葡萄と毒薬の朝食会、あるいは親王府における二重奏(デュエット)
1. 琥珀色のドレスと鉄壁の同盟
夜の深みと朝の浅瀬が交わる刻。 セレスティアの中心都市、アクアパレスの親王府。
統治者たる親王の居館・東棟は、冷え切った石造りの静寂に包まれていた。
大きな振り子時計が重々しく五つの音を刻む前——セシリアは目を覚ました。 羽根布団のなかでそっと息を吐くと、白く小さな霧が立ち上る。 十月の澄んだ秋気が、重い天鵞絨の隙間から滑り込み、部屋の絨毯を凍てつかせていた。
「……お目覚めですか、セシリア様」
帳の向こうから聞こえるのは、低く抑えた声。侍女のロゼッタだ。 彼女はセシリアと同じリヴィエールの一族の娘。今年15歳となり、晴れて仕えることとなった黒髪の美しい少女である。
「おはよう、ロゼッタ。エミーナは?」 「エミーナは夜明けすぐに王妃様方の応援に向かいました。もうすぐ十月の大収穫祭でございますから、準備で王妃殿下も息をつく暇もないご様子です」
セシリアは頷き、ベッドの上に身体を起こした。
今年19歳になるセシリアがこのアクアパレスの親王府へ入ったのは、4年前のこと。 二歳年上の若き親王殿下——今年21歳になるセレスティア親王イリアードの側室となったのだ。
イリアード、王妃リゼリア、そして側室のセシリア。 三人は互いに従兄妹、従姉妹の関係にある。幼少期から帝都の後宮にて実の姉妹以上に身を寄せ合って育った、かけがえのない「親友」同士でもあった。
さっそく身支度が始まる。 ラベンダーの湯気を立てる洗面器で肌を清め、ローズウォーターで湿らせた布で背中を拭う。 次いで取り出されたコルセットを見て、セシリアは軽く手を払った。
腰の細さは女性の品位であり美しさの証だが、元々細身の彼女にはあまり必要ない。 女たちの社交場という名の「戦場」では鎧代わりに身につけることもあるが、今日のスケジュールにそんな重装備は無用だった。
「本日の朝食会。身につけるドレスは、こちらの黄金色に輝く琥珀色の天鵞絨になさいますか?」
ロゼッタが提示したドレスを見て、セシリアはかすかに微笑んだ。
「ええ、それにしましょう。リゼリア……王妃様とお揃いの秋の色だわ。まもなく行われる収穫祭に向けて、王家の豊穣と団結をアピールするお約束をしていたの」 「……かしこまりました。王妃様とのご懇意ぶりを示しつつ、旧貴族たちの嫉妬を買いすぎぬよう、飾りの真珠は控えめにしておきましょうね」
収穫祭は、単なる祝祭ではない。 国内外から数万の民と使節が集まる、21歳の若き親王殿下の権威と帝国の中の重鎮としての資質を示す、最大の政治舞台だ。
王妃と側室が密に手を組んでいるという事実は、表に現れていない敵対勢力にとって最大の脅威となる。 二人で仕掛けるこの絶妙な政治的演技こそが、セシリアとリゼリアの生き残る道だった。
白粉で肌を白く整え、秋らしい紅を頬と唇に差す。 鏡の中に浮かび上がったのは、セシリアという名の少女ではない。
「親王の愛妾」にして「王妃の最大の同盟者」の姿だった。
2. 葡萄と毒薬の朝食会
午前八時。 セシリアは二人の侍女を従え、王妃の居室へと続く回廊を歩いていた。
窓の外に広がる城下町では、すでに収穫祭に向けた飾付けが始まっている。 麦の穂で作られた大きな輪や、赤や金に染まった旗が街を彩っていた。
「王妃殿下がお待ちです」
重厚なオーク材の扉が開かれると、熟した葡萄の甘い香り、立ち上る燻製肉、そして暖かい空気がセシリアを包んだ。
朝食の広間には、すでに十数人の高貴な貴婦人たちが集まっていた。 部屋の奥のテーブルに腰掛けているのが、王妃リゼリアである。 セシリアより二歳年上の21歳。若くも気品に満ち、その美しい瞳には鋭い知性が宿っていた。
「遅かったですね、セシリア」
王妃の声が響くと、広間の雑音が瞬時に消え去る。 セシリアは深く膝を折り、最敬礼した。
「お許しください、王妃殿下。親王殿下の使いが大倉庫の急を依頼して来たため、身支度に時間を要してしまいました」
リゼリアの唇に、優雅で、どこか悪戯っぽい笑みが浮かぶ。
「そう。殿下が初めて主導される大規模な収穫祭ゆえ、力が入るのも無理はありません。ですが、あまり消耗させぬよう気を配るのも、傍にいる私たちの務めですよ」 「身に余るお言葉、胸に刻みます」 「さあ、私の隣にお掛けなさい。採れたての葡萄と温かいスープを」
側室としてはあり得ない「王妃の隣」という特等席。 セシリアが腰を下ろすと、周囲の貴婦人たちから刺すような視線が注がれた。
テーブルには、出来立ての白い小麦パン、旬の鹿肉の煮込み、そして秋の恵みである紫と緑の完熟葡萄。 二人は仲睦まじく会話を交わしながら、巧妙に周囲の探りを潜り抜けていく。
「セシリア様」
向かいに座る老侯爵夫人が、ねっとりとした声で話しかけてきた。
「収穫祭では諸外国から大勢の貴賓がお見えになります。側室様があまりお出しゃばりになると、親王国の威信に関わると懸念する声もございますのよ?」
セシリアは穏やかに微笑み、葡萄を一粒、優雅に口へ運んだ。
「侯爵夫人。各国の使節をお迎えするのは、当然ながら王妃殿下の高貴なるお役目ですわ。私はただ影となりて殿下の裾を支え、祭りの裏方として尽力するのみでございます。……ねえ、リゼリア姉様?」
意図的に漏らした「姉様」という呼び名に、広間が息をのむ。
「ええ、セシリアの言う通りよ」
王妃リゼリアが冷ややかな声で引き継ぐ。
「この収穫祭は、若き親王殿下と我が親王国の栄光を示す場。古いしきたりばかりにとらわれて、内輪の揉め事を国外に見せるような愚は犯しませんわ。私とセシリアは完璧な手筈を整えておりますから、皆様は安心してお祭りをお楽しみなさるといいでしょう」
侯爵夫人は顔を青くして黙り込んだ。
食事を終え、貴婦人たちが退室すると——二人は一瞬だけ素の顔に戻り、手を取り合って小さく笑い合った。
3. 親王の情熱と盤上の罠
午後三時。 セシリアは親王の居室へと呼び出された。
図書室では、巨大な暖炉に太い薪がくべられ、パチパチと心地よい音を立てていた。 暖炉の前のテーブルで、一人チェス盤に向かっていたのは親王殿下だった。
二十一歳の彼は、若々しい凛々しさを残しながらも、収穫祭を間近に控えた緊張感と情熱を全身から漂わせている。
「来たか、セシリア」 「お呼びでございます、親王殿下」
セシリアが近づくと、彼はすぐに彼女の手を取り、向かいの椅子へと引き寄せた。
「向かいに座れ」
二人の前に茶器が並べられ、イリアード自ら茶を注いで差し出す。
「朝食会はどうだった? 誰かと喧嘩でもしなかったか?」 「まさか。収穫祭の席順についての打ち合わせを完璧に済ませましたわ。殿下が今朝、どちらの寝床から起きたのかと、その話でもちきりでしたけれど」 「ははっ! 相変わらずくだらない探りを繰り返しているのだな」
親王は笑いながら、茶を口に含んだ。
「セシリア。十月の収穫祭だが、俺は中央の大広場で民に無料で里芋酒と肉を振る舞いたいのだ」
セシリアは黒のビショップを静かに動かした。
「殿下。お気持ちは分かりますが、無制限の振る舞いは暴動の引き金になりますわ。十月の寒さで酒が入れば、群衆は容易に暴徒と化します。振る舞い酒は正午から夕刻までの三時間に限定し、引き換えに『親王家の紋章入りの焼餅』を配るのです。民は持ち帰って家族と分かち合い、永く殿下の仁徳に感謝するでしょう」
親王は驚いたように目を細め、じっとセシリアの顔を見つめた。
「……お前は本当に凄いな。リゼリアも全く同じ提案をしてきたのだ。『無制限の酒は治安を乱すから、焼餅と引き換えにしなさい』とな」
親王は身を乗り出し、セシリアの手を力強く握りしめた。 その手はあたたかく、若い熱に満ちている。
「お前とリゼリアがいてくれてよかった。二人がいれば、俺はこの収穫祭を帝国史上、最も偉大な祭典にできる」 「……殿下のお力になれるなら、これ以上の喜びはございません」
セシリアは微笑んだ。 彼の若き情熱は眩しかったが、同時に危うさも孕んでいる。 若さは最大の武器であり、同時に最大の隙でもあったからだ。
4. 水面下の暗闘
親王が去った後、人払いを済ませた王妃リゼリアを図書室に迎え入れた。
窓の外を見ると、十月の早い夕日が西の山並みに沈みかけ、空が血のような赤紫に染まっている。 二人は出窓の前に並んで立ち、冷たいガラスに寄り添うように身を寄せた。
「殿下は何と?」とリゼリア。 「振る舞い酒の件、姉様の言った通り、限定的なパンの配布に納得してくれましたわ。殿下の情熱を抑え込むのは一苦労ね」 「ふふ、手柄を焦る少年みたいだものね」
リゼリアは柔らかく笑ったが、すぐにその表情を引き締めた。
「……セシリア。この収穫祭の混乱に乗じて、あなたを陥れようとしているわ。広場で配る小麦に毒が混入していたと見せかけ、その責任を穀物管理に関わるあなたに着せようという噂よ」 「知っていますわ。ロゼッタから報告を受けました」
セシリアはリゼリアの手を強く握り返した。
「ですが、すでに手を打ちました。穀物庫の警護は私の息がかかった衛兵に差し替え、検品記録も二重に作成させています。収穫祭は、敵を炙り出す絶好の罠になりますわ」 「頼もしいわ、セシリア」
リゼリアは夕闇を見つめながら言った。
「この十月の収穫祭を成功させれば、親王殿下とセレスティアの威光は揺るぎないものになる。そして私達を追放して乗っ取ろうとする古い狐たちの息根を止めることができるわ」 「ええ。私たちは二人で一つ。王妃と側室として、親王殿下の左右の翼になりましょう」
かつて後宮の翡翠宮の庭で、秋の落ち葉を集めて遊んだ少女たち。 いまや二人は一人の若き親王を共有し、広大なセレスティア全域を巻き込む大規模な収穫祭を裏から動かす、最も美しく冷徹な同盟者となっていた。
5. 誓いの舞踏
午後八時。 大広間では収穫祭の前哨戦となる前夜祭の宴が催されていた。
数十本の燭台が照らし出す眩い光の中で、収穫を祝う賑やかな音楽が響き渡る。 完熟した里芋で作られた新酒——里芋酒が川のように流れていた。
壇上の上座には、二十一歳の若き親王殿下。 その右隣には王妃リゼリア、左隣にはサファイアと秋の琥珀に身を包んだ側室セシリアが座っていた。
「見ろ、リゼリア、セシリア」
里芋酒の杯を掲げ、親王殿下が誇らしげに囁く。
「城下に集まった民の熱気を。もうすぐ行われるこの収穫祭で、俺たちは新しい時代の幕開けを宣言するのだ」 「ええ、殿下。ですが今夜はまず、その若き勝利をお祝いいたしましょう」
セシリアとリゼリアは同時にグラスを掲げ、親王殿下と杯を重ねた。 カチャンと高い金属音が響き渡る。
広間の貴族たちは、親王の左右を固める二人の美しい女性の完璧な連携に、圧倒されていた。 収穫祭に乗じたどのような企みも、二人の鉄壁の絆の前には付け入る隙などない。
音楽が高らかに鳴り響く。
親王殿下はまず王妃リゼリアの手を取り、次にセシリアの手を取って、舞踏の輪へと踊り出た。 若い親王を中心に、秋の装いに身を包んだ二人の女性のドレスが重なり合い、豪華絢爛に開花する。
(回れ、回れ——)
セシリアは心の中で呟いた。
これは命がけのダンスだ。 もうすぐ訪れる大規模な収穫祭を成功させ、若き親王の権力を確固たるものにし、愛する姉妹と共に宮廷の頂点に立ち続けるための戦い。
◇
深夜二時。 宴が終わり、再び静寂が親王府を支配する。
セシリアは親王の寝室の豪奢なベッドのなかで、隣で安らかな寝息を立てる二十一歳の彼の髪を優しく撫でていた。
明日もまた、五時に目が覚める。
冷たい秋の空気の中で顔を洗い、骨を締め上げるコルセットを着用し、リゼリアと共に朝食を食べ、間近に迫る収穫祭の仕掛けを点検するのだ。
セシリアはそっと部屋を後にし、深い眠りの中へと没していった。 最愛の親友との誓いと、身近な愛する人たちの笑顔を胸に抱きながら。
それこそが、若き親王の側室であり、王妃の最強の同盟者としての、誇り高くも苛烈な「日常」であった。
登場人物一覧表
イリアード
立場・役職: セレスティア親王国・親王(君主 / 21歳)
概要: 凛とした覇気と高い志を持つ若き指導者。騎士道や狩猟、宴を好む熱血漢だが、行政の実務や細かい計算、さらには地理(方向感覚)に疎い一面を持つ。リゼリア、セシリアとは幼少期からの従兄妹関係。
リゼリア
立場・役職: 親王妃(20〜21歳)
概要: イリアードの正妻で、高貴な気品と鋭い知性を備えた女性。リヴィエール一族の血を引き、他人の心をなんとなく察する力を持つ。セシリアとは実の姉妹以上に強い絆で結ばれた親友であり、同盟者。
セシリア
立場・役職: 親王側室兼辣腕補佐官(19歳)
概要: 実務能力に長けたイリアードの右腕。リヴィエール一族の能力として念動、瞬間移動、パイロキネシスなどを扱い、大倉庫からの物資搬入や裏方の仕切りで国を陰から支える。
フレデリカ
立場・役職: 王太后(41歳)
概要: イリアードの母で、リゼリアとセシリアの叔母。かつて帝都の後宮で厳しい暗闘を生き抜いた手練れであり、若い妃たちに後宮や宮廷政治の処世術・知恵を授ける頼もしい助言者。
ベルナデット(ナデット)
立場・役職: リゼリア付きの首席侍女(17歳)
概要: 「無慈悲のナデット」「眼鏡のナデット」と畏怖される超合理主義の才女。分析・統計・確率計算を駆使して宮廷の実務やスケジュール管理をミリ単位で完璧に統括する。
ロゼッタ
立場・役職: セシリア付きの侍女(15歳)
概要: 黒髪の冷静沈着で真面目な少女。リヴィエール一族の能力として「予知」や「念視」を得意とし、宮廷の出来事やトラブルを先回りして把握・処理する。エミーナの相棒。
エミーナ
立場・役職: セシリア付きの侍女(15歳)
概要: 金髪の天然で泣き虫な少女。自身を「薄幸の悲劇のヒロイン」と思い込む癖がある。雑用を一瞬で終わらせる超人的な処理能力や、食べ物を空間調達・転送する能力を持つ。
マグナス・クレイン
立場・役職: セレスティア親王領・副代官(50代半ば)
概要: 元・帝都財務院の記録官。行政や計算に疎い親王に代わり、年貢の徴収、収穫の査定、インフラ整備、治安維持など領内の全実務を取り仕切る陰の立役者。
ピエール
立場・役職: マグナスに仕える老僕
概要: マグナスの身の回りの世話や執務室での補佐を長年忠実に行っている。
アグネス
立場・役職: 王太后フレデリカ付きの筆頭侍女
概要: 郊外の離宮にてフレデリカの身の回りを静かに支えている。
バルカ公爵の親族(肥満体の高官)
立場・役職: 大収穫祭の予算管理を統括する高官
概要: 東領の不正なワインを不当な高値で持ち込もうとしたが、ベルナデットの完璧な統計データと汚職の暴露によって退散させられた。
用語集一覧表
セレスティア親王国
概要: 大河アシェロンの恵みを受ける豊かな領国。中央都市アクアパレスを中心に、広大な農村や沿岸部、湿地帯を擁している。
アクアパレス
概要: 「水の都」と讃えられるセレスティア親王国の中心都市。網の目のように水路が巡り、政庁や親王府が置かれている。
リヴィエール一族
概要: 浮世離れした美貌と特殊な超常能力(他心通、予知、念動、空間調達など)を持つ血族。リゼリア、セシリア、ベルナデット、ロゼッタ、エミーナ、フレデリカらがこの血を引く。共通の秘密として「全員重度の方向音痴である」という欠点を持つ。
大河アシェロン
概要: セレスティア南部を流れる大河。豊かな水資源や川砂をもたらし、水運の拠点としても重要な役割を果たす。
フルヴィアルト
概要: 大河アシェロンの下流・河口付近に位置する南部地域。河口の川砂を利用した高級ガラス工芸や、広大な沖積平野・放棄塩田を利用した綿花栽培・綿紡績の拠点として急速に発展している。
アッケシソウ
概要: アシェロン河口付近の塩分を孕んだ湿地帯に自生する肉厚の草(秋になると朱色に染まる)。乾燥させて焼いた灰をガラス原料に配合することで光の屈折率が劇的に跳ね上がり、最高級ガラスが作られる。
里芋の酒
概要: セレスティアの肥沃で湿潤な大地で育つ粘り気のある里芋を醸した伝統の特産酒。独特のマロやかさと芳醇なコクを持つ。粘度の高さによる発酵ムラや濾過の手間、品質の均一化が課題とされていた。
大収穫祭
概要: 10月末に国を挙げて開催される一年で最大の大行事。単なる神への感謝祭にとどまらず、国内外の使節や商人を招いて特産品(ガラス、綿織物、里芋酒)をお披露目し、資金調達や外交上の優位を確立するための政治的見本市・一大イベント。
副代官
概要: 領主(親王)の権限を補佐し、行政、税収管理、インフラ設営、治安警備などの実務全般を指揮・代行する実務首脳職。作中ではマグナスが務める。
天鵞絨(ビロード / ベルベット)
概要: 登場人物たちの衣装や寝室のカーテンなどに用いられる、上質で重厚な織物。秋・冬の装いや高貴さを示す象徴として描写される。




