第20話
どうしたらいいのだろう。
頭を抱えつつも、結局私は、なんの答えも出せずにいる。
「千絵子さん、おはよう」
「……おはよう」
ため息混じりに言えば、昴君は満面の笑みで玄関へと足を踏み入れる。ちょっとまだ入っていいとは言ってないですよ。いや、入っていいのだけれども。
「ねえねえ、千絵子さん」
「はいはいはい、なんですかー」
「そろそろ僕のこと好きになった?」
またそれか。
ダイニングテーブルに肩肘をつき、にこにこと笑う彼に、私は呆れの表情を見せつつ、朝ごはんを食べる。昴君も、美味しそうに私の作ったごはんを食す。これがまた地味に嬉しいとはこれいかに。
今日は和食である。卵焼き、納豆、焼き鮭、みそ汁。定番もいいところでちょっと面白い。お昼は真逆にサンドイッチだ。
最初は、ひとりでごはんを食べていたのだけれど、あの日から毎日我が家を訪れる昴君は、何故だか私がごはんを食べる時間にやってくる。狙っているのかどうなのかは定かではないけれど、とにかく、そうするとなんだか申し訳ない気分になってきてしまって。数日後には自ら彼を食卓へと誘ってしまったのだ。それからというもの、こうして朝からきちんとしたものを作り、昴君と向かい合って食べるようになったというわけだ。
私は、今更ながらふと疑問に思ったことを訊いてみる。
「昴君は、その、恥ずかしくないのかい」
「? なにが」
「す、好きとか、そういうことを言うの、が、さ」
だんだん尻すぼみになるのは、好いた相手の前でする質問じゃなかったと自覚した為だ。そうだ、昴君は私に好きだと言ってくれているわけで、私はけれどそれを受け取る事はなく、いつも素通りするふりをして。本当は、心臓がいつもおかしな動きを見せるというのに。そうじゃなくとも、単純に、好きという単語を口にするだけで緊張してしまった。
だって、昴君に告白しているような気分になってしまう。
きっと羞恥心で顔が赤くなっているだろう。私は俯いて無言になれば、朝食を口に運ぶことに専念しようと決める。
目の前にあるごはんだけに視界をいっぱいにしていたからか、私はすぐ傍まで来ていた気配にまるできづかなかった。
ふ、と耳に何かが触れて、私は思わずお箸を手から滑らせる。かしゃん、とダイニングテーブルに落ちた音が響けば、私は自分の身体がかたくなっているのがわかった。
昴君が、私の隣にしゃがんで、耳に髪をかける。それだけで終わらずに、彼の手の甲が私の頬をゆっくり撫でた。私はそれに思いのほか驚いて、びくん、と肩を揺らす。
声がうわずったけれど、このまま無言でいるよりはいいと思って、私は口を開いた。
「……何をしていらっしゃるのだろうか」
すぐ横で空気が揺らいだ。昴君が、笑ったのだ。
「ん?かわいい顔もっと見たいのに下向いちゃうから」
「なにを」
「ほら、真っ赤でかわいい。今すぐキスしたい」
「はっ!?」
あまりの言い様に私は混乱して、思わず立ち上がる。がたん、と椅子が倒れたが、そんなこと、今はどうだっていい。
昴君は、私に合わせてゆっくりと立ち上がると、微笑んだ。
「そんなに警戒しなくても、何もしないよ。本当はしたいけど」
「どっちなの!?」
「うん、だからしたいのは本当なんだけど。あと、恥ずかしくないよ」
言葉の意味を理解できずに私が首を傾げれば、昴君はさっきの質問、と声をあげる。私はああ、と頷いた。
「僕は、言いたいから言うんだよ。好きだって気持ちも、かわいいなキスしたいな、って気持ちも、思ったから言った」
「すすすす昴君」
「でも、しない。千絵子が、僕のこと好きになってくれるまでは」
「!」
真剣な瞳に、吸い込まれそうになる。
本当はキスしてほしいとか。心に過ぎる私の浅はかさが、心底恥ずかしくて。自分でもどうしたいのだろうとわからなくなってしまう。
「……ご、ごはん、食べてしまおうか」
「…………そうだね」
へたにも程がある私の誤魔化し。
くす、と苦笑いした昴君の優しさに、私は胸中で感謝した。
どうにもこうにもいかないまま、私は答えを出せないままに今日も昴君と歩いている。ちらり、と私が彼へと視線をやれば、気付いて微笑みかけてくれる。それがとても嬉しいのに、ちくりと胸が痛んでしまう。このまま、信じられないとばかり思っていたって仕方がない。それこそ、私が彼を弄んでいるようにも思えてしまう。
いつまで続くんだろう。こんな曖昧な関係。
もしも、昴君の言葉が本当ならば。
私と彼を隔てるものはなにもないのに。
「また今日も仲良くご登校だったわけ?」
「……まあ」
「段々、噂になってきてるみたいよ。あんたと佐藤君」
おはよう、と声をかけて席に着いて早々。あいさつもそこそこに無表情で頬杖をつくあかりに、私は肩を竦める。
まあ、そうだよなあ。
学校で話すのは許容範囲内。たまたまいっしょに帰るのも許容範囲内。
でも。
毎朝いっしょに登校するのは、確かにあかりとやなぎんとの関係性だけでは説明できない行為だ。
「まあ、なるようにしかならんね。もしもそれで何かされたとしても、私は甘受しようと思う」
「……あんたねえ」
「別に、逃げたってどうともならないだろうし。対抗する術もないんだし。となれば、腹括るしかないじゃないか」
呆れるあかりにそう告げれば、彼女はため息を吐き、呟いた。
「まあ、あの男がなんの手も講じることなく何かさせるわけもないわね」
「? なんか言った」
「なんでもないわよ、この鈍感娘」
ぎゅ、と鼻をつままれ、私は間抜けな声をあげた。
とにかく、時間はあまり残されていない。昴君と恋人になるか、ならないか。なるべく早いうちに決断しなければならないのだろう。彼の為にも、私自身の為にも。
わかってはいたが、信じきろうという潔さも、信じられなくともとにかく好きだから突っ走るという真っ直ぐさも私には持てなくて、ただただ昴君を好きだという事実が心に閉じ込められたままだった。
「ちーちゃん、恋する乙女だね」
「まーくんは、恋してないのかい」
「うーん、そうだね、今はないなあ、そういうの」
「そっか」
ため息を吐く私とまーくんは、何故か写真部の部室に並んで座っていた。
下校しようと教室を出たら廊下でばったりと会ったので、せっかくだし、ということになった。もう少ししたら我が家にいっしょに帰るつもりだ。せっかくの週末であるし、泊まっていく運びになりそうである。遅めに帰宅するのは、今日も両親の帰りが遅いが、いつもに比べると早めなので待っていようという話になったからだった。晩ごはん作りは19時をまわったあたりから始めればちょうど良いだろう。
「表面上だけ見れば、ちーちゃんと佐藤君はなんの問題もなく、恋人になれるのにね」
「……まあ、そうだよね。昴君の言葉が本当ならば」
「まだ、信じられない?」
「なんだかあまりにも言われすぎちゃうと……昴君にとって、好きって言葉は軽いんだろうか、とかわけわからないことばっかり考えちゃってさ。さすがにそれは失礼だろうとわかっているのだけれどもね」
「まあ、最初に嘘を吐いたのはむこうだものね、信じるのが怖いのは仕方がないよ」
私の言葉に、まーくんはうなずく。
結局、ほとんどのことを彼に話してしまっているから、私はとても気が楽だ。でもあまり甘えてしまうと迷惑にもなってしまうから、愚痴はなるべくしまっておきたい。
会う前はそう思うんだけどな。
目を見て、話してしまうとだめなのだ。どうにもお兄さんのような彼に、頼ってしまう。
「でも」
「ん?」
「あまり迷っていると、さらわれてしまうよ」
「まーくん」
「ちーちゃん、素直になった時、相手がまだ隣にいるかはわからない。それだけは肝に銘じておいたほうがいい」
「……はい」
神妙な面持ちで頷く私に、いいこだね、と優しい手つきで頭を撫でてくるまーくん。温かいぬくもりは確かに嬉しいのだけれど、やっぱり、昴君とは違う。これって、本当に不思議だね。
私がじっとまーくんをみつめていると、何故だか彼の顔付きが変わった。さっきまでは優しく微笑んでくれていたのに、今はじ、と目を細めて片眉を上げている。
なんだろう。
私が首を傾げると、まーくんは私の額をぴん、と弾いた。やめてください、痛いです。
あう、と間抜けな声をあげる私に、まーくんはだめだよ、と眉根を寄せる。
「俺相手ならなんの問題もないけれど、他の男の子相手にそんな行動を取らないように」
「? なにか粗相をしたかい」
「至近距離でじっとみつめるの、ちーちゃんの癖だね。いけないよ、そんなことをしちゃ」
「まーくんは、いいのか。他人の男性にしてはいけないということだね」
「そうだよ」
「じゃあ、昴君は」
「絶対にいけません」
そうなの、と首を傾げる私に、まーくんはそうです、と繰り返す。私はよくわからなかったけれど、頷いておいた。まーくんは、満足そうにいいこだね、と言ってまた私の頭を撫でる。うん、全然まったくわからない。
とりあえず、昴君にはしてはならない、ということを頭の中に深く記憶として刻んでおいた。
そろそろ出ようか、という言葉で、私とまーくんは部室をあとにする。晩ごはんをどうしようかと話し合っていると、昇降口に人影が見えた。
遠目には誰だかわからないが、一組の男女が向かい合って、楽しそうにおしゃべりをしている声が響く。邪魔をしたくはなかったが、靴を履き替えねば帰れない。私とまーくんはすぐに退散しよう、とお互いに頷き合って、それぞれの下駄箱へと向かった。
靴を履き替え、さあ出よう、という時。
じろじろとそちらを見るのはいけないと思いあまり視界に入れなかったのだが、ようやく気が付いた。昴君だ。昴君と、見知らぬ女性がなにやら楽しそうに話している。
驚いてかたまる私の肩を、ちーちゃん、と言ってまーくんが叩いた。私はそれに反応して返事をする。そこでやっと、昴君が私達に気付いたのか、こちらへと顔を向けた。
しかし、私もあれだよな。
うしろ姿だったのだよ、昴君。それなのに、気付いてしまうとは。どれだけ私は彼のことが好きなのだろう。苦笑して、それから前を向く。
ってあれ。
なにあの怖い顔したひと。誰?昴君だと思ったのは勘違いであったのだろうか。
引き攣った笑みでくいくい、とまーくんの腕付近の制服を引っ張ると、まーくんが、不思議そうな顔をする。前を向いた彼もまた、やっと昴君の存在に気付いたらしい。
私はどう考えても気のせいだとは思えない昴君の冷気が恐ろしくなり、思わずまーくんの後ろにささ、と身を引く。まーくんはほんわかとした声で、それ火に油の行為だと思うなあ、なんてわからない事を言う。いいから助けてください。
「やあ、千絵子さん、と」
「自己紹介はそういえばまだだったかな?高木正浩、ちーちゃんの従兄弟です」
「高木君。佐藤昴です」
にっこりと微笑むふたりを見て、大丈夫そうか、と私はまーくんの背中から顔をそろり、と出す。しかし笑った表情であるはずなのに、昴君がやっぱり怖いと感じるのは気のせいであろうか。
私はまーくんの腕をがっしりと掴んだまま、昴君にやあ、と声をかける。
昴君は、満面の笑みだ。
「千絵子。それ、どういう意味?」
「へっ」
「なんで、君は、僕の目の前で、まーくんの背中にすがっているのか、と訊いてるんだけど」
ひいいいいっ。
昴君が怖いからです、と言いたいけど、言ったらもっと怒りそうである。とりあえず、まーくんの後ろにいれば安全だろうとよりいっそう彼にぴたりと張り付いてみた。
ちーちゃん、と呆れた声をあげるまーくんと同時に、昴君はもはや笑顔を消し、はっきりと私を睨みつければ、つかつかとこちらに歩いてくる。
「俺の目の前で俺以外の男といちゃつくとかありえない」
「い!?」
べり、という効果音が出そうな勢いで、昴君がまーくんの背中から私を引っ張れば、その反動で昴君の腕にすっぽりと閉じ込められた。
ええと。なにこれ、どういう状態。
ぎゅ、と抱き込まれた所で、ふと気付く。
あれ、そういえば、忘れていたけれど。
「うわあっ!」
あまりの事に叫んでしまい、私は思い切り昴君を突き飛ばすと、さささ、と彼から距離をとった。一応、まーくんにはもうくっついていない。
いちゃついているわけじゃないけど、その、要するに、昴君はあれだよね、私とまーくんがひっついてるのが気に入らなかったってことですよね、なんですかそれ、照れる。
じゃなくて。
先程、私が声をあげてしまった原因。近寄ってきたその女性に、私は恐怖心を抱く。
だって、あのひと。
ものすごい双眸で私を睨みつけていた。
綺麗な長く真っ直ぐな髪は、ほどよく茶色い。いかにも染めた、というような色ではなく、あくまでも自然な髪色だ。色白で、くりん、とした瞳の彼女によく似合っている。
身長は、私より少し高いくらいか。昴君と並ぶと、すごく綺麗で、お似合いである。
お似合い。
自分で思っておいて、それにひどく胸が痛んだ。
「昴君、お友達?」
「ああ、ごめんね話の途中で。井上さん」
「ううん、いいの。ちえこさん、って言うの?」
「あ、ひょっとして副会長の井上詩織さん?」
私の言葉に、昴君と井上さんが同時に頷く。私は、どうも、と頭を下げた。ついでに自己紹介しておく。友達、という言葉を使うと、なんだかちょっと胸が痛むとか、勝手だよな。
微笑む井上さんは、先程の視線が気のせいだったのかというくらい愛らしい。
「昴君には、いつも本当にお世話になってるわ。正式に生徒会役員として働いてもらいたいのだけど」
「それは勘弁してくれって、おじさんにも言ってあるよ」
「あら、つれないのね」
くすくす笑うふたりは、なんだかとても仲が良さそうだ。私は、心がどんどん冷えていくのを感じる。
本当、この身勝手さどうにかしたい。恋ってやつは厄介なものだ。
「まーくん、いこう。晩ごはん、そろそろ支度しなくちゃ」
「そうだね」
本当はまだ余裕があったのだけど、察してくれたのだろう。まーくんは肯定して、私の手を取った。
私はそれが頼もしく、同じように握り返す。
「おふたりって、付き合ってるの?」
目を丸くする井上さんに、私は違います、と否定する。しかし井上さんは、その言葉にますます驚いたように声を上げた。
「そんなふうに手を繋いだり、いっしょにごはんを食べる相談をしていれば、そう見えるわよ?とっても仲が良さそうだもの。ね、昴君?」
「…………そうだね」
微笑む井上さんに、同じように笑みを返す昴君。なんだよ、そんなに綺麗に笑うのか、君は。
「俺たちは兄妹みたいなものだから、これが普通なんだよ」
ね、というまーくんの言葉に私はぎこちない笑みでうなずいた。
理不尽な怒りをぶつけないように、とにかく否定だけして、私は再度行こう、とまーくんを引っ張った。まーくんは、困ったように笑っている。
短くさようならを言い、私はまーくんと並んで歩く。
「そういえば久しぶりだけど、俺の着替えってどこにある?」
「ん?父のクローゼットにいっしょにあるはずだよ。別にすぐお風呂はいるわけじゃないんだし、ゆっくり探せばいいじゃないか」
「それもそうだね」
その場をなごませてくれる為に、無理やりでも会話をしてくれるまーくんの好意がありがたく、後ろから、鋭い視線を寄越している男がいるなんて、このとき私は当然気付かなかった