2.繋いだ手と花火(2)
昼休憩、結菜は居心地の悪さを感じながら弁当を食べていた。目の前には結菜と同じく弁当を広げた綾音の姿。これはいつも通りだ。しかし、今日はもう一つ机がくっつけられている。
「じゃあ綾音は、松岡さんと幼なじみなの?」
その声に視線を向ける。陽菜乃がパンを食べながら綾音に問いかけていた。
「まあ、そうかな。家も近いしね」
「へえ。じゃあ、赤ちゃんの頃から一緒とか?」
「いや。結菜は引っ越してきたから。小四の時に……。あれ、小三だっけ?」
綾音が眉を寄せて結菜を見てきた。結菜はため息を吐きながら「小三の終わり。小四の始まり」と答える。
「……つまり?」
首を傾げる陽菜乃に綾音は「三月末ってことかな」と笑った。陽菜乃は納得したのか頷く。
「ずいぶんとギリギリの引越だったんだね」
「まあね」
結菜は短く答えると唐揚げを口に放り込んだ。
「おい、結菜。なんか態度悪いぞ」
「うっさいな」
「うっさくないだろ。なんで不機嫌なんだよ。せっかく陽菜乃と一緒にご飯食べてるのに」
「……もうお互いに名前呼び」
箸をくわえながら結菜は口の中で呟いていた。綾音は怪訝そうに首を傾げる。
「なに」
「別に。ただ、なんというか綾音のコミュ力の高さに引いてるだけ」
「なんだよ、それ」
綾音は眉を寄せながらご飯を口に運んでいる。
「あー、もしかしてヤキモチだったり?」
そんなことを言う陽菜乃に結菜は視線を向ける。綾音のコミュ力の高さは昔からのことなので別に今更なんとも思わない。問題は、この陽菜乃の態度だ。
「松岡さん?」
――海では呼び捨てだったくせに。
結菜は陽菜乃を睨んでやる。
彼女は困ったような表情を浮かべて「別に綾音をとったりなんてしないから」とわけのわからないことを言ってくる。
「待って、陽菜乃。まるでわたしが結菜のモノみたいな言い方はやめて?」
「ああ、ごめん。だって二人はすごく仲が良いってミチちゃんたちからも聞いてたから。いつも学校では一緒にいるって」
「あー、まあ一緒のクラスだしなぁ」
「でも登下校は別だよね。家も近いのに。なんで?」
「なんでって……」
綾音は結菜に視線を向けてきた。思わず結菜も見返すと、彼女はスッと視線を逸らして「別に理由はないけど」と誤魔化すように笑った。
「なんとなくだよ、なんとなく。帰りは、ほら、結菜はバイトしてるし」
「毎日じゃないよね?」
「まー、そうなんだけど……。わたしは部活とかあるしさ」
綾音は言いながら視線を俯かせる。結菜はそんな彼女をじっと見つめていた。
中学まではたしかに一緒に登下校していた。けれど、その頃にはすでに綾音とは距離ができていたように思う。
どこでそう感じたのかよくわからない。しかし綾音の結菜に対する態度には僅かな違和感があり、それは三年の間にほんの少しずつ、しかし確実に大きくなっていった。
そして高校に入学してから彼女はいつも遅刻寸前の時間帯に登校するようになった。結菜が決してその時間帯に登校しないことを知っていながら。
「――それより、陽菜乃はアメリカに行く前はどこに住んでたの?」
綾音は結菜の視線を避けるように陽菜乃に顔を向けた。
「この街だよ」
「え、そうなの?」
陽菜乃の答えに結菜は思わず反応してしまう。陽菜乃は笑って「なんでそんな意外そうなの」と首を傾げる。
「いや、そりゃ意外でしょ。もっと都会出身なんだと思ってた。ね、結菜?」
「うん、まあ……」
「といっても、この街にいたのも半年くらいだけどね」
「ああ、どうりで」
綾音は納得したように頷く。
「この辺りに住んでたなら見覚えあるはずだよなぁと思ってさ。陽菜乃くらいの美人なら他校だったとしても有名になってそうだし」
「そんなことないと思うけど……」
「またまた、ご謙遜を」
綾音が笑う。陽菜乃も笑う。その中に結菜は入っていけない。
一緒になって笑えばいいのに、それができない。
モソモソと弁当を平らげていきながら結菜は次第に視線を俯かせていく。
綾音の笑顔も、陽菜乃の笑顔も見たくはなかった。
せっかくカナエが作ってくれた弁当の味がしない。
居心地が悪い。
二人の楽しそうな会話を聞いていると息が詰まってくる。
胸が苦しくなってくる。
――なんだこれ。
わからない。自分のことなのに、よくわからない。ただ早くこの場から離れてしまいたい。そうすればきっと楽になれるはず。
何かの話題で盛り上がる二人の楽しそうな声が耳に響く。心に刺さる。結菜は短く息を吐き出すと食べることを止めた。そして箸をケースに収め、急いで弁当の蓋を閉める。
「――結菜?」
綾音の不思議そうな声が聞こえる。しかし結菜は視線を向けることもせずに立ち上がった。
「ちょっとトイレ」
「いや、トイレって食事中に――」
結菜は綾音の言葉を聞き流しながら廊下へ向かう。そのとき陽菜乃が結菜へ視線を向けていることに気がついた。一瞬だけ見えた彼女の顔は、なぜかとても不安そうだった。
――なんであんな顔してたんだろ。
廊下を目的もなく歩きながら結菜は考える。そしてどうして自分はあの場から逃げ出してしまったのか、その理由も。しかし、どちらも答えは出ない。
ただ、一人になって息苦しさも居心地の悪さもなくなったのは事実だ。結菜はフゥと息を吐きながら廊下の窓から外へ視線を向けた。
昼休憩はまだあと少し残っている。トイレに行ったところで時間が潰せるとは思えない。窓の向こうには体育館が見える。あの裏なら人もいないのではないだろうか。
結菜は思いながら階段を降り始めた。
階段には昼休憩の緩んだ空気が広がっていた。友人たちと話しながらどこかへ向かっている者、食堂から戻ってきた者、立ち話をしている者。
そんな生徒たちの間をすり抜けて結菜は体育館へ向かう。体育館の中にもまた生徒たちの姿があった。
結菜はぐるりと体育館の周りを歩いて裏手へと移動した。そこには落ち着いた空間が広がっている。微かに聞こえるのは体育館の中で遊ぶ生徒たちの声とボールの音だけだ。
「――やった。誰もいない」
呟きながら歩道用に作られたコンクリートの上に座る。
ひやりと冷たい感触。しかし、頭上から注がれる秋の優しい日差しが心地良い。視界の先には、あまり手入れされていない雑木林。
――これで海が見えたら最高なのに。
しかし、それはそれでここは生徒たちの絶好の休憩場所になってしまうだろう。それでは結菜の休息場所がなくなってしまう。そんなことを考えながら体育館の壁に背をつけて空を仰いた。
まるで水彩画のように縮れた雲が空に浮かんでいる。そよぐ風は少し冷たい。
結菜はぼんやりと空を見つめる。
耳の奥には綾音と陽菜乃の笑い声が残っていた。目を閉じると二人が楽しそうに顔を見合わせている姿。
それを思い出すと再び心が苦しくなってくる。
どうして自分も二人のように笑えなかったのだろう。
別に陽菜乃と一緒に食事をするのが嫌だったわけじゃない。
話題が嫌だったわけでもない。
会話に入っていけなかったわけでもない。
ただ、あの二人のように笑えない自分が嫌だったのだ。
楽しく会話ができない自分が嫌だった。
――なんで?
なんで笑えなかったのだろう。
なんで会話ができなかったのだろう。
なんで……。
結菜は空を見つめたまま、ため息を吐いた。
「なんでだろうなぁ」
「ほんと、なんでだよ」
ふいに声が聞こえて結菜はそちらに視線を向ける。そこには綾音が息を切らせてこちらにやって来る姿があった。
「マジ、なんでこんなとこにいるんだっての」
彼女はそう言いながら結菜の前に立つと「トイレはどうした、トイレは」と不満そうに腰に手を当てて言った。
「あー、日向ぼっこが気持ちよさそうで」
「自由か」
綾音は困ったように笑みを浮かべると、わずかに眉を寄せた。結菜のことを心配するときに見せる、あの表情だ。
「なんか、ごめんね。結菜」
なぜ綾音が謝るのかわからなくて結菜は「何が?」と首を傾げる。
「いや、なんか嫌だったのかなと思って」
「えっと、何が?」
さらに首を傾げると綾音は「いやいや。それをわたしに聞かれてもだな」と困ったように頬を掻いた。そしてため息を吐くと空を見上げる。
「たしかに、日向ぼっこにちょうどいい場所だねぇ。めっちゃ天気良いし」
「うん」
しかし、今の結菜に日差しは届いていない。
結菜は視線を俯かせると地面に手を伸ばす。そこには秋の日差しが作り出した綾音の影が伸びていた。
彼女の足元から、まるで結菜を覆い隠すかのように伸びた影。
結菜はそっと地面に映る彼女の手に自分の手を重ねてみる。昔、よくこうして手を繋いでいたように。しかし、地面に映った彼女の手はサッと逃げてしまった。
「あ……」
「何してんの?」
綾音の不思議そうな声。顔を上げると、彼女は薄く笑みを浮かべながら結菜に手を差し伸べていた。
「戻ろうよ。もうすぐ休憩も終わるし」
「……そうだね」
結菜は頷き、彼女の手に自分の手を重ねる。その手を綾音はグイッと引っ張った。思ったより勢いがついてしまい、結菜はよろけながら立ち上がる。
「鈍くさいなぁ、結菜は」
「綾音が馬鹿力のせい」
言いながら結菜は綾音の手を両手で掴んでいた。
温かくて柔らかな手は、昔と変わっていない。なんだかこうしていると安心してしまうのはなぜだろう。
「……結菜」
「んー?」
綾音の手の感触を確かめながら結菜は答える。
「んー、じゃなくて。何でわたしの手を揉んでるのかな?」
「いやー、綾音の手を握るのっていつ振りだったかなぁと思って。小学校以来?」
「手を握られた記憶はないぞ」
「えー、よく手を繋いで一緒に学校行ってたじゃん」
「……そうかもね。てか、そろそろ良くない? くすぐったいんだけど」
綾音は困惑した表情で手を引っ込めようとした。その手を結菜は両手で握りしめる。
「ちょ、結菜?」
「――なんで、一緒に学校行かなくなったんだろうね」
「は?」
結菜はじっと綾音の顔を見つめる。彼女は困惑した表情のまま視線を泳がせた。そして「わたしが朝起きられないからでしょ」と小さな声で言う。
「中学までは親が起こしてくれてたんだけど、さすがにもう面倒見切れないって言われちゃってさ」
ヘラッと綾音は笑みを浮かべた。しかし、視線は合わない。結菜はそんな彼女の顔を見つめ、そしてパッと手を放した。
「夜更かしするのが良くないんだよ。どうせ毎日遅くまで動画とか見てんでしょ」
言いながら結菜は校舎に向かって歩き出す。
「まあ、それは否定しないけど。だけど勉強もしてんだからね」
後ろからついてくる綾音の声には、どこか安堵の色が混じっていた。
「似合わないなぁ、綾音が勉強って」
「なんでだよ。てか、結菜もちゃんと勉強しろって」
「してるでしょ。ちゃんとテストだって一夜漬けでなんとか」
「それは勉強してるとは言わない」
「じゃ、次のテスト前は綾音に教えてもらう」
「……まあ、いいけど」
急に綾音の声のトーンが変わった。結菜は不思議に思いながら振り返る。すると綾音は自分の右手を見つめながら結菜の数歩後ろを歩いていた。
それは、さっきまで結菜が握っていた方の手。
「綾音?」
呼びかけると彼女はハッとしたように顔を上げてニッと笑みを浮かべる。
「教室戻ったら陽菜乃にちゃんと謝れよ」
「え、なんで」
「失礼でしょうよ。楽しい食事中にいきなりトイレに立つなんて」
「日向ぼっこだったけど」
「いや、問題はそこじゃないから。陽菜乃、あんたの唐突な行動にびっくりしてたんだからね。あの子も転校してきたばっかで色々と気を遣ったりしてんだから、あんたもちょっとは気を遣えというか社交的になれというかなんというか、つまり――」
「はいはい。とりあえず謝っとく」
「そう。それでいい」
綾音は結菜の頭をポンッと叩くと並んで歩き出した。その横顔は、もういつも通りだ。
――そういえば。
歩きながら結菜は思う。どうしてこの場所がわかったのだろう。気まぐれであそこへ行ったのに。
探してくれたのだろうか。
結菜が行きそうな場所を、あんなに息を切らせて走って探してくれたのか。
――わたしのために。
「結菜」
考えていると綾音が引き気味の表情で結菜の名を呼んだ。
「なに」
「なにってこっちが聞きたいわ。ニヤついててキモい」
「……うるさい」
結菜は表情を引き締めると教室に入った。陽菜乃はすでに自分の席へと戻っていた。彼女は結菜を見るとわずかに表情を強ばらせる。
――なんで、そんな顔するんだろう。
さっきと同じようなことを思う。海で会う彼女とは別人のような表情。それはまるで何かに怯えた子供のような顔。
結菜はまっすぐに陽菜乃の席へ向かうと彼女の前に立った。陽菜乃は結菜を見上げながら「あの、松岡さん。ごめんね」となぜか謝る。
「え、いや、こっちが謝ろうと思ってたのに」
結菜が言うと彼女は目を見開いて「え、なんで?」と呟くように言う。
「なんでって……。なんで?」
結菜は綾音を振り返った。綾音は額に手をあてて深くため息を吐くと結菜の肩を力一杯叩いて顔を寄せてくる。
「痛いな。いきなり何すんの」
「わたしの自由すぎる行動で驚かせてしまってごめんなさい、陽菜乃。はい、復唱」
耳元で綾音が低い声で言う。結菜は軽くため息を吐いて「はいはい」と、戸惑った様子の陽菜乃に視線を向けた。
「わたしの自由すぎる行動で驚かせてしまってごめんなさい」
「陽菜乃が抜けてる」
「――ひ、陽菜乃」
なんとなく照れ臭くなって視線を逸らしながら結菜は言う。するとフッと笑ったような声が聞こえた。
「なんだ。よかった。わたしが何か怒らせるようなことしたのかと思った」
陽菜乃は安堵したように笑う。
「まあ、そういうわけだから陽菜乃は気にしないで? こいつがちょっとアレなだけだからさ」
「アレってなんだよ」
「アレはアレでしょ。ねえ?」
綾音が事の次第を見守っていたミチたちに同意を求めた。ミチたちは揃って困ったような笑顔で誤魔化している。結菜はため息を吐いて「まあ、じゃあ、わたしがアレってことみたいだから」と陽菜乃に笑みを向ける。
「ごめんね」
「あ、うん」
陽菜乃が頷くのを確認して結菜は自分の席に戻った。綾音はまだミチや陽菜乃たちと話している。結菜はその声を聞きながらぼんやりと窓の外に視線を向けた。
もう、息苦しさも居心地の悪さも感じない。
胸の苦しみもない。
平気だ。
やがてチャイムが鳴って綾音が結菜の前の席に戻ってきた。
彼女は無言で結菜に笑みを向けるとポンッと頭を軽く撫でて椅子に座る。結菜は自然と微笑みながら授業の準備を始めた。