第15話
次の日が金曜日というのもあり、休みたい、という気持ちは少なからずあった。けれども、露骨にさけたとろこで、いずれ顔を合わせる事実は変わらない。むしろ、色々と考えをまとめた結論は、変に逃げるべきではない、だった。
よく言うではないか。逃げる者を追いたくなる、と。それが昴君に当てはまるのかはわからないが、昨日から一転、私は自身の幸せを優先しようと決めてしまった。
開き直るの早いね、と自分に語りかけてしまったが、だって色々考えて冷静になってみたらそう思うじゃない、さんざんいかがわしいことをされたのだから。ではなくて。
まあ、つまり。
いちばん無難なのは、「良いお友達でいましょう」ということなのだ。そうすれば、変に距離が開くことはない。恋人としか出来ない行為をしない限り、彼の隣に立つのは、少し辛いかもしれなくとも、いつか心穏やかに過ごせる時も来よう。
私は、多少晴れやかな心持ちで、家をあとにした。いつもよりも登校時間が遅いのは、朝つかまりたくなかったというのは否定しない。だってさすがに、もう拉致されるのはかんべんなのだ。あれでけっこう押しが強い昴君は、怒ると恐い。昨日の父との一件もあるから、苛立っているかもしれないし。
なんだかんだ、理由を付けては彼と会う猶予を延ばしているのだと、私自身気付かないではなかった。けれどそれくらいは許してほしい。
色々考えて、気付いて、悶々と燻る想いはあれど、私は失恋仕立ての女なのだ。失恋相手に会うのは、どんなに図太い人間だって、辛さはともなうものであろう。相手が、私を嫌いなわけではないのならばなおさらのこと。
たとえば。
昴君から、再度お付き合いをしたいと言われてしまったら、私は彼を今度こそ軽蔑するだろう。だから、笑ってほしい。これからは改めて、友人としてよろしく、と。そうすれば私は、辛い気持ちをしばらく引きずってしまうけれども、晴れやかに失恋することができるのだから。
好きになったからといって、勝手に理想を押し付けるのは、間違っている。本来の彼がどういった人間なのかも、きっと私は不足が過ぎるほど把握できていないのだろう。しかし、彼にこれまで触れた優しさが、すべて欲望に因るものであったとしたならばと考えると、新しく芽生えた私の中のなにかが蹂躙されてしまった気分になる。
すごく、身勝手なのはわかりきっている。けれども、もう、がっかりしたくないんだ。昴君を綺麗だと感じた私を、私に否定させないでほしかった。
まあ、全部結局は憶測で、実際問題、昴君が本当に女性の身体に興味が沸いたのかはわからない。どういう意図で私の身体に触れたのかも、いまだわからないのだし。さすがに、最初に話してくれた女慣れをするためというのは、どうにも無理がある気はする。だって、平気そうに触っていたし。
それとも、私は女性に値しない存在だったのだろうか。ペットというか。なんというか。それはそれで少し傷付くな。
まあ、あれこれ考えても仕方がない。とにかく、彼が友達を受け入れてくれたのならば、私も過去をうだうだ言うのはやめてしまおう。そう決めた。
思考をあちこちにとばしつつ教室へ訪れた時は、遅刻の瀬戸際という時間で、どれだけゆっくり歩いてきたのだろう、と多少自分に呆れたのだった。
「野田っち、だいじょうぶなの?」
やほー、と言ってこちらに手を振るやなぎんに、私も手を振り返す。教室に入っただけで女子の注目を浴びるとは、相変わらず目立つ二人組だ。
「おかげさまで。昴君、父から聞いたよ、お見舞いに来てくれてたって?」
私が振り返って微笑むと、昴君は多少戸惑いを見せつつも微笑んだ。どうやら、私が普通に接しているのが意外なようだ。ちょっとにんまりしそうになる。私ってあばずれじゃなくて悪女なのかもしれない。ううむ、なんとも官能的な響きである。決して官能的な成分は含まれておりませぬが。
しかし、昼休みではなく間の休憩時間に来るとは意外だ。すぐ終わってしまうのにな、10分なんて。
「……お昼ごはん、いっしょに食べられる?」
「うん?もちろん。最近はそれが日課じゃないか」
訊ねる昴君に首を傾げて、なぜそんなことを問うのか、といった風情で言う。完全に面食らったのか、昴君はそう、よかった、と呟いた。
去り際、昴君がなにかの痛みを堪えるような顔をしていたのが少し気になったけれど、声はかけずにそのままわかれた。
「……ふうん」
「? どうした」
「どうした、は私じゃないでしょ。ま、せいぜい頑張ることね」
「ありがとう」
「あんたじゃないわよ」
にやり、と男前な笑いかたをしたあかりが発したその意味が、私はまるで理解出来なかった。じゃあ誰が頑張るのやら。
というか、何を頑張るのやら?
「あかり、ちょっと良く女子が集う場所に行ってくる」
「……はいはいトイレね、じゃあ私は先に図書室で席取っておくわ」
「かたじけない」
四時間目が終わり、あかりは特に昴君たちを待つことなく、まあ彼女らしいが、いつも通り図書室へと向かった。寒いとなんだかトイレが近い。女性は特に色々冷やしちゃいけない。女子高生が言うのもなんだけれども。
そうなんだよな。私は特別に足を出したいわけでもないのだけれど、こうしないと悪目立ちしてしまうのだよな。
よく、物語なんかで見かけるんだけれど、目立たぬように優等生でいるように、とやたら校則に忠実な服装をする主人公がいる。けれども現実あれをやったら、目立って仕方ない。私立ならばまだ厳しい校則もあるだろうからちょっと真面目な子扱いでそれこそ済むかもしれないけれど、ここみたいな公立高校でそれをやってしまったら、生徒どころか教師からも妙な視線を寄越されるのは必至である。
というわけで、没個性でいる為には結局、一般的な女子高生を連想する格好をしなければならないのだよね。だからこういう姿に落ち着くのだけれども。
これは、私の中で惰性なのだな。いうなれば、家でのジャージといっしょ。楽だからこの格好なのだ。もしもこだわりがあって、確固たる意思を持っているならばそれに従った服装もしていたのだろうけどな。あいにく私は特別目立ちたいわけでもなく、特別こういった格好が好きやら嫌いやらもないので、まあ、平凡がいちばんとこの足を強制的に出す丈のスカートを履いているわけなのだがね。
と、そんなくだらないことをたらたらと頭の中でこぼしつつ、私はトイレへと向かうわけなのだけれども。ううん、廊下はなんとも冷える。
「昴ー」
「なんだよ」
トイレへの入り口である扉を開こうと手をかけた瞬間、廊下を歩く声が聞こえる。昴、という言葉に反応して思わず身体の動きを止めてしまった。
廊下側とは向かい合って水道が位置しているから、そこで手を洗っているふりをして少し屈めば、おそらく私の姿は見えない。このまま、盗み聞きすることも可能だ。
少しの葛藤があったものの、卑怯な自分が顔を出した。
「野田っちと、なんかあったでしょ」
「なにかって、なにかな」
「言葉遊びして誤魔化すのなーしー。ひょっとしてフラれた?」
不機嫌な昴君の声と、笑い声混じりに響くやなぎんの声。廊下を歩いているのはふたりだけだが、教室内にはたくさんの生徒がいる。あの2人の会話って、なんとなく聞かれてしまいそうな気がするのだけれど、今の内容は大丈夫なのだろうか、と少しはらはらした。
やなぎんの質問の後に数秒の空白があり、やがて鈍い音が響いた。これは、ひょっとしなくとも昴君がやなぎんに暴力行為をしたのだろうか。あまり想像できない姿だ。いや、見えてないけれどもね。
「元々、始まってなかったんだよな」
ため息混じりの言葉に、私はどきりとする。同時に、胸が軋んだ。
そうだ。私たちは、そもそも始まってすらいなかった。
しかし当然ながら、昴君の発言にやなぎんは納得できずに、疑問を口にする。
「は?……だってオッケーもらったから付き合ってたんでしょ?」
「……あれは、詐欺みたいなもん」
「はあ!?」
「だから、片想いから進展なんてしてないんだよ」
え。
ちょっとお待ちなさい。今なんと?
「おい、詳しい経緯ちゃんと教えてよ」
「まー、お前も巻き込んだみたいなもんだし……そうだな、後で話すよ」
ふたりの足音と、話す声が遠ざかる。私は、何のためにここに来たのかも忘れて、その場に棒立ちになった。まるで根が生えたかのように動けない。
今の会話の意味は、一体、どういうことなのだろう。
ちょっと、と、非難がましい声が耳に届いて、私はやっと手洗い場から身体を動かした。すみません、と小さく不機嫌な女生徒に謝罪する。
用も足さないまま、ふらふらとトイレの出入り口から廊下に数歩移動して、私は間抜けな顔で壁に背中をあずけた。
片想いって。
昴君、そう言っていたよね。
「知ってたの……?」
私が、彼を、好きだということを、知った上で、私と、付き合っていたの?
いつから?ひょっとして、私が自覚する前から?それとも。
ああもう。そんなことどうでもいい。
私は、恥ずかしかった。なぜなのかわからないけれど、恥ずかしくて、顔を真っ赤に染め上げながら、ぼんやりと涙が滲んでくる。
悲しくて、恥ずかしくて、でも悔しくて、私は唇を噛んだ。
からかっていたのか?だから、私にあんな行為を?弄ぶように、あざ笑っていたの?私が信じた彼の優しさは、すべてがまやかしでしかなかったのだろうか。
ひどい。
ちがう。
でも、それでも。
勝手に期待して、勝手に失望して。ばかみたいだと、わかっているよ。でもさ。
どうして、現実をそう突きつけるのさ。せめて、優しい君の幻想を信じていたかったのに。少しでも、やなぎんを好きだと苦しんでいる昴君の誠実さは、本当だと、信じたかったのに。ひょっとして、苦しんでさえいなかったの?おもちゃを探していただけだったの?
わからない。ぜんぶわからないよ、昴君。
「ちーちゃん?」
目の前が暗くなって、しまいには座り込みそうになった私に、知った声が降りてきた。反応した私は、ゆるゆると顔をあげる。
「……まー、くん?」
涙が滲んできているからか、視界がぼやけてみえないけれど、確かにそこに立っているのは、まーくんだ。
高木正浩は、私の従兄弟である。母親の兄の息子が、まーくんだ。中学に上がってからは交流がなくなっていたけれど、同じ高校に入学したとき、改めて私たちは言葉を交わすようになった。時折、家にも遊びに来る。
彼は、父と似ている。というか、おじさんも父も同じように性格が穏やかだからだろう。血筋といえるかもしれない。あと、女性には優しくするように、というのが父とおじさんの教育方針であるらしかった。
でも、おじさん。彼は、罪作りな男に成長しようとしています。
私のことを好きなのかもしれないと期待する女子が彼の周りには多すぎるのだよな。と、そんなことに思いを馳せてどうする。今はものすごく関係ない。
でも、驚いたことに思考はそんな彼のプロフィールを長々と紹介していたくせに、私の涙は止まらなかった。むしろ、身内に会った気安さからか、必至で食い止めようとしていた涙があふれてきてしまったのだ。
「ちーちゃん、大丈夫?ね、歩ける?」
「だい、じょぶ。まーくん、ごめん」
「……具合悪い?どこか痛い?」
首を傾げながら私を覗き込むその姿が、ひどく優しくて、父を思い起こしてしまって、よりいっそう甘えるような心が芽生えてしまう。いけないとわかっているのに、ついには嗚咽までもれはじめてしまった。これじゃあ、まーくんが私を泣かせているみたいな図になってしまう。
私は、ここから立ち去ってと言おうとしたけれど、それより先に、彼が行動に出た。
ふわり、と。
私の身体が地面から浮いた。
「とりあえず、保健室行こう?無理に涙は止めなくていいから。恥ずかしかったら、俺に顔を隠してていいよ」
「まーくん……ごめ」
横抱きにされた状態で、近くなった彼の顔をみつめながら涙を流せば、まーくんが困ったように笑った。
「こんなちーちゃんほっとけるわけないんだから、謝らなくていいの」
しっかりつかまっててね、というまーくんに、私はうなずいた。
最初はそのままの状態だったけれど、恥ずかしさが増して、結局少し移動したら私はまーくんの服に顔を埋めてしまった。周囲からの視線はきっとすごいことになっているに違いない。
まーくんは、昴君や、やなぎんのようにすごく目立つ人ではないけれど、熱心に好きだと言う女の子はいつも一定の数いて、高校に入学してからそういう人々に従兄弟だと認知してもらうまでが大変だった。
今回、こんな目立つ行動をしてしまって、まーくんにそれこそ迷惑をかけなければいいんだけれど。
ぐるぐると色々と考えていたら、まーくんに声をかけられる。
「ちーちゃん、携帯電話は持ってる?あかりちゃんとお昼ごはんとるつもりだったよね?鞄の中なら先に保健室へ運んだあと、俺が鞄を持って来ようか?」
顔を上げると、教室の前だった。トイレからまだそのくらいの距離しか歩いていなかったのか。
私は大丈夫、と声をかける。
「というか、少し落ち着いたから、下ろしてくれていいよ、ごめんね、まーくん。鞄、今取ってくる。……あの、ついでにちょっと甘えてもよいかな」
少し、混乱しているから第三者の意見を訊いてみたくなって、私はまーくんへと視線をやる。微笑んで、もちろん、と言ってくれる彼は、今から包容力たっぷりだ。きっとまーくんの彼女は幸せなのだろうな。
「千絵子!」
まーくんの腕の中から出て、私がきちんと自分の足で立った瞬間だった。廊下中に響くのではないかというくらい大きな声で名前を呼ばれた。
前を向けば、そこにいたのは、昴君だ。なぜかものすごい形相でこちらを睨んでいる。
「……まーくん、鞄を取ってくる」
「わかった。でも、彼はいいの?」
「今は、いい」
「そっか……うん、わかった」
昴君の存在を無視して教室に入った私を、彼は追いかけようとした。しかし、私が鞄を取って振り向いた時には、昴君がまーくんに待ったをかけられていた。
にっこりと微笑んで、まーくんが昴君にゆっくりと声をかける。
「そんなに恐い顔をしたら、逃げられちゃうよ」
「! ごめんね、ちょっと今余裕がないんだ」
「そうだね、そうみたい」
どちらかというと同系統の柔らかい顔、物腰のふたりが並ぶと、眼福だといえなくもない。
しかし今はそんなことどうだっていいのだ。
「まーくん、お待たせ。いこう」
「うん」
「千絵子さん、僕らとお昼を食べるんじゃないの?」
昴君の言葉に、私はなるべく無表情にならないように頑張って微笑んだ。
「ごめん、ちょっと彼と話したいことあるんだ。あかりにも伝えておいて、まーくんといっしょだって言えばわかるから」
「……まーくん?」
眉間に皺を寄せて繰り返す昴君に、呼ばれた本人のまーくんがにっこりと微笑む。その表情が気に入らないのか、昴君はますます不機嫌そうな顔をした。
私は、まーくんの手を取って、昴君にじゃあね、と声をかける。
「ちーちゃん、本当にどこも具合悪くないの?」
「大丈夫だとも。私にお昼を抜かせと言うつもりなのかい?」
「いや、そんなことはないけど」
笑い合う私たちのうしろ姿を、昴君がずっと睨んでいる。
振り返って見たわけでは決してないけれど、間違っていない気がした。