いとしこのよる
雨風が吹き荒ぶ。
普段は穏やかな川が、何の変哲もなかった道路が、濁流に犯され、呑まれ、形をなくす。人は己の身に振りかかった不幸を「嵐」であるかのように表現するが、容赦なく苛み、呑み込み、存在ごと掻き消そうとする嵐は確かに、不幸そのものなのかもしれない。
呑まれてしまえば、自分の姿形すら思い出せなくなる。……それを実感して、いかに自分が世界にとって矮小な存在かということを、嘆くより外ない。
そんな中、まだ呑まれていないブロック塀の角に立ち、この嵐の中、傘一つで佇む奇妙な存在があった。
「あーあ、誰が泣かしたンだい?」
女にしては低く、男にしては高い声。この豪雨に晒されながら、妖艶できらびやかな着物はつゆも濡れておらず。濃紫の爪紅を塗ったその存在が「ニンゲンではない」ことが伝わってくる。
藤紫の口紅が、蒼白い肌をいっそう蒼く見せた。傘とは名ばかりの用無しの物品をからりと回す。鮮やかな唐紅が、ぴっと雨粒を飛ばした。
「そうかい、そうかい」
誰の応えもなかっただろうに、奇妙な存在は頷き、漆黒の目を閉じる。祈るように、味わうように。
傘は手放さないが、彼女はナニカを迎え入れるように手を広げる。
「カワイソウにねェ」
愛おしむように、慈しむように。それでいて、愚かしさを嗤うような色が、その表情にはあった。
雨風が吹き荒ぶ。けれど、
誰かの腕に抱かれ、その温みに安堵したかのように、雨脚は次第に弱まり、嵐は鎮められる。
それでも、風だけは居残り、ナニモノかの声を象るように、ビュウゥゥだとか、コオォウォウだとか、叫び続ける。
泣き続ける。
それを、慰めるように、嘲笑うように。
「嗚呼、お前サンはカワイイねェ」
奇妙なヒトは、傘を捨てた。




