第21話
どうしてその人ではないといけないのか、考えれば不思議なもんだ。いや、世界中のうちのひとりに会えたとか、すごい確率の奇跡だとか、そんなどでかい事は思わないのだけれどね。だって、世界中の人に会いに行ったわけじゃないから、昴君以上に綺麗なひとだって、きっとたくさんいるのじゃないかなあ。だから、彼以上はきっとみつからないだろう、とか、そんな確信めいた事は言えない。
ただね。
私のせまっちょろい世界の中で、いちばん綺麗にうつるのは佐藤昴君というお方で。
ただ、それだけのことなのだよ。
今のところはね。
「あら、まーくん」
「おや、来てたのかい、正浩」
「おじさん、奈緒子さん、久しぶり」
微笑むまーくんに、両親が同じように久しぶり、と応える。
奈緒子、と母を名前で呼ぶのは、母がおばさんと呼ばれるのを嫌うからだ。いつか私にもその心理がわかる時がくるのであろうか。
まーくんは、昴君と違って手際が良い。料理も元々やっているから、まあ違って当たり前なのだけれども。どうにも細かい所で比べてしまうのは、あれこれと思い出してしまうからなのだろう。
ああ、いやだ。
私も父と母におかえりと告げ、料理を並べる。今日はちょっと頑張ったごはんである。
本日の主役はさばの味噌煮。和食の定番だ。それに豚の角煮と、きんぴら大根、ごぼうとキュウリのサラダに、白菜の漬物。おみそ汁は具沢山である。というか、残りものの野菜を突っ込んだだけ、とも言える。
どうしても外で食べる機会が多くなると、和食に飢えるらしく、両親のリクエストは毎回決まったものだ。だから私たちが久しぶりに食卓を囲む時は、必然的にこうしたメニューになる。
時間はもう21時近い。本来ならばこんな時間にごはんをかきこむのは勇気を要する行為ではあるのだが、まあ、たまにのことなので大目に見ようではないか。なんせ家族の団欒なのだから。
今宵はまーくんも囲んでの楽しい晩ごはんだ。
父と母は浮き足立って着替えと手洗いうがいを済ませれば、皆そろったところでいただきます、と手を合わせた。
「あー、角煮も美味しいけど、この煮卵もおいしーい!さすがちーちゃんねえ」
「千絵子、さばもとても美味しいよ」
父親と母親が顔を綻ばせて言うものだから、私も笑ってありがとう、と返す。こうやって作ったものを、美味しいと言われるのは単純に嬉しい。毎日当たり前のように出てくるごはんだからこそ、こういった言葉は忘れがちになるけれど、それを怠らずに声に出してくれる両親が、私は本当に好きだし、大切だ。
「ごぼうサラダ、ずいぶん味がまろやかだね」
「ん?ああ、それね、みりん入ってる」
「へえ、なるほど。今度俺もやってみよう」
さすがまーくん。料理をあまりしない両親とは目の付け所が違うものだ。下ごしらえなどはほとんどやってくれるものだから、本当に助かった。改めて感謝を述べると、別にたいしたことしてないんだから、とまーくんは笑う。
相変わらずの優しさに、私も微笑んだ。
「……ねえ、千絵子」
「ん?」
呼びかけられて私が返事をすれば、お茶を流し込んだ父がこほん、とひとつ咳払いをした。一体なんであろう。
「正浩とはどうなんだい」
「父よ、もう少し具体的に言ってはくれまいか」
「……君たちが兄妹のように育ってきたのはわかっているけれど、少しは新しい何かも芽生えたりはしないのかな、とね」
「んん……?」
具体的に言え、と先程伝えたばかりなのに、まるでなぞなぞのような父の言に、私は眉を顰める。新しい何か、とは。一体なんなのだろう。
ふうん、という呟きが聞こえてくる。隣に座るまーくんがあげた声に反応した私は、そちらに視線をやった。
「おじさんは、それを望んでいるの?」
「いいや。そうだね、少し無粋だったかな」
「そうかも」
「焦っているんだよ、きっとね」
苦笑する父に、父と同じような表情で、ああ、と呟くまーくん。男同士でわかったような会話をされて、そのまま終了してしまったからか、なんともすっきりしないまま晩ごはんを終えた。
「あ、まーくん。お風呂先入る?」
片付けを終えて、皆が思い思いの過ごし方をしていた頃。リビングにてテレビを見ていたまーくんに、風呂が今しがた沸いた事を告げると、まーくんは首をかしげた。
「あれ、おじさんと奈緒子さんは?」
「さっき寝てしまったから。明日はふたりして休みみたいだし、そのままにしておいた」
今廊下を歩いてきたのも、2人の寝室を覗いてきたからだ。どうやら揃って疲労がたまっているらしい。扉を叩いて返答がないのを訝り開いてみれば、相変わらず仲の良い両親は揃ってすやすやと穏やかな寝息をたてて眠っていたというわけなのだ。
私がそう説明すれば、まーくんはうなずく。
「そっか。ならちーちゃん先入ってきたら?」
「いいの?私も一応女子であるから、それなりに時間はかかるけれども」
「明日はお休みだから急ぐ理由もないし、そんなに気は短くないよ。一番風呂、入っておいで」
くす、と笑うまーくんの言葉に私は甘えることにした。着替えを取って来ようと部屋に戻り、そこで机に置きっぱなしになっていた携帯電話へ視線をやった。暗闇でちかちかと何が光っているのかと思ったら、着信を知らせるランプが灯っていたのだ。
私はスウェットを取り出してそれを小脇に抱え、携帯電話を開きつつ階段を下りる。あまりのんびりしすぎるのもまーくんに悪いし、急ぎではなければあとでも良いだろう。そう考えて、着信内容を確認する。
電話ではなく、メールが届いている知らせだった。開けば、そこにはどきり、とする文字。
昴君だ。
メールの内容を見てみれば、特にとりとめのないもので、帰り際に会えて嬉しかった、とか、また月曜日にいっしょに登校しよう、とか、そんなことが書かれている。
微笑んでリビングの扉を開けば、私はダイニングテーブルに携帯電話を置いた。
「まーくん、それじゃあお先に入らせてもらうね」
「ゆっくり温まってきなよ」
急がなくていいんだからね、という言葉にはいはい、と笑って、リビングを出ようとする。
しかし。
まさかのタイミングで携帯電話が無機質な音を響かせ、その着信からメールではなく電話だということがわかった。さすがに出ないわけにもいかずに、一旦椅子に着替えを置いた私は、まーくんの視線を感じつつも携帯電話を開いた。
おおう、昴君。
心の中で呟きつつ、通話ボタンを押す。
「はい、もしもし」
『千絵子さん、こんばんは』
「……こんばんは」
あいさつから始まった第一声に戸惑いつつ、私は落ち着かない気持ちでそわそわと視線をさまよわせた。その様子に、きっと合点がいったのだろう。まーくんは私に向けていた視線をテレビへと戻すとぷつん、と電源を落とせば、すぐ近くにあった雑誌へと手を伸ばしていた。
申し訳なさに内心でごめんよ、と謝りつつ、私は昴君の続きを待った。
『今なにしてたの?』
「ん?特になにも」
本当はこれからお風呂に入る所なのだが、それだと手短に電話は切られてしまうだろう。耳から聞こえる心地良い声を、もう少しだけ聴きたいと思えば、私は電話口の昴君にちょっとごめん、と断りを入れた。
「ね、やっぱり先入って」
「ん?長引きそう?」
「んー、わからないけど」
「そっか。じゃあ、それなら先にいただこうかな。なんだかちーちゃんに気を遣わせちゃうのも悪いしね」
「ごめんねまーくん」
「いいよ」
眉を下げて謝れば、まーくんがくしゃり、と私の頭を撫でた。人が居る気配って、やっぱり温かくて好きだ。独りは、慣れはしても平気にはならない。
私はしみじみとそんなことを思いつつ、まーくんの背中を見送れば、待たせていた昴君との会話を再開した。
「ごめんね昴君おまたせ。で、どうしたの?」
『……今、誰と会話してたの』
あれ。なんだろう、この声。ものすごく低い。
先程まで心地良く浸透していたその声が、今は耳にちくちくと刺さる棘のようで、それに小さな恐怖心を覚える。一体、どうしたというのだろうか。
「あの、昴君?なんか、怒って」
『質問の答えをもらってないよ。今、誰と、会話をしていたの?』
区切って強調する昴君の声音が更に怖い。
あれれ、そういえば。
思い出すのは、今日の別れ際。そういえば、昴君は、私に、その、あまり他の男性と仲が良いのはあれなのじゃないか、みたいなことをおっしゃっていなさった。
うわあ。
今絶対に顔が赤いぞ。見えなくてよかった。
ってお待ちなさい。
これ、真実を伝えて良いのでしょうか。いや、でも嘘を吐くのも変な話というものですよ。だって、それじゃあまるで昴君が好きなのに他の男を呼んで浮気紛いな行為をしているあばずれのようじゃないか。私はなんなら、まーくんのことを実の兄くらいにさえ思っているし、何かが起きるなんて事ももちろん思っていない。それならば尚更、嘘を吐くのはなんだか違う気がした。
男として意識している、と思われるのは、さすがに心外であると感じてしまったから。
それもまあ、勝手な話だけれどもね。
「昴君、そう怖い声を上げないでおくれよ。まーくんが我が家に来るのは日常茶飯事なんだから」
落ち着いた口調でそう話せば、電話口から何も聴こえなくなり、しばし沈黙がおとずれた。
数秒程してから、昴君の声が私の耳に届いた。
『……同じベッドで寝たりしないだろうね』
「え?ああ、別にしないこともないけど」
『はあ!?』
「いやいやいや、今は滅多にしないってば。今日だって眠るのは別々の部屋だし、父と母もいるよ」
慌てて言い添えれば、電話口からは深いため息が聞こえてきた。
『千絵子』
「!」
切羽詰ったような響きにどきりとして、思わず電話を落としそうになる。私は返事をしたかったけれど、喉の奥が震えているみたいになって、筋肉が強張っているからなのか、声を上げることができなかった。
『ねえ、千絵子にとって、今の俺ってどんな存在?友達?それよりは上かな?』
「……昴君」
かすれた声でやっと名を呼べば、まだまだせつなそうな声が彼から漏れてくる。
『苦しい。千絵子のこと、好きすぎて辛い』
「! なに」
『今すぐちゃんと確かめたい、千絵子に触れたのはまだ俺だけなのか』
「確認もなにも、すっ昴君だけだよ!」
あれからそんなに経ってないでしょ、ばかやろう!と叫んでから、相当恥ずかしい事を言ってしまったのだとわかった。私はどんどん顔が赤くなる。
昴君は、いくぶんか気が済んだのか、声が和らいだ。
『僕もね、不安なんだよ』
「昴君……?」
『だからね、声が聴きたかったんだ、千絵子さんの。ごめんね、電話なんかして。また月曜日にね、おやすみ』
「あ、の、昴君!」
このまま電話を切るのだけは、すごく嫌で。でもどうしたらいいのかわからないまま、何を言えば良いのかわからないまま、私は気付けば彼の名を呼んでいた。
おそらく電話を切ろうとしていた昴君は、私の声に気付いてくれたのだろう。一瞬沈黙があり、次にはどうしたの、と声をかけてくれた。
私はどうしたものかと思考をあちこちにやったが、具体的に何を言うべきか思いつかずに、結局は本能のままに伝えたいことを伝えてしまえ、と半ばやけくそになった。
「昴君に、与えられたものは、ぜんぶ、嬉しかったよ」
『え』
驚きの色がありありと見える声を電話口であげられてしまい、居た堪れなくなった私は、もう限界だ、と先程自ら止めたくせに、思わず別れのあいさつを叫んでいた。
「お、おやすみっ!」
『え、ちょっと千絵子!今のどう』
ぶつん、と押した電源ボタン。ついでに長押しして、携帯電話そのものの電源を落としてしまえば、私は安堵の息を吐いた。
脱力した私は、そのままずるずると床にへたりこめば、足に伝わるひんやりとした冷たさに、心地良さを覚えた。ということは、身体がそれだけ火照っているということだ。
昴君は、ずるい。
言葉ひとつで、私をあちらこちらへと翻弄してしまうのだから。狙ってやっているとしたならば、彼は相当な悪魔であろう。
「……って私も何を言ったんだろうか」
そうだ。
きっとあの瞬間、本当ならば私は好きだと伝えたかったんだろうと思う。でも、それができなくて、あんな、ともすればいやらしい響きにも聞こえかねないことを言ってしまったのだ。
なんとなく、悪女になった気分でもある。だって、昴君と私はかりそめの恋人であったのに。それなのに嫌じゃなかったどころか嬉しかったなんて。尻軽女みたいだ。
あの言葉に、昴君は何を思ったのだろう。ひょっとしたら、私の気持ちは全部ばれてしまったかなあ。
ぼんやりとしている私の耳に、あがったよ、という声が届くまで、私は床に座った状態のままあれこれと色んな事を考えていた。
呆れるまーくんの視線は、ちょっとなんともいえなかったです。