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愛の連続小説「おもてさん」第二部・第四話 一歩を踏み出す事ができたら

【1】


三月から四月にかけては銀座も慌ただしくなる。

浮ついたような、気もそぞろな雰囲気が漂う。


企業も官庁も学校も、大規模な人事異動のシーズンだからだ。

3月31日付で去る人。

4月1日付で来たる人。

出世を喜ぶ人。

夢にまた一歩近づいた人。

夢を挫かれた人。

黙って去る人の背中には「追うな。聞くな」と書いてある。


本人だけの問題ではない。

転居を伴う人事異動は家族全体の問題だ。

子どもたちにとってすら、転校を伴うイベントとなる。

昭和40年代には単身赴任なる言葉は一般的ではなかった。

あれは昭和50年代以降の話。

NHKが特集番組を組むほどの「社会問題」だったのだ。


そして、一年のうちで、この時にしか見られない、新卒採用された若者たちの輝くような顔、顔、顔。

これは昭和でも平成でも令和でも変わらない。

若者たちの歩みと希望に幸多かれ。


これら全ての人の動きが、銀座の客入りに響くと言う訳でもない。

そもそも自営業者や文化人には縁のない、ただのカレンダー上のできごとにすぎないのだが、夜の蝶のホステスたちですら、何となく明るい戸外に迷い出てしまうような、誰かに誘惑でもされているような、落ち着かない心地がするのである。


桜の花は街を彩り、そしてアッと言う間に散って行く。

木々の緑が闇のように重く、濃くなって行く五月の初旬、街はようやく落ち着きを取りもどす。


【2】


こう言った、ふわふわした陽気の中で、久満子もまた心の中にガラス球が転がるような、落ち着かない思いを持て余していた。


室内のカレンダーには何も記入されていない。

いや、久満子のビジネス手帳にすら記されていないのだが、心の中には「4月某日」と言う日付が、ひと目を忍ぶように、ひっそりと、だが、くっきりとマーキングされていた。


4月某日、X大学・神田駿河台校舎で、聴衆も自由に発言できる参加型シンポジウムが始まる。

その初日の分科会の一つに「アンドレイ・タルコフスキーの映画に見る現代社会主義国家における倫理の問題」なる、いかにも大学らしいテーマ名が見える。


基調講演者は、助教授・銀田一好助。

かつて新聞社主催の文化講演会で一度だけ見掛けた新進気鋭のロシア文学者だ。


あの時も、こんな浮ついた陽気の日だった。すこし雨もよいの夕暮れ。心を奪われそうな逢魔が時。


たまたま講演会に出席していた久満子は、最初は「大学教授なる珍しい生き物でも見てやろう」ぐらいの軽い気持ちだった。

講演のテーマはチェーホフの生涯と作品に関するもので、分かりやすくはあるが、さほどの新味は感じられないものだった。

講演者の銀田一好助は特に男前と言う訳でもなかった。

身に付けている服装・服飾品は「垢抜けていない」と言った方が良かった。

ただ、何かの使命感に追われている人間に特有のひたむきさと、そして哀愁を感じさせた。

絵に描いたような「知的エリート」だったのである。

小娘たちには軽く見られても、マダム層にはウケがいい。そう言うタイプだった。

久満子も、そのマダム層の一人だった。

銀座の遊興客とは違う知性と品格を感じた。


久満子の店には著名な文化人や学識者も訪れる。だが、彼らの目的は飲酒だ。

どんなに酒の飲み方がきれいな客でも、来た時とは違う人間になって帰って行く。

では、銀田一好助はどうか?


「あれは私の店には置きどころのない男だな」と久満子は思った。

そんな事を考える自分にビックリした。

久満子は、自分の見込み客にも敵にもなりそうにない男には興味を持てない、実際的な女だったからだ。


「じゃあ、あの男を、私の心のどこに置けばいいんだろう。」


その答えが出せないまま、「4月某日」は刻々と近づきつつあった。

手に余る宿題を抱え、親や教師の目を恐れて、オロオロするばかりの小学生のような気持ちだった。

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