第22話
月曜日にね。
そう言っていたはずなのに、昴君は月曜日、我が家にやっては来なかった。頑張って作った朝ごはんが少し悲しいけれど、仕方ない。
寝坊をした、というけれど、本当なのだろうか。ひょっとすると、煮え切らない私の態度に、愛想を尽かしてしまったのかもしれない。
そう思えば、暗い塊が胸に落とされたけれど、温かいものが頭に触れると、それは思いのほか軽くなった。もやもやは、少しだけ残ってはいるけれど。
「残念だったね、一生懸命作ったのに」
「お弁当を作る手間が省けたし、いいよ」
並んだ洋食の朝ごはんは、三人分。
無駄になったオムレツにため息を吐きつつ、私はそれをお弁当のメインにする事にした。下ごしらえしていた他のおかずは夜にまわせばいい。
「あ、じゃあ、それ俺がもらうよ、お弁当に」
「え?でも、まーくんの分もちゃんと用意してあるのに」
「だから、それはちーちゃんが食べてよ」
「でも」
「いいから。ね、きまり」
微笑んだお兄ちゃんのような存在の男は、とことん私を甘やかす。
金曜日に我が家へ泊まって、ずるずると月曜日まで家に居てくれたのは、きっと不安定な私の心をわかってくれていたからなのだろう。
様子が時折おかしくなる私に、両親は訝りつつ、けれど事情を訊かないように、と止めていてくれたのはまーくんだった。優しさに、ありがとうと言いたくなるけれど、口にするととたんによそよそしくなりそうで、私は心の中でそれを伝えるに留めた。
はりきって作ったごはんの数々は、こんなことしかできなかったけれど、一応、感謝のしるしである。
そういう事情もあったから、まーくんに残り物を押し付けるのは少しためらいがあったのだけれど。本人がそう申し出てくれたのならば、あまり拒否するのも失礼になる。
謝罪して、私はまーくんの分のコーヒーを渡した。
「おじさん達、珍しくまだ寝てるんだ」
「うん、最近はいつもに拍車をかけて忙殺されてたみたいだから」
「ああー……もうすぐ年末だものね」
「今日は遅くから出勤して良いみたい。母は休みだから、父に合わせるって」
「そっか」
相変わらず仲良しさんだね、と言うまーくんに、そうだねえ、と私も応える。こんな風に、今日も昴君と食卓を囲みたかったのだけどな。一抹の寂しさが過ぎって、しかし目の前に居るまーくんと目が合えば、私はどうにかそれを隅っこに追いやった。
「今日は高木君といっしょなのね」
「泊まってたから」
「……そう」
並んで登校して、じゃあね、と言ってわかれる。教室に入ったらいつも居るあかりは、最近いつもこの時間には登校しているようだ。
私もそうだけれど、平均すれば早い時間に登校してはいるけれど、大なり小なり差は生じる。だから、私が来るのが早いことももちろんあった。それが、最近は毎日のように私より早い。自分のことで手いっぱいで、なかなかまわりに目を向けることもできずにいたが。ふうむ。
「……ちょっと、自動販売機にいってくる」
「私、コーヒーでいいわ、ブラックね」
それは買って来いということか。
有無を言わさぬ迫力にため息を吐き、私は鞄を一旦置くと、財布だけ取り出して一階にある自動販売機を目指した。
あれ、ひょっとして私がお金を出すのか。……まあいい、なんだかんだ、色々と話を聞いてくれていた。それでいて、突っ込むこともしない。あかりは良い友人だ。日頃の感謝を込めて、これくらいならおごってあげようではないか。
寒さに丸まりながらも、自動販売機でまずココアを押す。そんなに差異はないだろうけれど、なんとなく、あとから作ったもののほうがまだ冷めにくい気がした。
ことん、とカップが落ちた音がする。できあがりの機械音がピーピーと鳴り響いて、私は取り出し口の扉を開いた。
さて、次はあかりのコーヒーか。しかしブラックとは。なぜ糖分をとらないのだ。糖分をとらねば、いざというときに思考が鈍るというのに。いや、個人の自由ではあるが。
ぶつぶつと無意識に口に出しつつ、私はお金を入れてブラックのボタンを押す。
しかし、考えてみればあかりの思考は私の三倍は働いていそうだ。糖分を摂取せずとも働く頭は、なんともうらやましい。私はお腹がすけばなにも考えられなくなるし、執拗に糖分をとらねば、と思い込んでしまうフシがある。これもある種の癖なのだろうが、そういったスイッチがなければどうにも上手い具合に物事を精査できないのだ。
……いや、精査できていないのかもしれないが。
自嘲の意も込めため息をひとつ吐き、私はできあがったコーヒーを取り出す。
両手が塞がっているので、こぼさないように、なおかつ転ばないように、多少慎重に教室へと戻る道を歩き出した。
「昴君たら、本当にそんなこと言ったの?」
「そのくらい言っても罰は当たらないと思うなあ。だって身内だって理由でひどくない?」
「まあそうよね。今度なにかお礼をもらえばいいじゃない」
「お礼?たとえばどんなもの?」
「そうねえ」
弾む会話。楽しそうな笑い声。
誰も入れないような空気を醸しつつ、なんともお似合いのふたりが、昇降口から廊下への1歩を並んで踏み出していた。
ああ、なんで自動販売機って食堂の横にあるんだろうか。そもそもなんで我が高校は、食堂が離れみたいに校舎から外れてるのか。敷地内に自販機を置いてくれれば、わざわざこの昇降口の前を通る事もないというのに。
笑いながら歩く2人のうしろ姿を、私は無言でみつめる。
彼らと向かう先はいっしょだけれど、なるべくならば気付かれたくはない。冷めないようにと、早足で帰るつもりだったのに。
他の登校している生徒たちと混じりつつ、一定の距離をとりつつ、私は先程よりももっと神経を尖らせながら、歩き出した。
昴君。なんで?なんでそのひとといっしょに登校しているのさ。
ひょっとして、私に寝坊したっていうメールは嘘で、彼女と待ち合わせをもともとしていたの。
井上詩織さん。
花のように笑う、とても綺麗なひと。
昴君と並んで歩いていると、2人から極上のなにかが香ってきそうな。雰囲気にあてられて、思わず赤面してしまいそうな。
私は、赤面なんてしないけれども。眉間に思い切り皺が寄ってる。わかっている。
『がっかりだ……』
ああ。
自分にすごくがっかりだ。なんなら失望している。
金曜日のときよりもはっきりと、どろどろとした悪感情が私の中に渦巻いている。こんな醜いもの、知りたくはなかった。
嫉妬、しているのだ。彼女に。
井上さんに、私ははっきりと不快感を抱いている。
馬鹿だな。そんな権利もないくせに。
いまだ彼の言葉を、こころを信じられずに、返事を渋って、ある種弄ぶようなことをしておいて。それなのに隣にどこぞの女が並べば、気に入らない、と私は唾を吐こうというのか。なんて女だ。なんて嫌な女なんだ、私ってやつは。
こんなの、間違っている。いや、そもそも、もう答えは出ているんじゃないだろうか。
私との毎朝の逢瀬。
「……逢瀬って、おかしかろう」
ふ、と自嘲の笑みを浮かべて、私は足を止める。遠ざかっていく2人のうしろ姿を眺めて、目を細めた。
毎日の約束を反故にして、彼女を選んだのだ、昴君は。
私ではない女性を、選んだのだ。
「さようなら」
口に出したら、泣けてしまいそうで、私はなんとか堪えた。
「……遅かったわね」
「ごめん、ちょっと」
片眉をあげて訝るあかりにコーヒーを渡す。一口飲んで、つめた、と呟いた彼女に、再度謝罪の言葉を告げる。
席に着いて私も一口飲み込めば、中途半端に冷えたココアが流れ込んでくる。同時に別のなにかが身体中に浸透してゆく気がして、甘いはずのそれがとてつもなく苦い飲み物に思えてしまう。
思わず眉を顰めた私の顔を、あかりは覗き込んでくる。
「なにかよくないものでも見た?」
「……あかり」
ふ、と苦笑する彼女は、声に出さずとも言っている。仕方ないわね、と。
泣き出しそうな自分を叱咤して堪えれば、あかりが腕を勢い良く引っ張った。ぎょっとして目を見開き狼狽したが、あかりはおかまいなしに私の腕をぐいぐいと引っ張る。
辿り着いた部室の前で鍵を開錠すれば、あかりは無言で私を中へとうながした。抵抗する理由もないので、私はおとなしく誘導されるままになる。
「で?」
カップを傾けて冷えたコーヒーを飲みつつ、あかりが端的に口を開く。ソファに座り足を組むそのさまは、なんだか妙に貫禄があった。本当に17歳のおんなのこだろうかと疑いたくなる。
「……今日は朝、いっしょじゃなかった」
「そうねえ。あんた高木君といっしょだったものね」
こくん、とあかりの言葉に頷いて、私も同じようにココアを飲む。少し甘さが戻っている感覚があったけれど、ずきずき痛む胸は変わらない。
「終わった」
「は?」
「なんもかんも、終わったんだ。私は、永遠に欲しいものを逃したらしい」
「…………だから?」
「昴君とはもう、関わらないことにする」
「オトモダチにも戻る気はないってこと?」
質問に、再度頷く。
次の瞬間に飛んできたのは、いつのかわからない先輩が作った冊子であった。頭におもいきり当たって、しかもそれが角であったものだから、ものすごく痛い。
なんという破壊力であろう。痛みに悶絶して額を押さえていると、あからさまに苛立った声が前方からもれた。
「ここまで馬鹿だと思ってなかったわ」
「! あかり」
呆れにも似た声に戸惑いを覚えつつ、涙目になりながら彼女の続きを待つ。はっきりとその綺麗な双眸で睨みつけられて、私は息を呑んだ。
美人が怒ると、ほんとうに怖いのだ。
「あんたと佐藤君が、なんかしら事情があるってのはわかってたわよ。2人が付き合っていないことも。佐藤君があんたに片想いしていることも。どうしてだか今はあんたも彼が好きなんだってことも」
「…………」
「でも、なに?今のあんたの発言は。要約すれば、自分かわいさに尻尾巻いて逃げるってことじゃないの」
あかりの言葉に、おもわず違う!と叫んだ。叫んだが。
言われて気付いた。まったくもってその通りであるということに。
愕然と目を見開きかたまる私に、あかりはため息を吐く。
「気付いてすらいなかったわけ?ほんっと呆れるわ」
「……でも、今更」
「ちー」
ぎろ、と睨まれて、私は肩を竦める。次の瞬間、あかりの顔付きが、がらりと雰囲気を変えた。
せつなそうに目を細めて、私ではないどこか別のものへと想いを馳せているのがわかる。
「言えるじゃない、あんたは」
「あかり」
「好きだって、ふられるかもしれなくたって、堂々とそう言えるのは、幸せなことよ。はっきりふられることも出来ないで、ずるずるどうしたらいいかわかんないで同じ所ぐるぐるしてるより、ずっと建設的じゃないの」
あかりの言葉に、すべてを悟った。
やっぱり、彼女は、好きなのだ、と。
「……まあ、諦められるのはあの人のおかげね。完璧に負けたと思える人で本当よかったわ」
「じゃあやっぱり、彼氏って」
「そうよ、兄のこと。本当は彼氏でもなんでもないのに、告白された男に恋人がいるって断る瞬間だけは、本当にそうなのかと錯覚できる瞬間だったわ。いっそ血が繋がってないとかドラマティックな展開があればよかったのにね」
馬鹿みたいよね、と笑う彼女に、私はなにも言えなかった。
そうか。最近、ずっと登校するのが早かったのは、なるべく家に居たくなかったからなのだな。
「なーんか、家の中がお祝いムードでね。兄さんもちょこちょこ家に帰ってくるし、まあ色々と打ち合わせとかあるんでしょうけど」
「……そう」
「相手の、高柳君のお姉さん。良子さんって言うんだけど。ほんとに名は体をあらわすじゃないけれど。良い人すぎて困るのよね。嫌味も言えやしないわ」
むっつりと口を尖らすあかりが、少し子どもっぽく思えてくる。きっと、彼女の大人びた表情は、いつも兄を追いかけていたからなのだろう。追いつきたくて、隣に並びたくて、色々と頑張ったに違いない。けれども叶わない、叶えてはいけないというジレンマに、どれだけ苦しんできたのだろう。
「どうしても辛ければ、いつでも来たらいい」
「! 千絵子」
「家はいつだって歓迎する。父も母も、そうお堅い人間じゃないからね」
「そうね。どうしてものときは、そうする」
「ん」
微笑んで頷く。
でも、ずっとこういうこと何も言ってこなかったのに。ひょっとして、ふっきれたのは、やなぎんのおかげなのかもしれない。
そう考えると、少し嬉しくなる。やなぎん、あかりの傷、存分に癒してくれ。潔い彼ならば、この親友を任せることができるだろうと、心から思った。
ほんわかしていると、急な痛みと共に思考を中断させられた。
でこぴんは、地味に痛いからやめてほしい。間抜けな声を上げたのち、さすさすと額を撫でると、やった本人は悪びれることもなく私をじと目で半ば睨むようにみつめてくる。
だからその顔やめてくれないかね。
「とにかく。あんたはきちんと佐藤君と向き合うこと。いいわね?」
「う」
「返事」
「……はい」
「よろしい」
半強制的に交わされた約束は、しかしひどく心強いものだった。
失ってからでは、遅い。いや、もう失ったのかもしれない。傷付くだけだとしても、今更ずるいと罵られたとしても、それでも。
あかりが言ったように、自分を守る為だけに思いを閉じ込めるのならば、そんな真似はみっともない以外のなにものでもない。
そうだ。もう、このどす黒い正体はわかりきっている。だったらもう、言うしかないじゃないか。
好きだと、昴君に、告げる。
心の中で唱えたにもかかわらず、私の脈拍はやたら速くなった。
……今からこれでは、多少どころかかなり不安であった。