1.月明かりの下で(5)
放課後になると結菜はそのままバイトへと向かった。昨日、シフトに入っていなかったのは幸いだった。
バイト先は夫婦で経営している定食屋だ。小さなお店だが人気があるため、いきなり休むようなことはしたくない。スマホにはカナエから今日は無理せず帰らせてもらえとメッセージが入っていたが、それはできない。
しっかりと勤務を終えた結菜は少し冷たい空気の中、自転車を漕いでいた。
――今日は、どうしようかな。
ゆっくりペダルを踏みながら考える。
また、海へ行ってみようか。
しかし早く帰らなければカナエに怒られるかもしれない。バイトもしっかりしてしまったわけだし。だけど、海へ行けばまた会えるかもしれない。
彼女に……。
「ちょっとだけ」
自分に言い訳をするように呟いて結菜は海に続く道へ自転車を走らせた。
何を期待しているのかよくわからない。
速川陽菜乃が彼女であることを確かめたいのだろうか。いや、この気持ちはそれだけではないような気もする。
よく、わからない。
わからないけれど、ペダルを踏み込む足には力が入っていた。
やがて海が見えてきた。結菜は自然と砂浜に視線を向ける。そしてブレーキを握った。
「いるじゃん」
思わず呟く。弱い月明かりに照らされた浜辺には、制服姿の少女がぽつんと座っていた。結菜はそっと自転車を降りると砂浜へ向かう。
砂に乗せたスニーカーがギュッと音を立てた。それでも波打ち際に近い場所に座る彼女は振り向かない。彼女は足を抱えるようにして暗い海を見つめているようだった。
近づけば、少しずつ彼女の表情が見えてくる。雲が晴れたのか月明かりが強くなった。スッと照らされた彼女の横顔を見て結菜は自然と足を止めていた。
悲しそうで寂しそうな、そんな横顔。
まるでそこだけ切り取られた別世界のような、そんな光景。
とても声をかけることなどできなかった。
このまま帰ってしまおう。
そう思って踵を返そうとしたとき、ザッと砂を蹴り上げてしまった。瞬間、彼女が振り返る。
「……いつからいたの?」
彼女はじっと結菜を睨むようにして見つめてからポツリと言った。
「さっきから。今、バイトの帰りで」
「そう」
言って彼女は自分の隣をポンポンと叩いた。座れということだろう。
「制服、砂だらけにならない?」
「ずぶ濡れよりマシ」
「……たしかに」
結菜は頷き、彼女の隣に腰を下ろした。彼女は再び海の方へ視線を向けている。ザッと波が押し寄せる音が響いた。
「速川さん、だよね?」
訊ねると、彼女はチラリと視線を結菜に向けてから「まさか、今日の今日でもう名前忘れた?」とため息を吐いた。
「んなわけないでしょ。でも、なんで学校で初めましてなんて――」
「忘れるって言ったから」
「え……?」
陽菜乃は結菜を見ると柔らかく微笑んだ。
「ここでのことは、忘れるってあなたが言ったから」
「ああ、まあ」
言ったけど、と結菜は彼女から視線を逸らして両足を抱え込んだ。そして深いため息を吐く。
「なに、辛気くさい。ここではデトックスするんじゃなかったの」
「誰のせいだよ」
「誰のせい?」
微笑みながら彼女は首を傾げる。結菜はさらに深いため息を吐いてから「あのさ」と膝に頬杖をついて陽菜乃を見た。
「色々と聞きたいことがあるんだけど」
「いいよ。わたしも聞きたいことがあるし」
結菜は眉を寄せる。
「なに?」
「先にそっちからどうぞ」
結菜と同じように膝に頬杖をついて彼女は笑みを浮かべたまま言う。
「……なんで名前、知ってたの」
「名前、あなたが教えてくれたでしょ」
「じゃなくて、一昨日の夜だよ。別れ際に――」
「ああ、キスの後にお別れの挨拶したね。たしかに」
結菜は思わずドキッとしてしまう。瞬間的にそのときのことがまた蘇ってくる。しかし彼女は平然とした様子で「書いてあったんだもん」と続けた。
「書いて……?」
「タオルに名前。可愛い字で結菜って」
それを聞いて結菜は脱力して膝に額をつけた。カナエの仕業である。
彼女はなぜか結菜の持ち物に名前を書きたがるのだ。長年やめてくれと言い続けて最近はようやくそういうこともなくなったのだが、どうやら彼女に渡したタオルはその被害に遭っていたようだ。
普通に恥ずかしい。
顔が赤くなるのを感じながら、恥ずかしついでに「じゃあ――」と口を開いた。
「なんでキスしたの」
膝に額をつけたまま答えを待つ。ドキドキと心臓が鳴っている。ザーッと波が押し寄せてくる音が聞こえる。その音に混じって秋の虫の声も静かに響いていた。
「――したかったから」
小さな声が聞こえた。
結菜はそっと顔を上げて彼女を見る。陽菜乃は海を見つめていた。
「は? なにそれ。誰でもよかったってこと? あ、あれか。アメリカ帰りだから向こうの習慣とかそういうこと?」
思わず早口でまくし立てると彼女は笑って「違うよ」と結菜を見た。
「アメリカでもわたしが通ってたのは日本学校だったし。三年しかいなかったんだから、そこまで向こうの文化に慣れたりしないって」
「じゃあなんで! したかったとか、ちょっと意味わかんないんだけど」
「ファーストキスだった?」
いたずらっ子のような顔で彼女は首を傾げる。結菜は彼女を睨みつけると「帰る」と立ち上がった。
「え、待って! 待ってよ!」
慌てた様子で陽菜乃は結菜の手を掴んだ。
「ごめんね。ごめん。怒らせるつもりはなくて……。怒らないで」
結菜の手にすがるようにしながら陽菜乃は項垂れてしまった。
「別に冗談であんなことしたわけでもなくて、ただわたしもよくわからなくて」
「……なにそれ」
「あのとき、びしょ濡れになってるあなたが月明かりですごく綺麗に見えて、キスしたいって思っちゃって」
「綺麗って……。それも冗談か何か? わたしをからかって遊ぼうとしてる?」
「冗談でキスなんかしない」
陽菜乃は顔を上げ、結菜を真っ直ぐに見つめながら言った。結菜はそんな彼女を冷たく見下ろす。
「したくなったらするのに?」
「嫌だったのなら謝る。ごめん。ほんとに、ごめん。だから怒らないでよ」
子供のように泣きそうな顔で彼女は言う。結菜はため息を吐くと、空いている方の手で頭を掻いた。そして「それで、なに?」と彼女に聞いた。
陽菜乃は意味がわからなかったらしく、きょとんとした表情を浮かべている。
「聞きたいことあるんでしょ?」
「あ、うん」
彼女は想い出したように頷くと、結菜の手を掴んでいる手にグッと力を込めて顔を俯かせた。
「なんで来なかったの?」
結菜は少し考えてから首を傾げる。
「え、何が?」
「だから!」
彼女は顔を上げて「昨日、なんで来なかったの?」と続けた。結菜はしばらく彼女を見つめるとさらに首を傾げた。
「いや、風邪引いてたし」
「え……?」
「熱で学校も早退して、ずっと寝てたんだけど」
「え、そうなの。大丈夫?」
「まあ……。そもそも、わたし別に毎日ここに来るわけじゃ――」
もしかして彼女は待っていたのだろうか。
昨日もここで、一人で。
ギュッと握られた手は冷たい。そういえば、どうして彼女はまだ制服なのだろう。鞄もそこに投げるようにして置かれている。
学校が終わってから、ずっとここにいたのだろうか。
――どうして。
考えていると、彼女は「そうなんだ……」と残念そうに呟いた。
「じゃ、いつ来るの?」
「気が向いたら」
「ふうん」
わかった、と彼女は考えるように頷いた。なんとなく彼女の考えが見えてしまって結菜はため息を吐く。
「ウソだよ。だいたいバイト終わりに来るの。土、日は固定でシフト入ってるから、必ずここ通るよ」
「ああ、通り道なんだ?」
「まあね」
実際のところは、遠回りだが通り道であることは違いない。結菜は頷いてから「だから毎日ここに来ようなんて馬鹿なことは考えないでよ?」と続けた。すると彼女は一瞬目を見開き、そして微笑んだ。
「バレたか」
「見えちゃったよ、あんたの考え」
結菜は軽く息を吐くと「ていうかさ」とニヤリと笑みを浮かべた。
「そんなにわたしに会いたいんだ?」
「うん。会いたい」
からかうつもりで言った言葉に、彼女は嬉しそうな微笑みを返してきた。その笑顔があまりにも無垢で、結菜は思わず顔が熱くなるのを感じる。
「な、なんで……?」
「楽しいから。ここで、あなたとこうして二人で過ごすのが」
「学校じゃダメなわけ?」
「ダメだよ。ここでないと、ダメ」
「なんで?」
「だって、ここで起きた事は全部忘れるんでしょ? 嫌なことも、面倒なことも、好きとか嫌いとかそういう感情も、何もかも」
「まあ、そうだね」
正確には忘れられそうな気がする、と結菜は言ったのだ。実際に何もかも忘れられるわけがない。
現に結菜は一昨日の出来事でずっとモヤモヤしてしまっていたのだから。しかし、彼女にはそんな結菜の気持ちは伝わっていないらしい。
「だから、ここじゃないとダメ。ここで、あなたと一緒にいるのがいい」
結菜はじっと彼女の顔を見つめる。
「……わたしと楽しく過ごした時間を忘れたいってこと?」
そう訊ねると、彼女は少しだけ考えるように眉を寄せてから「怒った?」と困ったように微笑んだ。結菜は深くため息を吐く。
「別に怒ってないけど、あんたの言ってることがまったく理解できない。もう帰るわ」
「やっぱり怒ってるじゃん」
「じゃなくて、わたしこう見えても病み上がりなの。早く帰らないと怒られるんだって」
「ああ……」
陽菜乃は納得したように頷いたが、しかし結菜の手を放そうとしない。
「あんたも帰れば? てか、なんで一緒にびしょ濡れになったのにあんただけ元気なわけ? 昨日もここにいたんでしょ?」
すると陽菜乃はニヤリと笑って「結菜が軟弱なだけじゃない?」と言った。
「これでも滅多に風邪引かないと評判の健康体ですが」
結菜は彼女を睨むように見下ろすと「ほら、さっさと立って。帰るよ」と彼女の手を引っ張った。
「わっ……」
陽菜乃は驚いたような声を出して立ち上がる。そしてポツリと「馬鹿力」と呟く。
「何か聞こえた気がする」
「気のせいでしょ。行こ」
言って彼女は鞄を拾い上げると、なぜか手を繋いだまま砂浜を歩き出す。
ザーッと穏やかな波の音に混じって砂を踏む微かな音が聞こえる。
結菜と陽菜乃は何も言わず、ただ手を繋いで歩き続けた。
いつも一人で来ていた海に誰かと一緒にいる。
何も考えず、全てを忘れようと来ていた場所で新しい感情や想いが生まれていく。それでも心地良く感じるのが不思議だった。
結菜は歩きながら横目で陽菜乃を見る。彼女はどこか嬉しそうな表情で足元を見ながら歩いていた。
さっきまで冷たかった彼女の手は、いつの間にか温かい。
「……チャリ乗ってく? 家、遠くないなら送っていくけど」
あと一歩で砂浜から上がってしまう。そこで結菜は足を止めて聞いてみた。しかし、彼女は「ううん。一人で帰るから」と答えた。
「そう」
「うん」
なんとなく二人とも立ち止まったまま顔を見合わせる。そして、先に手を放したのは陽菜乃だった。
「じゃ、帰るね」
言って彼女は一歩、道路へと進んだ。そして結菜を振り返ると「さよなら、松岡さん」と言い残してさっさと歩き去って行く。振り返りもしない。
「……謎だ」
結菜はため息を吐きながら砂浜から上がって自転車へ向かった。
まったく彼女の考えていることが理解できない。結局キスしてきた理由も、どうしてここで結菜のことを待っていたのかも、よくわからないまま。
だけどはっきりしていることが、ただ一つ。
「そんなに会いたいのか。わたしに」
自転車に跨がってペダルに足を乗せながら結菜は呟く。そして自分の手を見つめた。
まだ陽菜乃の手の温もりが残っている。
――うん、会いたい。
そう言った陽菜乃の笑顔がふいに蘇り、結菜は再び顔を赤らめた。
全身が熱くなり、なんだかとても嬉しい気持ちになってしまうのは何故だろう。
「なんだ、これ」
顔を手で覆いながら結菜はため息を吐くと夜空を見上げた。すっかり雲が晴れた夜空には無数の星たちがいつもと変わらぬ輝きを放っている。
「……もう少し、海眺めてから帰ろう」
一人呟きながら結菜は自転車を降りると、誰もいなくなった浜辺へと戻っていった。