第3話
まず、頭を整理しよう。しかし、今の私には何かが足りない。はて、それはなんだろうか。そう考えて、私はひらめいた。
糖分である。
私はひとり納得して頷くと、牛乳入りのマグカップを持ち上げれば、佐藤君に声をかけて通してもらい、すぐ傍にあるレンジへとふたつのそれを放り込んだ。熱々にしたいので操作盤を押して、3分温める。カップラーメンが出来る時間と同じだ。
「……行動の意味を訊いてもいいかな」
背後から聞こえてくる静かな声に振り向けば、じっとこちらを見つめる佐藤君。腕組をして私に理由を問うている。私はどうしてそんな質問をされるのかわからなくて、目を丸くした。
「当然でしょう。今の自分には理解出来ない事を言われたの。糖分が足りないからだよ!あ、佐藤君も飲むでしょ?ココア」
「……ぶっ」
私の答えの何がそんなにおかしいのか、佐藤君がついに声を上げて笑い出した。
何をそんなに笑う事がある。だって理解出来ないのに、腹は満たされておるのだから、足りないのは糖分であろう。脳にお砂糖、と言うではないか。
首を傾げて彼を見ると、私が疑問符を浮かべた顔をしているのがますますおかしかったのか、佐藤君は肩を揺らして笑う。
いや、ひょっとして、と思う事もあった。人よりも何かずれているところもあろうか、と。しかし、その齟齬はきっと些少なものだと今まで信じてきたし、今現在もそう思っている。けれども目の前の佐藤君の様子を見ると、つい数分前の行為は、大変面白いものであったらしい。ふむ。
温め終わったのを知らせる音がリビングに鳴り響き、私はマグカップを取り出す。
スプーンでちょいちょいと張っている膜を取り除き、ココアの粉を入れる。ぐるぐるとかき混ぜて完成。はい、と渡したら、私はリビングのソファへと腰を落ち着かせた。たすん、と隣を叩いて、佐藤君も隣に座るよううながす。
おや。なぜそこで目を細めてこちらを見やるのであろうか。首を傾げるも、佐藤君は特に何を発するでもなく、無言で私に倣った。公園の時とは違い、今度は私の右隣に佐藤君が居る。
こくん、と一口飲めば、脳に糖分が行き渡る錯覚に陥った。なんだか今なら良いこともひらめきそうである。思い込みだとしても、そういった気持ちは大事なはず、だ。
マグカップをテーブルに置いた音がし終わったあと、私は一瞬呼吸を忘れた。なぜならば、物理的に呼吸を塞がれたからである。
綺麗な唇が、平凡な私の唇に吸い付いている。
触れるだけならばキスとか口付けとか、そんな言葉で済ませられるのだが、なんとなく、接吻という単語が私の頭を巡った。意味合い的には同じであろうが、日本人だからだろうか。そちらのがより深い繋がりがあるよな感覚になる。
あれこれと、ほぼどうでもいいことを思考していれば、その間も無遠慮に佐藤君の唇は私の唇に好き放題触れ、ちろり、と覗かせた舌が私の下唇を舐めた。
びくん、と肩を跳ねさせて驚いてしまった反射なのか、私は薄く口を開いてしまった。それを待っていたのかはわからないけれど、佐藤君が私の後頭部に手をまわすと、そのままより深い口付けを私にほどこしてきた。
「む……ひゃにょ……」
名前を呼ぼうとしたけど無理だ。呂律が回らないどころの話じゃない。息苦しい。ぴちゃぴちゃとなんだかいやらしい水音まで耳に響いて、私の唾液だったらなんか嫌だなあ、なんて思う。粘膜と粘膜が混ざり合うって、なんだか物凄く卑猥じゃないだろうか。
それにしても。
恐らく先程私がキスと呼ぶようなものしか彼は経験してない口ぶりなのに、どうしてこんなに手馴れている様子なのだろうか。それとも所謂、接吻を経験済みなのか。
頭の芯が痺れる。何かを注がれているみたいに、ぼんやりと思考が鈍くなる。そこまでいったところで、佐藤君がゆっくりと唇を離した。
気付けば目には涙が溜まっていて、顔が熱い。息も苦しかったから、はふはふと浅い呼吸を繰り返す。
「……うっわ、やばい」
この時の私は、彼が何を呟いていたかなんて考えられなかった。もし気付いていたならば、違う結末もあったろうか、と後になって考えたのだけれども、すぐにきっとそれはないな、と一蹴していた。
やっと呼吸が落ち着いてきた私の頬に、佐藤君の右手が触れる。彼の手の平は、温かくも冷たくもなかった。
「……真っ赤だね」
「真っ赤じゃないほうが良かった?」
「ううん、可愛い」
ふふ、と笑ってそんな事を言うあなたのがよほど可愛い顔をしていると思うのだが。けれど今はそんなことどうでもいい。さすがにここは憤慨するタイミングだとわかっているのだが、なんだか私はどうにもそういう気になれなかった。なぜであろう。彼にたいして同情的であるからなのか。単に綺麗な彼の顔にまいってしまったからなのか。
なにしろ突然の出来事に驚いてしまって、正しい、と言うとおかしな表現だが、反応が出来なかったのかもしれなかった。
「ねえ、嫌だった?」
佐藤君の言葉に私は考え込むが、生理的な嫌悪感はなかった、と告げれば、正直な感想だね、と空気で微笑む。ううん、他に思い浮かばなかった。
「僕もね、嫌じゃなかった。女の子に触れても、嫌じゃなかったんだ」
「それは。良かった、でいいのかね」
「うん、良いんじゃないかな?トラウマを克服するという意味では」
「……なるほど」
やっと思考が戻ってきた私は、ぼんやりとしてソファに沈めていた身体を起こす。
「ごめんね、突然。でも、千絵子さんさえ嫌じゃなければ、僕はこのまま千絵子さんと恋人同士でしか出来ない事をしたいんだ」
「なんと。それはつまり、私で女の子に対する苦手意識をなくしたいとうことで相違ないね!?」
「うん、まさにそういうことです」
ふむふむ!何度も頷きつつ、私は援軍を送る心持ちでココアを飲む。
私の行動にあ、と気が付いたのか、佐藤君もいただきます、と言って用意したココアに口を付けた。美味しい、と微笑む彼はやはりとても可愛らしい。
ひょっとして、私はこの顔にどこかしら弱味があるのだろうか。でなければ、いくらなんでもろくに話したこともない彼から接吻をされて憤慨しないのはおかしい。
私もあばずれであったか。
多少悲しくなりながらも、ならば仕方ない部分もあろう、と納得する。本能は、しょせん何事にも勝るはずなのだから。
「……でも、何故私に?記憶が確かであるならば、私と佐藤君はまるで接点がなかったのじゃないかね」
「だから。こんな事言うのはあれだけど、接点のある子にはそんな馬鹿正直に頼めないし、そういう噂に興味がなさそうな子に声をかけてみようと思ったんだ。単純だけれど、真面目そうな人の集まる場所って図書室かなあ、と思って、そこでたびたび千絵子さんを見かけて。真面目すぎるのもやっぱり難しそうだけれど、お友達との会話を耳にしたとき、そのへんのバランスが良さそうだなって勝手に思ったんだ。千絵子さんみたいな人なら、ある程度付き合って、別れられるかなと思って。ミーハーな子は後々大変そうだし」
「おや、なかなかに辛辣なお言葉だね」
彼の事はまだまだわからないとはいえ、今までの様子からしてらしからぬ発言に、私は目を丸くする。
佐藤君は、申し訳なさそうに首を竦めた。
「……ごめん。僕も、やけになってたのかもしれない。好きな人に気持ちを否定されて、ましてそんなことない、って言い返せなかった自分自身が情けなかったんだ」
「そう、か。うん、そうだね……」
もしも女性が駄目だと判明したならば、いや、むしろその方が、佐藤君にとっては幸せな結末なのかもしれない。だからこそ、彼にとってこれは大袈裟かもしれないが人生を賭した最大の勝負事なのだ。
お付き合い、か。ふうむ。現状、嫌だという感情は沸かないし、私は彼に対して同情心を抱いている。おまけに、行為も最後までは至らないと約束してくれているし。
流されてる感があまりに否めないが、ここまで話を聞いてしまって、無理ですさようなら、と言えるような強さも私にはない。操を立てる相手もいないのだし、どうにもそういった部分に深いこだわりが持てなかった。
「でもさ、それなら周りには私と付き合ってるって言わないほうがいいよね。そのほうが何かと都合良いだろうし」
「! 千絵子さん……僕と恋人になってくれるの」
返答に目を丸くした佐藤君を真正面から見据えて、私は頷いた。
「乗りかかった船って感じだね。ただ、その、無理な行為は無理って言うと思う。なるべく応えるようにはするけど。その、それでもいいっすか」
「そ、それは全然!むしろ、僕が悪いんだし!」
慌ててそう告げた佐藤君に良かった、と微笑めば、佐藤君も同じように微笑んだ。
「……あの、千絵子さん。もう一回、キスしても良い?」
「ほへ」
「さっきの、嫌じゃなかったって感情、勢いでパニックになっただけかもしれないから。冷静になった今の状態で試してみたいんだ」
「ええと、そうか。あの、じゃあ、お手柔らかにお願いします?」
「どうして疑問系なの」
「なんとなく」
ふふ、と笑んだ私に了承を取れば、佐藤君はそっと私に近付いた。
先程とは違って、ゆっくりと綺麗な顔が近付いてくる。余裕が出来たからか、彼の顔をじっくりとながめられる。くりくりとした瞳の中が綺麗。伏せる睫毛も綺麗。私を驚かせた唇の柔らかさも、ついさっきの事だから、よく覚えている。
ちゅ、と触れ合う音が耳に届いた。一回目には気づかなかった発見に少し感動しながら、私はゆっくりと目を閉じる。なぜ目を閉じるのか、体験するまでわからなかったけれど、より相手を近くに感じたいからなのかもしれない。
視覚が奪われて、他の五感が冴えていく。触覚、聴覚。少しでも触れられればそのぬくもりを敏感に感じ取ることが出来る。先程とは違い、口腔内というよりも唇を味わうように、佐藤君はやんわりと私の唇を甘噛みする。その延長で、舌をちろり、と出して舐めたり、佐藤君の唇全体で挟まれて、吸われたり。
溶けてきた思考で、それが気持ち良いと感じる。私って、ひょっとして淫乱だったのかな。そんなことまで考えながら、ちろりと伸びる舌はどんな様子なのか見たくなって、そろり、と瞳を開けてみる。
驚いた事に、てっきり閉じていると思っていた彼の瞳は、ぱっちりと開かれていた。
目を見開いた私に気付けば、瞳で笑った佐藤君は、そっと私の唇を弄んでいた舌を離す。まるで私がそれを見たがっていたことを知っているみたいだ。
ああ、やっぱり、綺麗。
ぼんやりとそんな事ばかり思っていたら、佐藤君が微笑んだ。
「昴って、そう呼んで」
「……え?」
「ふふ、まだぼんやりしてる?かわいい」
頬に手を添えられて、優しい声音でそんなことを言う。私はそれがとても恥ずかしかったけれど、同時に冷えた手の平が気持ちよかった。いや、佐藤君の手が冷えたというよりも、私の頬が熱すぎるのだろうな。先程の行為のせいだと思ったら、なんだかますます温度が上がりそうだった。
私は何かを誤魔化すかのように、ちらり、と佐藤君を見やる。
「え、ええと、あの、す、昴君?」
「うん、そう呼んで」
わかった、と私が頷くと、佐藤君は再度微笑んだ。
それから、ココアをすべて飲み干して、佐藤君は帰った。
駅までの道がわかるのか心配だったから、いっしょに行こうか、と言ったけれど、夜は危ないから、と断られてしまった。なんとも紳士的であると同時に、そんな風に女扱いされると、気恥ずかしい。
パタパタと顔を扇ぎつつリビングに戻ると、携帯電話が振動する音が響く。静かにしていると、けっこう聴こえるものである。
私はポケットからそれを取り出せば、登録した覚えのない名前に目を丸くする。通話ボタンを押すと、そこからは先程まで話していた佐藤君の声が聞こえてきた。
『無事駅に着いたよ』
その言葉に、よかった、と私が告げる。そういえば、携帯電話の番号を教えてくれとさっき佐藤君が言っていたな。何か操作して私の番号はわかったから、と返されたから、まさかこちらに彼の番号が登録されているとは思わなかった。佐藤昴という名前が、きちんと着信者名に出ている。
私は、彼の言葉に微笑んだ。
『そうか、それはよかった。家までも、気をつけて帰ってね』
『ありがとう。じゃあ、また明日ね、千絵子さん。これからよろしく』
その言葉にこちらこそ、と返事をして、電話を切った。
台所へと足を運べば、片付けようと思っていたマグカップは、綺麗に洗われ、あるべきところに戻されていた。きっと、佐藤君がやってくれたんだ。でも、いつの間に?
「……そういえば、あんまり顔が赤いから顔を洗ってきたらどうだって佐藤君に言われたな」
きっとその間に片付けてくれたのだろう。なんと、好青年である。
気付けば私は、よくわからないかたちで終わらせてしまった初めての接吻を、特に悪い記憶として残すこともなく微笑んでいた。