第14話
好きだと自覚してから苦しみしか待っていないというのも、少し寂しい。
はじめから、終わりがわかる始まりだったから、仕方ないのだけれど。
「おかえり、千絵ちゃん」
「……お父さん」
微笑んで、リビングのソファに腰かける父が、扉を開けた私に視線をやる。そうか、出張から帰ってくる日であった。本来ならば、先週の月曜日に母と揃って帰ってくるはずだったのだが。まあ、母は嘘であったけれど、父は日数が延びてしまっただけなので、意図的なものではない。事実が発覚してからの母の落ち込みようはすごかった。いつまでも、両親は仲が良い。案外、一緒に過ごす時間が少ない方が恋人気分でいられるものなのだろうか。
色々と思い出して苦笑していると、新聞を読んでいた父が首を傾げている。私は、無言で首を振った。
「ただいま。父よ、出張中はきちんと寝てご飯を食べましたか」
「ちーは、いつも同じ質問するなあ。少し不健康な生活だったけれど、無茶はしてないから大丈夫です」
「そうか。今夜は父の食べたいものを作ろうではないか」
私の言葉に、ついに読んでいた新聞をたたんでテーブルに置いた父は、先程の私と同じような笑みを浮かべて仕様がないな、といった風情で頬杖を付く。
「体調が悪かったんじゃなく、自主休校かい?」
やっと飛び出した父親らしい一言に私は微笑めば、父はため息を吐く。
ぽん、と隣の席へ座れと促すようにソファを叩いた父の手を見て、やがてそれに従った。
「もちろん、のっぴきならない理由があったから早退したのだよ」
「おやおや、それは穏やかじゃないね」
頭を優しく撫でる父の手の平が温かい。私は、不覚にもその感触に泣きたくなってしまった。弱っている時に優しくされると、簡単にこころが揺さぶられてしまうものなのだな。
「……お父さん」
呟くように呼んだ私の声に、父はやわらかい声で返事をする。母があわてふためくたび、この父はいつも正しいほうへと導いていく。私はそれをみるたび、この男のような人間になれたらどんなに素敵だろう、と思うのだ。
「私、ちゃんと恋がしたかったな」
呟いた言葉は、何も考えずに口をついて出たもの。父親がそれにぴくり、と反応を示していたが、私は気付かずにぼんやりと正面を向いていた。
「失恋するにしても、せめて、好きになっているあいだは、相手の気持ちがわからない状態にふわふわしていたかったなあ」
「……わかっていても、止められなかったんだね」
父の言葉に、私は無言でうなずいた。父が、微笑む。
「月並みな言葉だけれど、人を好きになるのは素敵なことだよ。今は、たくさん泣いて、たくさん休みなさい。だから今日は、もうおやすみ」
「でも、せっかくなのだし買い物をして父の好物をたくさん」
「今日くらい、ただの失恋した女の子でいいじゃないか。お家を切り盛りするしっかり娘の千絵子さんは、本当はただの女子高生なんだから」
「別に、私は特別に頑張っているわけじゃないよ?」
「そうだね。でも、お父さんもお母さんも、日々、君に感謝の念は絶えないし、たまには何もせずにぼんやりする日があってもいいと、お父さんは思うんだよ。それとも、何かしていたほうが気が楽かい?」
何かしていたほうが、か。
正直、今の状態で何かを始めれば、それにのめり込んですごく疲弊してしまう気がする。やっている間はいいかもしれないけれど、やることがすべて終わったあと、疲れた身体に暗澹たる気持ちを閉じ込め、私はどうなってしまうのだろうか。
なんだかぞっとしてしまい、私は身震いして首を振った。父が、くす、と空気を揺らした。
「じゃあ、おやすみ。少し休んで、ちーの目が覚めたら、いっしょにごはんを食べようね」
「……ありがとう。おやすみなさい」
立ち上がって、リビングの扉を閉める。普段は温厚な父の顔がこのときどんな様相を呈していたのか、どれだけ低い声でその言葉を呟いたのか、とか、私にはわからなかったけれど。
「……俺と奈緒子の宝物を泣かせた馬の骨は、どこのクソガキだろうね」
ただ、その言葉が放たれたのは、どうやら事実のようだった。後々、その脅威を思い知るのであるが、それはまあ、もう少し先のお話だ。
リビングを出て部屋に入り、私は手の平におさまる青い音楽プレイヤーを握って、ヘッドホンを装着した。かちゃかちゃと手元をいじって、小さなおもちゃ箱におさまる音楽がすべて順番に流れるように、しかしその順番は不規則になるように設定する。
予期せぬ音が流れると、少しのわくわくと、それからしばらくして安心を感じる。
何が流れるかははじめわからないけれど、元々はそれをここに放り込んだ自分がいるのだから当然のように知っている音なのだとわかるから。
自分の好きという気持ちも、こんな風ならばよかったな。
最初は、わからないこころに戸惑った。人を好きになるのがどういうことなのか、よくわからなくて、これがそうなのかな、ちがうのかな、と柄にもなくどきどきした。けれどもそれが過ぎると、それまでの時間で築き上げた相手の色々な面を再確認して、ああそうか、そうなんだ、ときちんと自覚することができた。後は、流れる音楽に心地よさを感じるように、私も、彼といて心地よい空気にずっとふわふわと漂っていたかった。
けれど。
思い知った。
昴君は、私を好きではないのだ。私が、彼を好きであるように、昴君も私を好きで、だからこそ恋人同士になったのだとしたら、どんなによかったろう、幸せだったろう。
昴君にとって、私は、すこしでも特別だったかい?すこしでも君の中に、私はいただろうか。
気が付けば流れる涙を、しかし無理に止めようとは思わなかった。泣いていいよ、と、父が言ってくれたから。
たくさん泣いて、また出直そう。
昴君といっしょにいるのはしばらく辛いかもしれないけれど、きちんと友達に戻れるように、努力しよう。
協力すると言ったのも、勝手に好きになったのも、すべて自分の責任だから。
せめて、優しい彼が私によって傷付くようなことはありませんように。
「……優しい、か」
はて。
ここで少しの疑問が頭をもたげる。
ヘッドホンをひっぺがし、私はプレイヤーの停止ボタンを押し、ベッドにそのまま投げ出すと、身体を起き上がらせて階下へと勢い良くおりていく。おっと、足を踏み外しそうになった。
リビング扉を力任せに開くと、父が驚きに目を見開いてかたまる。
私は無言で冷蔵庫まで辿り着くと、同様の勢いでそれを開いた。む、牛乳がない!
「……父よ、私はちょっと出てくる」
「え、千絵子」
「いってくる!」
ばたばたと慌しくマフラーを適当に巻いて外へ出る。財布はもった。戸惑う父の声も無視して出てきてしまった、父よ、すまん。
とにかく糖分摂取しようと家を飛び出してきたけれど、どうしようかな。
せっかくだし、どこかお店にでも入ろうか。思案して、しかしあまりそういう気分にもなれない。ふらふらと歩いて、気付けば駅前近くの公園まで来ていた。
大きくも小さくもないそこは、いつか昴君と訪れた公園と少し似ている。遊具もないわけではないけれどそれほどあるわけでもなく、なんの変哲もない普通の公園。なんの因果か、時刻もちょうどあのときのように夕日がぽっかりと浮かぶ頃になっていた。
ため息を吐き、マフラーをしっかりと巻きつけた私は、自動販売機まで歩いてホットココアを購入した。派手に音が鳴って、駅まではもう少しあるから割と静かな環境のここは、余計にその音が大きく聴こえた。
騒音を出している気分になって小さくなりつつも、かしかしとひっかいて飲み口を開きながらベンチへ腰掛ける。
糖分を脳に届けると、気のせいでもなんでもとにかく活発に動いている気分になって、私は思考をめまぐるしく回転させはじめた。
「……やっぱり、ただの優しい人じゃないよね」
そもそも、けっこう酷い男じゃないの?昴君て。
あらやだ、今更気付いちゃった、この子!ではなくて。
少し混乱しているのか、興奮しているのか。とにかく落ち着いて今までの出来事を整理する。
「そもそもー、私を好きでもないくせに恋人にしてー、数々のセクハラ行為をしてー、最初は限定でお付き合いみたいなこと言ってたくせにやっぱり関係続けようって……もしかして女の身体に目覚めたんじゃないのか?」
むう。
眉間に皺を寄せて考えてみても、それがなんだかいちばんしっくりくる。もしかしなくても、私ってば途中から身体目当てみたいにされていたんじゃないのか。
そうだよ!
なんとなく、やなぎんの言葉と今までの昴君の手馴れた感じと端々の言動から察するに、彼は案外乱れた生活とやらを送っていたにちがいない。
女性と交際したことはなくとも、それなりに経験はあるのかもしれないし、男とはそれこそ大変な経験をしているのかもしれない。そう考えると、つまり後腐れない関係がベストで、しかしそうするには年上を相手にするしかない。
昴君は、同い年の、しかも女の子に興味を抱いている所があったんじゃなかいだろうか。だからこそ、あんな提案をしてそれを飲み込むお人よしを探していた。
まんまとみつかった私は、ずるずると昴君とあんなことやこんなことをし……いやいや。
さすがにそこまで悪い男だと考えるのはこころが痛む。仮にも好きになった人なのだから。
やなぎんへの想いは、本当だとしても。女の子への興味も、やはり本当だったのかもしれない。だからこそ、私みたいに絶対に彼を好きになる可能性のない相手をみつけて、普通のデートみたいなことをしてみたかったのかもしれない。
「……ひょっとしたら、やなぎんと遊んだらこんな感じなのかな、とか、そんなこと思われていたんだったりして」
口に出して笑って、あまりにも大きい可能性にかなり憂鬱になった。そうか、私は、擬似恋愛の都合良い相手だったというわけか。その過程で、少しでも私に情をうつしてくれたら、可能性もあったのかな。
なんて。私も往生際が悪い。
「でも、そうか」
なんだか、そこまで考えて、多少すっきりした。今度会ったときには、ちょっとした意地悪でもしてみようか、なんて気にはなるくらい。
そうだよ。昴君は優しかったかもしれないけれど、私を大切にしてくれていたわけではないんだ。そもそも、あれだけ好きに扱われて、優しいもないよな。そこに気付かないってちょっと盲目すぎたんじゃないのか、私。
思考が纏まった頃には、すっかり陽が傾いていた。
「言ったでしょう。千絵子はいませんよ」
「でも、今日、具合が悪くて早退したって」
「さあ、知らないな」
家路に着いた私は、もやもやとすっきりという両極端のこころを抱えながら、しかし部屋を飛び出す前よりは格段に精神が楽になったと感じていた。
そこの角を曲がれば家が見えてくる、というところで、聞き慣れた声が耳に届く。思わず足を止めた私は、そっと顔だけ出して様子をうかがった。
視認したそれに間違いがなければ、あれは。
昴君だ。昴君がなぜ家を訪ねてきたのだろう。十中八九、私に用事なのだろうけれど、門から出てきた父は、隙のない笑顔で腕を組みつつ昴君をみつめている。会話から察するに、家の前で押し問答をしているようだ。
ここで私は首を傾げる。だって、父が昴君を家にあげない理由がわからないのだ。きっと昴君は、お見舞いに来た友人です、とか、そういうことを言ったに違いない。だったら、ありがとう、と言って家にあげるのが本来のはずだ。
私は、このままの位置でしばらく様子を見守ることにした。
「千絵子さんが、会いたくないと言ったんですか?」
「君は、千絵子に門前払いをくらう心当たりでもあるのかい?」
父よ、その返しはどうかと思うが。ああ、昴君が珍しくむっとしている。
「そんなことありません」
「そう?だったら私の言葉を疑う理由がないのじゃないかな?お友達なら、携帯電話の番号くらい知っているんでしょう?連絡したらどうかな?」
「メールをしてみたんですけど、返信がないんです。中で待たせてもらえませんか?」
「申し訳ないけど、私も少ししたら出かけなければいけなくてね。今日の所は、お引取り願えるかな?」
「……っまた来ます」
唇を噛んで、やっとあきらめたのか昴君がこちらへと歩いてくる。
歩いてくる?
まずい、このままではみつかってしまうではないか。
あたりをみまわして、向かいの家の駐車スペースに目をつければ、私は素早く奥へと隠れた。息を殺して、昴君が通り過ぎるのを待つ。
彼のうしろ姿が見えなくなるのを確認して、私は家へと向かった。
玄関に入ろうとしていた父の背中へ声をかける。
「ただいま」
「! おかえり。ひょっとしてどこかに隠れていたの」
目を丸くした父は、次には優しく微笑む。私は、そんな父の目をじっとみつめた。
「……父よ、ありがとう」
「お礼を言われるようなことはしていないよ」
寒いからお入り、という言葉に、私はうなずく。
昴君。
どうして、去り際のあなたの表情は、哀しそうだったのだろう。まるで、何かの苦しみに耐えるみたいに。
私の言葉は、昴君のこころにどう届いたのだろう。
考えても、もちろん私にはわからなかった。