第一話 クールでスーパーな秘書
第二章は、2011年8月に別作品として投稿した『夏色ユニフォーム』と同じ内容です。
「……来ない?」
秘書のディーンは、俺の執務机の前に直立不動したまま、口を半開きにして動かなかった。
俺が領主になり、彼がその下についてまだ日は浅いが、彼がこれほどまでに驚きをあらわにしているのを初めて見た。
「いらっしゃらない、とおっしゃるのですか? 花嫁が?」
信じられない、といった声音で、ディーンが確認してくる。こうやって、話したことをすぐに飲み込まずに聞き返すこと自体、珍しい。
俺はおそるおそるうなずく。
「う、うん」
「新領主のために、神によって召喚された花嫁が? いったんは姿を隠してしまったものの、ジェイド様ご自身が発見された、その花嫁が? 代々、領主自身に見出されては結ばれてきた、その花嫁が?」
わかりきってることを誰かに説明してるような、嫌味な言い方はやめてほしい。
俺はため息をつき、言いにくいことをもう一度、はっきりと区切るようにして言った。
「彼女は、領主館には、来ない。街なかに部屋を借りたそうだ」
「……館に、お部屋をご用意していたのですよ?」
ディーンが一歩前に踏み込む。黒縁の眼鏡が光る。
俺は窓の外に目をやるふりをして、ちょっと身体をそらした。
「ジェイド様のご着任も、それによって召喚が起こるとわかったのも急だったので、それはもう急ぎに急いで調度を整え、領主夫人となるお方が快適に暮らせるようにと……! それなのに!!」
うう。目が怖い。彼は俺と同年代だけど、先代の秘書でもあった男だ……色々とプライドもあるんだろう。
「館にさえおいでいただけないなどと、レイフェール三百年の歴史で前代未聞です。一体、花嫁に何をなさったのです!? 怯えさせるようなことをなさったのですか、それともあなたは女性に見向きもされないほど根性無しのすっとこどっこいなのですか!?」
「そっ! そんなことはない! チヅだって、俺のこと『いい人』って」
「そんなものは『お友達』と同義でございます」
ディーンはばっさりと切り捨てた。ぐっ。
「よろしいですかジェイド様。領主としてどころか、社会人としても何の実績もないあなたが最低限の信用を得るためには、何が一番手っ取り早いとお考えですか?」
彼は俺の返事を待たずに、
「そう、『結婚』です。結婚していない人に社会的信用がない、という意味ではございませんからね。妻子を幸せにする覚悟があることをアピールするのが、領主として領民に信用される近道ではないかと申し上げているのです」
「結婚を仕事に利用するような考え方は好きじゃないっ」
俺は立ち上がった。
「どちらへ?」
「もうプライベートな時間なんだから、どこでもいいだろ!」
「チヅ様の所ですね」
…そうだけど。
「いってらっしゃいませ。とにかく一度はチヅ様に遊びに来ていただけるよう、健闘をお祈りしております」
ディーンは、白っぽい薄緑の前髪をサラリと額に落としながら、優雅に頭を下げた。余計なお世話だ。
日中の強い日差しもようやくおさまり、領主館の白い壁を夕陽が穏やかなオレンジ色に染め上げていた。俺は一人、街へ出る。治安の良さは、レイフェールの自慢の一つだ。
仕事帰りの人々が、俺に気づくと「こんばんは、領主さん」「領主さん、お疲れ様」と気さくにあいさつしてくれる。明日も頑張ろう、と思う瞬間だ。
街の中央の広場――彼女と一緒に働いた場所――に出ると、『Rosaline's』はすぐそこだ。俺は街灯が点ったばかりの道を、急ぎ足で店に向かった。
ロザラインおばさんの外見に似合わず、可愛らしい木製のドアには、花の形のスリットが彫り込まれている。中から漏れた光が、玄関のウッドデッキに花の形を落としている。
俺が手をかける前にドアが開いて、
「あら、いらっしゃい!」
お年寄りのお客に手を貸して、見送りに出てきたアナイス――おばさんの姪で、やはり祭典の時に一緒に働いた仲間――が、俺を見てそばかす顔をほころばせた。振り向いて奥に声をかける。
「チヅ! ジェイドよ」
首を伸ばして店内を見ると、奥でトレーを手にしたチヅが、こちらを見て片手を振ってくれた。自然と、頬が緩む。
段差をゆっくり下りるお年寄りに会釈して二人とすれ違い、急いで中に入ると、穏やかな喧騒と食器の触れあう音に包まれた。オープンキッチンのカウンター席に向かう。
俺がいつもの席に座る前に、チヅが氷の音を鳴らしながら水の入ったグラスを置いてくれていた。幸せな気分になる。
「いらっしゃい!」
チヅは今日も、こちらが明るくなるような笑顔を見せてくれた。
「今日も私のおススメのやつでいいの?」
「うん」
俺はチヅの、やや茶色がかった生意気そうな瞳を見つめてうなずいた。
ここの人間はみなグリーン系統の髪の色をしているが、彼女だけはつややかな黒髪で、目を引く。
そのあごまでの長さの真っ直ぐな髪を見ながら、伸ばせばいいのに…と思ったり。でも、チヅがカウンターの中のマテオに注文を言っている後ろ姿を見ると、白いうなじが綺麗で、やっぱり短い髪も似合うなと思ったり。
要するに、チヅならなんでもいいんだけど。
食事をしながら、時々チヅを目で追う。彼女はするするとテーブルの間を動き回り、料理を運んだり、皿を下げたり、常連客とフレンドリーに話をしたりしている。
チヅ・ハタノはこの春の祭典で、新領主の花嫁として異世界から神によって召喚された。
しかし、レイフェール領民の面前で、結婚を保留する発言をした。それも、領主である俺に恥をかかせない、たくみな言い回しで。
以来ここで働いている彼女は、この街では有名人だ。そんな彼女に話しかける客は多い。揶揄するようなことを言う客もいるが、彼女はそれに振り回されることも、無視してしまうこともない。ちゃんと話を受けてから、上手に流す。
そういえば、チヅはすでに社会に出て働いていたんだよな。見た目は若いけど、俺より先輩だ。
そんな機転のきく彼女に、強く惹きつけられる一方で、この苦肉の策に込められた気持ちを考える。
彼女にしてみれば一方的に召喚されただけなのだから、ニホンに帰りたいと思うのも当たり前だ。こちらの世界で暮らすことを受け入れるとしたって、結婚するもしないもその相手も、彼女の自由だ。
そもそも、この召喚と結婚を不憫に思って、チヅを最初に見つけて匿おうと思っていたのは、他ならぬ俺自身なんだし。
でもその後で、変装を解いて本来の姿に戻った彼女を見た瞬間――俺の中に少しだけ残っていた「理解のある男」の部分は、たちまち霧散した。
ニホンに帰したくない。こちらにいて欲しい。他の男と結婚するのも絶対ダメ。
今だって、祭典の時にお披露目だけでもできて良かった、領主の花嫁(予定)だって他の男どもに知らしめることができたからな! なんて思ってる。
俺はとっくに、「いい人」じゃなくなっているな……ごめん、チヅ。
食器を下げに来たチヅに話しかけた。
「あの……今度の休み、領主館に遊びに来ない?」
チヅは、色んな意味を含んだ笑みを口元に乗せて、黙ったまま軽く首をかしげた。
領主館に住まないか、と誘った時も「事実婚になると困るから嫌だ」と言った彼女だ。遊びに行くだけでも何か誤解を受けるのではないか、と警戒してるんだろう。
「例の、召喚の時にチヅが映った鏡、領主館の敷地内にあるんだけど」
ぴく。チヅの表情が動く。お、興味を持ったかな。
「それと、昔の召喚についての文献が見つかったよ」
「行く」
即答。やはり、ニホンに帰るための手がかりを知りたいんだろう。
でも……たぶん、チヅには読めないと思うけど。