第4話
携帯電話の番号とアドレスを交換し、けれど特別何かをやりとりしたわけでもない。果たして、お付き合いというものが具体的にどういったものかと考えたけれど、そもそもがお付き合いというものを正式にする必要がないのだということに気が付いた。
極端な話、女慣れする為に適度に私と会話をしたり触れたりすればいいわけで、特別に親しくする必要もないだろう。情がわけば、別れも辛くなるし、私にとってもそのほうがいいだろう。
「……ん?あれ?」
今重大なことを心の中で呟いたよな。こんなことが過ぎるということは、ひょっとして私はすでに彼にたいして何か特別な感情を抱いたのだろうか。
嫌いではない。話しやすいし、彼の隣は居心地が悪いわけでもない。そもそもが、特別な感情、所謂、好きとはどんなものだろう。
自分に問うてみたけれど、答えは出なかった。糖分が援護をしたところで、答えを出すのは無理だという事くらいはわかったけれど。
「千絵子さん」
「! 佐藤君」
明日、と言われたけれど具体的に何も口約束をしていない状態だったから驚いた。友人と図書室へと移動する途中で、佐藤君が教室に現れた。出入り口に立つ私の隣に居る友人は目を丸くしている。
「良かった、行き違いになるところだったね」
「どうしたの?」
「せっかく作ってもらったんだし、いっしょに食べたいなと思って。お友だちさえ良ければだけど……」
佐藤君が首を傾げて私に告げる。ああ、そうか。弁当のことか。確かに同じ場所にいて、作った相手と作ってもらった相手が別々に食べるのはどこかしら妙な感じもする。けれども、そんなに親しくして良いのだろうか。
周囲は、突然現れた私の存在に戸惑いを覚えるに違いない。佐藤君は同性愛者として有名であるとは言ったけれど、もちろん彼の容姿にだって起因しているのだ。私は恋路を邪魔する人間として、学校中から非難される可能性を孕んでいる。彼は、そのへんどう考えてるのだろう。
「……あのさ、聞きたいんだけど」
「! あかり」
私が思考をめぐらしていると、横に居る友人が声をあげた。横田あかり。私の数少ない友人のひとりである。ちなみに他校に恋人がいるからか、黒くまっすぐな長髪で佐藤君の隣に並べばえらく画になる彼女はしょっちゅう告白をされる。恋人がいるのだと断っても信じてもらえないことだってしばしばだ。
「ちょっと、ちー!」
「ほ?おう!」
間の抜けた返事をしてしまったためか、拳骨を額にお見舞いされ悶絶すれば、佐藤君が千絵子さん!と名前を呼んで私の顔をあげさせる。
「だ、大丈夫?横田さんて噂通りのキャラクターなんだね」
む?
私は良く、人とずれてるなんて言われたりもするけれど、こういうのは敏感なのだ。
気のせいじゃない。佐藤君の言葉、私に向けるものとは違ってどこか険のある空気を出している。言いようも、何か含んだようなものだし、そんなにわかりやすいものじゃないけれどはっきりと敵意が感じられた。
なんでだかはわからんけど。なんで?……いかん、空腹では考えが纏まらんな。
「あら、その噂、どんなものかお聞かせ願いたいもんだわね」
そしてこの友人である。あかりは、自分に向けられる敵意やその他の事は私以上に感じやすいだろう。はっきりと、彼の挑戦状を受け取ったようだ。でもだからなんでこのふたり険悪なわけなの。
ねめつけるような顔で腕を組みつつ、あかりは佐藤君を見やる。
しかしそんな彼女の強い視線を真っ直ぐ受けているというのに、佐藤君は春風の如くそれはそれは爽やかに微笑んで見せた。
「だったらお昼をいっしょにとりながらってどう?」
「名案だと思うわ」
にっこりと笑んで発した一言に、あかりはやはり微笑んで応えた。ふたりの間に散ってる火花の意味は一体なんなのだろう。首を傾げつつ、ちらと腕時計を見やる。おっと、こうしてはおれん。
「おふたりさん、話が纏まったんなら行こうか。早くしないと昼を喰いっぱぐれるという事態になる。部室で食べよう。佐藤君、そこで良いかな?教室だと色々まずかろうて」
私の言葉に佐藤君が頷くが早いか、私は歩を進める。正直、この空腹は耐えがたい。とっととこの空白を埋めないことには、私は心が安まらない。
「……あの子、ほんと食事時になると性格変わるわ。私のウインナーまで奪い去ったくらいだし」
「……すごいね」
早足で目的地へと進みだした背後では、2人が半ば呆れたように言葉をこぼしていたらしいが、今の私の耳にはもちろん届いていない。昼食をとるのが最優先事項なのだから。
部室、というのは、実は私達ふたりしか在籍していない所謂、同好会だ。文芸部、ではないので文芸同好会。反対に、漫画研究同好会は人数が多く、漫画研究部として成立している。なんとも面白い話だ。先輩が卒業してしまって2人きりになった部室は少し寂しいが、その分気楽でもある。元々、何の活動もしていなかったから人が増えようと減ろうと関係ない。
冬は少し寒い為、図書室で昼食をとるのだが、夏はこちらで食べる事も多い。同好会なので元々、資料室という名の倉庫だった教室をあてがわれており、恐らくは六畳と少し程度しかない、きちんと調べたら本当はもっとあるのかもしれないが体感的にはそう錯覚する、であろうと予想されるこの場所は、こじんまりとしたソファと机に、ひとつの棚にびっしりと過去に制作された冊子や小説が置かれている。ちなみに電気ポッドが完備だ。
私と佐藤君は隣り合って、あかりは向かいのソファにそれぞれ腰かけた。
「……それで?あなた、千絵子に交際申し込んだってホントなわけ」
「ああ、それは知っているんだ」
「昨日呼び出されたとき一緒に居たんだもの。戻ってきたら気になるし理由は訊くでしょう」
「まあ、そうだね。千絵子さんが言ったんだ?」
私をちらり、と見つめる彼の視線に少し驚いて、おかずを一瞬のどに詰まらせた。いかんいかん。お茶を飲んで無理やり流し込む。
すぐ隣に座っているから、距離が近い分なんだか過敏に反応してしまう。2人きりで話しているときよりも緊張するのは、あかりの前だからだろう。
「……あかりは友だちだし、まあ。まずかったかな?」
でも、事情を話すつもりはない。あかりには申し訳ないけど、彼女に知られては色々と面倒な事もあるだろうし、そもそもこの歪な関係を彼女が認めてくれるとも思えない。私だって、もしもあかりがそんな事に巻き込まれたら止めただろうし、そんなの恋人ではないだけでただならぬ関係の友達と言われてしまっても仕方がないではないか。
そう、昨日、その事実に気が付いて私は打ちひしがれた。就寝前のベッドで、ひとしきり暴れて、やがてため息を吐いた。認める他ないという現実が、妙に残酷だと感じる。
私は、何がしたいんだろう。今更そんなことを思う。そんな醜い行為をしてまで、私は彼に協力して、得るものなんてないのに。自分はここまで、善人だったろうか。ひょっとして昴君の素敵なあれこれにあてられてのぼせ上がっているだけなのだろうか。そうなるといよいよもってあばずれでしかない。
一度、是と言った以上、拒否するつもりはない。けれど、これで良かったのだろうかいう気持ちはやはり拭えない。彼とはすでに、思い出すだけでも恥ずかしいような接吻をしたのだ。あれ以上だってひょっとしたらするかもしれなくて、正直想像できない。
いつかは別れる相手。いや、始まってもいない相手。こうやって昼に訪れたのは、意外だった。彼は、私と同じような考えだと思ったから。
そんな佐藤君を見つめる。一応、事情は話さないよ、と目で訴えてみた。
正しくそれを受け取ってくれたのかはわからないが、佐藤君はそんな私の視線を受けて、微笑んだ。
「実は、正式に付き合う事になったんだ。最初僕が勘違いしちゃったんだけど、昨日色々と話し合った末にそういうことになって」
「……そうなの?」
佐藤君が何を考えているかわからないが、怪訝な表情でこちらを見るあかりの視線を受けて、とりあえず私は調子を合わせて頷く。
「あんた、別に佐藤君のファンでもなんでもなかったでしょ。なんでまた」
「ううーん、特に断る理由がなかったから、かね。確かに好きかって言われたらわからないって感覚だけど、昨日一緒に帰ってみて、話して、ああ隣に居るのはそう悪くもないなって思って」
私の言葉に佐藤君はしばらく目を丸くしていたけれど、やがて頬を染めて微笑めば、ありがとう、と私に告げた。満面の笑みはきらきらしていて眩しい。ああ、本当に綺麗だ。
そんな私たちの空気を一掃するように、ごほん、とひとつ咳払いをしたあかりは、呆れ顔で私を見たあとに、目を眇めて佐藤君へと向き直った。
「佐藤君。もはや噂でもなんでもなく、あなたが同性愛者って事は公然の事実だったと思ったけれど」
ううん、やっぱりそうくるよね。佐藤君、どうするつもりなんだろう。
多少、好奇心の混じった目で彼をみつめていれば、彼はさらり、と衝撃的なことを言ってのけた。
「僕はゲイなんじゃない。バイなんだ」
さすがのあかりも驚いたのだろう。口をあんぐりとあけて、間抜けな声をあげる。
「……はあ?」
「でもどちらかというとゲイ寄りだと思うよ。好きになる人は男性が多かったし。あと女の子は集団で騒ぐ子が多くて同年代はちょっと苦手なんだ。だから何人かに好意を告げられた時、もしまたそういう子があらわれたら申し訳ないと思ってそう言った。僕も予想外だったんだ、同年代、学校で好きな女の子ができるなんて」
言って、微笑みながら私を見つめる彼の瞳はとても甘ったるい。そんな顔で見られると、真実ではないとわかっていてもなんだか気恥ずかしかった。
私は思わず、難色を示そうと声をあげる。
「っあの、佐藤君、ちょっとこのタイミングで見ないでくれないかね」
「そうそう、それ」
なぜか私がやめろ、と言おうとしていたのに、佐藤君のがよほど不機嫌顔でこちらを睨むようにさらに見つめてきた。なんだというのか。
「どうして戻ってるの?昴って、そう呼んでって言ったじゃない」
「え、あ、ごめん。あのときはその……なんかよくわからない感じで」
「あのとき?」
私の言葉に間髪入れずにあかりがつっこんできた。しまった、口が滑った。
しかし私が慌てて口ごもる前に、昴君はひょうひょうとあかりの疑問に答えた。
「改めて告白したときだよ。あの時は、顔が真っ赤ですっごく可愛かったんだ」
「ちょ、えと、す、昴君」
ふふ、と笑って私の頬を撫でる手は、昨日より少し冷たい。というか、あの時っていつのこと言ってるんだろう。もしかしてむにゃむにゃした時のことじゃないのか。
考えれば考えるほど、私は混乱してしまう。
きっと、今もあの時と同じくらい顔が赤いんだろう。彼の言っているあの時と、私の思うあの時が合っていればこそのたとえではあるが。
「……ふうん。ま、どこまでが本当かどうかはわからないけど、佐藤君が千絵子を好きだっていう点だけはどうやら本当みたいね」
あかりの言葉に、昴君は当然だよ、と言って微笑む。私は、少し胸の奥が痛んだ。友人を騙してしまった。それに、平然と言ってのけてはいるけれど、昴君だって好きな人に対する裏切り行為を今宣言してしまったようなものなのに。
私が悶々とそんなことを考えていると、それで、と昴君が真剣な表情で口を開いた。
「実は、お願いがあるんだけれど。僕らのこと、口外しないでもらえると助かる」
「まあ、そのほうがいいでしょうね」
ため息を吐いたあかりは、一言ですべてを把握したらしい。まあ、それはそうなんだよね。
今は学校全体が昴君と幼なじみ、名前はそういえばなんだったろうか、を応援している雰囲気だし、そこにきてぽっと出の私が彼女になりました、なんて。色々な人間を敵にまわしそうだ。
それに。
昴君は正直、とても女性に好意を寄せられる機会が多い人間だ。端的に言えばモテる男の子。これだけ可愛い容姿と人柄ならばそうなるのもうなずける。であるからこそ、彼が今、女性とも関係を持てると表明してしまえば、外野はますます騒がしくなるだろう。私達のことは表立って言わないのが無難である。そもそもが、偽りの恋人なのだし、必要性を感じない。
「……でもいいの?佐藤君。この子、別に箸にも棒にもかからないような子じゃないわよ」
「それはもちろん、わかってるよ。だから、大々的に僕らと仲良くなってもらおうかと思ってね」
「僕ら?どういう意味?」
「僕と奏。それぞれ同時に接触してもらえれば反発もそう起きない」
ふたりの話がいよいよ見えなくなってきていたところに、昴君はこちらを振り返って微笑む。
「千絵子さんは知ってるかな?僕の幼なじみ、奏って言うんだ。高柳奏。そいつと僕と四人で仲良くなれば、そうそう怪しまれない」
「……え、でも」
「大丈夫。理由はもう用意されてるよ。ねえ、横田さん?」
ますます微笑みを強くする昴君を私は心配になってみつめる。そういう意味じゃないよ、わかってるでしょう!でも、昴君は何も言わないし、この状況じゃ言えない。
そのときだ。
昴君が、私の手をきゅ、と握った。私は、驚いて一瞬反応してしまったけれど、昴君の顔はあかりに向かっていたので、あかりは気付いていない。
私はなんとなく、その手を握り返す。すると昴君も、今までよりも強い力で私の手を握ってくれた。
忘れていた先程の彼の言葉を反芻して、私はあかりに顔を向ける。目の前の友人は、なんだか悔しそうに唇を噛んでいた。
「……あかり、どうしたの?」
「…………少し前に話したでしょう、私の兄が結婚するって」
その言葉に、私はああ、と頷く。あかりは、けっこう自他共に認めるブラコンで、結婚話が決まった時多少荒れた。けれど、相手の女性がとても良い人らしく、最近は晴れ晴れとした様子で敗北宣言をしていたものであったが。それがどうしたというのだろうか。
「実はね、奏のお姉さんも、近々結婚するんだ」
「へー、それはまためでたい。……っておいおい、まさか」
その言葉の意味をわからない私ではない。今は満腹だしな!
「そのまさかよ。……まさか、高柳君があなたの幼なじみだったなんて」
「元々、学校でも話しかけようとしていたみたいだし、接触してくるのは時間の問題だったと思うよ」
憂鬱そうなあかりに、昴君が楽しそうに微笑む。どうしてあかりは、こんなに嫌そうな顔をしているのだろう。
「なんっか苦手なのよあの人。妙に明るいしなれなれしいし。他人との距離感を正しく取れない人間はどうにも疲れて」
「でも口実が出来れば、僕は他への牽制ができるから正直ありがたい」
「……私にメリットは何もないんだけど」
「僕は、強硬手段に出る事だって考えてる。確かに、女子がどんな反応を起こすかは予想の範疇をそれこそ超えてしまうかもしれないけど、千絵子を無防備にしておくよりはずっといい」
千絵子って、ま、また名前呼ばれた。
どきりとして、繋いだままだった手を離そうとすれば、昴君はそれを許してくれない。
ただ握っていただけの手が、一本いっぽんの指を使って絡みとられる。指と指を交差して私達の手は先程よりも深く繋がると、昴君は指の腹をつかって私の手をゆっくりと撫でてくる。なんだかいやらしい手つきに、私は声をあげそうになった。
というかなんなのだろう。この手つきは。すごく抗議したい。
混乱に陥れられた私は、この時2人の会話の意味を全く考えられなくなり、話自体もあまりきちんと聞いていられなかった。終始小刻みに動く彼の手が、どうにも気になってしまって。
あかりが鋭い瞳で昴君を睨みつけていた事も、それを受けて昴君が微笑んでいた事も、やはり全く気付いていなかった。
「……脅すつもり?」
「穏便に済ませたいだけなんだよ。僕だって、彼女を守りたい。傷付いてほしくはない。けれどそれ以上に嫌なんだ、他の男が千絵子を見るのが」
「まさか、そんなに独占欲が強い男だなんて思わなかったわ」
「どうしても、だめかな」
「……はー。わかった、わかったわよ。どっちみち、これから親戚付き合いもしなくちゃいけないだろうし、まあ、今から交流を深めて苦手意識をなくす努力をするのも悪くないわ」
「よかった」
にっこりと微笑んだ昴君の手が、やっと私から離れた頃には、2人の会話は終わっていた。
「……って千絵子。顔真っ赤よ、大丈夫?」
「へいっ!?」
あかりの指摘にいっぱいいっぱいになった私は、ますます顔を真っ赤に染め上げてしまったらしい。覗き込んだ昴君が可愛い、と微笑むその顔に、ついに昴君のが綺麗だよ、と声に出して言ってしまったのは醜態以外のなにものでもなかった。