麻美のおかげで優勝することができた。
麻美は長い黒髪を振り乱し、手を叩き、足を踏みならし、あたりを憚らない大声で、トラックを走る新九郎を応援してくれたのだ。
いつもなら途中から苦しくなって、足が重くなり、走り続けるのが苦痛でしかないのに、今日は軽々と最後まで走りきれた。なぜだろう?
まあ、麻美のような美女に、あんな風に熱心に応援されたら、そりゃやる気も出るだろう。
新九郎はそんな風に解釈した。
ただし応援の際の呼び名には若干問題があった。
「新九郎!がんばれえ!新九郎、もう少しだ!新九郎、負けるなあ!」
たぶん、麻美が新九郎の事を応援していると気付いたのは、同じゼミの、それも極親しい仲間くらいだったろう。
一位表彰をもらって、着替えるためにゼミ室に戻ろうとしたら、同じゼミの吉田剛と神内薫が向こうからやって来た。さっき食堂で新九郎たちを見ていた中にいた奴らだ。
吉田と神内は、一年のころからつきあっている公認カップルだ。
美女と野獣と揶揄する奴らもいるが、新九郎は結構似合いだと思っている。
「いかがですか?浅井選手。優勝のご感想は?」
神内薫がプログラムを丸めて、マイクのように突き出しヒーローインタビューを気取る。
彼女はTVのニュースキャスターを目指している。こいつはこいつで気遣いのできるいい女だ。それに麻美のような超絶美女ではないから気軽に応える事ができる。
「おお神内か、ありがとうな」
新九郎は普通に返した。
「それで、今回の勝因はなんだったのでしょう?」
神内はキャスターごっこを止めない。新九郎もとりあえず乗ってみる。
「そうですね~、皆さんの熱心な応援の賜物だったのではないでしょうか?」
「そうそう応援よ、浅井君って、前からあんなにマミ姫と仲良かったっけ?」
神内はいつもの口調に戻ってしまった。なんだ、神内の興味もやっぱり麻美かよ。
「べ、別に、麻美と口聞いたのは今日が初めてだぜ」
「本当?麻美だなんて呼び捨てにしているくせに」
「おい浅井、どうやってあのマミ姫を手なずけたんだ?」
剛も聞いてきた。こいつはボディビル部に所属していて、近くに寄られると圧迫感を覚えるくらいの筋肉野郎だ。確かに陣内と吉田は美女と野獣のカップルと言っていい。
「手なずけただなんて、人聞きの悪い。隣で飯食って、カツ定のカツ分けてやっただけだぜ」
「野良猫じゃあるまいし、本当にそれだけか?」
「ああ、麻美ってトンカツ好きみたいだ」
「トンカツってお前、あのクールビューティ、氷の女王のマミ姫だぜ。それがトンカツごときでなびくものかぁ?じゃあ、俺もひとつ麻美にトンカツやってみるかな」
陣内薫が振り向きもせず剛の脇腹に肘鉄をかました。剛はそれだけで顔を顰めて馨に詫びる仕草をみせた。ごつい図体のくせに案外情けない奴だ。まあそう言う夫婦漫才はいつもの事なので、新九郎は軽く流すことにした。
「氷の女王?そういやあいつ、そんな風に呼ばれていたっけ?でもそんな奴じゃないって。お前らも話してみればわかるって」
むしろ熱心に麻美の弁護をしてしまった。
「そうなのかな。でも、あたしもマミ姫があんなに男子と仲よさげだったのは初めて見た。今日はバスケでも凄い活躍だったけど、普段はゼミの女子とだってろくに口きかないのよ」
「そうなのか?」
「マミ姫も、浅井君にカレー分けてあげて、浅井君もそれを普通に食べていたわよね。あれって間接キスじゃない。いったいどうやってそこまで仲良くなったの?」
「俺にもよく分からん」
実は、新九郎たちの数歩後ろを麻美が黙ってついて来ていた。
長い髪が揺れる背の高い影でそれに気づいたのは新九郎だけだった。
剣道歴が長い新九郎は、そう言う気配には鋭い。
それで意味ありげな視線を後ろに投げた。
神内と吉田はやっとで麻美の存在に気づいた。
「じゃあ、また後でな、浅井」
「この後ゼミ寄るでしょ?」
「体育祭の打ち上げと文化祭の打ち合わせもやるからな」
新九郎が何も答えないうちに、二人はそそくさと離れて行った。
神内たちが離れると、タタタと足音がして、麻美が後ろから抱きついて来た。
いきなり抱きつかれた新九郎は少しよろめく。
女とは言え麻美は結構大柄で、それなりに体重もあるようだ。
何より麻美は体格に合わせて力が強いみたいだった。
「おめでとう。新九郎一位とれたね、これで白組の優勝決まりだね」
新九郎はいきなり抱きつかれ、頬をスリスリされて目を白黒させていた。
長い黒髪が、背後からの風にあおられて、新九郎たち二人を覆う。
麻美はその黒髪の影に隠れるようにして新九郎の頬にキスしてくれた。
チュッと器用に音まで立ててみせる
これは、単に、祝福の、キス、だよな?
耳まで真っ赤になりながらそう思った。
新九郎の背中にふたつ、温かく柔らかな膨らみが当たっている。
これは、麻美の胸、だよな?
新九郎の感覚は鋭敏になっている。
麻美が触れらている身体のあちこちがビリビリする。
周りにはたくさんの学生がいる。
誰もが新九郎と麻美に注目しているような気がした。
麻美は一瞬のキスのあと、すぐに新九郎を放し、右に回り自分から手を繋いできた。
「行こうか」
そんな風に何気なく新九郎を誘う。
「行くって、どこへ?」
麻美はそれには答えず歩きだす。手を握られたままの新九郎は着いていくしかない。
この後は、体育会に所属する格闘系クラブのエキシビションマッチだけなので、集計が終われば紅組と白組の勝ち負けもわかるだろう。
新九郎はむさい男同士が徒手空拳で格闘するさまや、剛には悪いが、日本で一番盛んだというボディビルにはあまり興味がない。剣道の模範演武なら見にいったのに、この大学はなぜか剣道だけはそれほど盛んじゃない。
新九郎と麻美は、ロッカーから貴重品を回収し着替えを置いたゼミ室に向った。
麻美と新九郎
トキトウ麻美は、新九郎と同じ教養学部の総合文化研究科の学生だ。
二人とも藤野教授の文化人類学ゼミに所属している。
新九郎たちが所属している教養学部は特定の学問の枠に縛られず、人文科学・社会科学・自然科学の領域を広く横断的に取り扱う学部だ。必ずしも学際的な分野を専攻するというわけではない。
新九郎は、浮世絵とそこに描かれた江戸時代の風俗が研究対象で今は春画を研究していた。
麻美は以前から和装着物とその背景となる風俗を研究対象にしている。
新九郎自身は、自分のことを、なんの取り柄もない、地方の地主の家のボンボンくらいに考えていた。背こそ高いが、体格も容姿も言動も、普通としか形容しようのない面白みのない男だと自認している。
新九郎が自分自身で感じている欠点は、教養のない地方出身の乱暴者だと言うことだ。
故郷では、小学校からずっと、夏祭りの野試合の大将を務めていた。
今、その役は弟の新十郎が勤めている。
だが弟の役は、他薦であり彼の人徳の賜物と言えた。それに対して自分のは明らかにケンカ沙汰での実力を買われてのものだった。この差は小さいようで実は大きい。
大学生になった今でこそ、新九郎も少しは大人になった。つまりは大人しくなったわけだが、高校までは酷いものだった。自校の後輩たちを守るためと称して他校の不良との喧嘩に明け暮れていた。名目は一応あったが実際は単に沸点の低い喧嘩好きな野郎に過ぎなかった。
幸い学校の勉強はできた。だからこの大学に入れた。今はなんとか浅井家の跡取りが務まるように教養を身につけようと努力を続けている。
それが新九郎の現状という奴だった。
一応実家が武家の末裔なので、剣道と居合道は今も続けている。だが他の事は、全て成り行きで始めただけだ。ゼミで浮世絵を研究対象にしたのも、実家にたくさんの肉筆浮世絵があったのと、下宿で世話になっている遠縁の海北小父さんが日本画家だったからだ。
そもそも新九郎は大学を卒業したら、浅井の家を継ぐだけの人生なので、就職のために専門技能を身につける必要もない。ある意味研究対象からして旦那芸の域を出ないものだったのだ。
麻美の方は、長くのばした黒髪に色白の肌と、なぜか青みがかった瞳を持つ超絶美女として有名だった。女性ファッション誌のカバーモデルでも務まりそうな高貴な美貌を持ち、成績はすべてA+という才媛でもある。研究対象が和服全般、つまり着物と言うのが不似合いに思えるほど洋風な顔立ちでもある。
噂ではハーフだとか、ロマノフ王朝のロシア貴族の血を引くとか、いろいろ噂されている。
細く高い鼻梁と、西洋の騎士物語りのお姫様を彷彿とさせるノーブルな小顔からマミ姫とあだ名されてもいる。確かに地味服を着ていても背景に花を散らした少女マンガの主人公みたいに目立つ奴だ。
しかし面と向かって彼女をマミ姫と呼ぶ人間はいない。
そもそも新九郎自身、男女を問わず麻美と親しげに話している奴は今まで見たことがなかった。麻美は美人過ぎて敬遠されてしまう女の典型なのだろう。
新九郎自身、麻美が「ボク少女」だなんて、今日初めて知った。
麻美はスリムで背も高い。こうして体育用のスニーカーを履いていても新九郎とあまり変わらない背丈だから、ハイヒールを履かれたら、麻美の方が確実に高くなってしまうだろう。
だが麻美は半鐘泥棒的な、ただ背が高いだけの女ではなかったようだ。
今までは、地味で体の線が分かりにくい服ばかり着ていたので気づかなかったが、今日は半そで半ズボンのタイトなスポーツウエアなので、しっかり体型が分かってしまう。
ボンキュッボンにはほど遠い体型とは言え、それでも出るところは出て、へこむところはちゃんとへこんだ、女らしい身体つきをしている。
手足も長く引き締まった、しかもしなやかな体幹を持っている。
いわゆるスーパーモデル体型と言う奴だろう。
いつも着ている地味服をやめて、ちゃんとサイズの合ったドレスでも着れば、このスーパーモデル並のスタイルと持ち前の美貌で、ますます人目を引くようになるだろう。
ちなみに、今日の体育祭は、前期課程はクラス分けで、後期課程は所属ゼミから紅白にチーム分けして競技を行い、勝ち点を集計して勝敗を決する事になっていた。
新九郎も白組なので応援に行ったが、女子の球技の中でも、双方経験者を集めてチームを組んだバスケットボールの試合は見ものだった。
なぜなら、事前の下馬評を覆し、不利と目されていた白組が圧勝してしまったからだ。
最大の勝因は麻美の長身とずば抜けた運動能力だった。
いや、プロバスケットボールの選手並みの技量と言ったほうがいいだろう。
麻美は殆ど独りで、大学の女子バスケ部主体の紅組を抑えこみ、なんと百二十点対四十一点と、得失点差二倍以上のスコアを叩きだして見せたのだ。
高校時代、籠球部のキャプテンだった神内薫は、最初麻美の実力を知らなかった。
それで身長の高い麻美をセンターに置いてポイントガードをやらせようと考えたという。
だがボールが渡りさえすれば、麻美はどんなにタイトにマークされていても、トリックを駆使したボールハンドリングで相手のディフェンスをかわし、毎回確実にゴールを決めて見せたのだ。
麻美のシュートに対するずば抜けた能力が明らかになると、白組女子は全てのボールを麻美に集中するようになった。
麻美は女だてらに、バスケの六号球を軽々と片手で振り回し、誰も手を出せないような鋭く変化に富んだドリブルで巧妙に相手方ディフェンスを抜き、フェイントをかけ、敵チームの選手を翻弄し続けた。
しかも、ハイ、ミドル、ローのどのポストからのシュートでも一度もゴールをはずさなかった。
ファーストクォーターの最後には、センターラインの遥か手前から無造作に放ったボールを、リングにノータッチでゴールさせると言う離れ業さえやって見せた。
さらに麻美は自軍のゴール下でのリバウンドの競り合いでも必ずボールを奪取した。
これは高い身長だけでなく、麻美に跳び抜けたジャンプ力があったからだ。
麻美はボールを確保するやいなや、速攻に切り替え、あまりの脚の速さにチームメートが追いつけないと、しばしば単独で相手方のゾーンディフェンスに切り込んだ。
相手チームがマンツーマンディフェンスに切り替え、さらに常に二名体制で麻美をマークし始めると、今度は巧妙なフェイントでディフェンスを振り切り、スラムダンクシュートまで決め、たちまち相手の戦意を喪失させてしまった。
百八十センチ近い長身の麻美が風のように走り、カモシカのように跳び、必ずシュートを決める。長い黒髪をなびかせ、相手選手の頭上を飛び越すようなジャンプを見せる。
プロバスケットボールのプレイさえ凌駕するような空中戦に新九郎も魅了された。
なにより麻美はバスケの試合中ずっと笑顔だった。
サード・クォーターの後半以降、他の選手達の息が上がり始め、前かがみになって苦しそうにあえぐ中、一人背筋を伸ばして走り回る麻美の笑顔はとても印象的だった。
まるで、バスケの試合で他の選手と競い合うのが楽しくて仕方ないという笑顔だった。
もっとも後で聞いた話では、紅組の選手からは、笑う案山子だ、ジャック・オ・ランタンだ、とそうとう嫌われたらしい。
確かに相手方の選手からしたら、長身容姿端麗の見本みたいな麻美が、笑いながらボールを持って突っ込んでくるのだ。さだめし気味が悪かったことだろう。
いずれにしても、麻美は美人で成績が良いだけの女子ではなかった。飛びぬけた運動能力も兼ね備えたスーパーウーマンだったのだ。新九郎たち白組の男子も、あまりに見事な麻美のプレイに、大興奮で拍手喝采を送ったのだった。
ここからは、昼飯前に神内薫が教えてくれた話になる。麻美のおかげで白組女子バスケチームが圧倒的な勝利をおさめたので、それを祝うため、ゼミの仲間で昼休みに祝杯をあげようと準備したのだと言う。
ところが、審判役を務めていた女子バスケ部のキャプテンが、いきなりゼミの教室にやってきて、麻美をスカウトしようとした。キャプテンは、あっけにとられる女子たちの前で、土下座までして麻美の入部を懇願したらしい。
確かに大学のバスケの選手でも、試合中あらゆるポストからの百パーセントのシュート成功率を誇り、軽々とダンクシュートまで決められる選手なんて、男子だってそうそういないだろう。
戦績の振るわない女子バスケ部のキャプテンが麻美を欲しがったのは無理のない話だ。
なぜか麻美は、その場から逃げ出してしまったらしい。
そして逃げた先の学食で、たまたまそこにいた新九郎にカツをねだっていたわけだ。
もしかすると麻美は、バスケ部キャプテンのスカウトから逃れるために新九郎を利用したのかも知れない。新九郎はそんな風に麻美の行動を解釈していた。いくら体育会系の主将とは言え、男子といちゃついている女子にまで強引な勧誘はしてこないだろう。
体育祭の成績の方は、球技の後、午後の陸上競技で、紅組にだいぶ追いつかれたが、最後の千メートル走で新九郎が優勝したので、ほぼ白組の勝ちで決まりだと思われた。
案の定、場内アナウンスで「白組優勝!」と言う声が聞こえてきた。
あちこちで歓声やら、悲嘆の声やらが上がる。
学生たちが大騒ぎしているのは、勝利したチームの学生全員に、保健体育の成績でプラス点が与えられるからだ。さらに新九郎や麻美のように個々の競技で優勝すると、保健体育の成績でもA+が約束される。麻美もその点は同じはずだ。
この点数制度は、教職に就く学生が多い教養学部で体育祭の参加者を増やし、盛り上げるために教授会が画策したことだと言う。
だが新九郎は麻美の方に気を取られて、体育祭の勝ち負けなどどうでもよくなっていた。
なぜだか知らないが、麻美から片時も離れられないくらい、彼女が魅力的に思えてきたからだ。もしかすると、眼の前で繰り広げられた、バスケの華麗なプレイの影響もあったかもしれない。
その知性と美貌と飛びぬけた運動能力を兼ね備えたスーパーウーマンが、さっきから新九郎の手を握り、隣を当然のように歩いている。その状況にもっと浸っていたかったのかも知れない。そんな新九郎の心境の変化を知ってか知らずか、麻美は軽い口調で言ってきた。
「白組勝ったね。新九郎もボクも優勝しているから保健体育の成績A+間違いなしだ」
「あ、ああ、そうだな」
新九郎は、麻美にそういわれるまで、体育祭の勝敗も、成績のこともすっかり忘れていた。
新九郎悩む
新九郎も一応はチャラチャラした在京文系の学生なので、今までも付き合った女子がいなかったわけではない。今もガールフレンドと呼んで差し支えない女友達が数人と、他人には言えないが年上のセフレが一人いる。
前者とは時折デートする程度だが、後者とは今も男女の関係が続いている。もっとも相手の女性は旦那もちなので、新九郎とは浮気でしかないはずだ。
今まで新九郎は、大学在学中、特定のスティディを作らないつもりでいた。二十歳を過ぎて、深い付き合いになった女は、将来結婚対象になりかねない。そもそも新九郎は両親から、恋愛と結婚は別物だと繰り返し言い聞かされて育った男だった。
新九郎にはそう言う家の事情もあったので、身近にいる麻美と言う美女にも無意識の内に興味を持たないようにしてきたのかも知れない。
その両親は新九郎が卒業したら、しかるべきところから、しかるべき嫁を娶り、新九郎に浅井の家を継がせるつもりでいた。そのため、大学在学中は好きに暮らしてもよいが、結婚の約束だけは絶対にしてくれるな、ときつく言い含められていた。
両親はその代償のつもりか、クルマやらパソコンやらなんでも買い与えてくれたが、独り住まいだけは許可してくれず、今も両親の知り合いが持っている管理人付きの下宿に住まわされていた。
そのくらい両親は新九郎の結婚が、と言うより浅井の家が大事だったらしい。しかしその両親も、大震災の時に出先の仙台で行方不明になったままだ。
新九郎の両親は彼の縁談をまとめるために、仙台の伊達家を訪問する予定だったらしい。しかしそれも大震災で沙汰止みになってしまった。
新九郎自身、もう数え切れないくらい両親の捜索に参加していたが、未だに遺体どころか、遺品一つ見つかっていない。そもそも彼の両親は、旅行中に大震災に遭遇し、地元の人間ではなかったため、最初は行方不明者リストにも載っていなかった。両親はクルマで仙台海岸沿いを移動中に津波に遭遇したらしい。恐らく津波の引き波と一緒に海に呑まれてしまったのだろう。新九郎は両親の生死確認については、もうあきらめかけていた。
顧問弁護士の赤尾綱近によると、このまま両親が行方不明のままなら、七年間で死亡と同等とみなされるようになると言う。つまり新九郎は浅井家の男として、否も応もなく家督を継ぐ立場になる訳だ。
今は後見人で、家のことを代々見てくれている弁護士の赤尾が、家政の一切を取り仕切り、領地の農産物や不動産収入の上がりから、新九郎にも少なからぬ生活費を送ってくれている。
毎月、事業全体の決算書も送られてくるが、今のところ大きな問題はないようだ。
つまり新九郎は卒業と同時に家督を相続する立場ではあるが、今は下宿先に厄介になっている部屋住みみたいな状態で暮らしているわけだ。
何を隠そう、その下宿先のおかみである京極瑞江さんが、新九郎の秘密のお相手だった。
瑞江さんは花街の出身だと言う。瑞江さんの旦那の海北さんも、両親の古くからの知り合いで、浅井の縁続きであり、他に家庭を持つ日本画家だ。その海北さんの囲い者で玄人である瑞江さんと、新九郎は出来てしまった訳だ。
瑞江さんの旦那である海北さんは豪放磊落な人で、年齢がいっている上、浅井の両親と付き合いが長いせいもあり、新九郎と瑞江さんの関係を知っていながら黙認しているふしもあった。
「新九郎さんのお身の回りのお世話は、この瑞江にいたさせますから何なりとお申し付けください」
下宿する前に挨拶に寄った時も、瑞江さんを引き合わせて両親にそんな風に言っていた。
その身の回りのお世話の中に、新九郎の夜伽まで含まれていたかどうかは定かではない。
なんにせよ新九郎にとって海北さんは、瑞江さんという女性を共有する事になった年上の男性であり、時々一緒に酒を飲んだりもする不思議な間柄なのだが、考えてみると、海北さん自身が浅井の両親から頼まれて、新九郎に変な虫がつかないよう、瑞枝さんにそうしむけた可能性もありそうだった。
新九郎はそんな風に、卒業までの執行猶予みたいな立ち位置で、今まではなんとなく毎日を暮らしてきた。ある意味、贅沢な籠の鳥だった。むやみに道を外れないように、両親や親類縁者から金に住処にクルマに女すらもあてがわれて暮らしてきたボンボンと言う訳だ。そんなあてがい扶持で暮らしてきた新九郎から、両親というタガが外されてしまったところに、麻美という女が現れたのだ。
それもとびきり魅力的な美女が。
自分はこの麻美とこれからどう接していけばいいのだろう?
新九郎は、初めて女子と付き合い始めた思春期の少年みたいに舞い上がっていたが、同時に不安も感じていた。
麻美と遠足の小学生みたいに手をつないで歩きながら、新九郎は心の中で自問自答を繰り返していた。これも一種の空想癖、連想癖、妄想癖の一種だった。いきなり目の前に現れた麻美という女の扱いを俺はどうすべきなのか?それを自分で決められないのがもどかしいのだ。
昼食の時に、麻美が新九郎の隣に座ったのはバスケ部のキャプテンに対する目くらましだったのかも知れない。
でも、なぜかはわからないが麻美は新九郎を気にいってくれたらしい。
新九郎の方はガールフレンドとしてなら、麻美のように綺麗で聡明な女子と付き合う事に否やはない。しかし彼女として深く付き合うとなると、新九郎にはしがらみが多すぎる。
まだ付き合う付き合わないという話題も出ない内から、新九郎の妄想は止まらなくなっていた。こういう時は誰に相談したらいいのだろう?
今まで女性の事は、何でも瑞江さんが相談に乗ってくれた。
相談ついでに男女の秘事まで教わってしまった訳だけど、麻美の事も瑞江さんに相談して良いものだろうか?そんな風に自分の交際相手の事さえ他人任せにしようとするあたり、やはり新九郎はお坊ちゃん育ちの男だった。
新九郎は麻美を置き去りにした独りよがりの思考を一時中断して、隣で鼻歌でも歌いそうに上機嫌で歩いている麻美本人に声をかけてみた。
まずは麻美自身の気持ちを確認したいと思ったのだ。
「なあ、麻美って呼んでもいいか?」
「いいよ、さっきからそう呼んでいるじゃないか」
麻美はつないだ手をぶんぶん振って、とびきりの笑顔で答えてくれる。
なんか外観と口調にすごいギャップがある気がするけど、こうして見ると麻美はやっぱりいい女だ。化粧っけはまるでないが、麻美は素材からして極上のパーツで組み立てられた女にみえるのだ。
瑞江さんも言っていた。
スッピンでも綺麗な女が本当の美人なんですよって。
瑞江さんも素肌の綺麗な女だが、麻美にいたっては赤ん坊のように滑らかな肌をしている。
「なあ、麻美はなんで急に俺と親しくしてくれるようになったんだ?」
「うん?わっかんな~い」
麻美は屈託なく笑いながら言う。
笑うと意外と口が大きい。それに歯並びも綺麗だ。ピンク色の艶やかな唇から覗く白い歯が眩しい。ちょっと犬歯が大き過ぎる気もするが、こうして間近で屈託のない笑顔を見ると、深窓の令嬢と言うより、若くて健康な女戦士か何かのようにも見える。
「わかんないって、お前」
「だって、人を好きになるのに理由なんている?」
今、好きっていったよな?俺のことだよな?
新九郎の鼓動が速くなる。
「う~ん、なんか麻美って、俺がイメージしていたキャラと違うように見えるんだけど」
「キャラって?」
「俺は麻美の事をもっとこう、なんていうか、どっかのお嬢みたいな女だと思っていた」
「ふうん、ねえ新九郎って、浅井の若様なんだよね?」
今度は麻美の方から軽い口調で聞いてきた。
「いや、若様というような大層なもんじゃねえけど」
「でも、継ぐべき家があるっていうのはいいことだよ」
「そういうもんかな?」
「そうだよ、ボクはそういうのが羨ましいのかも知れない」
「いや、そんないいもんじゃないぜ。いろいろ好き勝手できないし…」
親が選んだ女としか結婚できないから、と言いかけて、慌てて止めた。
「ボクにはそういうのが何もないから」
新九郎の重い語り口に対して、麻美の口調は妙に軽い。
「ないって?どういう意味だ。女だからか?」
「違うよ、ボクは児童養護施設で育ったんだ。だからさ」
「児童養護施設?」
「孤児院だよ。身寄りのない子供を育ててくれる施設のことさ」
麻美の口調は変わらない。でもいつの間にか目はふせていた。
「孤児院って、じゃあ麻美は親がいないのか?」
「うん」
「両親が誰だかも知らないのか?」
「うん」
「ちょっと待ってくれ。じゃあ今は、どこでどうやって暮らしているんだ?」
「遠縁のおじさんとおばさんに引き取られて、今はその家で暮らしている」
「そうか、そうだったのか」
新九郎はそれを聞いてなんだか梯子を外されたような気分になった。
マミ姫などと渾名される麻美のことだから、てっきりどこかのお嬢さまだと思い込んでいた。
家柄さえ良ければ、深い付き合いになっても、聡明で綺麗で性格も良さげな麻美と、将来結婚まで行けるかも知れないと期待を持ちかけていた。
新九郎は親がいなくなった以上、家格の釣り合いさえとれれば、自分で結婚相手も選べるのではないか、と淡い期待を抱き始めていたのだ。
一生を共に過ごす配偶者まで、親のあてがい扶持は嫌だった。
クルマだって赤尾の勧めで、メルセデス・ベンツなんてオヤジクルマをあてがわれている。
赤尾はメルセデスの事を、百年は保つクルマだと信じているからだ。もっとも赤尾自身が乗っている縦目のベンツを見るとその説もうなずけるような気がしないでもない。
だがクルマと女房はわけが違う。クルマは高性能で安全でさえあれば少々ダサくてもがまんできるが、人間には好悪の感情があるし、男女には相性と言うものがあるからだ。
両親がこの娘が良いと一方的に決めて、自分の妻となる女をあてがわれる。
その女と暮らす内になんとなく懇ろになり、そのうち子が出来る。
その子にまた結婚相手を選んで、家を継がせていく。
そんな風に、好きに結婚相手も選べない未来に、新九郎は密かな反発を感じていたのだ。
もしかしたら、自分自身で配偶者を決められる機会が与えられたのかも知れない。
そう期待しかけた今だからこそ、自分の好みの女を捜したかったのに。
麻美は自分の相手にうってつけに見えたのに。
それが親の顔も知らない孤児だったとは。
「だからさ、ボクと付き合っても、新九郎にはあんまりいいこと無いかもしれない」
麻美はそんな新九郎の考えを読んだかのように、視線を上げ、あっけらかんと言う。
微笑みさえ浮かべている。なぜそんな明るい顔で、そんな深刻な話ができるんだ。
新九郎は心の中で舌打ちしたい思いだった。
「麻美、それは、どういう、意味だ?」
新九郎は何か固いものを、むりやり飲み下すような気持ちで、前を向いたまま訊ねた。
「うん?どう言う意味って?そうだね、おじさんとおばさんは、いい相手がみつかったら、ボクの嫁入り支度くらいちゃんとしてやるって言ってくれたけど、そもそも孤児じゃ新九郎とは釣り合いがとれないよね」
「そんな、今時、家柄がどうとかなんて、関係ないだろ」
関係なくないのは、新九郎自身が良く分かっていた。
旧家の素封家同士の結婚は、周囲からあれこれ小難しい注文がつくものなのだ。
特に家系と家格はうるさい。麻美がいくら綺麗でこの大学に主席で合格出来るほど賢くても、全く係累のない女では話にならない。資産家の旧家というのは、両家を共に守り栄えさせるために子女の婚姻を行うものだからだ。姻戚になっても、なんの見返りも期待できない孤児では花嫁候補にすらしてもらえないだろう。シンデレラ伝説なんて真っ赤なウソだ。玉の輿に乗れるのは、その見返りを提供できる女だけなのだ。少なくとも新九郎の住む世界ではそうだった。
「だからさ、ボクの事はそんなに真剣に考えなくてもいいよ」
麻美は孤児であることをカミングアウトしたくせに、口調は平静なままだ。
「う~ん、そう言う深刻な事情を教えられてから、そう言われてもな」
対する新九郎はかなり落ち込んでいた。
「違うよ、結婚とか関係なしに、軽い気持ちでボクと付き合ってみないって言ってるんだよ」
「麻美、今、さらっと何を言った?」
新九郎は思わず麻美の手を引いて立ち止まってしまった。
「うん?付き合ってみないって言ったんだけど」
麻美はにこやかに言う。午後の陽光が、まるで後光のように麻美の長い髪の回りから降り注いでいた。
逆光で影になった穏やかな顔からは、逆に影も邪心も欲も感じられなかった。そうした負の感情が、かけらさえ感じられないのだ。一体この女ってどういう女なんだ?
孤児で、遠縁の叔父叔母の家に住んでいるというのに、麻美には自分を悲観している様子はどこにもない。こいつは何にも縛られていない。こんな女が俺の身近にいたなんて。
こう言う逆境にも挫ける事の無い、強くて美しくて自由な人間が新九郎は好きだった。
こいつは深窓の令嬢なんかじゃない。自分で自分の行き先をきちんと決められる女だ。
麻美を見て、新九郎はそんな風に直感した。
「どうかな?軽い気持ちでボクと付き合ってみない?」
麻美は新九郎の瞳をまっすぐ見つめて、もう一度そう言った。
「軽い気持ちって言われてもなあ」
今度は新九郎が眼をそらしてしまった。
彼は既に麻美の虜になっているのだが、彼女のいうようにむしのいい関係になっていいのか、自分でも判断がつかないのだ。
でも今つないでいる麻美の手は放したくない。
そんな葛藤を感じながら歩いて行くと、もうゼミ室のある研究棟に向かう外廊下だった。
「あ、もしかしてボクみたいな女は好みじゃなかった?」
そのことに急に気がついたように言い、麻美の声のトーンが下がる。
「そうだよね。ボクってやたら背は高いし、胸なんてないし、女っぽくもないし」
孤児である事をカミングアウトした時とは裏腹に、麻美の話しぶりはどんどん暗くなる。
麻美のネガティブな感情が新九郎にも伝わって来て、肌寒さまで感じるほどだ。
まるで舞台を見ていたら、役者の暗い台詞に合わせて照明が落とされたみたいだった。
事実さっきまでの晴天が嘘のように叢雲が太陽を隠してしまった。
遠雷すら聞こえてくるような気がする。
なんなんだ?麻美のこの異様な影響力は?
新九郎は何か言わなければと焦る。
「い、いや、そんな事はねえって、麻美は綺麗だし、スリムでスタイルもいいし」
「あ~、今スリムって言ったあ。やっぱり痩せて胸がないのを残念だと思ってるんだ」
麻美は新九郎の手を振りほどき、両手で顔を覆い、いきなりその場にしゃがみ込んでしまった。新九郎は柔らかくて気持ちのよい麻美の手にもう一度触れたくて焦る。
まるで母親に手を繋ぐ事を拒否された子供みたいな気分だった。
なにより自分のせいで、目の前の女に泣かれるという事態に耐えらそうにない。
「残念ってお前、胸ってのは、でかすぎるのも良くねえし、あんま女っぽいのもって、おい、いったい俺に何言わす気なんだ」
麻美は顔を覆った指の隙間から、碧い瞳で新九郎を盗み見ていた。
実は泣きまねを隠そうともしていなかったみたいだ。
「クフフフ、やっぱり思ったとおりだ。新九郎は優しいねえ」
すっかり機嫌が直った様子で、含み笑いをしながら麻美は右手を差し出してきた。
新九郎はしゃがんだままの麻美の手をとって引き起こした。
今のは演技だったのか?それとも本気だったのか?
麻美のような綺麗な女に、こんな風にあしらわれると、新九郎の器量ではどうやっても太刀打ちできそうにない。まるでバスケで麻美にぼろ負けした、相手チームの選手みたいだ。
機嫌が直った麻美がコロコロ笑うと、ピッチリしたスポーツウエアの下で、形の良い乳房が揺れる。なんだ、けっこう胸あるじゃねえか。それだけありゃ十分だろ。
って、なんでそんなに揺れやがるんだ?
も、もしかしてこいつノーブラか?
そういや、麻美の胸って、妙に先端がとがってないか?
麻美は新九郎をひっかけたのが、よほどツボにはまったのか、笑いが止まらないらしい。
新九郎の方はクスクス笑いと一緒に、複雑な動きで左右別々に揺れ続ける麻美の乳房から目を離せなくなった。
こいつ、さっきの試合、この格好でバスケに出ていたよな?
ゼッケン越しだったが、いったい何人の男が、この縦横に揺れる麻美の胸に気づいただろう?
新九郎自身は、麻美の華麗なプレイに目を奪われて、そんなところまで目が行っていなかった。だが、どう考えても、女子バスケの試合であの観客動員数って、おかしいだろ?
実はそっちが目当ての男のほうが多かったんじゃないか?妙に男子学生の観客多かったし。
これだけきれいな女がノーブラでバスケをやっていたら、そりゃあ男どもも夢中になったことだろう。
そこまで妙な分析を行い、新九郎はやっと落ち着きを取り戻した気分になれた。
よし俺は冷静だ。
これなら麻美に言うことができる。
「全く、おちょくってるのか?俺の事」
必死で揺れる胸から視線をひきはがし、新九郎は麻美の碧い眼を見つめて詰め寄った。
「あ、ごめんごめん、おちょくってなんかないよ、僕のオッパイが残念な件は頑張って善処するからさあ、ねえ、お願いだから付き合っておくれよう」
麻美の口調は軽いままだ。しかし、この美人顔で面と向かってオッパイだなんて言われると、さすがにドキっとする。
「お、オッパイを善処って?お前、一体どうやって」
思わず鸚鵡返しに聞き返してしまった。聞いてから自分で顔が赤らむのが分かった。
「あ、赤くなった。新九郎って意外に初心なのかな。でもさ、やっぱり胸の大きい女子の方がいいよね?そうだね、今日から毎日牛乳一リットル飲んでみる。昔身長が伸びすぎるのが嫌で牛乳やめちゃったんだ。そのせいでオッパイも育たなくなった気がする。やっぱり、背に胸は替えられないよね」
「背に胸は替えられないって、そんな諺ないって。ああ、分かった。いいよ、付き合おう。ただし、深い付き合いはなしだ。それでいいよな?」
新九郎は少しやけくそ気味に言ってしまった。
「深い付き合いは無しって?」
今度は麻美が急に立ち止まり、先回りして新九郎の両手をとった。
笑いが消え、真顔で問い詰めてくる。
「深い付き合いって言うのは、つまり、その男と女の関係だよ」
「え~、それじゃあ付き合っている意味ないじゃん」
麻美はなぜか子供のように口をとがらせて言う。
「ちょっと待て、待ってくれ、いきなり話が見えねえぞ」
麻美は両手を繋いだまま、新九郎を自分の方に引き寄せた。女の細腕のはずなのに意外な膂力がある。新九郎は一瞬逆らいかけてやめた。こんなところで女と力比べしてどうする。
まあ、バスケットボールを片手で振り回せるような女だ。そりゃ腕力もあるか。
そういや、麻美って日本刀を二刀持って、片手で軽々と振り回していた事もあったよな。
そんな風に冷静に麻美の事を考え続けようとしたが、端正なお姫様顔がどんどん近付いてくると、新九郎の心臓はやっぱりドキドキ言い始めた。
彼女を間近で見ながら、冷静に考え続けるなんて俺には無理だ。
なんて綺麗な顔をしてやがるんだ、こいつ。それにこの瞳の色って?
青みがかった瞳はどこまでも澄んでいて、子供のころ遊びにいった故郷の湖のようだった。麻美の深いブルーの瞳に魅了され、吸い込まれそうな気分になる。
気が遠くなるような気持ちで、麻美の碧い瞳をぼんやり見ていると、遠くから麻美の声が聞こえてくる様な気がした。
「新九郎、いいかい、男と女が付き合うっていうのはね、お互いが気にいったら、セックスして子供を作る練習をしようって言う意味なんだよ」
新九郎は思わず納得しかけたが、このままではいけないと、必死で麻美の瞳から視線を逸らした。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。子供を作る練習って、いくらなんでも、それは早すぎるだろう?」
「早すぎる?逆だよ、成人した男女が付き合うのに、セックスもしないなんておかしいと思う」
「そ、そういうものなのか?」
「うん。そう言うものなのさ。だってどんな男女関係でも、プラトニックラブから始まって、男女の仲ってたいていは性愛になっていくだろう?」
麻美は自信たっぷりにそう言うと、またにっこり微笑んだ。
この美人顔で、この笑顔で、そんな風に言われてしまうと、なぜか納得させられてしまう。
なにより麻美の言う事以外はどうでも良くなってくる。
こういうのを傾城の美女っていうんだろうか?
「ねえ、ゼミ室行くのサボって、このままどこかに行かないか?」
殆ど鼻がくっつくくらいの距離で呟くように麻美は言う。
「行くってどこへ?」
「二人きりになれる静かなところへさ」
「二人きりになってどうするんだ?」
「きまってるだろ」
麻美は繋いでいた両手を放すと、そのまま新九郎をそっと抱き寄せた。
それはあらがいようのない、自然な抱擁だった。
もし麻美が刺客だったら、新九郎はとっくに死んでいただろう。
長くしなやかな両腕を新九郎の背中に回し、優しい指先が新九郎の背骨を下から上になぞるように這い上がる。
麻美の胸のやわらかい双球が、新九郎の胸板に押し付けられて優しくつぶれる。
うわっ!や、やっぱり、こいつ、の、ノーブラだあ!
新九郎はまたゾクゾクしてきた。なんなんだ、この女は?
俺は麻美相手だと、なぜ、こんな簡単に気持ちよくなっちまうんだ?
なぜ、なにも言い返せない?
なぜ、麻美の思い通りになってしまうんだ?
鳥肌になって固まる新九郎の耳元で麻美が優しく囁いた。
「二人っきりになって、どうするかって?決まっているだろう、男と女の相性を試すんだよ」
耳朶に唇を近付け、吐息が頬を掠める距離でそう言われると、新九郎にはもう逆らう気力も根性も無くなった。麻美から漂ってくる香りが新九郎の嗅覚を刺激する。
熟した柑橘類のような、甘酸っぱいような不思議な香りだった。
香水ではなさそうだ。今まで嗅いだ事もないような、なんというか、男の股間を直撃する様な匂い?
「新九郎ってさ、いい匂いするねえ。まるでバターで炒めた、玉葱みたいだ」
麻美が眼を瞑って、スンスンと新九郎の汗ばんだ首筋を嗅ぎながら妙な事を言い出す。
そのまま首筋にゾブリと咬み付かれそうな気分にさえなってきた。
「お、お前こそ、なんかオレンジみたいないい匂いがするぞ」
新九郎は必死で言い返す。
「そう?それってきっとボクのフェロモンの匂いだよ。ボクは今、新九郎に発情しているから」
「発情?お前それって、マジで言っているのか?」
「さあ?」
麻美は深い湖のような碧い瞳を閉じ新九郎の肩口に頬を寄せて韜晦する。
長い睫を伏せた白い顔は、王子様のキスを待つ眠り姫のようだった。
額の左右から下だけ癖のある長い黒髪が麻美の頬から形の良い唇に垂れかかる。
唇がため息を吐くように薄く開かれた。
チキンな新九郎は、そこまで挑発されても、麻美を抱きしめてキスする勇気さえ湧いてこなかった。
新九郎、麻美を下宿に連れていく
新九郎は麻美に言われるままに、大学のパーキングから自分のクルマを出し、麻美を助手席に乗せて下宿に連れ帰る事にした。本当にチャラい遊び人の学生なら、そのままラブホテルに直行だったろうが、新九郎はそこまで軽い性格ではない。
なにより麻美にはそういうことができそうにない威厳みたいなものが感じられた。
それに下宿なら、瑞江さんもいるから、新九郎もいきなり麻美を押し倒したりは出来ないはずだ。
大学のある駒場から下宿のある神楽坂まではクルマだとわずかな距離しかない。富ヶ谷から首都高に乗れば、ちょっと走っただけで下宿に着く。でも今日は首都高が混んでいたので、富ヶ谷、代々木、千駄ヶ谷、信濃町、四谷、市谷と下の道を通って帰る事にした。
助手席に座った麻美は、きちんとシートベルトを締めると、両手をひざに乗せてしばらくは行儀よくしていたが、すぐに回りをキョロキョロと見まわし始めた。
「なにか面白いものでもあったか?」
その様子を見て怪訝に思った新九郎が聞く。
「うん、ボクはこういう風にクルマの助手席に乗って移動するのって、経験ないからね、こう言う視点から見る街の風景が珍しいんだ」
「ふうん、東京の道なんて、狭くてゴミゴミしているだけだと思ってたけど」
「そんな事ないよ。東京は意外に緑が多いんだ。それにこのあたりは、下町の風情が良く残っているじゃないか」
「まあ、瑞江さんに言わせると、このへんは江戸時代から続く花街みたいだからな」
「瑞江さんって?」
「ああ、下宿のおかみさんだ」
「ふうん、だからなんか色っぽい街なんだね」
「そういうもんかな?」
新九郎は寺の墓地に面した渋墨塗りの板塀の角の車庫にメルセデスを駐車した。そう言われると、この粋な黒塀といい、塀越しにのぞく女松といい、離れのある数寄屋造りといい、実は新九郎の下宿は、まるっきり妾宅の造りなのかも知れない。
旦那を待つ女が暮らす家。そりゃ色っぽい訳だ。
「ただいま~」
「おじゃましま~す」
新九郎と麻美は口ぐちにそう言い、勝手に引き戸を開けて玄関に入った。
下宿生がたくさんいたころからの習慣で、下宿の玄関は深夜以外施錠されていない。
二人並んで高い上がり框に腰を下ろし、三和土でスニーカーの紐をほどき始めた。
そういえばゼミ室に寄らなかったので、スポーツウエアのまま帰ってきてしまった。
財布と貴重品は持ち帰ったからまあいいか。着替えは明日にでもとりに行こう。
新九郎がそんな風にぼんやりと考えていると、瑞江さんが暖簾を分けて出迎えてくれた。
手には足拭き用の雑巾が入った水桶を抱えている。
「新九郎さん、お帰りなさいまし、体育祭いかがでした?おや!」
水桶を新九郎に渡した瑞江さんは、その場に座り込み、麻美を見て目を丸くしている。
玄人の瑞江さんから見ても、麻美は眼を見張るような女なのだろうか?
正確な歳は教えてくれないが、新九郎には瑞江さんは二十代後半から三十代前半くらいで、少し年上の姉くらいに見える。いつも和装で髪を結い上げた、婀娜っぽい和風美人だ。
瑞江さんは以前、神楽坂の置屋から芸者ででていたが、馴染み客の一人だった海北の旦那が気に入って落籍せ、最初は小料理屋の女将をやらせようとしたらしい。だが性に会わないとすぐ辞めてしまい、今はこの下宿のおかみをやっている。
もっとも、このご時世、水商売上りの女性が管理人の下宿に入るような学生は稀で、今、下宿人は離れを借りている新九郎しかいない。
「まあ、新九郎さんたら、また違う女子衆を連れていらしたんですか?」
「え?」
瑞江さんを振り返って挨拶をしかけた麻美の表情が凍りつく。
「瑞江さん、またそういう冗談を、辞めてくださいよ」
新九郎は足拭きを麻美に渡しながら顔をひきつらせて言う。
事実、新九郎が下宿に女を連れてきたのはこれが初めてだった。
「瑞江はやめておくんなさい」
「はいはい、おかみさん」
「はいは一回でよろし」
「はあい」
瑞江さんは、クスリと婀娜っぽく笑うと、まるで麻美に嫉妬している女みたいな口ぶりで言った。
「だって新九郎さんはおモテになるから、女なんていつも、とっかえ、ひっかえ、なんでございましょう?」
「本当ですか?」
麻美が足を拭く手を止めて振り返り、目を丸くして聞く。
「ええ、もちろんでございますとも」
瑞江さんは真顔で丸い頤を引く。
「麻美、真に受けるな、瑞江さんは、こうやって俺の友達をからかうのが好きなだけだ」
「瑞江はやめてくださいましって言っておりますのに」
瑞江さんは、新九郎の耳元にふっくらした唇を寄せてつぶやく。
「瑞江と呼ぶのは、あの時だけのはずでございましょう?」
おい、それを今ここで言う気なのか?新九郎は焦った。
「はいはい、わかりました、おかみさん」
慌てて言い直した。
「はいは、一回でよろし」
「はあい」
「フフフ」
麻美が瑞江さんと新九郎のやり取りにやっと笑ってくれた。
「初めまして、トキトウ麻美と言います。新九郎さんとは同じゼミの仲間です。今日はいきなり押しかけて申しわけございません」
麻美は上がり框に正座し、三つ指ついて深々と頭を下げ、礼儀正しく挨拶してみせた。
「はいはい、いらっしゃいまし。さっきのは、ほんの冗談でござんすから、どうぞお気になさらないでくださいましね」
麻美の礼にかなった挨拶を受けて、答礼する瑞江さんも機嫌が直ったようだ。
口調は柔らかくなった。だが瑞江さんの視線は麻美を値踏みするようで、彼女の一挙手一投足を観察し続けている様にも見える。
「はいは、一回でいいんだろ」
新九郎は靴を下駄箱にしまいながら、なんとなく気まずくなって突っ込み返す。
「おや、新九郎の旦那も言うもんでござんすね」
麻美はコロコロ笑いだす。よかった、瑞江さんのきつい冗談も真に受けてはいないようだ。
新九郎は小さな庭を巡る廊下を歩き、麻美を自分が起居する離れに連れて行った。
麻美がどういうつもりで新九郎の下宿に来たのか未だに良く分からない。だがこうなったらなるようになれだ。麻美にああいわれた以上、もしそういう関係になったとしても、据え膳食わぬは男の恥というだろう。麻美は新九郎にそう開き直らせてしまうくらい魅力的な女だった。
「新九郎さん?そういえば」
瑞江さんが、水桶を抱いて、後ろから新九郎を呼びとめた。
「なんでお二人とも体操服のままなんです?」
体操服て?スポーツウエアのことか。
「ああ、着替えるのを忘れたんだ」
「お嬢さんに、なにかお着替えお持ちしましょうか?」
「いいよ、あまり気を使わないでくれ」
そんなやり取りがあって、瑞江さんは茶の間に引っ込んだ。
新九郎が暮らしている離れは、数寄屋造りの母屋と渡り廊下でつながっている。風呂は母屋と共用だが、瑞江さんと新九郎は生活時間帯がずれているので、今のところ不自由はない。
玄関から右に廊下を渡り、突き当たりの引き戸を開けると、そこが小さな中庭に面した新九郎の勉強部屋で、襖の奥の間が寝室になっている。
勉強部屋には、新九郎の書き物机と本棚があり、床まで平積みにした本やら雑誌やらで、なんとなく手狭だった。それで新九郎は麻美を寝室に通した。どちらも和室だが、寝室にはカーペットが敷かれ、ソファやTVセットもあるので、友人が来たときは客間代わりに使っている。
だが、よくよく考えたら、新九郎の寝室に入った女は、麻美が初めてだった。
瑞江さんですら、この寝室には入った事がない。
実は新九郎が瑞江さんと過ごすのは、母屋にある彼女の居間が多かった。
だから、麻美を母屋の居間に通す方が、新九郎にとっては抵抗があったのだ。
そのせいで無意識のうちに麻美を自分の寝室に連れ込んでしまった。
だがあらためて自分の寝間に、麻美と言う美女がいる事を意識してしまうと、新九郎は興奮と葛藤を覚え始めていた。
自分の寝室に若い女を、それも学部一の美女と言われる女を連れ込むなんて、やっぱりまずかったんじゃないか。俺はいったい、ここで麻美と何をしようというのだ?
当の麻美は、そういう新九郎の心境の変化に気づいた様子もなく、部屋の真ん中に立ち、書院造りの室内を興味深い様子でキョロキョロ見回している。
「落ち着いていい部屋だね。こういう純和風の部屋、ボクは好きだな、なんだか懐かしい感じがする。なぜだろう」
「そうか?おれは実家でもこういう部屋で暮らしていたから、目新しい感じはしないんだが」
新九郎は、自分自身の葛藤に捉われたまま、上の空で答えた。
「ボクが育った養護院は、まるで学校みたいな造りだったし、今世話になっているおじさんの家は、全部洋風だからね。ボクにはこういう純和風の家が珍しいんだ」
「そんなもんかね」
新九郎は内心の動揺を押し隠して平静を装う。
「ここ、開けてもいい?」
新九郎が頷くと、麻美は庭に面した腰障子を開いた。
こちらには濡れ縁があって、広い硝子戸越しにさっきの庭が見える。
庭には築山があり、南天、八手、青木など、日陰でも育つ低木と、塀を超えて伸びる女松が植わっている。庭を横切る飛び石と、蹲と石燈籠が配され、地面は隙間なく苔で覆われている。
母屋の障子がそっと閉じられるのが麻美の肩越しに見えた。
あそこは旦那と瑞江さんの寝室だ。今日は海北さんがこんな早い時間から来ているのか?新九郎は気になったが、麻美はそういう些事にはまったく頓着しないようだ。
「いいねえ、このお家。ボクもこんなお家に住みたかったな」
「そんなに気に入ったなら、おかみさんに頼んでやろうか?ここは元々下宿屋だし、母屋の二階の方なら、貸し部屋空いているはずだぜ」
「本当?ぜひお願いするよ。でも下宿代高いんだろうな」
「俺は親がかりだから、詳しくは知らんけど、母屋の方は一部屋で月三万くらいのはずだ」
「それなら奨学金でなんとかなるかな?う~ん」
麻美は綺麗な小顔を傾げて、人差し指を唇に当てがい、何やら考える風情だ。
新九郎はその端整な立ち姿と、相反する子供じみた仕草を見て、色恋抜きでもいいから、麻美がこの家に住んだら楽しいだろうな、と思った。
こんな風に、気軽に会話を紡ぎ続けることができる女は、麻美が初めてだった。この麻美は新九郎など及びもつかないほど、学業成績も運動能力も秀でた女だ。でもそう言う優れた自分をひけらかすような真似は一切しない。
それにまるで台本でもあるかのような当意即妙を得たやり取りを続ける事が出来る。それがとても気持ちいい。おそらくIQだけでなく、EQも相当高い女なのだろう。新九郎はそういう人間が男女を問わず好きだった。
麻美は奨学金で暮らしているのか。それなら下宿代くらい出してやったっていい。
だがそれだと麻美のプライドを傷つけることになりはしないか?
「ここは下宿なんで朝飯付きだ。頼めば弁当も作ってくれる。まあ、麻美が料理得意なら自分で作ってもいい。夜は旦那さんが来る事があるから、各自で食べるけど、時々おかみさんと旦那さんの酒盛りに呼ばれたりもする」
「本当?いいねえ、そういう暮らし。ボクの理想だよ」
麻美は本気で羨ましそうに言った。
そんな風にしていると、さっき「男と女の相性を試す」などと危ない事を言い出して、新九郎の下宿に押しかけてきた女と同一人物には見えなかった。いつもの麻美らしい落ちついた中性的な雰囲気に戻っている。
だが麻美の変化はそれだけではなかった。なんというか新九郎が相手だと、普段の無口で無愛想な感じが消え、お喋りで愛想のよい少女のよう見えてくるのだ。それも飛び切り愛想のよい美少女だ。
この変化は俺が相手だからか?それとも、麻美はこの下宿を本当に気にいってくれたのか?
どっちにしても新九郎は緊張が解け、同時に拍子抜けもした。そのくせ麻美を相手に何をどうしたらいいか、ますますわからなくなってきた。これだから女って奴は扱いに困る。
「まあ、そのへんに座っていてくれ、なんか飲み物でも持ってくるから」
間をおきたくなって、新九郎はそういって席を立った。
「ありがとう、でも、どうぞお気づかいなく。ここ座ってもいいよね」
麻美はためらいもなく、一番奥の壁際にある新九郎のベッドに腰を下ろした。綺麗な膝小僧をそろえて、優雅に長い脛を傾ける。両手は軽く組んで膝の上に揃えている。
もしかして押し倒せと俺を誘っているのか?新九郎はそんな妄想を浮かべかけてやめた。
しかし、さっきの瑞江さんへの挨拶と言い、ベッドに腰掛けた時の優雅な振る舞いといい、なんか麻美って妙にしつけのいい女に見えるのだ。こいつ、これでほんとうにどこかのお嬢じゃないのか?新九郎は首を捻る。
麻美は、今度は欄間の透かし彫りを見上げて、何やら独りで頷いている。
新九郎は廊下を戻り、母屋の台所に行き、いつも冷やしてある麦茶をコップに注ぎ漆塗りの盆に載せた。
「ちょいと、新九郎さん」
居間との境の襖が開いて、瑞江さんが横座りの姿勢でこちらをのぞきこんできた。
「ああ、麦茶もらうよ。なにか茶菓子ない?」
「お茶菓子ですか?茶箪笥に練りきりかなにかがって、そうじゃありませんよ。あのお嬢さんは一体全体どこのどなたさんです?」
新九郎は冷蔵庫を漁って、水羊羹をみつけた。
「これ、もらうよ」
「あら、水羊羹?ええ、それでいいなら、ってお持ちなさいな。水羊羹は差し上げますから、あたしの質問にも答えておくんなさいましよ」
「麻美のことかい?まだよくわからないんだ」
「分かんないって、あんな綺麗なお嬢さんを、いきなり寝間に連れ込んでるじゃござんせんか」
麻美が寝室から庭を眺めた時に、母屋の障子を閉めたのは瑞江さんだったのか。
さっそく瑞枝さんは新九郎と麻美の事をそれとなく監視し始めていた訳だ。
「おかみ、あの子はお嬢さんじゃないよ。あの子は孤児だったそうだ」
「孤児って?ええ、親御さんはいらっしゃらないんですか?」
「ああ、そうだって、だから、俺とは軽い付き合いしかしないつもりだって」
「そんな事を言って、もし間違いでもあったら、どうするんです?」
「間違い?エッチのことかい?」
「言い方を変えたって、中身はかわりゃしませんよ。間違いは間違いでさ」
「それなら、俺はもうおかみと、とっくのとうに間違ってるじゃないか」
「あたしのことはいいんですよ」
「麻美とはだめでも、おかみと間違いを犯すのはいいのかい?」
「まあ、屁理屈ばっかりおっしゃって。違いますよ、あたしはとうにおぼこじゃありませんし、万が一新九郎さんのややができても、自分で育てられるって意味でござんすよ」
「ちょっと待ってくれ、こないだだって、今日は大丈夫だからって」
新九郎はちょっとあせった。思い当たる節がありありだったからだ。
「それは、その場の勢いってもんですよ。殿方は気が入ってる女の言うことなんぞ、軽々にお信じになっちゃいけません」
瑞江さんはそう言って妖艶に微笑んでみせた。
「やれやれ、今度から忘れずにゴム買っておくよ」
「まったく、新九郎さんは野暮天なんですから」
瑞江さんは、そう言いうとニッコリと笑って襖を閉めた。
新九郎は瑞江さんとの会話をそれきりにして、盆を持ち上げる。
瑞江さんは、言いたいことだけ言ってしまえば、それ以上嫌な突っ込みを入れる人ではない。
ただしこの調子だと、麻美とはエッチどころか下宿の話だって簡単には進められないかもしれない。
麻美おかみと意気投合する
麻美は新九郎が持ち帰った水羊羹と麦茶に文字通り狂喜乱舞した。
「おいしいよ、これ!一体どこの水羊羹だろう?それにこの絶妙な飲み口の麦茶、これは本当にお湯を沸騰させて淹れてから、井戸水で冷やした麦茶だよね」
「水羊羹は紀の善あたりかな?気にいったのなら、これも食っていいぞ」
新九郎は自分の分の水羊羹を差し出す。
「本当?じゃあ、いただきますって、いやいや、いけない。それはいけないよ、新九郎。君も疲れているんだから、ぜひこの絶妙な甘味を味わうべきだ」
麻美は大げさに水羊羹の皿を押し戻してくる。
新九郎はその振る舞いを見てまた思った。
なんか麻美って、本当に、すっげえいい奴なんじゃないか?
おそらくは瑞江さんが地元の和菓子屋で買ってきた水羊羹と、普通にいれた麦茶でこんなに感激できる女なんて初めて会った気がする。物喜びが激しいのは、欲しいものを自由に手に入れる事ができなかった孤児と言う過去のせいだとしても、麻美みたいに自然に他人を思いやれる女は今まで会った事がない気がする。
麻美が新九郎に言った「男と女の相性を試す」って話も、うやむやなままだが、新九郎の方は、もうどうでもよくなってきた。おいしそうに水羊羹をほおばり、麦茶を飲む麻美は、なりこそでかいが、その振る舞いは幼子のようで、とても性的な対象になんてできそうにない。
どんな時でも気分さえ乗れば、すぐそう言う雰囲気になれてしまう瑞江さんとは対極にいるような女だ。だが、そこがまた好ましく思える。
「これはもう、おかみさんにお礼を言わなくちゃ」
水羊羹を食べ終えた麻美は決心したように言う。
「どうするんだ?」
「新九郎、悪いけど、おかみさんの部屋に案内してくれるかい」
「ああ、いいけど」
「うん、じゃあ、行こう」
なんだか、期待半分だった色っぽい展開はなくなりそうな気配で、新九郎はむしろほっとしていた。新九郎にしてみれば、当面、麻美とはガールフレンドとして付き合えれば御の字なので、むしろこの展開は望むところだが、麻美と瑞江さんを一対一で会わせるのはちょっと怖い気もする。
新九郎は、また廊下を渡り、麻美を連れて瑞江さんの居間に案内した。
「おかみ、ちょっといいかな」
襖越しに声をかけると、妙に上機嫌な瑞江さんの声が返ってきた。
「新九郎さん?どうぞ、どうぞ、今お呼びしようと思っていたところですよ。どうぞ、おはいりくださいまし」
新九郎は襖を開けてみて驚いた。部屋中に色とりどりの着物が散乱していたからだ。
長押に掛けられた振り袖、床に広げられた留袖や小袖、中には床の間や敷居まではみ出したものまである。
「うわあ、なんて綺麗なんだ」
麻美は新九郎の脇の下から顔を突き出し、歓声を上げた。
「新九郎さん、そんなところに突っ立てないで、お入り下さいましよ。ささ、お嬢さんも」
新九郎は居間に踏み込んだが、それ以上先に進めなかった。着物が散乱していて足の踏み場もないのだ。
「おじゃまします」
麻美は、鴨居に巻上げられた御簾を避けて頭を下げ、丁寧に会釈しながら部屋に入った。そう言う何気ない仕草も理にかなっていて美しい。こいつはいったい、どこでこんな行儀作法を身に着けたんだろう?新九郎は麻美のそういう立ち居振る舞いに気づくたびに不思議に思ってしまう。
「おかみさん、水羊羹と麦茶、ごちそうさまでした。大変おいしくいただきました。あんなにおいしい麦茶久しぶりに飲みました。水羊羹も絶妙な味わいでした。ありがとうございました」
麻美は居間の入り口に正座し、また三つ指ついて深々と頭を下げた。新九郎の足元で大仰に礼を言う。
「おや、お嬢さんは、おみかけによらず、和菓子やら麦茶やらがお気に入りですか」
瑞江さんはまんざらでもなさそうに麻美に聞いた。大切に思っている新九郎の為に、いつも彼女なりに吟味して茶菓をそろえていたからだ。そう言う心遣いにちゃんと気づいてくれる女が、自分以外にも現れたのが嬉しかったのだ。
「はい、こんななりなので、よく誤解されますが、和菓子も和食も大好きです」
麻美は端正に正座したまま答えた。
服装がスポーツウエアのままなので、なんだかちぐはぐな感じだが、長い脚を折り背筋を伸ばして正座した姿は、それなりに様になっている。
やっぱりこいつ、こういう真似が普通にできる女なんだ。新九郎は改めてうれしくなった。
新九郎はしつけの厳しい反面人情に厚い両親の元で育ったので、男女を問わず行儀作法が良く他人を思いやれる人間が好きなのだ。
「それよりおかみ、こんなに着物を広げてしまって、いったいどうしたんだ?」
新九郎は二人の会話を遮り、気になっていた事を聞いた。
「いえね、新九郎さんが、あんまり綺麗なお嬢さんを連れていらしたんで、古いお着物でも進呈しようかと思いましてね」
「ええ?古い着物って、これみんな仕立ておろしの振り袖や留袖じゃないですか?あ、こっちは小袖かな?」
麻美はあちこちに無造作に広げられた着物を見回しながら言う。
「おや、ちらっと見ただけで、そこまでおわかりになるんですか?」
「ええ、大学のフィールドワークで着物の生産地を回っている程度なんで、付け焼刃ですけど。ちょっとまってくださいよ。それって黄八丈ですよね?こっちは大島紬?その振袖は京友禅ですか?」
「おやおや、綺麗なだけのお嬢さんだとばかり思っていたら、オホホホホ」
瑞江さんは、とうとう楽しげに笑いだしてしまった。
「だって、ここにある着物って、博物館にあってもおかしくないようなものばかりですよ」
「そこまでのものはござんせんよ。よござんす、アタシも旦那持ちで、もうこんな着物は着る機会もござんせんから、どうぞお好きなものを貰ってやってくださいまし」
「ええ?そんなあ、こんな高価なもの、とてもいただくわけにはいきません」
新九郎は成り行きについてゆけず、麻美と瑞江さんのやりとりをただ聞いていた。
麻美は文化人類学の教室で日本の伝統的な衣料、つまり着物を研究テーマにしている。
新九郎も浮世絵を始めとする江戸時代の大衆娯楽を研究テーマにしているが、着物の知識については麻美とはレベルが違いすぎる。
麻美は元々着物に興味があったらしいが、プレゼミ生の頃から日本中の着物産地を回り、もう何本か論文をまとめている。だから本人が言うような、素人の付け焼刃などではないはずだ。
でも、なぜ瑞江さんはいきなりこんなことを始めたのだろう?
「じゃあ、ちょっと肩に当ててみるだけでも」
「あの、そうしたいのはやまやまなんですが、今日は体育祭でたくさん汗をかいてしまったので」
「じゃあ、お風呂で汗を流していらっしゃいな。御着替えもご用意しますから」
「ええ?そこまでしていただくなんて、悪いですよ」
麻美は困ったように、新九郎を振り返る。
「いいよ、おかみも言いだしたら聞かないひとだから、言われた通りにするがいいさ」
新九郎は面白半分でそう言った。もらう貰わないは別にして、麻美の本格的な和服姿を見てみたい気もする。以前見たのは宮本武蔵の男装だった。ちゃんとした和装の麻美もこの機会に拝んでみたいと思ったのだ。
「いいんですか?」
「ええ、もちろん。そうだ、アタシがお背中流しましょう。よござんすね、新九郎さん」
「あ、ああ」
「今日は、お嬢さんもいらっしゃるんですから、湯殿をのぞいたりしちゃいけませんよ」
「え、新九郎って、お風呂のぞいたりするの?」
麻美がなぜか興味津々という表情を浮かべて聞く。
瑞江さんがウンウンと頷いて見せる。
「誰がのぞくか、そんなもの。これもおかみの冗談だって。まったく、すぐ真に受けるなよ」
「ふうん、そうなんだ」
なぜか麻美は残念そうに唇を尖らせて言う。
「どうだかねえ」
瑞江さんが色っぽく流し目をくれた。麻美の視線は、また疑いと期待を取り混ぜたようなものになり、新九郎は思わず視線をそらした。美女の疑義を含んだ眼差しは、時としてごつい男にガンつけられるより怖い。
実は風呂場を覗いた事など一度もないが、瑞枝さんと一緒に風呂に入って背中を流したり、流されたりした事なら何度もあったのだ。
麻美おかみにレズ疑惑を持つ
麻美と瑞江さんが湯殿に行ってしまったので、手持無沙汰になった新九郎は一端自分の部屋に戻った。下宿の湯殿は廊下を渡ると新九郎の住まう離れからずいぶん離れている様に感じられる。だがこの建屋は昭和初期に建てられた数寄屋造りに増築を繰り返した代物で、上から見ると端が内側に折れたエの字のような形になっている。離れはエの字の右下の辰巳の方位にあり、湯殿は右上、つまり丑虎にあるので中庭に面した腰障子越しに伺えば、湯殿は指呼の距離なのだ。
庭下駄をつっかけて飛び石つたいにいけば、すぐ湯殿に向かう枝折り戸がある。その向こうには、深い軒庇の下に湯気の立ち上る湯殿の窓があった。
新九郎は湯殿を覗こうというような了見は無かったが、なんとなく気になって、腰障子は開けておいた。しきりと女二人の嬌声が聞こえてくる。
時に麻美の悲鳴とも歓喜の声ともつかない微妙な声が聞こえてくる。
いったい何をやっているのだろう。
新九郎はそれが気になって仕方がない。
「新九郎さん、お風呂空きましたからどうぞ」
引き戸越しにおかみが声をかけてくれたので、新九郎も汗を流しに風呂に向かう。
檜造りの風呂桶の湯は、下宿人がたくさんいたころの習慣で、内部循環でろ過しながら、いつも湯をたたえている。
普段は檜の香りしかしない湯殿だが、女二人が入った後だと思うと、なぜか白粉臭い気がする。
おかみの熟した女の肌を想わせる匂いだけでなく、麻美の柑橘類のような娘々した香りまで漂っているように思えてならない。
新九郎は昔から烏の行水だが、こんな女くさい湯に使っていたら変な気分になってしまう。ざっと体を洗って、ザブンと湯に浸かって、すぐに風呂から上がった。
瑞江さんが用意してくれた浴衣を羽織り、手ぬぐいを下げたまま母屋の居間に向かった。
正直、瑞江さんと麻美を、これ以上二人きりにしておくのは怖かった。
瑞江さんの口から、麻美に何をばらされるか分かったものではない。
「おかみ、入るよ」
「あ、ちょっと待って」
麻美の声がした様に思ったが、新九郎は、勢い良く襖を開けてしまった。
「え?」
眼の前に裸の女が、こちらに背を向けて立っていた。
柔らかそうな色白の背には、いくつか黒子があった。
女は艶やかな黒髪を高く結い上げていた。
おかみが肌襦袢らしきものを差し出していた。
小ぶりな丸い尻の下に長い脚がすらりと美しく伸びていた。
肩幅は意外にせまい。腕もほっそりとして、ウエストも良く締まっている。
良く言うモデル体型って奴だろうか?新九郎には非の打ちどころのない裸体に見えた。
一瞬でそこまで眼に収めてしまってから、新九郎は我にかえり慌てて襖を閉めた。
「す、すまん。部屋に戻ってる」
「そこでちょっとお待ちくださいな、新九郎の若旦那」
襖越しに瑞江さんの色っぽい含み笑いが聞こえてきた。
「新九郎、すぐ着替え終わるから、そこで待っていて」
背中からとはいえ、全裸を見られたにもかかわらず、麻美は落ち着いた口調で言う。
「待っていてといわれても。和服着るんじゃ、それなりに時間かかるだろ」
「大丈夫、すぐ済むよ」
サラサラという絹のこすれあう音、キュキュっと帯を締める音が襖越しに聞こえた。
その間、新九郎は眼に焼きついた麻美の白い背中を思い出していた。
女らしい柔らかそうな肉置きの背中だった。
あんな女っぽい身体をしているのに、麻美は驚くべき運動能力があった。
意外な感じがした。もっと筋肉ムキムキの身体かと思ったのに。
それに、あの黒子の感じ、なにかで見た覚えがある。
ああ、あの配置って北斗七星に似ているんだ。
麻美の背には、何かを掬い上げるように掲げられた柄杓の形が刻まれていたのだった。
「いいよ、もう開けても」
新九郎の空想を断ち切るように麻美が言った。
今度は、襖をゆっくり開けた。
見知らぬ女がこちらに背を向けて立っていた。
女は、黒と見紛うような深い紺地に銀灰色で浜木綿の花を散らした大島紬を纏っていた。
そのまま女がゆっくりと半身で振り返った。
柿色に金糸をあしらった帯を胸高に締めた姿は、まるで浮世絵から抜け出した小町娘のようだった。額の左右からウエーブのかかった黒髪を高く結い上げ、色白のお姫様顔に、紬に似合いの深い碧の瞳が映える。風呂上りのせいか、切れ長な目尻には紅でもさしたように血の色が浮いていて妙に色っぽい。
見返り美人はもちろん麻美だった。
上背がある上にスリムなので、軽く左膝を折って半身で振り返った姿は、文字通り小又の切れ上がった浮世絵美人そのものに見えた。
「どうです、新九郎さん?」
麻美の向こうで膝立ちになった瑞江さんが自分の手柄を誇るような口振りで聞く。
新九郎は声もなく立ち尽くしていた。
「綺麗だ…」
やっとかすれ声で、それだけ言うことができた。
「本当?新九郎にそういってもらえるとうれしいな」
麻美は気取った仕草をやめ、全身で振り返って袖をさばき無邪気に微笑んでみせた。
「こんなに大島の似合う娘さんなんて滅多にいやしませんよ。これはぜひ着て帰っていただかないと」
また瑞江さんが言いだす。
「そんな、こんな高価なもの、とてもいただけません。着せていただいただけでも勿体なくて」
「いえ、いいんですよ。この大島は訳ありでしてね。あたしも旦那の前で着る訳にはいかないんですよ。でも箪笥の肥やしじゃ勿体ないし、こんなに似合うお嬢さんが見つかった上は、是非とも着ていただきますよ。どうか供養だと思って、貰ってやっておくんなさい」
瑞江さんはなぜか、声を詰まらせ、涙を浮かべて懇願した。
一体どうしたんだ?何が起こっているんだ?
新九郎は見当もつかない。
結局、新九郎は大島紬を着て、見事に和装美人に化けた麻美を車で家まで送る事になった。
色っぽい展開は麻美の裸の背中を見たことと、麻美の和服姿を鑑賞したことで今日は打ち止めらしい。もちろん、それだけでも、十分以上の眼福だった。
特に麻美の女らしい白い背中は眼に焼きついて当分忘れられそうにない。
三和土には大島に似合いそうな、桐の下駄まで用意されていた。
麻美は玄関先で何度も深々と頭を下げて、礼を繰り返した。
瑞江さんは、それを慈母のような笑顔で送り出してくれた。
ちょっと拍子抜けの感もあったが、新九郎は麻美と瑞江さんが良好な関係になった事に満足していた。
頭のいい麻美のことだ。この家で新九郎と一緒に暮らしたいと思ったら、まずは瑞江さんと仲良くしなければならないと直観的に悟ったのだろう。それで戦略を立て実行に移したのかも知れない。
新九郎が麻美を凄いと思ったのは、そう言う考えを持ったとしても、それを全く感じさせない普通さで、瑞江さんの内懐にスルリと入りこんで、わずかな時間で旧知の間柄のように仲良くなってしまったことだ。しかも一連の行動はまったくの自然体で、新九郎から見ると、意図してやっているようには見えなかった。唯一新九郎が割を食ったとしたら、それは麻美がほのめかした色っぽい展開が、あまりなかったことくらいだ。
だが、メルセデスのドアを閉めて走り出したとたん、麻美が言った台詞にはちょっと驚かされた。
「あのおかみさん、瑞江さんだけど、まさかレズなんかじゃないよね?」
「え、レズって?おかみに何かされたのか?」
「うん、一緒にお風呂に入ったでしょう?背中を流してくれたのはいいんだけど、やたらとボクの身体に触ってくるんだ」
「触るってどこを?」
「オッパイとか脇の下とかアソコとか。こう揉み解すようにして」
麻美は長い指をワキワキと自分の胸の前で動かして、その様子をリアルに再現してみせた。
「本当かよ?それで、あんなに騒々しくしていたのか?」
「あ、新九郎やっぱり覗きに来ていたんだね。で、どうだったボクの裸?やっぱりもう少し太ったほうがいいかな?」
「バカ、覗いてなんかねえよ。湯殿と俺の部屋は真向かいなんだ。あんなに騒いだら、そりゃ声くらい聞こえるって」
「なんだ、そうなのか、つまんない」
麻美はまた可愛らしく口をとがらせる。
「まあ、麻美の背中は見ちまったけどな」
「あんなの、ほんの一瞬じゃないか」
麻美の奴、もしかして、俺に自分の裸を見て欲しかったのか?
そういやさっきも、着替え中に踏み込んだのに平然としていたしな?
こいつ、さっきあんな風に言ってふざけた癖に、本当は自分の身体に自信があるのか?
まあ、この美人面と、あの絶品のスタイルなら分からなくもない。
それより、なにより、瑞江さんのレズ疑惑の方が気になるところだった。
「しかし、わからん、なんでおかみが麻美の裸に興味を持つんだ?」
「さあ?おかみさん、旦那さんいるんだよね」
「ああ、まあな」
内縁の夫って奴だろうけど。
「じゃあ、レズじゃないよね?もしかして両刀使い?こんな高価な着物、只でくれちゃうし」
「プッ、おまえなあ」
まじめに首をひねる麻美に、新九郎は吹き出してしまった。
あのおかみに限ってそれはないだろう。
だが、なぜそんな振る舞いに出たかは、後で確認しておく必要があるだろう。
新九郎はそんな風に思った。
新九郎、麻美の家に驚く
新九郎は大島紬を粋に着こなした麻美を助手席に乗せ、クルマで麻美の養家に向かった。
助手席から漂ってくる香水石鹸の香りと、風呂上りで上気した麻美自身の肌の匂いでメルセデスの車内は色っぽいことこの上ない。
新九郎が本当の遊び人なら、そのまま麻美を近くのホテルにでも連れ込んでしまっただろう。
そういう安直な行動を取れないくらい彼は子供のころから厳しくしつけられた男だった。
それに麻美自身にも、そう言う振る舞いを拒絶する威厳のようなものが感じられた。
もっとも当の麻美はというと、綺麗な着物をもらったのがよほどうれしかったのか、新九郎の心境の変化など知らぬげに無邪気そのものに振舞っていたが。
麻美は、普段叔父さんの家まで歩いて帰るから道案内くらいできるよと言ったが、車を運転しない女の言うことなど当てにならない。もっとも新九郎も松涛の界隈は、あまり土地勘がなかったので、住所を入力してメルセデスのナビゲーションシステムに検索を命じてみた。
驚いたことに、渋谷区・松涛・トキトウと口頭で入力しただけで、一発で検索結果がでた。その住所を行き先に指定して走り出す。まずは富ヶ谷のあたりまで山手通りで南下する。ナビの示したターゲットの範囲が妙に広いのが気になったが、まあ近くまで行けばなんとかなるだろう。
しかしナビに従って、狭い街路に入ったとたん、交互に配置された一方通行路に惑わされることになった。ナビの指示通り右左と忙しく方向を変えても、なかなか目的地に近づかない。
「あ、そこの角を入って」
結局麻美の指示に従って道を戻り、モンゴル大使館の角を曲がった。
「もう少し行くと叔父さんちの塀が見えると思うよ。あ、あれだ」
「これか???」
麻美が指差したのは、スコットランドの田舎によくあるような、薄い自然石のスレートを積み重ね漆喰で固めた、塀というより防護壁のような代物だった。違うのはそれが城壁のようにそびえたっていることだ。内側には照葉樹の大木の森が見える。屋敷林というより沖縄の原生林を囲い込んだかのような風景だ。
これが麻美の家なのか?結局次の丁目に変わる手前まで、途切れずにその石塀が続いた。
検索結果の範囲が広かったはずだ。いったい何千坪あるんだ?この家は。
塀が途切れた角にはごつい御影石の門柱に支えられた錬鉄製の大きな門があった。門は内側に向かって大きく八の字に開かれていた。中に乗り入れると、照葉樹林の中をしばらく玉砂利の道が続いた。こんなでかい家が渋谷にまだ残っていたんだ。まるで明治神宮の森の中を走っているみたいだ。
あっけにとられながらメルセデスを進めると、左手に青灰色に塗られた破風屋根の目立つ洋館が見えてきた。
「あそこが叔父さんの家だよ」
麻美が指差した鴇島の家は、神泉駅にほど近い松濤の高級住宅街にあった。
あったどころではない。麻美が案内してくれた母屋はビクトリア朝様式の広壮な邸宅であり、あそこが僕の部屋と指さしたのはアールデコ調の瀟洒な別棟だった。
その別棟は明るいオレンジ色の二階建てで、麻美を引き取る事が決まってから、急遽建てたものだという。その二階建てですら、小学校の体育館くらいの大きさがあった。
新九郎は半ばあきれながら、母屋の車寄せにメルセデスを止めた。
その車寄せも一流ホテルの玄関並みの規模で古式蒼然としか言いようがない。
さすがの新九郎も開いた口がふさがらない想いだった。
「新九郎、今日はいろいろありがとう。お茶でも出すから、寄っていってよ。あ、もうこんな時間か?夕食でも食べていかない?」
「ああ、せっかくだけど、今日は遠慮しておく」
新九郎はメルセデスのハンドルにもたれて脱力感を味わっていた。
何が孤児だ?
仮に養子だとしても、遠縁の叔父の家だとしても、今の麻美は文字通りのお姫様暮らしじゃないか?少し腹が立ったが、新九郎はクルマを降り、作法どおりに助手席に回り、ドアを開け麻美に手を差し出した。新九郎のクルマは前席がセミバケットシートだ。和服を着た麻美はぴったりはまったお尻をうまく抜きだせないでいた。
こいつ痩せて見えたけど、意外とケツはでかいのかな。
「あ、ありがとう。すまないね。和服着慣れないもんだから」
麻美は照れたように微笑んで手を伸ばす。
「嘘つけ」
「うそ?なにがだい?」
新九郎はクルマの外に降り立った麻美の言い草に思わず突っ込んでしまった。
「和服を着なれてない奴が、あんな短時間で着付けなんてできるものか」
「ああ、あれはおかみさんが手伝ってくれたからね」
「孤児だ、なんていうから、俺はお前の事を諦め掛けたのに、この屋敷はいったいなんだ?」
「孤児だったのは本当だよ。この家もおじさんの家だし」
「仮にそうだとしても、ここに養子に入ったんだろう?今はこの家の娘なんだろう?」
「うん、まあ、それはそうだけど?」
「まあいい、俺はお前のこと諦めないからな」
「うん?それはどういう意味かな?」
麻美はまじめな表情で、小首を傾げて聞いてくる。
大島紬を粋に着こなした長身の麻美は、着物雑誌のカバーガールでも十分務まりそうだ。
ちくしょう、こうして見ると麻美はやっぱりいい女だ。
「俺は麻美を正式な彼女にする。麻美がいいなら結婚を前提に付き合いたい」
新九郎は勢いでコクってしまった。
「本当かい?うん、いいよ、ボクはうれしいけど、ご両親がボクなんて認めてくださるかな」
麻美も即答だった。新九郎はこの際言っておくべき事は言ってしまおうと思った。
「気にするな、俺も、もう親はいないんだ」
「え?」
「こないだの大震災の時、仙台に旅行していて、行方不明になったままなんだ」
「ええ?そんな、ごめん、ボクは何も知らなかったから」
麻美は本当にすまなそうに視線を伏せてしまい、綺麗な碧い瞳が見えなくなる。
新九郎は目の前で灯りが消えたような錯覚を感じて焦った。
もっと麻美の綺麗な瞳で見つめられていたい。
改めて、麻美が自分に与えていた影響力に気づかされた。
「麻美、いいよ、気にすんな、その事は誰にも話してないし」
そう言いながら、新九郎は麻美の両肩をつかんで、自分の方に向かせようとすした。
肩を掴まれても、麻美は顔を伏せ、視線をそらしたままだ。
そうして肩を掴んでみると、麻美の身体が見た目よりずっと女らしいのが分かった。
肩の筋肉すらろくに感じられない。柔らかい女らしい肩は強く掴むとそのまま骨格の輪郭が分かるような感じだった。
このヤワヤワした女っぽいの身体のどこに、あのバスケの時に見せた化け物のような身体能力が隠されているのだろう?新九郎はなんだかその事が妙に気にはなった。だが、今は麻美の眼をもう一度見ていたかった。
「麻美、こっちを見てくれ」
「でも」
車寄せでなんとなくもみ合うみたいになってしまった。
くぐもった大型犬の吼え声が聞こえ、黒い樫のドアが内側に少し開いた。
黒服、白襟、白エプロンに白いストッキングの本格的なお仕着せを着たメイドが、怪訝な様子でこちらを覗いていた。その脇にはでっかい黒い犬が鎮座して長い舌を吐き出していた。
「あ、イスト、ただいま」
麻美の顔に明るい表情が戻り、揉み合う内に額に垂れかかった黒髪を指先でかきあげながら帰宅の挨拶をする。新九郎は慌てて麻美の肩を放した。
「まあ、誰かと思ったら麻美じゃない。お帰りなさい。どうしたの?着物なんか着て。そちらの殿方はどなた?」
メイドは目の大きな美人だったが、浅黒い肌の小柄な女だった。外国人のメイドを雇っているのか?しかし麻美を呼び捨てにしていた。新九郎は一瞬応対に迷う。
「新九郎?」
麻美がすばやく目配せをした。
「え?ああ、失礼しました。浅井といいます。麻美さんの同級生です」
新九郎は麻美に促されて慌てて挨拶する。
「あざい様、鴇島家にようこそ」
メイドは、ちょっと戸惑ったような表情を浮かべかけたが、麻美が目配せして頷くと、スカートの裾をつまみ、ちょこんと膝を折り、優雅に挨拶してみせた。新九郎の名字は良くあさいと間違われるが、このメイドは正確にあざいと発音してくれた。
「今日はね、体育祭のあと、新九郎の下宿にお邪魔してね、そこのおかみさんにこの着物をいただいたんだ」
「まあ、それは良かったわね。それはそうと、新九郎さまは、おあがりにならないの?」
「いえ、申し訳ございません。今日は所用がありますので、これで失礼します」
「そうか、それは残念だな。じゃあ、また学校で会おう」
麻美は普段の口調に戻り、本当に残念そうに言った。
新九郎も少し迷った。もしかして、俺はまだ色っぽい展開を期待しているのか?
あるいはこの屋敷に上がり込み、他の家人とも挨拶すべきなのか?
普段の新九郎ならあり得ない事だが、なぜか逡巡だけがあった。
自分で、自分の気持ちがまだよく整理できていない。
何をどうしたらいいのか即断できないのだ。
こんな気持ちになったのは初めてだった。
「ああ、それじゃまたな」
自分で自分に腹立たしくなって、適当に会釈を返してしまった。
メルセデスに乗り込み、車寄せを回り、少し強引に発進させた。
車寄せに立った麻美とメイドは、バックミラーから見えなくなるまで優雅に手を振って見送ってくれた。着物姿の長身の麻美と、小柄なメイドの取り合わせがなんだか滑稽だった。
まったく、麻美の奴、あんな家に住んでいるんなら、最初に言って欲しかったぜ。
だが、これで麻美と結婚できる可能性が出てきたのも確かだった。
あの鴇島の家が、事実上の麻美の実家になるなら、浅井家とのつりあいだって十分以上に取れるはずだ。あとで鴇島の家の資産状況も調べてみよう。新九郎はなんとなくわくわくしてきた。
自分の好みで配偶者を決められるなら、こんなにうれしいことはない。
それが麻美のような気立ての良い超絶美女の優等生なら言うことはないだろう。