第28話
お互いがお互いの気持ちを確認し合って、正式にお付き合いというものがはじまった。所謂、その、恋人、というものが私にもできたわけである。
はて、しかし。
恋人って、なにをするものなのだろうか。
「千絵子さん、おはよう」
「……おはよう?」
首を傾げつつ私があいさつを返す。現在時刻は午前7時。ちょうど制服に着替え終わったところに玄関の呼び鈴が鳴り響き、なんであろうかと扉を開けば、立っているのは昴君だった。
にっこりと微笑む彼に私も微笑み返したけれど、この状況が理解できずにいる。
とりあえず、と私は昴君を室内へ招いた。
「……昴君、どうしたの、急に」
首を傾げて言えば、リビングへと一緒に入ってきた昴君がため息を吐いた。見ると、苦笑を浮かべている。
「恋人に会いに来るのに特に理由はいらないでしょう?」
「へっ」
「また、毎朝いっしょに通えたらな、と思って」
「そ、そういうもの?」
予想外の言葉に顔が赤くなってしまう。私はその変化をあまり気取られたくなく、背を向けて作業を再開させた。今朝食をたべようとしていたところなのだ。あとはインスタントコーヒーにお湯を注ぐのみである。
誰もいない朝食は、トーストだけにしようと思っていたので貧相だ。なんだかそれも恥ずかしい。
ジャムは一昨日つくった手作りのものだが、それにしたってコーヒーとトーストのみはない。こんなことならばあともう一品くらい作っておいたらよかったなあ。しかし、いっちょまえに良いところをみせたい乙女心なんていうものが自分にも芽生えたのか、と思うとなんだか新鮮だった。
お湯を注ぎ終えて、マグカップを持ちからだの向きをかえれば思いのほか近い位置に居た彼に驚いて、私はうわ、と間抜けな声をあげる。
「す、昴君……?」
にっこりと微笑み真正面に立つ昴君は、その表情のまま私が持っているマグカップを右手から抜き取ると、シンクの上へとそれを置く。何故そんな事をしたのかわからずに疑問符を浮かべていると、彼が頬へと手の平を滑らせた。
少し冷たい、右手。
ぴくん、と少しだけ震えた自身のからだは、しかしもう昴君に行為を許しているのだと告げている。かたくなることもなく異議を唱えるでもなく、ただ心臓だけを高鳴らせてじっと彼をみつめる。
昴君は、もういちど微笑むと、ゆっくりと私の唇に触れた。
「んっ……」
震える私の後頭部にゆっくりと彼の手がまわる。もう一方は私の耳を触れるか触れないかのような力加減で撫でさする。それが妙に官能的で、私は自身の中に眠る女を暴かれそうな気分になった。
段々と深くなる唇の動き。最初は触れるだけだったそれが、上唇を食まれ、下唇を舐められ、ゆっくりとノックするように舌が私の歯列をつつく。私は黙ってその甘い侵入を受け入れた。
やがて響く水音は、何度聴いても慣れない。お互いの唾液が混ざり合い、蠢く舌のいやらしさに頬を染めつつも、そこから蕩けるような甘さを含まされているようで、自然と身体の力が抜けていった。
しばらく行為を続けられて、やがて苦しくなるとそれを察したのか、昴君が愛撫を止め最後にもう一度軽く触れるように私へと口付けた。
なんでだろう。最後のそれが妙に気恥ずかしかった。
だからなのだろうか。場の空気をなんとなく一掃してしまいたくて、慌てて呼吸を整えれば、私は昴君に声をかけた。
「昴君、あ、朝ごはんは?」
「食べてきたから大丈夫だよ」
「……そう?じゃあ、コーヒーだけでも飲んでいく?」
「いいの?ありがとう」
微笑む昴君に安堵して、私はぱたぱたと食器棚へマグカップを取りにいく。あ、そういえば、さっきのコーヒー、中途半端に冷めてしまったな……。
せっかくだから、きちんとドリップしたものをふたりぶん作ろう。もったいないけれど、と私はシンクにインスタントコーヒーを流した。ああ、ごめんなさい。
先にトースト食べようかな。
椅子をひいてテーブルに着くと、昴君はすでに向かいに腰かけていて、頬杖をつきつつ私の様子をうかがってくる。
「……なんでございましょう」
「どうして敬語なの?」
「いや、な、なんとなく?」
ふ、と笑う昴君の瞳が、どこか怪しく光って見えるのは、気のせいか。
私は緊張状態のままトーストにバターと苺ジャムを塗る。なんでこんなに手の平に汗をかいているのだろうか。ああもう、食べにくいなあ。
「千絵子さん、今なに考えてる?」
「え?」
「僕はね、かわいいなあって思ってるんだけど」
「え?」
「ていうか、食べちゃいたいなあ、千絵子」
「…………」
さく、と一口トーストを食んだ。と、同時に発した昴君の言葉。その意味を、私は把握しかねて、歯でちぎったひとかけらをもぐもぐと咀嚼しながら、なんとなく頭の中でそれを反芻する。
食べる。
それは、そのまま解釈すると色々大変な事になるが、まあ、そうではないのだろう。一般的に言うと、あれだ、ちょっと、その、あれな感じの比喩表現である。
「……えっと」
正確に意味を理解すると、ちょっと色々と問題が生じる。そもそも、昴君てこんなお人でしたっけ。
微笑んだ顔のまま口ごもる私を、昴君は相変わらず綺麗な顔でみつめてくる。
「いつか千絵子さんのぜんぶちょうだいね」
言われて、最大限私が顔を赤く染め上げれば、昴君はもういちどかわいい、と言った。
朝から心臓が持ちません。
「……あんた達、極端ね」
おはよう、という挨拶を交わしてから、言われた一言。あかりの呆れた顔に私は多少首を竦ませる。
朝、私はごはんを食べて昴君はコーヒーを飲み終えて、当然だけれど一緒に登校する運びとなったわけだ。なのだが。
私達は、なぜだか手を繋いでいる。
嫌なわけではないけれど、あえて言うと恥ずかしい。ひどく、気恥ずかしい。だって、昨日まで私達は仲違いのようなものをして、でもその前は仮が上に付くような形ばかりの恋人で、でも、今私達はまぎれもない恋人で……
ああ、言っていてわけがわからなくなってきた。
「恋人同士が手を繋いで登校してきたってまったくおかしくはないでしょう?」
にこやかに言う昴君の言葉に、ますます恥ずかしくなって、私は口ごもる。
というか。
昨日からずっとこんな感じなんです、昴君。どうしたというのでしょう。
戸惑いを覚えつつ私が昴君を見つめていると、何を思ったのか、昴君が私の手を繋いだまま、なぜだか私の席に腰を下ろす。
ええと。私はどこに座ればよろしいでしょうか。
首を傾げていれば、昴君がおいで、と一言。
「……え?」
「ここに座って」
にこにこと人好きする笑顔を湛えながら、昴君が示すのは彼の膝。
いえいえ、ぽんぽん、とあなたのお膝を叩かれてもね?私はちょっと理解が追いつきません、追いつきませんよ。
「ちょっと」
「自動販売機は行かないの、はい、どうぞ」
「む」
昴君に手渡されたのは、キャラメル。あれ、これはうわさの生キャラメルというやつではないのか。
私は受け取ってそれを口に放り込むと、広がる柔らかい食感と甘さに、脳内に幸せな成分がふわふわと漂う錯覚に陥る。
そんな油断した状態の私をそのまま引っ張り自身の膝に私をおさめてしまった昴君は、もちろん腰に彼の腕をまわすことも忘れない。
がっちりと、拘束されてしまった。
なんでしょう、これ、なんなのでしょうか。
「あのう、昴、くん?」
「なあに?」
いや、そんな、なあに?って首を傾げられても。今はまだ、他の人、そんないないけど、数人だけど、でも、いるし。ものすごい驚いた顔してこっち見ているし。何よりも私の前の席に座るあかりがものすごい顔でこっちを見ている。なんという冷ややかな視線なのだろうか。はっきりいって怖い。
「ちょっと、これは、あの」
「……嫌?」
ぐ!
なんですか、その顔。
昴君が、情けない声を上げて、私を上目遣い、膝の上に乗っかっているので自然と私が見下げる状態になるからそうなるんだけど、で、見てきます。
気のせいだろうか。彼の元々くっついている耳以外に、頭頂部に大きな耳が見える。あれは、なんていうか、少し垂れた耳だ。ゴールデンレトリバーやビーグルのような大きな耳ではなくて、シュナウザーなんかみたいなちょっとだけ垂れてるような、そういった、耳が見える。いや、錯覚ですよね、わかってます。
でも、なんか鳴き声まで聞こえてきそうだし、潤んだ目がものすごい、捨てられた子犬みたいな感じだし、でも恥ずかしい。
でも。
「…………嫌、な、わけでは」
情けない事に、私はそう告げて、昴君に拘束されることを許してしまった。
それから上機嫌な昴君は、予鈴が鳴るまで私を抱え込んでいた。
「あの、野田さん」
「遠野君」
掃除当番であった私は、現在ほうきを持って教室中のごみをせっせと集めている。話しかけられたのは同じく掃除当番である遠野君。振り返ったら至近距離にいたので大変驚きました。
目を丸くしつつどうしたのか、と訊ねてみれば、遠野君は口ごもる。一体なんだろうか。私はとりあえず集めたごみを取ってしまおうと提案すると、ちりとりを持っていた彼は慌ててそれを差し出す。
「遠野ー」
「! 坂庭。なんだよ」
「お前、野田さんとふたりでごみ捨て行ってきてくんない」
「……いいけど」
微妙な空気が流れていた私達の間を取り繕うかのように、黒板消しを手にしている坂庭君が提案をしてきた。ちりとりの中身をごみ箱に放り込みつつ遠野君が是と答えて、私もおなじくかまわない、と答える。すると坂庭君が満足そうに頷いて、遠野君の肩をがっし、と掴みつつ、なにやらぼそぼそ話しかけていた。ふたつみっつ言葉を交わした程度のようだが、坂庭君の言になにやら遠野君が慌てているようだ。
普通、ごみ捨てってじゃんけんしたりそのときどきで気遣いやさんな誰かが自主的に行ってくれるもんだけど。なんだろうな、この流れ。ひょっとして私に言い辛い話でもあるのだろうか。
首を傾げつつ私が燃えないごみを、遠野君が燃えるごみを持って出た。ちなみにこちらのが軽い。遠野君はいたって紳士である。
もうだいぶ寒い校舎裏。かつて昴君に呼び出しをされた所を通り過ぎようとしている。ああ、なんだか懐かしいなあ。
少し顔に微笑を浮かべつつ歩いていた私に、遠野君が声をかける。
私は少し感情の海へと心を浸からせていたため、なんとなく邪魔された気がしてしまったが、当然それを表に出す事はなく、普通の調子でなあに、と返事をした。
がこん、とごみ箱が音を鳴らす。ごみを放り出して空になったそれは、もう持ち上げる意味を失くしたと思っているのか、遠野君は多少粗野な動作で地面と擦り合わせている。
私も同じく空になったごみ箱をちらと見て、ゆっくりと地面へ置いた。遠野くんのごみ箱はまだ少しくわんくわん、と揺れていて、私は綺麗じゃないなあ、なんて考えていた。
「野田さんさ」
「……うん?」
ごみ箱から遠野君に視線をもどして、私は返事をする。
瞬間、見覚えのあるまなざしが私を捉えて、その瞬間、あ、と思ったけれど、しかしここまで来てしまった事実はどうしようもなかった。
「野田さんって、佐藤君と付き合ってる、の?」
「…………うん」
ああ、この流れ。これでなにもわからない私ではないのだ。さすがに、予備知識はあるから、今これから何がどうなるのかというのは予想がつく。
自惚れというよりは、確信に近くて。けれどそれは、彼が向ける視線が、いつかの昴君と似ているからだった。
昴君はやっぱりあのときから、私を好きだと思っていてくれたのかな。他のひとからそれを認識するなんて、なんだか皮肉なものである。
「俺、野田さんがずっと好きだったんだ」
「……ありがとう」
「……うん」
「でも、ごめんね」
「…………うん」
俯きながら、先に戻っているね、と言った彼の背中を、呆然と眺めていた。
昴君以外の人に初めて告白などというものをされて、にわかに動揺をしているみたいだけれど、それでも、私は心を揺れ動かすことはなかった。
彼は、昴君じゃないから。実にシンプルな結論だ。だけれども、私にとってはなによりの真実で。
心の中で、ごめんなさい、ともういちど唱えた。
「……なんでかな」
綺麗だ、といつも視界に留めては思う彼。
佐藤昴君。
好きになった人で、今は私の恋人。彼もまた、私を好きだと言ってくれた人。
どうしてなのだろうか。
今、妙にあなたに会いたいんだ、昴君。
吹いた風に少し目を閉じて、身体をふるり、と震わせれば、私はそろそろ校舎に戻ろうと足を動かした。
ごみ箱は、地面と接触しないように持ち上げて運んだ。