エピローグ
陽菜乃のいない日々は穏やかに過ぎ、季節は目まぐるしく変わっていった。それでも結菜の生活は変わらない。
学校では綾音やミチと過ごし、バイトが終われば海へ行く。そこに陽菜乃の姿がないことはわかっている。それでも結菜は陽菜乃がいた頃と変わらず、バイトが終われば浜辺に座って海を眺めた。
忘れるためではない。
忘れないために。
陽菜乃と連絡は取り合っている。しかし時差があるので顔を見て話すことは実際のところあまりできなかった。SNSをやってみても結局は時差のせいでリアルタイムでやりとりをすることはできない。
陽菜乃がアメリカに行ってしまってから数ヶ月。試行錯誤して落ち着いた連絡方法はメールだった。
一日一往復のやりとり。
最初は空だったメールのフォルダは陽菜乃の言葉で溢れていく。
その日あったこと、感じたこと、伝えたいこと。
一通、また一通と増えるごとに結菜の気持ちは温かくなった。離れていても繋がっている。そんな気持ちが強くなる。
そして陽菜乃の言葉が詰まったメールが百通を超えた頃、季節は再び冬を迎えていた。
「結菜、今日はバイト?」
隣の席で綾音が部活の準備をしながら聞く。結菜は頷いた。
「今月は少し頑張っておきたくて」
「へー、どうして?」
後ろからミチがやってくる。二年になっても結局二人とクラスが離れることはなかった。きっと三年になったら陽菜乃も含めて四人で同じクラスになるだろうとミチは根拠もなく信じている。
結菜は鞄を肩に掛けながら「お母さんがね、お父さんのところに戻ってくるんだ」と答えた。
「ああ、今月だっけ」
綾音が納得したように頷く。ミチは首を傾げた。
「お墓が一緒になるの?」
「うん。四月になる前にっておばさんとおじいちゃんが親族の人の説得とか手続きを頑張ってくれて」
「なんで四月までに?」
「お父さんが眠ってるところね、春は桜がすごくきれいなの。お父さんもお母さんもお花見が好きだったから」
「へえ、そうなんだ」
ミチは微笑む。結菜は頷き「わたしも一緒にお花見しようと思ってさ。桜が咲いてる間はできるだけ通いたくて」
「なるほど。それで交通費稼ぐんだ?」
「うん。それくらいは自分で出したいし」
しかし、それなりに距離があるので往復の交通費はかなりの出費だ。他に欲しい物もあるし、貯金もしたい。もう少しシフトを増やしてもらえないか店長に頼んでみようか。
そんなことを考えていると綾音が軽く笑った。
「お父さんが、なんで今までは命日しか会いに来なかったのに母さんが来たらよく来るんだって怒らない?」
「怒るかも」
結菜は苦笑する。
「怒られないように、お父さんが好きなおまんじゅうも買っていくよ」
「それがいいね」
綾音は笑ってからふと思い出したように「そういえばさ。陽菜乃っていつ戻ってくるの?」と言った。
「……さあ、いつだろ」
「え、連絡とってるんでしょ?」
「うん。でもそういう話は全然してなくて」
「まさか、戻ってこられなくなったとか……痛っ」
神妙な面持ちで言ったミチの後頭部を綾音が軽く叩いた。
「なにすんの、綾音」
「いや、なんとなく」
「理不尽じゃない?」
そのとき、廊下から綾音を呼ぶ声が聞こえた。どうやら部活仲間のようだ。
「じゃ、また明日ね」
綾音は言って軽く手を振ると廊下へ出て行く。
「……綾音、最近部活頑張ってるよね」
綾音に叩かれた後頭部を撫でながらミチが呟くように言った。
「あー。なんか、今度の試合で勝ったら良いことあるらしいよ」
「ふうん。良いこと……。ん。良いこと? いや、まさかねぇ」
ミチは眉を寄せながら首を傾げる。
「え、なに。何か知ってるの?」
結菜が聞くと彼女は「いやー、前にさ」と苦笑する。
「二年最後の試合で勝ったら好きなところに連れて行ってあげるって言ったんだよね。綾音が最近は松岡さんがバイトばっかでつまんないって連呼してたから」
「ああ……」
たしかに年が明けてからはバイトのシフトを少し増やしたので綾音やミチと遊ぶ時間は取れていなかった。
「それで綾音頑張ってるんだ?」
「いや、それが理由かどうかはわかんないけど。どっか行きたい場所でもあるのかな。わたし、実はあんまりお小遣いないんだけど。貯金下ろしとこうかな」
心配そうに言うミチを結菜はマジマジと見つめる。彼女は「え、なに?」と首を傾げた。
「ミチはさ、綾音が好きなの?」
一瞬、ミチの動きが止まった。そして慌てた様子で「は? いや、なにいきなり。え、なんで?」と顔を赤くする。
「なんとなく……。だって、ミチって行動の基準が綾音のことが多いからさ」
「いやいやいや、なに言ってんの。違うよ、それは」
「去年、台風の日にわたしと一緒に帰ってくれたのだって綾音に頼まれたからだったでしょ? クリスマスの日だって綾音の言うこと素直に聞いてたし。ていうか、ミチって綾音のことよく見てるよね」
結菜が言っている間に、ミチの顔は真っ赤になってしまった。彼女は「いやだから、違うから!」と強く言うと「えっと、じゃ、帰るね! 違うからね!」と不自然な別れの挨拶をして勢いよく教室を出て行った。
「……別に照れることないのに」
結菜は呟き、そして微笑む。
きっと綾音はミチの気持ちには気づいていないだろう。以前の結菜が綾音の気持ちに気づいていなかったように。
それでもいつか綾音にも大切な人ができるはずだ。悩むことだってあるはず。そのときは笑顔で綾音の背中を押してあげたい。彼女がそうしてくれたように。
結菜は強く心に想いながら教室を出た。すでに生徒の姿は少ない。昇降口が近づくと外の空気が吹き込んできているのか、冷たい風を感じた。
もうすぐ三月も半分が終わる。
昨日、陽菜乃から届いたメールにもいつこちらへ戻ってくるのかということは書かれていなかった。しかし、陽菜乃は必ず戻ってくる。
根拠もなくそう思えるのは彼女がこの一年間、ずっと頑張っていたことを知っているから。
陽菜乃は約束を破ったりはしない。
絶対に、戻ってくる。
「――いつになるのかくらいは知りたいけど」
ぽつりと呟き、結菜は駐輪場から自転車を出してバイトへと向かった。
バイト先である定食屋は、年末年始や春先には団体の予約が入る。そんなときは店は貸切となり定食屋は飲み屋へと変わった。
今日もまた、団体客の予約が入って送別会が開かれていた。
今月は団体客の予約が多い。そんな会話を耳にした結菜はここぞとばかりにシフトを増やしてもらえないか交渉したのだった。おかげで今月のお給料は普段よりかなり良さそうだ。
ホクホクした気持ちで自転車を漕いで結菜はいつもの道を走る。
冷たい空気の中に混じる潮の香り。
懐かしい香り。
切ない香り。
そして心が穏やかになる香り。
ここに来れば陽菜乃と過ごした時間をたくさん思い出すことができる。
陽菜乃と会うまではすべての気持ちを忘れるために来ていた海は、今ではすべての気持ちを思い出すための場所になっていた。
やがて波音が聞こえてきた頃、結菜は自転車のスピードを落として海へと視線を向ける。
いつもと変わらない穏やかな海。しかし、ふといつもと違う光景に気づく。いつもは真っ暗であるはずの砂浜に薄く灯りが見えるのだ。それは月明かりが反射したような、そんな灯りではない。とても懐かしい、柔らかくも儚い灯り。
結菜は急いで自転車のペダルを漕ぐと、砂浜へと続く階段の前に止めた。そしてあらためて砂浜を見つめる。
「……人がいる」
呟きながら結菜はゆっくりと階段を降りた。
波打ち際に人影が見える。
細身ですらりとした長身の少女だ。
微かに風に揺れた長い髪が月明かりにキラキラと輝いて見える。
――ああ、今日って満月だ。
ふとそんなことを思う。寄せては返す波の音が響く砂浜に佇んでいた少女は、結菜がザッと砂に足を取られた音に気づいて振り返った。
淡い月明かりに照らされた彼女の微笑みは、とても綺麗だった。
まるで夢でも見ているようだ。だって愛しい笑顔がそこにある。
結菜は足を止めて彼女を見つめた。
周囲を淡く照らしているのは波打ち際に置かれた懐かしい小さなランタンだった。ザーッと寄せてきた波が彼女の足をのみ込むように濡らしては引いていく。彼女はスニーカーごと海に浸かっていた。
それを見て結菜はフフッと笑いながら首を傾げた。
「またキーホルダー落としたの?」
すると少女も同じように笑う。
「だって結菜、待っててくれなかったじゃん」
愛しい声に結菜はさらに笑みを浮かべる。
「なにそれ」
「メッセ、くれたでしょ?」
陽菜乃がスマホを取り出して軽く振った。それは真新しい機種だった。結菜はハッと思い出して自分のスマホを見る。二時間ほど前にメッセージが一件送られてきている。開いたそれは、この一年間ずっと動いていなかった陽菜乃とのトーク画面だ。
あの日、結菜が送ったメッセージにはいつの間にか既読の文字がついている。そしてその下には返信の一言。
『今から行くね』
「ちゃんと送ったのに、待っててくれなかった」
少しふて腐れたように彼女は言って「だから」と続ける。
「あのときみたいに海に入ってたら、結菜来てくれるかなと思って」
「今日、わたしが来なかったらどうするつもりだったわけ?」
結菜は苦笑しながら彼女に近づく。
「来てくれたじゃん」
「なんで教えてくれなかったの?」
ザブッと足が冷たい水に浸かる。スニーカーが濡れて歩きづらい。それでも構わず結菜は陽菜乃の方へと足を進める。
「結菜の驚く顔が見たくて」
「満足した?」
「んー、イマイチ。結菜、全然驚いた感じしない」
「驚いたよ。充分」
結菜はため息を吐きながら陽菜乃の前に立った。そして互いに微笑みながら見つめ合うとどちらともなく腕を伸ばして違いの身体を抱きしめる。
「お帰り、陽菜乃」
「うん。ただいま、結菜」
陽菜乃の身体は温かくて、その甘い香りはとても懐かしくて愛しい。そこに陽菜乃がいるのだと確かめるように結菜はギュッと強く抱きしめる。すると陽菜乃がフフッと息を吐くようにして笑った。
「ん、なに?」
「結菜、美味しい匂いがする」
「あー、バイト帰りだから」
「結菜の匂いって感じで安心する」
「待って。わたしってそういう匂いなの?」
「ここで会うときはね」
「……そっか。いつもバイト帰りだったもんね。ここで会うときは」
結菜は微笑み、そっと彼女の身体を離した。
「ねえ、結菜。初詣行った?」
「ううん。行ってない」
「じゃあ明日、行かない?」
「また絵馬書くの?」
「絵の練習してきたから、今度は大丈夫」
陽菜乃の言葉に結菜は声を上げて笑う。
「わかった。行こう。他にもたくさん、いろんなところに一緒に行こうよ」
「うん。これからいっぱい覚えきれないくらいの思い出作ろうね」
陽菜乃が額をくっつけながら嬉しそうに笑う。
「向こうにいるときずっと考えてたんだ。結菜とやりたいこと。たくさんありすぎて時間がいくらあっても足りないよ?」
「いいよ。全部やろう。だって――」
「だって?」
結菜は少し彼女から顔を離すと、その澄んだ綺麗な瞳を見つめた。
「――これからはずっと一緒にいてくれるんでしょ?」
陽菜乃は柔らかく微笑み、そして「もちろん」と頷いた。
「大好きだよ、結菜」
「うん。わたしも好きだよ、陽菜乃」
「えー、大好きじゃないの?」
「――わかるでしょ」
少し顔を赤くした結菜の言葉に陽菜乃は嬉しそうに笑う。
「結菜ってば、相変わらず素直じゃないね」
「陽菜乃は相変わらず――」
「相変わらず?」
陽菜乃が不思議そうに首を傾げる。まっすぐに結菜を見つめる瞳は吸い込まれそうなほど深い色をしている。その中に感じる、結菜への真っ直ぐな想い。
――綺麗。
結菜は陽菜乃の瞳を見つめて頬に手をあてる。陽菜乃は嬉しそうに目を細めた。そんな彼女に結菜は微笑み、そっと口づけをする。
――大好きだよ。
彼女への気持ちが伝わるようにすべての想いを込めたキスは愛しくて切ない、海の香りがした。




