第23話
好きだと告げるのは、すごく難しいことだって、わかっている。けれど、まーくんやあかりに背中を押して、正確にはあかりには叩かれる程の威力であったが、もらって、気付いた。
あふれるものを、止める術はないのだという事実。醜い心で覆われて、そこから逃げ出そうとしたって、結局ついてまわるのだということ。それならば、と。腹を括ったのだ。
私は、佐藤昴君が好きなのだ。信じる信じないを、もうどこぞへ放ってしまってもかまわない程度に。
心の中で唱えたら、なんだか妙にすっきりした。
放課後を待って、私もあの日からやり直そう、と決意した。昴君のクラスに行って、彼を呼び出す。話したいことがあるのだ、と。場所はもちろん部室だ。
そういった状況に頼るのは情けなくもある。あの日を再現して、やっと伝えることができる小心者の自分。今度こそ砕けてしまうかもしれない。
でも。
伝えないよりはずっとましなんだ。
もやもやと傷付きたくないといじけていた時の己が、嫌で仕方がなかったのだから。私は、私を誇りたい。だからこそ、こそこそと消滅させるよりも、当たって砕けたい。そうして改めて、私は私をなぐさめてやれるだろうから。
ふう、と短く息を吐く。担任が全工程の終わりを告げて、我々は学生の本分をまっとうした。いよいよもって、待ち望んでいたのか、永遠にこないでほしいと願っていたのか、複雑な放課後が始まるというわけだ。
当然だか、私は緊張した面持ちで席を立つと、鞄を右肩にひっかける。気を落ち着かせよと、深呼吸をした。
ふ、と吐き出した息がすべてなくなれば、私は少しだけ混乱していた頭がすっきりとした気分になる。
「千絵子」
いまだ座った状態で、私の前にいるあかりが振り返りつつ名を呼ぶ。何も言わずとも伝わってきた。しっかりしろ、と目が訴えている。
私は頷いて、いってくる、と多少うわずった声で教室をあとにした。ああ、結局しまらないもんだなあ。
あの日と同じように、昴君の教室へ向かう。うるさい鼓動は耳を塞いだところでどうにかなるわけもないので、放っておいてそのまま無言で廊下を歩いた。
「あの、野田さん?」
おや。
まっすぐに教室へと向かうはずであったのに、私は早くも再現を失敗させてしまったらしい。声をかけられて思わずため息を吐きそうになったけれど、高くも低くもない耳に心地良い凛としたその音に、私はすぐさまその感情を堪えた。
目の前にいるのは、井上さん。今朝、昴君の隣に並び可憐な笑い声をあげていた女の子。
私から、永遠に昴君を奪ってしまうかもしれないひと。
いや、奪う、は図々しいな。元々、彼は誰のもんでもないだろうに。
そんな事を考えてしまい、ついつい苦笑をもらした私の表情を訝りつつみつめる彼女に、私は小さく謝罪をいれれば、どんな用向きかを聞こうと改める。
「……昴君のところへ、行くんでしょう?」
「それは……あなたに言わなければいけないことなんだろうか」
探るような視線でそう投げかけられ、私も思わず応戦してしまう。ほろりと出た言葉は、きっと本音そのもの。つっけんどんとまではいかずとも、友好的とは言い難いその態度に、井上さんはくりくりとした黒目がちな瞳をす、と眇めてみせる。
初めて対峙したときに垣間見た表情を思い出し、私は一瞬身を強張らせたが、なんとか弱気になっている部分を見せずに済んだ。
しかしそんな私の心境などどうでもいいかのように、先程の少し険のある表情を引っ込めれば、彼女は困ったように眉根を寄せた。そんな姿も綺麗である。昴君のはなつそれとは違い、純粋に容姿が綺麗だという話だが、いずれにせよ、やはり私よりは隣にいて見栄えすると思えてならなかった。
ああ、だから。
そんなことでいちいち落ち込んでどうするのだ。
「野田さんて、昴君のこと好き、なのよね?」
あまりにも直球すぎる物言いに、私は素直に不快感をあらわした。
眉間に皺を寄せ、無言でいれば、井上さんはそれだけで確信を持ったのだろう。心得たように頷けば、悩ましげな息を吐き出した。
「あのね、この土日のあいだで、私たちお付き合いを始めたの」
「! それって」
「もちろん、私と昴君よ」
そんな。
声に出そうとしたけれど、私は面白いくらいに動揺していて、ひゅう、と空気が振動するのみで、喉から音が発せられることはなかった。
私の反応に心底申し訳なさそうな、悲しそうな顔を井上さんは向けてくる。
次には何を言うつもりなのかと、黙ってみつめれば、なぜか井上さんは私に頭を下げた。
「……井上さん?」
「ごめんなさい、勝手だってわかっているわ。恋愛は、誰が誰に想いを告げようと、自由だもの」
息を呑む。
彼女は、わかっているのだ。これから私がなにをするのかを。
「やっと叶ったの。やっと私、彼の隣に並べるようになったわ。だからお願い。奪わないで、私の居場所を」
「でも、私は」
「あなた、一度彼をふったらしいじゃない」
「! どうして」
「昴君が教えてくれたの。失恋して弱っている彼につけこまなかったといったら、嘘になるわ。でも、なりふりかまっていられなかったの。それほど彼を好きなのよ!」
下げていた頭を上げた瞬間に見えたのは、潤んだ瞳。大粒の涙を今にも零さんばかりの彼女に、私は何を言えばいいのだろう。
かたまってそのまま話を聞くしかない私に、井上さんはたたみかけるように声を上げる。
「今あなたが告白すれば、きっと彼はあなたを選びたいって思う。けれど、昴君は優しいから、私とあなたとのあいだで板ばさみになって苦しむと思うの」
「……そう、だね。彼はそういう男だ」
力無く頷く私に、今度こそ彼女は涙を落とした。
「これ以上、私の大切なひとを苦しめないで。最初にふったのは、あなたでしょう?もう、これ以上刺激しないで、そっとしておいて!何より、私はずっといっしょにいたいの。昴君の隣にいたいのよ!」
顔を覆って泣き出す彼女を振り切ってまで、告げる勇気なんて、私には。
当然なかった。
何よりも、彼女の言葉はいちいち正論すぎて、胸に突き刺さる。
昴君は言いふらすような人間ではないし、彼女の事を信頼しているからこそ、私と昴君のあいだに起こった出来事を話したのだろう。だからこそ井上さんは、私を昴君に近づけたくないのだ。
一度ふいにしてしまった大切なもの。
『あまり迷っていると、さらわれてしまうよ』
ああ。
『ちーちゃん、素直になった時、相手がまだ隣にいるかはわからない。それだけは肝に銘じておいたほうがいい』
ああ。
本当だね、まーくん。
そのとおりすぎて、びっくりしてしまったじゃないか。
「全然勝手じゃないよ。私が、都合が良すぎた。ごめん、もう、彼には何も告げない」
「野田さん」
苦笑して、私は踵をかえす。しかし、まだ用事があったのだろう。慌てた様子で私を呼び止めた井上さんに、私は多少苛立った。
正直、もう井上さんをあまり直視したくはなかった。だってやっぱり、少しは、いや、だいぶ、辛いから。けれども必死で堪える私の心情を知ってか知らずか、彼女はさらに言い募る。
「昴君の番号、知っているんでしょう」
「え?」
「携帯の番号よ」
一瞬意味がわからずに聞き返した声をとぼけているのだろうと勘違いしたのか、少し苛立った声で彼女が繰り返し訊ねてきた。私がやっと意味を理解しああ、と頷くと、井上さんはみるみるうちに怖い顔で私を睨んだ。
「消して」
「え?」
「今ここで、昴君の番号とアドレスを消して。出来れば、あなたもアドレスを変えてほしいんだけど」
はい?
なぜそこまでせねばならないんだ。
あまりの言い様に私は呆気に取られていたが、未練を残したら彼がかわいそうでしょう、などと言われて、後から考えればそのとき私は多大なる絶望の最中にいたからか、まともな判断がついていなかったのだと思う。その場で、彼の携帯番号を消し、メールアドレスを消し、ついでに私のアドレスまでも新しいものに書き換えた。
その様子を見てやっと安心したかのように微笑んだ井上さんは、ありがとう、と告げて、私とは反対方向へと軽やかな足取りで歩いていった。
私は、最後の彼女の微笑みが歪んで見えて、そんな風に思ってしまった自分の心にとてつもない嫌悪感を抱いていた。
終わった。
本当になにもかも、終わってしまったんだ。
呆然と立ち尽くして、しかしいつまでもそんなことをしていても仕方がないと思った私は、鉛のように重くなったような感覚の足を引きずりつつ、ゆっくりと帰路に着いた。
「なんだよ、けっこう切り替え早いんじゃないか」
発した声が震えている。自分を笑いものにして元気を出そうと思ったのに、これじゃあなんの冗談にもならない。目からはぼとぼとと涙が溢れて、視界が歪んで見える。
なんだよ、とか、ちきしょう、とか、そんなことを小さい声で呟きつつ、私はなんとか家に帰った。
晩ごはんを作らなきゃいけないのはわかっていたけれど、とてもじゃないけれどそんなことできそうもなくて、しかし運が良いのか悪いのか、この日は両親とも帰って来ない日だった。
ひとしきり涙を流して、喉がひどく渇いていた。
ベッドに潜ってシーツに顔をぐりぐりとこすりつけていたけれど、少しだけ頬も痛い。
あまりにもわかりやすく泣いていたと思われるのも嫌だから、明日はきちんと顔を普通の状態にして登校しなければならない。
私は重い腰をあげてベッドから起き上がると、洗面所の前まで向かう。
大きな姿見にうつる女の子は、お世辞にもかわいいとは言い難い様子で、腫れぼったい瞳でこちらを睨みつけている。
私はこんな顔ではまずいな、と思えば、冷水で顔を洗い流す。瞳のまわりを水で冷やしてタオルで拭くと、先程よりは見られる顔になった。これならば朝にはなんとかなっているかもしれない。
リビングまで向かって時計を見てみれば、時間はまだ19時で、ずいぶんと流れるのが遅い。帰ってきてから3時間程は経過していたけれど、こんな日にひとり寂しくうずくまっていなきゃいけないのが、辛かった。
しばらくどうしたものかと思案して、私は部屋へと引っ込むと、鞄に入れっぱなしにしていた携帯電話を取り出した。
特に着信は入っていなくて、どこか期待した自分に嫌気がさす。
ため息を吐きつつ操作して、とある人に電話をかけた。
『もしもし?』
優しい声が耳に届いて、私はそれだけで泣きそうになった。けれどなんとか堪えれば、名前を呼ぶために口を開く。
「……まーくん」
『ちーちゃん、どうしたの?』
もうすでに涙が浮かんできそうになっている。何度も自分にいけない、と繰り返して、私は努めていつものような声音で話を切り出した。
「あの、今日はそっち行っちゃだめかな」
『どうしたの?』
「父と母がそろっていない日だから、その、晩ごはんも味気なくて。今日の朝までまーくんがいたから、なんか、その、急に寂しくなっちゃったというか」
笑いながらそこまで話したけれど、電話の向こうからはなんの反応もない。おりた沈黙に気まずくなって、私は無理ならいいんだ、と電話を切ろうとした。
しかし別れの挨拶を告げる前に、まーくんの声が耳に響いた。
『いまから俺がそっちにいくから、家を出ちゃいけないよ?約束できる?』
「え?いやでも」
『いいね?』
「は、はい」
厳しい口調に思わず応えれば、まーくんはよろしい、と言って電話を切ってしまった。どうやら、全然誤魔化すことができなかったらしい。
否定の言葉を強く言うほどには今強くなれなくて、誰かにそばにいてほしかった。
家族の誰かに、どうしてもそばにいてほしかったのだ。
ほどなくしてやってきたまーくんの顔を見て、私はもう我慢なんかできなくなっていた。
困ったように笑って玄関扉の鍵を閉め、素早く私の手を握ったまーくんは、靴を脱いで手を繋いだままリビングへと私を導いた。
ソファに隣合って座ると、まーくんは何も言わずに私の身体を引き寄せる。
彼の肩に置かれた私の頭から、まーくんの優しい体温が流れ込んでくる。
「暖房も付けずに、ここでぼんやり待っていたの?」
「…………」
ため息混じりに素早くリビングの温度をあたためるように機械を操作するまーくんに、私は何を応えるでもなく身体をあずけていた。
そんな私に、まーくんはいつもの優しい笑顔をむける。
「何も訊かないよ。すべて出してしまえばいい」
「……う……」
ゆるゆると私の頭を撫でる彼の優しさに胸がいっぱいになり、私の瞳は止まっていたはずの涙をまた流しはじめた。声を押し殺すこともせず、子どものように泣いてしまった私は、いつしか泣き疲れて、やがて意識を手離した。
すやすやと穏やかな寝息を立て始めた私の横で、誰かが何かを呟いている。
「俺の大切な妹に、ずいぶんと無体な真似をしてくれたものだね」
大きな力で抱え込まれるのがわかる。ふわふわと、私の身体が宙に浮いて、どこぞをさまよっている。着地点は暖かくてふかふかの何かだ。一瞬だけ寒気がしてふるり、と身を震わせたけれど、やがて暖かい何かが身体にかけられて、私は再度眠気に襲われれば、どんどん意識を沈ませてゆく。
「……おしおきは、どんなものがいいかな?佐藤昴君」
撫でられる頭のここちよさに、私はすっかり安心していた。