その3 ユースタスは騙されていた
知らせを聞いて、アニエーゼは直ぐタウンハウスに戻った。カミーユとアイヴァンも同行した。テッドも一緒に来たがったが、まだ授業中だったので断念した。
「お兄様は無事なのですか?」
リビングルームで父親を見つけると、アニエーゼは詰め寄った。
近衛騎士団の総司令官の任についているジェラルド・ペラン公爵も知らせを受けて急遽帰宅していた。公爵は赤毛にハシバミ色の瞳の四十代、ユースタスとアニエーゼは揃ってペラン家の血を濃く引いている。公爵夫人ジーナは金髪で、サファイアの瞳を潤ませながら、ジェラルドの横に座っていた。
「ああ、身体的には問題はない、ただ、記憶を失っているらしい」
ジェラルドは沈痛な面持ちで言った。
「記憶を?!」
アニエーゼは驚きのあまり言葉が続かない。ショックを受けている彼女の肩にアイヴァンがそっと手を添えた。
「だから五年十カ月も戻らなかった、いえ、戻れなかったのですね。じゃあ、どうして見つかったのです?」
カミーユの問いに、ジェラルドは答えた。
「ブライス伯爵領の領都の祭りで、喧嘩に巻き込まれて逮捕されたのだ」
「ブライス領と言えば、ペラン領の隣じゃ」
「そうだ、裁判にかけられたところ、たまたま派遣された判事がユースタスのことを知っているエルリック判事だったんだ。彼とは昔から懇意にしているし、ユースタスを見間違えるはずはない。ユアンと名乗る平民だが、五年十カ月以前の記憶がないと聞いて、間違いないと保護してくれたのだ」
「それで兄様は!」
「今、こちらへ向かっている」
学生時代最後の夏、行方不明になったユースタスが五年十カ月ぶりに戻って来る。それは家族、友人たちにとって大きな喜びだった。たとえ記憶を失っていても、家族や友人に会えば、きっと思い出せるに違いない。また、元のユースタスに戻ると、その時は誰もが思った。
しかし……。
ユースタスはすっかり別人のようになっていた。
そして一人ではなかった。妻子を連れていた。
* * *
「凄ーい! アンタ、こんなお屋敷のお坊ちゃまだったのね」
玄関に着いた馬車から降りるなり、ロザンヌは屋敷を見上げながら感嘆の声を上げた。手入れしていない栗色の髪に焦げ茶色の瞳、肉体労働者らしい日に焼けた肌の、肉感的な肢体の女性だった。
手を引かれている三歳の息子コリンは、母親と同じ栗色の髪に、父親譲りのハシバミ色の瞳の三歳の男の子。ポカンと口を開けて、大きな屋敷を見上げていた。
「お前も今日からこの家のお坊ちゃまだよ」
ロザンヌのテンションはマックス、子供よりもはしゃいでいた。
最後に降り立ったユースタスは不安げに屋敷の玄関を見ていた。そこにはペラン家の家族、ジェラルド・ペラン公爵とその夫人ジーナ、娘のアニエーゼと婚約者アイヴァン、友人のカミーユが待ち構えていた。
ユースタスにとっては、誰も見覚えがない他人である。
「ユースタス!」
ジーナが愛しい息子に駆け寄り抱きしめた。
「ああ、本当にユースタスなのね、よく、顔を見せて、こんなにやつれて、さぞ苦労したのでしょうね」
「あなたは……母上なのですか?」
「私を見ても思い出せないなんて!」
ジーナは反応が薄いユースタスの胸に顔をうずめて肩を震わせた。
その肩に手を添えたほうがいいのか、ユースタスは迷った。
「ユアンのお母様ですね、あたしは妻のロザンヌです、今日からお世話になります」
ユースタスは記憶喪失時代ユアンと呼ばれていた。
ジーナが向ける蔑んだ目に、有頂天のロザンヌは気付いていない。
「あの女、何か勘違いをしているようだ」
ジェラルドが呟いた。彼は妻子がいるのを知っていたようだ。アニエーゼは聞かされていなかったのか愕然としている。
そして、カミーユも自分を見ても無反応なユースタスを見て、涙がこみ上げるのを堪えていた。
「おじ様、あの女は」
「とにかく中へ、説明する」
落ち着かない様子のユースタスにジーナがずっと寄り添っていた。それが余計に居心地悪くしているようだが、五年十カ月間も待ち続けた愛息との再会、離れられないのも無理はないだろう。
妻と名乗る女は物珍しそうに室内を見渡して、息子だという三歳男児ははしゃいで駆け回っていたが、
「湯あみの用意が出来ております、旅の汚れを落としてから、お食事にいたしましょう。どうぞ、こちらへ」
侍女が有無も言わさずにロザンヌとコリンを別室へ連れて行った。
ユースタスは不安そうに見送ったが、付き添っているジーナに腕をガッチリ掴まれているので追えなかった。
その他は応接室へと入った。
ジェラルドは眉間にしわを寄せて厳しい表情、息子との再会を喜んでいるようには見えなかった。カミーユは状況がわからずに困惑していた。彼は家族ではない部外者だが、ペラン家とバートレット家は昔から懇意にしており、二人は幼馴染、ジェラルドも幼い頃からカミーユを可愛がっていたので同席を許された。
アニエーゼはまだ兄妹の名乗りを上げることも出来ずに固まっていた。無理もない、五年十カ月ぶりに再会した兄は、すっかり別人になっていたのだ。いつも堂々としていて、明るい笑顔が似合うユースタスはおらず、そこにはオドオドと視線を泳がせている農民のユアンがいた。
感動の再会とはいかなかった。
「ここへ戻って、懐かしい面々と顔を合わせても、なにも思い出せないようだな」
ジェラルドが残念そうにユースタスに目をやった。
ユースタスは鋭い視線から逃れるように俯いた。
「お兄様、私のこともわからないんですか? アニエーゼです、妹です」
必死な訴えに、顔を上げたユースタスの瞳が不安に揺れる。
「記憶喪失は本当だったのだな、まるで別人だ」
「あなた、そんな言い方は! ユースタスがやっと戻ったのに、嬉しくないんですか? もっと優しい言葉をかけてあげられないのですか」
「この状況ではな」
ユースタスは遠慮がちに口を開いた。
「ちゃんとした説明もなく、訳がわからないまま連れてこられたんです、混乱しますよ」
「お前の妻と言う女はわかっていたようだがな、お前が貴族だと知っていた様子だぞ」
ジェラルドの含みがある言葉にユースタスは余計に混乱した。
「そんなはずは、俺は平民で……」
「お前の本当の名前はユースタス、ペラン公爵家の嫡男だ、五年十カ月前、行方不明になった私の息子だ」
「五年十カ月前……俺は川に落ちて生死の境を彷徨っていたらしいです。でも、ロザンヌが俺を看病してくれたから助かったんだ」
「なぜ、彼女は病院へ連れて行かなかったのだ? 役所に届け出なかったんだ?」
「それは……村から領都までは馬車で半日もかかるし、医者に診せる金もなかったと……」
「記憶がなかったのなら、なぜ自分の身元を調べようとしなかったんだ? ちゃんと保護を求めていれば、もっと早く発見できたのに」
「元気になった時にはもうロザンヌと夫婦として生活していたし……疑問にも思わなかった」
「あの女はお前になんと言っていたんだ?」
「……わからない、思い出せない」
ユースタスは苦痛に顔を歪めた。
「あなた、ユースタスはまだ混乱したままなのよ、五年以上経つのにまだ記憶が戻らないんですもの、無理もないわ」
苦しそうなユースタスをシーナが気遣った。
「俺は、これからどうなるんです?」
「決まっているでしょ、家に戻ったのよ、ここで暮らすに決まっているじゃない、ちゃんとお医者様に診てもらって治療すれば、記憶も戻るかもしれないわ」
「あの女はどうするつもりです?」
カミーユは冷静に、ジェラルドに尋ねた。
「今、現地で詳しい調査をしている。ちょうど、ジュディス嬢とアンソニー殿が別件の調査でブライス領内に向かったんだ、入れ違いになってしまったが、ユースタスのことも調べてくれるようだ」
「それでジュディスは来てなかったの、ユースタスの婚約者なのに」
「婚約者? 俺の?」
「そうよ、ジュディスはあなたの婚約者、五年十カ月ずっとあなたを待ち続けているのよ」
「婚約を白紙に戻すことを何度も勧めたのよ、でも、ユースタスは必ず無事に戻ると信じて、貴族令嬢としての婚期を逃しても解消しなかった、今もあなたの婚約者よ、そしてあなたの手がかりが掴めればと、王宮調査室で勤務しているの」
「でも、俺にはもう妻が」
「だからあの女はどうするか聞いたのよ」
「あの女と結婚したのはユアンと言う平民だ、公爵令息のユースタスではない。高位貴族の婚姻には王家の承認が必要だ、ユースタスはまだ結婚していないことになる」
ジェラルドが言った。
「やはり、そう言うことですか」
「そう言うことって、どう言うことなんです、俺はロザリアと結婚していて息子までいるんですよ」
「俺、が誰なのか、これから考えて決める必要がある」
ジェラルドの口調は一貫して厳しいものだった。
「なにを言っているのかわからない」
「お前はこれから決めなければならないってことだ、ユースタス・ペランに戻るか、平民ユアンのままでいて、あの犯罪者と共に過ごすことを選ぶか」
「犯罪者?」
「そうだろ、お前を騙して拘束したんだ、失踪した時、お前はまだ誕生日を迎えていなかったから十七歳の未成年だった。それを夫と偽ったんだ。誘拐罪に問える」
「命の恩人なんですよ」
「そうだな、しかし、その後がいかん、当時お前の捜索は大々的に行われた。王宮騎士団、公安警察も、王家の影まで動いたし、私も私財を投入し人を雇って捜し続けていたんだ、あの女がお前を騙して隠さなければ、見つけられたはずだ」
「俺は、騙されていたと」
「あなた、そんなに一度に話をしても混乱するだけよ、時間をかけてゆっくり考えさせたほうがいいわ」
「そうだな、今日はここまでにしよう」




