第24話
「ちーちゃん、おはよう。お腹すかない?」
「……まーくん」
目が覚めたのは、朝の5時だった。いつもの習慣て怖いな。身に染み付いているものだ。ぼんやりとした状態のままリビングに下りていくと、優しい従兄弟が微笑んでいた。
昨日のあれ、夢じゃなかったんだ。
私は少しの間呆けていたけれど、やがて盛大に鳴いた腹の虫がまーくんに返事をしたので、あはは、と渇いた笑いを浮かべた。
まーくんは、そんな私にくすくすと笑い声をあげる。
「よかった、思ったよりも元気そうだ。顔を洗っておいで。朝食にしよう」
まーくんの言葉に返事をして、私は洗面台で顔を洗う。もう一度リビングに戻れば、完璧な朝ごはんが私を待っていた。
にんじんのポタージュスープに、具沢山のサンドイッチ、じゃがいものトマト煮。目を丸くしてきらきらした朝食をみつめていれば、まーくんは召し上がれ、と私に座るよううながしてくれた。
飲み物は、あたたかいココアだ。私はありがたく受け取って、いただきます、と元気よく声をあげた。
「相変わらず、美味しそうに食べるね」
「む?そう?」
くすくすと笑いながら、まーくんも注いだコーヒーに口をつける。こうやって向かい合って食事をするだけで、温かい何かが流れ込んでくるみたいだ。
目の前に座る従兄弟の優しさに、心から感謝した。
「あ」
短く声をあげて、私はあることを思い出した。
そういえば、昨日は疲れて眠ってしまったけれど、朝はもう来ないでくれ、と昴君に告げていない。どうしよう、今日も彼はやってくるのだろうか。連絡をするべきだとわかっていたけれど、アドレスはもう消してしまった。やりとりをした過去のメールなりなんなりを引っ張り出して連絡を取る事も可能は可能であるが、井上さんがいる手前、それもなにやらし辛い。
思案して食べる手を止めていると、向かいに座るまーくんと目が合う。私を見てくすり、と笑ったのは、気のせいだろうか。
首を傾げてみせると、まーくんはやはり笑っている。一体なんだろうか。
「来ないよ」
「! へっ」
食事をしつつ告げられた言葉に、私はひっくりかえった声をあげる。それは、今しがた考えていた問題への答えなのだろうか。わからないとはっきりと表情で告げれば、まーくんはコーヒーを一口飲む。
「俺が言っておいた。もう余所見しないようにって。納得してたみたいだから、もう来ないでしょ」
「……まーくん、どこまで知ってるの?」
「知らないよなにも。でも予想はつくから」
「…………」
まあ、あれだけ泣いたのだから、失恋したのだろうと相場は決まっているのかもしれないけれど。にしたって、どうして昴君に相手が出来たことまで当ててしまうのか。エスパーですか。
でも言っておいたってなんだろう。電話番号なんて知らないはずだし、電話帳から昴君の名前は消えているはずなのに。それとも私の知らないところで番号交換していたとか?
「昨日電話がかかってきたんだよ」
「! まーくん」
ことごとく考えている事を見抜かれて目を丸くする。まあ、今の私はきっとわかりやすい思考回路だとは思うけれど。
「ちーちゃんもう寝ちゃってたし、起こしちゃいけないと思って。……勝手なことしてごめん」
「いいや、むしろありがとう。私きっと自分から言う勇気なかったから」
「そっか」
「ん」
その後は、まーくんの美味しい料理を存分に堪能して、さらに作ってくれたお弁当を提げながら、私たちは通学路を並んで歩いた。
「千絵子さん!」
学校に着いて早々に声をかけられて驚く。昴君がこちらを睨みつけているではないか。というか、いつから立っていたんだろう。昇降口でずっと待ち伏せしていたんじゃあるまいな。
腕を組み、並んで歩いてきた私たちをそれぞれ一瞥すれば、昴君は不機嫌を露に私の名前を叫ぶ。
一体全体、なんの用だというのか。そもそもこんな風に私に話しかければ、井上さんが不安がるのではないだろうか。少なくとも彼は、相手をそれなりに思いやれる男だと思っていたが。
「なにかな、佐藤君」
「! 千絵子」
「あんまり親しくしないでくれないかな。誤解されると嫌だし」
「……ずいぶんと露骨なんだね」
不機嫌顔から一転、苦しそうな表情に、私は呆れの思いすら芽生えてきた。ひょっとして彼は、今まで通り仲良くいましょう、と言いたいのだろうか。いや、別にそれが悪いとはいわない。けれど、私と昴君の場合、様々な問題があり、それを加味すればどう考えても距離を置いたほうがいいと馬鹿な私でもわかる。
井上さんがすべての事情を知っているならば尚更、彼女は少しでも私たちが仲の良いそぶりを見せれば不安になるだろう。そうなってくると、私も彼女からまた何か言われるかもしれないし、正直、多少疲れてしまった今は、そんなごたごたに巻き込まれたくはなかった。
私がきっぱりと諦められるくらい、今は大切にしてほしいのだ、井上さんを。
「露骨になるのも当然でしょう。私たちは距離を取るべきだよ。少しでも不安要素は取り除くべきだ」
「……そんなに、好きかよ」
「え?」
昴君が呟いた言葉がよく聞こえなくて、訊き返そうとしたけれど、今まで黙っていたまーくんが、私の手を握った。
「もういいでしょう。ちーちゃん、いこう」
にっこりと微笑むまーくんから、どうしてか妙な威圧感を覚えて、私はなんとなくうなずいた。まあ、あまり長いこといっしょに話している姿を見られたくないという気持ちはあったから、別に抵抗する理由もないのだが。
手をひかれつつ歩き出した私は、未練なのか、それでも少し後ろ髪引かれる思いであった。
「……あんたたち、どうなってんのよ」
あの日から、一週間。
とにかく昴君を避けてさけて、私は今日までなんとかやってこれた。それまでのあいだ、ずっとこまめにまーくんが私の相手をしていてくれたから、そんなに悲しい思いばかりにとらわれずに済んだ。本当に、彼には感謝してもしきれない。
いつか、まーくんに恋人ができたら、その女の子はとてもとても大切に扱われるのだろうなあ。もしもまーくんが恋をしたならば、私は全力で応援したいと思う。まあ、なにか手を出したら逆にこじれてしまいそうだから、そっと距離を置いて見守るくらいしかできはしないだろうが。
あれ、それって具体的に何もしていませんね。
せわしなく進む思考回路とは裏腹に、私は机に頬杖をつきつつぼんやりと外を眺めている。前の席に座るあかりからの質問は、もう何度目だろう。
「だから失恋しただけだって」
「本人に直接?」
ため息混じりに放った言葉に、これまた同じく何度も繰り返された質問。私は多少面倒な思いもありつつ、それでも事情を話していないうしろめたさからかそれはなるべく表に出さずに答える。
「似たようなものだって」
「……あんたがそれでいいなら、いいけど」
眉間に皺を寄せて、やっぱり最後はそう言ってくれる。あかりは、強引に言葉を出そうとしない人間だから、それがひどくありがたかった。
「それよりあんた、もう放課後だっていうのにのんびりしてていいの?いつもは家事があるからってこのくらいには帰ってるじゃないの」
「うーん、今日はまーくんといっしょに帰る約束をしたのだけれども、まだ来ないんだよね。ちょっと用事があるけどすぐ済むから教室で待っててくれって言われたんだけど」
「……へえ」
私の言葉に、あかりが何かを考え込むかのように数秒沈黙し、声をあげる。どうしたのだろう。
しかしまーくん、少し遅いな。今日はふたりでお互いのレシピを盗もうとはりきったごはんを作って食べる計画があるのに。
そわそわと落ち着かなくなってきた私に、あかりがうっとおしい、と額を弾く。なんとひどい。
痛さに悶絶していると、待ち人がやってきた。
「ちーちゃん」
「まーくん。用事終わった?」
「いや、これから」
「……へ?」
「いっしょに来てくれる?」
微笑むまーくんにわけがわからず、しかし強引に腕をひかれればついていくしかない。前に座っていたあかりにも、よかったらどうぞ、とまーくんが声をかけたものだから、あかりはにんまりと嫌な笑みを浮かべつつ、いそいそとついてきた。
ひょっとして、状況把握できていないの私だけです?
連れて行かれたのは、何故か生徒会室。一般生徒は立ち入り禁止のはずであるが、どういうことなのか。
問うように目線を向ければ、まーくんがいたずらっ子のように片目を瞑り、自らの口元へ人さし指をあてる。物音を立ててはだめ、ということか。
まーくんが慎重に扉に手をかける。どうやら鍵は開いているようだ。
少し開いた隙間から、私とあかり、まーくんの3人が覗き込む。ここは校舎の端だからここに用事がない人間以外は生徒会室の前まで来ないが、外からこの光景を見たらぎょっとするであろう。
なにをやっているのか。
冷静になると多少むなしさを覚えるものの、好奇心は隠せなくて、私は興奮する心臓をなだめつつ中の様子へと目をこらした。
普通の教室よりは多少狭い、資料が入った棚がいくつかあり、いくつかのテーブル、椅子、ソファ、が並んでいる部屋。部室よりはやはり少し豪華だ。
見ると、どうやら一組の男女が至近距離で話をしているようだった。
「……井上さん、昴のことが好きなんでしょ?」
「やだ、高柳君たら。誤解よ、そんなの。彼とは、生徒会役員として仲良くさせてもらっているけれど、それ以上も以下もないわ」
会話の内容でわかった。やなぎんと井上さんだ。
しかし待てよ?今の言葉は、一体どういうことなんだろうか。
どんどん早くなっていく心臓を、落ち着け、落ち着け、となだめる。
狭い視界に慣れてきたから段々と状況把握ができるようになったが、あれれ。
どう見ても、やなぎんの首に両腕をまわして絡ませているよね、井上さん。
あれー、井上詩織さーん!?
「じゃあ、昴とはなにもないの?」
「ええ、もちろん。私が好きなのはあなただって……とっくに気付いてるんでしょ?」
「さあ、どうだろう」
「意地悪ね」
くすくすと笑う彼女の顔を見て、私は目の前が真っ赤になった。
やなぎんもやなぎんではあるが、何よりも重要なのは、彼女だ。井上詩織。
まーくんに、物音を立ててはだめだって言われていたけれど、それはわかっていたけれど、そんなの考えられる余裕が私にはなかった。
「ふざけんな!」
声を荒げて思い切り生徒会室の扉を開けば、それに驚いて目を見開くような表情を見せているのは、井上さんもやなぎんも同じだった。
井上さんから身体を密着させているのは明白で、私はそれを見れば吐き気がしてくる。信じられない。この女は、裏切っていたのだ。昴君を。
「ちょっと、ここは役員以外は立ち入り禁止よ」
「やなぎんだって役員じゃないだろう、このあばずれ!」
私の言葉には!?と声を上げる井上さんを、私は思いきり睨みつけた。
「あんた、一週間前言ったよな。昴君と付き合うようになったって。昴君がこれ以上傷付かないようにって、私が彼に告げることを止めたんじゃなかったのか!?」
「それは……」
私の言葉に、狼狽しながら井上詩織はやなぎんから身体を離す。先ほどの言葉は余裕からだと思ったが違ったらしい。どうやらじゅうぶん動揺していたからこその態度だったようだ。
「井上さん、どういうこと?」
「違うの、高柳君、信じて……私は、あなたしか好きじゃないわ……」
潤んだ瞳で、上目遣いで彼女がやなぎんを熱っぽくみつめる。うわあい、反吐が出るぜ!
その思いは同じだったのだろう。背後から冷気を漲らせたあかりが、低い声でビッチ、と呟いてきた。あれ、ちょっと怖いな、あかり。
「……じゃあ、昴は関係ないんだね?俺だけ?」
「何度も言わせちゃ、やだ……好きなの、奏君……」
なおも言い募る彼女に、私の中で何かが切れた。
気付けばやなぎんにすがる彼女の肩をぐい、と引っつかみ、上げた手をその怒りのままに彼女の頬めがけて振り下ろした。
痛々しい音が室内へ響き渡る。今、あるのは、この女が許せないという事実だけだった。
「! ひ、ひどい……」
なおも傷付いた顔でしおらしく涙する彼女にはあっぱれだが、こんな女に騙された一週間前の私に心底苛立ちを覚えた。ああ、もう、単純馬鹿だな私は。
やなぎんは、眉間に皺を寄せ非難がましい顔で私を見ている。なんだ、これも、この程度の男だったのか、と妙に冷え冷えとした頭がある。
「……私はね、素直にならずに逃げた自分への、罰なのだと思って、甘んじてそれを受けた」
淡々とした声は、どこから出ているのか。自分でもわからないくらい、低い声。
「もちろん、怖さもあったけど、それ以上に、昴君が幸せになってくれる事を願ったから黙ってあの時身をひいたんだ!あんたは、好きな人間を平気で裏切るのか!昴君を、あんなに優しい人を、裏切ったのか!!」
「だから、なんの話をしているのかわからないわ」
「まだ言うのか!番号とアドレスまでその場で削除させたくせに!!」
「知らないって言ってるでしょ!」
叫び声が室内全体に響いた、その時だった。
がちゃ、と扉が開くような音がして、皆が一斉にそちらのほうへと視線をやる。
え。
ちょっと待ってください。
「どういうことかな?これは」
にっこりと微笑む、綺麗な綺麗な、男の子。
生徒会室の奥にある資料室から、まさか今まで話題にしていた彼が出てくるとは思わなくて、驚いた私は一瞬、思考が停止した。
それは、井上詩織も同じだったのだろう。
「す、すばる、くん……?」
「ねえ、井上さん、さっきの会話、説明してもらえるよね」
あまりの事に混乱状態に陥った私は、考えた。まずどうすべきなのかを。
そして至った結論に従おうと思えば、対峙していた井上詩織に背中を向ける。さあ、歩き出そう、というところで、突如出現した謎の腕が私のウエスト部に手を回してぐい、と私の身体を引っ張った。
おや?
「自動販売機は、あとでね、千絵子」
耳元で囁かれたなんとも艶っぽい声に、ぞくり、と全身が粟立った。
昴君、お願いします。
ココアを買いに行かせてください。