地層と公民館
新興住宅の一角に、古ぼけた公民館が建っていた。
赤に塗られた安っぽい屋根と、くすんだ黄色い壁。
富士山を平たくしたような形の照明が軒からぶら下がっていた。
軒先には神社にあるような手水舎があった。
大きな石がえぐられて、水が張られていた。
どうも神社の跡地に作られたらしい。
周囲には、元は神社を守る、鎮守の森だったのだろう、
都会の一角とは思えない大きな木が何本も生えていた。
ここだけが、古い時代から取り残されてしまっているかのようだった。
公民館の目の前は造成地になっており、
四角に仕切られた土地がいくつもならんでいた。
公民館はそこを見下ろす崖の上に建っていた。
崖は機械できれいに削られており、赤と茶色の地層が縞模様を肌に浮かべていた。
地層は歴史だ。
あの古い公民館をこの地層が支えているのだと思った。
大人には造成地なんてただの空き地である。
けれど子供の私たちにとっては、そこは好奇心をくすぐる場所だった。
水たまりに湧いた膨大な数のおたまじゃくし。
固い地層に穴を掘って、秘密基地を作ったりもした。
そしてそうした好奇心は、地層の上に立つ公民館にも向けられた。
今思い出しても、公民館には道がなかった。
公民館の周囲は崖と深い森であった。
獣道すらなかったように思う。あの建物は使われていなかったのだろう。
私たちはいつも地層に足がかりの穴を掘り、
それをはしごのようにしてせっせとよじ上っていた。
公民館は、近くで見ると本当に古い建物だった。
恐らく戦争中から建っていたのではなかろうか。
人が長らく訪れていないのを示すかのように、ひどく草が生い茂っていた。
草の陰にほこらを見つけたのはみっちゃんという男の子だった。
物知りな彼いわく、それはお稲荷さんという狐の神様で、
なんでも油揚げが好物らしいと言った。
「なんで狐なのに油揚げが好きなの?」
「油揚げって、そもそも何を揚げているんだろう?」
みんなで首をひねったけれど、答えは出なかった。
「とにかく、明日みんな油揚げを持ってこようよ」
みっちゃんの提案にみんながうなずいた。
次の日みんなでまた地層に集まり、
赤土で体を汚しながら公民館まで這い上がった。
そしてみんな、手には何も持っていなかった。
持っていたのはみっちゃんだけだった。
「そんなことだろうと思ったよ」
みっちゃんは呆れたように袋から油揚げを取り出して、ひとりひとりに配った。
お稲荷さんに油揚げを供えると、それでみんなは興味を失って、
またいつものように手水舎にたまった水をかけあって遊んでいたのだけれど、
みっちゃんだけは難しい顔をして、お稲荷さんの前で手を合わせていた。
「何かお願いしてんの?」
私が聞くと、みっちゃんは首の筋肉が切れたみたいにこくんと大げさに頷いた。
「もうこれ以上、痛いことも辛いこともありませんようにって」
みっちゃんが父親にぶたれていることは私たちはみんな知っていた。
けれど私や私の友達もみな幼すぎて、
ではどうしたらいいかということを 考えることもできなかった。
世の中は大人が作ったルールに埋め尽くされていて、いつだって大人に見張られ、
大人に対して従順であること以外、私たちに生きる術はなかったと言ってよかった。
子供はみんな大人の奴隷だ。
少なくとも、私たちはその時そう感じていた。
地層や公民館は、私たちの避難所だった。ここには道がない。
大人っていう生き物は道しか歩けないのだと私たちは知っていた。
草薮や小川を彼らは越えてくることができないのだ。
あれはダメこれはダメとうるさく注意されることも、
その私たちを打ちすえる大きな手も、ここにまでは届かなかった。
中学にあがり、高校に進み。
その当時に遊んでいた仲間とは、高校に入ってからは学校もバラバラになり、
だんだんと疎遠になっていった。
体も大きく膨らんで、そして子供の心は少しずつ、それに合わせてしぼんで
いくようだった。
地層は、あれから何年かしてから、いくつかの家の敷地になってしまった。
元の場所すら分からないほど土はえぐりとられ、その上に建っていた公民館も跡形もなく消えていた。一帯はきれいな新築の家が立ち並び、若い夫婦が何組も暮らしているようだった。
みっちゃんと再開したのは、地層にほど近い陸橋の上でだった。
「みっちゃん」
「おお、久しぶりだな」
みっちゃんは大人の男の声になっていた。
「よくあそこで遊んでたよなあ」
陸橋の袂にあるベンチに私たちは腰を下ろした。
私が感慨深げにそう言うと、みっちゃんは少し鼻を鳴らしてからこう答えた。
「そうだったかな」
みっちゃんといろいろ話をした。けれどみっちゃんは小学校の時のことにはほとんど興味がないようだった。ああ、ああ、と気のない返事をするばかりだった。何年かぶりにあったという親愛の情が、少しずつしぼんでいくのが悲しかった。
「父親とはどうなったの?」
話す話題も無くなって、私はとうとうあまり触れていなかった話を振ってしまった。みっちゃんはにやっと笑ったように見えた。
「あいつか。あいつならしこたま殴られて、どっかに行ったよ」
「誰が殴ったの?」
「俺だ」
みっちゃんはそれだけ言うと、もう十分だろうという感じで腰をあげた。
去っていくみっちゃんの後ろ姿には、昔の心優しい少年の影はなかった。
色々と積み重なって、埋もれていってしまったのだ。大人になるというのは
きっとそういうことなのだと思った。
私はお稲荷さんのことを思い出した。
細い首に大きな頭をぶら下げて、いつまでもみっちゃんはお祈りをしていた。
痛いことも辛いことも、きっとあらかた無くなったに違いない。
お稲荷さんは彼の願いを叶えてくれたのかもしれない。
しかし。
みっちゃんは痛いことも辛いことも、
一緒に、楽しいことも嬉しいことも無くしてしまったように見えた。
遠く小さくなっていくみっちゃんの背中を眺める私の耳に、
地層のあった場所に建つ新築の家から、
小さい子供のはしゃぐ声がかすかに漂って来た。