後出しジャンケン
後出しの聖域
第一話「終わった後の正義」
三日三晩。
不眠不休で、コウタは崩落した坑道の最深部にいた。
身体能力強化の恩恵で、肉体は悲鳴を上げつつも動き続けている。
巨大な岩盤を肩で支え、その隙間から、震える鉱夫たちを一人ずつ地上へと押し上げた。
最後の一人を送り出し、自らも崩落の直前に這い出した時、コウタの全身は泥と血にまみれていた。
コウタは数秒、肺に溜まった泥を吐き出すように激しく咳き込んだ。
視線を伏せたまま、掠れた声で報告を口にする。
「終わった。全員、無事だ」
だが、返ってきたのは、安堵の溜息でも感謝の言葉でもなかった。
最前列にいた役人の男が、手元の書類を苛立たしげに叩き、コウタを冷酷に睨みつけた。
「終わっただと? ふざけるな、コウタ。貴様、坑道の三層目にあった蒼銀の原石はどうした」
コウタは、泥のついた顔をゆっくりと上げた。
原石。そんな話、依頼の段階では一言も聞いていない。
「そんなもの、聞いてない。救出が最優先だったはずだ」
役人は鼻で笑い、周囲の騎士たちと顔を見合わせた。
「言われなければ分からんのか。あれが今期の予算を支える重要資源だということくらい、少し考えれば察しがつくだろう。貴様がただの肉体労働者だとしても、あまりに想像力が欠如している」
役人の後ろで、救い出されたはずの鉱夫たちさえも、気まずそうに目を逸らしている。
無事に助かったという「結果」が出た瞬間、彼らにとっての優先順位は「命」から「金」へと書き換えられたのだ。
それを知らなかったコウタだけが、今、この場で街の利益を損ねた無能として吊るし上げられている。
コウタは奥歯を噛み締め、崩落し、完全に塞がった坑道の入り口を振り返った。
「今から戻っても、もう埋まっている。無理だ」
「無理だ、ではない。期待していた私が馬鹿だった。自分が頑丈だからといって、他人の切実な事情を軽んじすぎなのだ。この損害、どう責任を取るつもりだ」
腕は震え、膝は今にも折れそうだ。
身体能力を強化していても、精神まで鉄でできているわけではない。
けれど、ここで何を言っても無駄だった。
察せなかったお前が悪いという、後出しのルールが支配するこの場所では。
「了解。すまなかった」
コウタは背を向け、ふらつく足取りで歩き出した。
背中に突き刺さる「無能」「配慮不足」という言葉の礫。
ただ一つ。
この理不尽な世界で、唯一自分の価値を別の形で証明してくれる、あの不謹慎な女の顔だけを思い浮かべながら。
第二話「泥に混ざる毒と酒」
場末の酒場は、安酒の臭いと淀んだ熱気に満ちていた。
扉を開けた瞬間、喧騒が止み、泥まみれのコウタに冷ややかな視線が突き刺さる。
だが、店の一番奥。
カウンターに背を預け、長い足を組んで座る女だけは、隠そうともしない愉悦を瞳に宿していた。
「あら。ずいぶんと汚らしい大型犬が迷い込んできたわね」
カナは琥珀色の液体が揺れるグラスを傾け、唇を吊り上げた。
コウタは一言も返さず、引きずられるようにして彼女の隣の席へ沈み込む。
三日間、何も口にしていなかった。
喉は焼け付くように乾いている。
けれど、差し出されたのは水ではなく、カナが飲み残した度数の高い蒸留酒だった。
「飲みなさい。それで、今回の言い訳は何かしら?」
コウタは黙ってグラスを煽った。
喉を通る灼熱が、思考を無理やり呼び戻す。
コウタは数秒の間を置き、低く掠れた声を出した。
「原石だ。聞いていない荷物を回収しなかったと、役人に詰められた」
カナは短く、突き放すように笑った。
彼女の指先が、コウタの頬にこびりついた乾いた泥を、爪を立てて剥ぎ取っていく。
「当たり前でしょ。あんたは私のことしか見ないように、私が調教したんだから。あいつらが勝手に欲を出して、勝手に怒ってるだけ。そんなの、あんたが知るはずないじゃない」
その言葉は、救いというにはあまりに傲慢で、毒に満ちていた。
だが、騎士団や役人の正論よりも、その理不尽な全肯定のほうが、今のコウタには深く染み渡る。
カナはコウタの髪を乱暴に掴み、至近距離でその瞳を覗き込んだ。
酒の香りに混じって、彼女特有の、胸が苦しくなるような甘い匂いが鼻を突く。
「あんたは私にだけ詰められてればいいの。あいつらの腐った顔、後で私が跡形もなく踏み潰してあげる。だから今は、私の温度だけを感じてなさい」
コウタは抗う力もなく、彼女の肩に頭を預けた。
外の世界では無能の烙印を押されても、この女の毒の中だけは、自分が自分でいられる気がした。
カナが差し出した独り言のような肯定は、刺々しくも、今のコウタには唯一の体温だった。
コウタは空になったグラスを見つめ、苦い唾を飲み込む。
脳裏に浮かぶのは、現場で喚き散らしていたあの役人の顔だ。
マメに連絡しろ。
何かあれば即座に共有しろ。
口を開けば組織論や連携の重要性を説くくせに、いざ自分のこととなると、何一つ実行できやしない。
原石。
その存在を事前に一言、たった一言伝えておくだけで済んだ話だ。
自分の不手際は「多忙による失念」の一言で片付ける。
それでいて、現場がそれを察して動かなければ「無能」のレッテルを貼る。
あいつらにとって、後出しの正義は、自分の無能を隠すための最強の盾なのだ。
「……本当に勝手な連中だ」
コウタの口から、漏れ出すような呟きが溢れた。
カナはその様子を、楽しげに眺めている。
「そうね。世界中が自分勝手で不誠実。でも、だからこそあんたの居場所は、この不誠実な私の腕の中しかないのよ」
カナは追撃するように、新しい酒をコウタのグラスに注いだ。
誠実であろうとすればするほど、不誠実な奴らに食い潰される。
そんな当たり前の事実を、コウタは今さらながら、嫌というほど噛み締めていた。
コウタは、カナの膝に視線を落としたまま、腹の底で渦巻く毒を吐き出した。
思いやりがない。
想像力が足りない。
あいつらは、さも自分が道徳の体現者であるかのようにそう宣う。
だが、一言「助けて欲しい」と言えば済む話だ。
現場で、崩落の恐怖に耐えながら資材を支えている俺に、たった一言「石も大事なんだ」と伝えれば済むだけの話だ。
それを黙っておいて、終わった後になってから「察せなかったお前が冷酷だ」と詰め寄る。
「……エスパーじゃねえんだわ」
低く、地這うような声がコウタの唇から漏れた。
自分たちは何一つ情報を開示せず、相手にだけ完璧な推論と配慮を求める。
それができないと分かった瞬間に、被害者の座に滑り込んで石を投げてくる。
傲慢だ。
自分の不手際を「相手の思いやりのなさ」にすり替えるその神経が、何よりも吐き気がした。
「いいわね、もっと吐き出しなさい。あんたのその、濁った怒りの声を聞くのが一番のつまみだわ」
カナは満足げに目を細め、コウタの喉元を指先でなぞった。
外の世界では、俺が何を言っても「言い訳」にされる。
この女の前だけが、唯一、まともな思考を許される場所だった。
第三話「予算不足という名の盾」
翌朝、コウタは軍の備品倉庫の前に立っていた。
次の任務は、北嶺の街道を塞ぐ巨大な岩亀の排除。
身体強化の能力を持つコウタには、文字通り肉壁となってその突進を止める役割が与えられている。
だが、窓口で差し出されたのは、刃毀れが酷く、今にも折れそうな大剣と、継ぎ接ぎだらけの軽装甲だった。
「これで行けと言うのか。前回の遠征で支給品は新調されるはずだった」
窓口の役人は、書類から目を離さず、鼻で笑うように答えた。
「昨日、君が坑道で原石を回収し損ねただろう。その損失を埋めるために軍の予算が削られたんだ。これでもマシな方を用意してやったんだよ」
昨日の今日で、もう理由が用意されている。
予算がなくなったのは自分のせいだ、と。
だから劣悪な環境で命を張るのが当然だ、と。
コウタは、歪んだ剣の柄を握りしめた。
自分の不手際で予算が組めなかったことを棚に上げ、現場にそのツケを回す。
おまけに、その原因を「お前のせいだ」と後出しで押し付ける。
「この装備で死なれても困るとは思わないのか」
「君なら工夫次第でどうにでもなるだろう。プロなら、限られたリソースで結果を出すのが当たり前だ。それとも何かい、装備が悪いと駄々をこねて、戦線を放棄するつもりか」
役人はようやく顔を上げると、心底見下したような笑みを浮かべた。
一言、最初から予算がないと伝えてくれれば、戦い方を変える準備もできた。
だが、あいつらはいつもギリギリまで隠し、失敗すれば「工夫が足りない」と現場を叩く。
コウタは無言で装備を抱え、背を向けた。
察しろ。
工夫しろ。
思いやりを持て。
自分たちは安全な場所で数字を弄っているだけで、泥を啜る俺たちの苦労など一ミリも想像しようとしない。
コウタの脳裏に、昨夜のカナの冷たい笑い声が蘇る。
ああ、本当にそうだ。
世界中が、自分勝手で吐き気がする。
第四話「無慈悲という名の断罪」
轟音と共に、巨大な岩亀の突進がコウタの掲げた盾に激突した。
衝撃が全身を駆け抜ける。
継ぎ接ぎだらけの軽装甲は悲鳴を上げ、ひび割れた大剣は一撃ごとに火花を散らす。
コウタは身体能力を限界まで引き上げ、泥を蹴り、剥き出しの闘志だけでその巨体を押し返した。
命のやり取りだ。
一瞬の油断が死に直結する。
コウタは荒い呼吸の中で、ようやく岩亀の首筋に剣を叩き込み、その巨体を沈めた。
静寂が訪れる。
肩で息をしながら、コウタが剣を杖代わりにして立ち上がった時だ。
背後で見ていたはずの騎士団の若造たちが、救われた安堵ではなく、怯えと軽蔑の混じった視線を送っていた。
「……なんて、冷酷な戦い方をするんだ」
一人が、震える声で呟いた。
コウタは、自分の耳を疑った。
「……何だと」
「見ていなかったのか? あの亀は、最期に悲しそうな声を上げていた。ただ、自分の住処を守りたかっただけかもしれないのに……。君には、相手の痛みを感じる心がないのか?」
後出し。また、これだ。
戦っている最中は後ろで震えていたくせに、終わった瞬間に「被害者の代弁者」の座に滑り込む。
殺さなければ、今頃こいつらもろとも街道は踏み潰されていたはずだ。
それを、安全が確保された途端に「察してやる心の余裕がなかったのか」と、道徳の高みから石を投げてくる。
「……殺さなければ、お前らが死んでいた。それだけだ」
「結果が全てじゃないだろ! 君が少しでも、あの生き物と対話しようと努力していれば、違う道があったかもしれない。君は強いかもしれないけど、人として大切な何かが欠落しているよ」
欠落。
想像力の欠如。
現場で泥を啜り、血を流して「現実」を処理した人間を、綺麗な言葉で着飾った「理想論」で殴りつける。
エスパーでも聖人君子でもない、ただの男に、神の如き慈悲を後出しで要求する。
コウタは、折れかけた剣を鞘に戻すことさえ忘れ、呆然と立ち尽くした。
あいつらは、俺が命を懸けて守った日常の中で、俺を「冷酷な怪物」に仕立て上げて楽しんでいる。
自分の手は汚さず、守られた恩義さえも「相手の配慮不足」で相殺し、自分たちの繊細な心をアピールする道具にする。
もう、限界だった。
コウタは、震える手で剣を握り直した。
人として大切な何かが欠落している、という言葉が鼓膜にこびりついて離れない。
こいつらは、馬鹿なんじゃないのか。
命のやり取りをしている最中に、相手のバックボーンを想像して手を抜く余裕がどこにある。
それができるというのなら、まず自分一人で解決してから言え。
盾も持たず、剣も抜かず、安全な後方で震えていただけの奴らが、終わった後にだけ「平和的解決の可能性」を語り出す。
自分が無傷で済んだのは、俺が泥を啜って、その「無慈悲な手段」を選んだからだという事実に、なぜ気づかない。
「……………」
反論しようとして、コウタは口を閉ざした。
何を言っても無駄だ。
こいつらにとって、俺の身体強化された肉体は、痛みを感じない便利な機械と同じなのだ。
自分が手を汚さずに済むための舞台装置が、少しでも「美しくない」動きをすれば、それを道徳の欠如だと叩いて悦に浸る。
「対話、か。……だったら次は、あんたが一人であの亀の前に立って、好きなだけ話し合えばいい」
コウタの冷え切った言葉に、若造たちは「なんて身勝手な」とでも言いたげに、さらに軽蔑の表情を深めた。
「君、自分が何を言っているのか分かっているのか? それは責任放棄だぞ」
責任。
あいつらの言う責任とは、常に「俺が我慢して、あいつらに都合のいい結果を察して出し続けること」を指している。
身体の芯が、急速に冷めていくのが分かった。
これまで必死に繋ぎ止めてきた、現場職としての意地という糸が、音を立てて断ち切られた。
第五話「沈黙のストライキ」
数日後。コウタは軍の演習場にいた。
次の任務は、街道沿いに現れた新種の魔物群の掃討。
だが、作戦会議の席で、コウタはいつものように地図を覗き込むことをしなかった。
「コウタ、何をぼうっとしている。さっさと前線に立って、背後の輸送隊を守るんだ。状況を見て、柔軟に対応しろよ」
指揮官の男が、適当な指示を投げ捨てる。
コウタは無表情のまま、男の目をじっと見つめ返した。
「『状況を見て』とは、具体的に何を指しますか。輸送隊の馬が怯えた時のフォローですか。それとも、荷崩れが起きた際の資材回収ですか。明確な指示を箇条書きで出してください」
会議室が、一瞬で凍りついた。
男は顔を赤くし、机を叩く。
「そんなの、現場で察して動くのがプロだろう! いちいち細かく言わせるな!」
「以前、良かれと思って原石を放置し、人を助けたら『想像力が足りない』と叱責されました。また、魔獣を迅速に倒したら『慈悲がない』と断罪されました。私には、皆さんの高度な理想を察する能力がないようです。なので、言われたこと以外は一切やりません」
コウタは淡々と、だが一切の譲歩を排して告げた。
作戦が始まっても、コウタは動かなかった。
「魔物を倒せ」という指示は遂行したが、それだけだ。
すぐ傍で輸送隊の馬車がぬかるみに嵌まっても、助けを求める視線を送られても、コウタは剣を鞘に納めたまま見届けていた。
「スタックした馬車を救え」という指示は受けていないからだ。
「おい! 何を見てるんだ、早く助けろよ!」
泥まみれになった騎士が叫ぶ。
コウタは、冷え切った声で答えた。
「助けた後に、また『助け方が乱暴だ』とか『荷物への配慮が足りない』と後出しで言われるのは御免だ。私は指示された通り、魔物を倒した。それで任務は完了している」
結局、輸送隊は大幅に遅れ、軍の補給計画はガタガタになった。
上層部は激怒し、コウタを問い詰めたが、彼はただ一言、「指示が不十分でした」とだけ返した。
自分たちが「察しろ」という言葉に甘え、どれだけ現場に丸投げしていたか。
そのツケが、今、自分たちの首を絞め始めている。
その夜、酒場の隅でカナが声を上げて笑った。
「いいわ、最高よコウタ。あいつらの顔、見た? 自分が無能だって突きつけられて、泣きそうな顔してたわよ」
コウタは、もう怒りさえ感じていなかった。
ただ、自分を縛り付けていた「善意」という呪いから解放されたような、静かな自由だけがあった。
指揮官の男が「現場で察しろ」と喚き散らしているのを、コウタはどこか遠い場所で起きている出来事のように眺めていた。
あいつらの出す指示なんて、いつも字面通りに受け取れば確実に失敗する。
無茶な納期、現場を無視したルート設定、矛盾だらけの優先順位。
それを、現場の人間が「意訳」して、現実的な形に調整して、ギリギリのところで辻褄を合わせているからこそ、物事が回っているに過ぎない。
そもそも、あいつらが描くような「綺麗な解決」なんて、この泥臭い現場には存在しないのだ。
今までは、その「意訳」という名の善意で、あいつらの無能さをカバーしてやっていた。
だが、あいつらはそれを「当たり前の権利」だと思い込み、あろうことか、調整の結果生じた微細な傷を「配慮不足」と叩き始めた。
「……、意訳するのはもうやめた。あんたらの字面通り、完璧に遂行してやる」
コウタの言葉通り、現場は地獄と化した。
「最短ルートで進め」と言われれば、道中の障害物もろとも強行突破し、結果として後続が通れないほど道が荒れても構わない。
「魔物を一匹残らず消せ」と言われれば、周囲の生態系にどんな影響が出ようと、広範囲を更地にするまで徹底的に破壊する。
字面通りの、完璧な遂行。
これこそがあんたらの望んだ「プロの仕事」だ。
後で「あんなつもりじゃなかった」と泣き言を言われても、もう遅い。
現場の調整という「良心」を捨てた瞬間に、あんたらの机上の空論がどれほど脆弱で有害なものか、その身で味わえばいい。
「コウタ、貴様……! こんな惨状にして、責任をどう取るつもりだ!」
指揮官の叫びを背中で聞きながら、コウタは一度も振り返らなかった。
「指示通りです。文句があるなら、次からはエスパーでも雇うんだな」
これまでは、失敗させないために必死だった。
今は、あいつらの無能さをあいつら自身の目の前に「完璧な形」で叩きつけてやることだけが、コウタの唯一の目的になっていた。
第六話「二人だけの確定事項」
現場の調整を放棄し、字面通りに動いた結果として生じた混乱。
それを指揮官たちは「コウタの悪意ある怠慢」と結論づけた。
数日後、コウタに突きつけられたのは、解雇通知と多額の損害賠償請求だった。
理由は「情緒不安定による任務遂行能力の著しい低下」、そして「組織の調和を乱す反社会的態度」。
あんなに「責任は俺が取る」と豪語していた指揮官は、会議の席で一度もコウタと目を合わせなかった。
自分の指示が不完全だったこと、予算を私物化していたこと。
そんな事実は最初からなかったかのように、全ての泥をコウタ一人に塗りつけて、自分たちの地位を守りきったのだ。
「責任、か。……最後まで、便利な言葉だったな」
コウタは軍の門をくぐり、雨の降る街へと足を踏み出した。
あいつらは結局、何一つ責任なんて取らない。
ただ、都合の悪い存在を「問題児」として切り捨て、自分たちの綺麗な世界を維持するだけだ。
背後から、かつての同僚たちの冷ややかな囁きが聞こえる。
あれだけ助けてやったはずの連中さえ、今は「最初からあいつは危うかった」と、後出しの記憶を上書きして自分を正当化している。
ずぶ濡れで歩き続け、辿り着いたのは、いつもの薄暗い酒場だった。
カナは、まるで全てを予見していたかのように、入り口近くの席でグラスを揺らしていた。
コウタが解雇通知をカウンターに叩きつけると、彼女はそれを一瞥もせず、ただ慈しむように微笑んだ。
「お疲れ様。……やっと、ゴミ溜めから追い出してもらえたわね」
カナは立ち上がり、冷え切ったコウタの首筋に、熱いほど温かい掌を添えた。
「あいつらは今頃、あんたを消したことで『自分たちの正義』が守られたと信じて、祝杯でも挙げているでしょうね。……滑稽だわ。これから先、誰があいつらのクソみたいなミスを拾ってあげるっていうのかしら」
コウタは、カナの細い肩に額を押し当てた。
あいつらは、後からいくらでも理由を作る。
あいつらは、自分だけは絶対に悪くないと信じ続ける。
そんな救いようのない世界で、誠実であろうとした自分が馬鹿だった。
「ねえ、コウタ。もう、誰のことも察してあげる必要はないのよ。……これからは、私の命令だけを聞きなさい。……私の機嫌だけを、その身体能力で守り抜きなさい」
カナの腕が、鎖のようにコウタの背中に回る。
これから世界がどうなろうと、あいつらがどんな悲鳴を上げようと、もう知ったことではない。
コウタはゆっくりと、自分を縛っていた最後の一本の糸を断ち切った。
ただ、この毒のような女の体温だけが、後出しの嘘が通用しない、唯一の確定事項だった。
最終話「自業自得の果て」
解雇から数週間。
あいつらは、コウタという「装置」を外した後の世界が、なし崩しに崩壊していく様をただ呆然と眺めていた。
コウタは何度も進言していた。
現場を維持するための最低限の予算。
物理的な限界を超えた運用の改善。
だが、上層部は「工夫しろ」「今の予算内でやりくりするのがプロだ」と、一蹴し続けてきた。
そうして一切の改善を拒み、放置され続けた歪みが、最悪の形で爆発した。
街道は崩落し、軍の輸送馬車は魔獣の餌食となった。
前線に立つ騎士たちは、コウタが「意訳」して整えていたルートを失い、泥沼に嵌まって全滅の危機に瀕している。
「どうしてだ! なぜ誰も動かない! 誰か、コウタを連れてこい!」
指揮官の男が、書類が散乱した執務室で絶叫した。
だが、その扉を蹴り開けたのは、かつての部下ではなく、完全な「破滅」だった。
「無駄よ。コウタなら今、私の横で美味しいお酒を飲んでいるわ」
カナが、法務官と軍の監査官を連れて現れた。
彼女が机の上にぶちまけたのは、コウタがこれまで提出し、男が「シュレッダー」にかけ続けてきた改善案の写しだ。
「あんた、予算がないって言って、彼の提案を全部無視したわよね。でもおかしいわ。あんたの個人的な別荘の修繕には、軍の『緊急維持費』がたっぷり流用されてるんですって?」
男の顔から、一気に血の気が引いた。
「そ、それは……! 私は責任ある立場として、休息を……!」
「責任? いい言葉ね。自分の責任で決めたことだからいいんだって、あんた昨日の会議でも豪語してたじゃない。かっこいいわね、自己責任。死ぬまでその言葉を抱きしめて、破産しなさい」
カナは冷酷に、男の目の前に「私財差し押さえ命令書」を突きつけた。
あんたが無視し続けた防壁の修繕費用、そして今回の輸送隊全滅の損害。
すべて、あんたの「自己責任」として、私財一銭残らず償ってもらう。
「待て! そんな、私一人で払える金額じゃ……!」
「工夫しなさいよ。あんたが大好きな言葉でしょう? 全財産を失っても、命までは取られないわ。工夫して、その辺の泥でも啜って生き延びなさい」
男が椅子から転げ落ち、カナの足元に縋り付こうとする。
だが、その後ろから、影のようにコウタが現れた。
泥にまみれ、理不尽に耐え続けていた頃の目は、もうどこにもない。
カナが用意した上質な服に身を包み、ただ、虫を見るような冷めた瞳で男を見下ろしている。
「コ、コウタ! 君ならわかってくれるだろ! あの時は仕方がなかったんだ!」
「いいえ、あんた自身の贅沢のためだった。それも『察せ』って言うのか? 悪いが、もうそのサービスは終了したんだ」
コウタは男の腕を、ゴミを払うように一蹴した。
翌日。
かつての後出しの正義の体現者たちは、一文無しとなって軍から放り出された。
彼らが最後に見たのは、かつて自分たちが「無能」と笑い、予算を削って押し付けた「ボロボロの装備」を背負わされ、今度は自分たちが現場の泥濘へと引きずり出されていく光景だった。
「あいつら、本当に最後まで惨めだったわね」
カナは、コウタの腕を自分に引き寄せ、満足げに微笑んだ。
コウタは、窓の外で絶望に暮れる元上司たちの姿を一瞥し、すぐに興味を失って視線を戻した。
改善を拒み、責任を押し付け、善意を食い潰した代償。
それは彼ら自身の人生をもって、ゆっくりと時間をかけて支払われることになる。
「……そうだな。もう、どうでもいい」
コウタは、カナが差し出したグラスを受け取った。
理不尽な世界は、勝手に自爆して崩壊していけばいい。
この閉ざされた静寂の中で、カナの毒に身を浸している今だけが、コウタにとっての揺るぎない現実だった。
エピローグ「毒と抱擁」
狂乱の夜が明け、静まり返ったカナの屋敷。
コウタはバルコニーから、かつて自分が守ろうとしていた街を眺めていた。
軍は崩壊し、あの役人たちは今頃、自分の吐いた言葉の棘に刺されてのたうち回っている。
復讐は終わった。
だが、コウタの胸に残ったのは、勝利の凱歌ではなく、空虚な沈黙だった。
背後から、衣擦れの音が聞こえる。
カナが、そっとコウタの背中に体重を預けてきた。
「カナ」
「なあに、私の可愛い騎士様」
コウタは、自分の大きく無骨な手を見つめた。
この手で、どれだけの不条理を「意訳」して、どれだけの理不尽を飲み込んできたか。
結局、自分にできたのは、ボロボロになるまで耐えて、最後はすべてを放り出すことだけだった。
「俺は結局、自分一人じゃ何もできなかった」
掠れた声が、夜の空気に溶けていく。
「あいつらに一矢報いることも、自分の正しさを証明することも。全部、お前がやってくれた。俺はただ、動けなくなって、お前に拾われただけだ」
コウタは自嘲気味に息を吐き、視線を落とす。
現場での誇りも、ハンターとしての意地も、あのゴミ溜めのような組織に使い潰された。
残ったのは、空っぽになった自分だけだ。
「ありがとう」
初めて口にする、掠れた、だが心からの言葉。
カナは、コウタの背中に顔を埋めたまま、くすくすと低く笑った。
その笑い声は、勝利を祝うものではなく、待ちわびた獲物を手に入れた歓喜の色をしていた。
「そうよ。あんたは何もできなかった。ボロボロになって、私に泣きつくことしかできなかった。……それが最高なのよ、コウタ」
カナの手が、コウタの胸元を強く掴む。
「感謝なんて、言葉にしなくていい。あんたのその、何もかも失って私しか見えなくなった瞳が、一番の報酬なんだから」
コウタはゆっくりと振り返り、カナを抱きしめ返した。
正しくあろうと足掻いた結果、すべてを失った自分。
そんな自分を、「何もないからいい」と全肯定するこの毒が、今のコウタには何よりも救いだった。
「そうだな。俺にはもう、お前しかいない」
外の世界では、また誰かが「正論」という名の嘘を吐き、誰かが「察しろ」という名の責任放棄をしているだろう。
だが、この腕の中にある温もりだけは、嘘を吐かない。
コウタは目を閉じ、甘やかな絶望と共に、自分を救ってくれた「毒」の中に深く深く沈んでいった。
アンサーストーリー「女王の謀略と、拾われた声」
カナは、決して「偶然」の女ではなかった。酒場でコウタの愚痴を聞き流す彼女の頭脳は、常に冷徹な計算を続けていた。彼女の手元には、軍の汚職の証拠、握り潰された改善提案、そしてコウタが「無能」の烙印を押されるすべての瞬間が、記録として蓄積されていた。
かつてのカナは、法務省監査局の理想主義者だった。自らも「後出しの正義」に潰された女である。彼女が命を懸けて提出した危険予測は「予算がない」と一蹴され、その結果、輸送隊は全滅した。彼女を信じた現場の人間が責任を擦り付けられるのを、ただ見つめるしかなかった。
その時、カナの中の「正義」は死んだ。
そして、「見てる人は見てる」という幻想も、一緒に葬り去った。
しかし、彼女が情報の海を泳ぐ中で拾い上げたのは、権力者の醜悪さだけではなかった。いくつもの、かすかで、届かず、しかし確かに存在する「小さな光」もまた、彼女の網にかかった。
· コウタを庇おうとして怒鳴られ、それでも密かに資料を隠し持った若い事務官。
· 「あいつが全部被るなんておかしい」と、震える手で内部告発のメモをしたためた名もなき同僚。
· コウタの改善案をシュレッダーにかける上司の背中で、唇を噛みしめていた秘書。
届かなかった善意。握りつぶされた声。
それらは組織の壁に跳ね返され、決してコウタの耳には届かない。だが、カナはそれらを「すべて拾った」。
「……見てる人は、見てるのね。でも、届かなければ意味がない」
彼女は悟った。この世界で善意が意味を持つには、届ける「力」と、受け取る「器」が歪んでいてはダメだ。そして今のコウタは、まだ「善意」という綺麗事に縛られ、再び食い潰されるだけの器でしかない。
だからこそ、彼女は決断した。
潰された自らの理想(翼)を、今度は「獲物」を囲い込む檻に変え、
届かなかった他者の善意を、今度は「復讐」の武器に鍛え直す、と。
コウタへの執着は、単なる独占欲ではない。彼は、カナ自身が失った「誠実に世界と向き合う可能性」の残滓だ。彼を救うことは、かつて救えなかった自分自身と、あの日の輸送隊を救うことに等しい。しかし、もう綺麗事では救えない。この「後出しの正義」が支配する世界では、「後出しの悪意」で対抗するしかない。
彼女の謀略の資金と人脈の一部は、実はコウタを密かに思う者たちの「静かな協力」によって支えられていた。彼らはカナという「汚れた刃」に、自分たちの届かぬ祈りを託したのだ。
カナはそれをコウタに決して語らない。「あんたを思う人はいた」――そんな甘い言葉を呑ませれば、彼はまた「誰かのために」立ち上がり、同じ泥沼に沈む。彼にはもう、その必要はない。
雨の夜、ボロボロで彼女の元へ辿り着いたコウタを見て、カナは思った。
「やっと、私のものになった」
「そして、私が、お前を、あの日のみんなを、救ってみせる」
彼女が仕掛けた冷酷な復讐劇は、コウタを奪還するためであると同時に、声を奪われたすべての者の「代行復讐」でもあった。世界が残酷であるほど、彼女の腕の中だけが、歪み、毒ではあるが、確かな「確実」となる。
眠るコウタの髪を撫でながら、カナは小さく呟いた。
「あんたは一人じゃなかったわよ。ただ……この世界が、優しさを届けるのが、下手すぎただけ」
彼女は、届かなかったすべての声を、自らの「悪意」という器に注ぎ込み、コウタという「獲物」を永遠に守る聖域を、こうして手に入れたのだった。




