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8.未来の思い出(9)

 一月十五日。まだ日も昇っていない時間帯。結菜は制服を着て自室の姿見の前に立っていた。髪はいつもより念入りに梳かした。制服もアイロンをかけて皺を伸ばしたので、問題ないだろう。


「結菜ちゃん、準備できた?」


 階下から聞こえたカナエの声に結菜は部屋を出ると一階に降りてリビングへ行く。そこにはなぜかソファに座る綾音の姿があった。

 彼女は結菜に気づくとニッと笑って片手を挙げる。


「お、結菜。おはよう」

「いや、なんでいるの? いま何時だかわかってる?」


 結菜が苦笑すると、彼女は「朝の五時だね」と笑った。


「なんか目が覚めちゃってさ。緊張してるのかも」

「なんで綾音が緊張するの」

「だって、結菜がお母さんに会いに行く日だから」


 綾音は言って少し心配そうに結菜を見つめる。結菜は彼女を安心させるように笑みを向けた。


「平気だよ。わたしは」


 すると綾音は「みたいだね」と息を吐くようにして笑った。


「結菜ちゃん、そろそろ出てようか。タクシー、もう来ると思うから」

「わかった」


 支度を終えたカナエに結菜は頷いて玄関へ向かう。カナエは先に靴を履くと玄関に荷物を置いて外に出て行った。

 開けられたドアの向こうには、しんと静まりかえった住宅街が広がっている。エンジンの音はない。タクシーはまだ到着していないようだ。


「結菜」


 靴を履いていると、後ろから綾音の遠慮がちな声が聞こえた。


「その、今日だよね」


 何が、とは聞かない。彼女が言いたいことはわかっている。結菜は頷いた。


「いいの?」

「……うん」


 結菜は頷いて振り返る。綾音は何か言いたそうに結菜のことを見つめていた。


「陽菜乃に出発の日を聞いたときから見送りはいらないって言われてるから」

「でもさ――」

「知らないし。何時の飛行機なのか」

「え……」

「大丈夫だよ」


 結菜は微笑む。


「一年経てばまた会える。それに昨日の夜、たくさん話したから」


 あの海で、いつもと変わらない二人のまま他愛もない話をたくさんした。最後の夜だとは思えないほど、穏やかな気持ちで。

 クリスマスイブの夜から今日まで陽菜乃と過ごせた日はたしかに少なかったが、それでもたくさんの思い出ができた。

 クリスマスの初詣では陽菜乃と一緒に絵馬を書いた。二人とも絵馬など書いたこともなかったので、どう書けばいいのかわからない。結果、そこには願い事ではなく二人の大切なものを描いた。陽菜乃曰く、絵馬なのだから絵で描くもの、なのだそうだ。

 そこに二人で描いたものを思い出して結菜は思わず笑みを浮かべてしまう。


「なに笑ってんの」


 綾音が不思議そうに首を傾げる。結菜は「なんでもない」と小さく息を吐いて手に持った鞄を見下ろした。そこにはフラミンゴのキーホルダーが揺れている。

 絵馬にはこのキーホルダーを描いたのだ。陽菜乃と結菜の大切なものだから。もっとも、二人とも絵心がないということが発覚しただけだったが。

 そのときに結菜が陽菜乃と同じキーホルダーを新しく買ったのだと伝えると彼女はとても嬉しそうに笑ってくれた。その笑顔が温かく心に残っている。


「ま、たしかに大丈夫そうだね。安心した」

「うん。ありがとう」


 素直に礼を言うと綾音は照れたように視線を結菜の肩越しに向けた。


「まだタクシー来ない?」


 振り返った先ではスマホを気にしながらカナエが立っている。


「そうみたい。お願いした時間にはまだ少し早いからね。おばさん、緊張してるみたいで昨日の夜からずっとソワソワしてんの」

「いや、結菜が落ち着きすぎなんだよ」


 綾音も靴を履いて結菜の隣に立つ。


「なんか、寂しいな」

「何が?」

「結菜がちゃんと一人で立ってるから。わたしの出番、これからはあんまりなさそう」


 結菜は思わず綾音を見る。彼女は微笑んでいた。


「強くなったね」

「綾音の頭突きのおかげかな」


 すると彼女は吹き出すようにして笑った。


「愛の頭突きだったからね。気合い入ったでしょ?」

「必要だよ」


 結菜が言うと彼女は不思議そうに「何が?」と首を傾げた。


「そうやってわたしに気合いを入れてくれる綾音が必要」

「――ほんと、強くなったよ。結菜は」

「綾音だって、そうじゃん?」

「わたしは元々強い子だから」

「そうだね。そんな綾音に頼られるような強い人間になりたいんだ、わたしは。それで綾音に何かあったら助けになりたい」

「……そんなこと言ってると陽菜乃がヤキモチ焼くんじゃない?」

「そうかも」

「それは勘弁して。陽菜乃、怒るとけっこう怖そうだから」


 綾音は苦笑する。そして思い出したように「そういえば結局、どうだった? 陽菜乃」と言った。


「ん、何?」

「バイト先に行くって言ってたじゃん。わたしに対抗心燃やして」

「ああ」


 結菜は笑って頷いた。


「来た」

「へえ、どうだった?」

「どうって、別に……。普通に食事しただけ。わたしも忙しかったから注文聞いて料理運んだくらいで。陽菜乃も別に話しかけてこなかったし……。あ、でも」


 結菜はその日のことを思い出して首を傾げる。


「そのあと海でいつもみたいにお喋りしてたんだけど、ちょっと変だったな。陽菜乃の様子」

「変?」

「んー。なんか、ぎこちなかった。目も合わせてくれなかったし」

「それはきっと、アレだね」

「どれ?」

「恥ずかしかったんじゃん?」

「え、なにが」

「結菜のバイト姿」

「……全然意味わかんないけど」

「だって結菜ってバイトの時エプロンしてるじゃん。普段の結菜からは想像も出来ない、すごい可愛いやつ。あれバイトの制服じゃないでしょ」

「ああ、あれは奥さんの趣味で……。それが?」


 すると綾音は深くため息を吐いた。


「そういうところはもう少し成長の余地ありだね。結菜」


 結菜は眉を寄せて「ほんと意味わかんないんだけど」とさらに首を傾げる。綾音は首を横に振って視線を前方に向けた。


「あ、来たみたいだよ。タクシー」


 見ると、門の前に停まったタクシーの運転席にカナエが駆け寄るところだった。結菜は玄関に置かれたカナエの荷物を持って綾音と一緒に外に出ると、玄関の鍵を掛ける。


「じゃ、行ってくるね。綾音」

「気をつけて。お母さんによろしくね」

「――うん」


 結菜は頷き、カナエに荷物を手渡してタクシーに乗り込んだ。


「綾音ちゃん、本当に良い子ね」


 走り出したタクシーの車内でカナエが少し後ろを振り向きながら呟いた。結菜も振り向く。そこには綾音が一人、タクシーを見送る姿がある。


「ちょっと心配性だよね」


 結菜が言うとカナエは「わたしは綾音ちゃんの気持ち、わかっちゃうけどな」と微笑んだ。


「おばさんが?」

「うん。だって少し前の結菜ちゃんなら、きっとこんなに落ちついてなかったと思うから」


 カナエの言葉に結菜は「そうかも」と頷く。


「だからまだちょっと心配なんだよ。今までの結菜ちゃんのことをよく知ってるから」

「……うん」

「でも、今はわたしの方が緊張しちゃってるかも」


 カナエは軽く声を出して笑った。結菜も彼女の横顔を見て笑う。


「たしかに。顔、ちょっと引きつってるよ。目の下にクマもできてる」

「え、うそ。本当に? ちゃんとメイクしたのに」

「少し眠ったら? タクシー、新幹線が出る駅まで行くんだよね?」


 新幹線の駅までは鈍行を乗り継いで一時間三十分ほど。しかしこの時間帯の電車は少なく、乗り継ぎまでの待ち時間もあるため、タクシーで行くことにしたのだ。到着までの時間は大して変わらない。仮眠するには程よい時間だろう。

 カナエは眠そうに眉を寄せて「じゃあ、そうしようかな」と目を閉じるとそのまま静かになった。どうやらすぐに眠りに落ちたようだ。よほど眠かったのだろう。

 結菜は窓の向こうに視線を向ける。

 静かな冬の朝。

 街はまだ眠りについたままのようだ。タクシーが走る国道から海は見えない。ただ人のいない街並みが続くだけ。

 車内には小さな音量でラジオが流れていた。落ち着いたテンポの名も知らぬ曲を聴きながら結菜はスマホを手にする。そしてロック画面を見て微笑んだ。

 そこには不格好な鳥の姿をしたキーホルダーの絵が表示されている。陽菜乃と一緒に描いた絵馬だ。改めて見ても二人とも絵心がない。これを見てフラミンゴのキーホルダーだと分かるのは結菜と陽菜乃だけだろう。

 スマホの画面を見つめていると、そこにメッセージの通知が表示された。結菜は思わず目を見開く。陽菜乃からだ。


『もう出発した?』


 開いたそこには、まるで昨日の会話の続きのようにそんな言葉が届いていた。


『したよ。今、タクシー。そっちは?』

『準備中』


 結菜は微笑み、返信する。


『本当に? こんな早朝から準備してんの?』


 すると既読からしばらく返信がない。不思議に思いながらトーク画面を眺めていると画像が送られてきた。それは見慣れた場所。しかし、見たことのない光景。


『向こうに持っていく思い出を収めてるところ。ちょっと違うでしょ? いつもの景色と』

『ほんとだ。綺麗だね』


 返信をして結菜は画像を全画面で表示する。

 それは、海だった。

 陽菜乃と一緒に過ごしてきた海。二人の思い出がどこよりもたくさん詰まっている場所。しかし、そこに写っているのはいつものような月明かりが照らす夜の海ではない。

 夜明けはまだのはずだ。海の先は太陽が昇る方角でもない。しかし画像に写る海の向こうが微かに白じんでいるように見えた。


『これ、加工してる?』


 思わずそんなメッセージを送るとすぐに『思い出は加工しない主義です』と返ってきた。結菜は笑って再び海の画像を見つめる。陽菜乃からそれきり返信はない。


 きっと、同じ海を見ているのだ。

 二人の思い出が詰まった海を。


 それから母の実家に着くまで、陽菜乃とのやりとりは断続的に続いた。思い出したように送られてくるメッセージにはすべて画像がついていた。

 通学路。

 校門が閉まっている学校。

 初詣に行った神社。

 そして陽菜乃の家。

 陽菜乃は思い出を回収するかのように、結菜と一緒に行った場所を撮っているようだった。画像が送られてくる度に二人でメッセージを送り合う。しかし、その内容は過去を懐かしむようなものではない。


『来年の春には、毎日一緒に学校行こうね』

『三年の教室って五階だよね。階段しんどそう』

『次に絵馬を書くときは、わたしの受験合格をお願いしてよね』

『わたしが戻ったら、いつでも泊まりに来ていいからね。ベッドも買うから』


 画像と一緒に送られてくる陽菜乃からのメッセージはどれも未来のことばかり。結菜も過去のことは話題にはしない。

 いつもと同じように会話は進んでいく。ゆっくりと、一つ一つの言葉を噛みしめるように時間をかけて。

 そのやりとりは結菜が母の実家に到着するまで続き、そしてピタリと止まった。結菜がもうすぐ到着することを告げたから気を遣ったのかもしれない。あるいは、彼女もまた空港に到着したのか。

 結菜はカナエがインターホンで何か話している後ろでスマホの画面を見つめた。そのとき、ポンッと一通のメッセージが届いた。


『いってらっしゃい』


 短い文章。それはまるでちょっと近所へ出掛けるときに声を掛けられたような、そんな雰囲気。

 結菜は微笑みながら返事を打つ。


『いってきます』


 送信。するとすぐに既読の文字がついた。待ってくれていたのだろう。結菜は笑みを深めた。


「結菜ちゃん」


 ふいに呼ばれて顔を上げると、大きく立派な門櫓の向こうには和装の喪服を着た老人と四十代くらいの男が立っていた。結菜はカナエの隣に立つと軽く会釈をする。


「こんにちは。松岡結菜です」

「ああ」


 低く短い声はそれ以上何も言わない。結菜はその声の主を見つめた。

 真っ白の髪を綺麗に整えた長身の老人。年齢はよくわからないが姿勢が良い。その表情には力があり、相手を威圧する雰囲気を醸し出している。

 見覚えがあるような気もするし、ないような気もする。もう一人の男は彼の斜め後ろに控えるように立っているので、おそらくはこの老人が当主であり、結菜の祖父にあたる人物なのだろう。


「旦那さま、お時間が」


 じっと祖父を見つめていると、斜め後ろに控えていた男が口を開いた。祖父は頷き、そしてカナエに視線を向ける。


「ついてきなさい。もう間もなく始まる」

「はい」


 カナエが緊張した声で頷いた。そして結菜を視線で促しながら門櫓をくぐる。

 そこには日本庭園が広がっていた。その向こうにはまさに屋敷と呼ぶにふさわしい日本家屋がドンと建っている。

 まるでどこかの文化財かのように整えられたそこは、およそ人が暮らしているとは思えないほど生活感がない。


「ここがお母さんが育った家?」


 カナエに聞いたつもりだったのだが、すぐ目の前を歩いていた祖父がちらりと振り返って「そうだ」と頷いた。


「あれはこの家が好きではなかったようだが」

「……そうですか」


 きっとそうだろうと結菜は思った。だって母はあの家が好きだったのだ。結菜と父と暮らしていたあの小さな家が。

 これほど大きくも立派でもない。それでも温かな気持ちが詰まった大切な場所だったはずだ。


「お母さん、どこにいるんですか?」

「……結菜ちゃん」


 咎めるようなカナエの声。それでも結菜は祖父の背中を睨むように見つめる。すると祖父は足を止めて振り返った。その顔を見て結菜は少しだけ目を見開く。彼は気まずそうに「申し訳なかった」と謝ったのだ。

 その表情がどこか母と似ていて結菜はなんとなく彼から視線を逸らした。


「――別に、そういうのはいらないです。ただわたしはお母さんがどこにいるのか知りたいだけなので」

「知って、どうしたい。お前の父と同じ墓に入れてやりたいか?」


 静かな声。そこからは不思議と温かなものを感じ取ることができた。

 結菜が視線を戻すと祖父は無表情に、しかしどこか柔らかな空気を纏って再び歩き出した。


「たぶん、母はそれを望んでいると思います」

「そうだな……。あの子はもう、自分の居場所を見つけていたのにな」


 祖父は頷き、そのまま庭の奥へと進んでいく。結菜はカナエへ視線を向けた。彼女は何か知っているのか、ただ微笑んだ。

 祖父が向かった先は母屋の隣にある小さな平屋だった。おそらく普段は襖で仕切られているのだろう部屋は、今はだだっ広い一つの和室となっていた。そこにはやはり喪服姿の見知らぬ大人たちが二十人程度並んで座っている。

 全員が親族か何かなのだろう。当然、結菜が知っている顔はない。


「お二人はこちらに」


 祖父の隣に控えていた男にそう促されて結菜とカナエは部屋の一番後ろに用意された座布団に座った。

 部屋の前方には仏間があり、そこに立派な仏壇が置かれているのが見える。そして、その仏壇の前には母の写真。

 遺影に使われたのだろうそれに写る母は、結菜が知っている母とはまるで別人のように無表情だった。そしてずいぶんと若く、幼く見える。もしかすると結菜と同じ年頃の時に撮ったものなのかもしれない。


 ――お母さん、家に帰りたいだろうな。


 ふいにそんなことを思ってしまう。だってここには母に対する感情が何もない。

 静かに始まった三回忌法要。

 響くのは僧侶の読経の声だけだ。その声は結菜の知らない母に向けられている。そしてその場にいる誰もが、ただ無表情に読経が終わるのを待っている。

 誰も母のことを思い出してもいない。

 おそらく、ただ一人を覗いては。

 結菜は祖父の背中を見つめた。その背中は、とても寂しそうに見えた。






「すまなかったな。あのような法要に参加させてしまって」


 薄く陽が差す広い霊園を歩きながら祖父が言った。祖父の斜め後ろにはさっきと同じ男が静かに付いて歩いている。秘書か何かなのだろう。その後ろを歩きながら結菜は隣を歩くカナエと顔を見合わせた。


「立派な法要だったと思いますが」


 カナエの言葉に祖父は疲れたように笑った。


「形だけはこだわらねばならなくてな。うちの一族は形式にうるさいんだ。人も、行事も。型にはまらない者は一族の中では異端児だ」

「お母さんがそうだったんですか?」


 祖父はちらりと結菜を振り向き、そして頷いた。


「あの子は、千紗都は幼い頃から自由に憧れていた。それでも二十歳になるまでは我慢してくれていたんだ。だが母親が病気で亡くなって、それまで母の体裁の為にと我慢していた感情が溢れてしまったのだろう。突然いなくなってしまったんだ。駆け落ちをしたようだと知ったのは、あの子の籍が変わったときだ」

「それからは一度も?」

「ああ」


 カナエの言葉に頷いた祖父は歩く速度を落とした。


「病院で再会した千紗都とは結局、一度も言葉を交わすことはなかった」

「え、でも――」

「似たもの同士だったんだよ、これでも親子だからな。お互い、素直にはなれなかったんだ」


 祖父はそう言うと少し振り向いて笑った。初めて見る祖父の笑顔は、やはり母とよく似ている。


「しかし、だからといって子供から母親を奪うようなことはするべきではなかった。本当に、申し訳なかった」


 立ち止まった祖父は結菜に身体を向け、深く頭を下げた。結菜は微笑み「だからいいですって。そういうのは」と答える。


「わたしはただ、お母さんに色々と伝えたいことがあるだけなので」


 すると祖父は顔を上げて少し首を傾げた。


「恨んではいないのか?」

「ないですよ。難しいことはよくわからないけど、きっと色々と事情があったんだろうなって今は思いますし」

「なぜだ?」

「だって、さっきの法要に集まった人たちの中で、あなただけが母のことを想ってくれていたような気がしたから」

「……そうか」


 祖父は微笑み、そしてカナエに視線を向ける。


「ありがとう。良い子に育ててくれて」


 するとカナエは首を横に振った。


「違いますよ。結菜ちゃんは元々良い子なんです。千紗都さんが、良い子に育ててくれたんですよ」

「そうか。千紗都は、良い母親だったんだな」


 祖父の目が結菜に向く。


「はい。大好きなお母さんです。もちろんお父さんも」


 母と同じ目をした祖父に結菜は笑みを向ける。祖父はその瞳を潤ませながら「そうか」と頷いた。そして身体の向きを変えて「お前は良い家族を持ったんだな、千紗都」と墓石に向かって言った。


「え……」


 結菜は彼が見つめる墓石に視線を向ける。そこには周囲の立派な墓石に埋もれるように、見慣れた形の墓石が建っていた。

 真新しいその石に刻まれた文字は倶会一処。

 形式を重んじると言っていたのに、その墓には家の名前すら刻まれていなかった。


「このお墓は、もしかして新しく建てられたんですか」


 カナエが聞くと祖父は頷いた。


「千紗都はきっと一族の墓には入りたくないだろうと思ってな。当主権限で無理を押し通した」


 結菜は墓石を見つめる祖父の横顔を見つめた。祖父はどこかホッとしたような表情で「三回忌も終えた」と続ける。


「これでいつでも家族の元に帰れるな、千紗都」


 そう言って微笑む祖父の表情は毒気が抜けたように穏やかだった。

 彼は秘書の男から線香を受け取ると、墓石の前に屈み込んでそれに火を点す。ふわりと線香の香りが結菜たちを包み込んでいく。

 祖父は墓石に向かって手を合わせると、身体を起こして少し後ろに下がった。結菜はそんな祖父の姿を目で追う。


「結菜ちゃん。いっぱい報告したいことあるんでしょ? 千紗都さんに」


 そうカナエに背を押されて、結菜は頷きながら墓石の前に立つ。

 そうだ。

 たくさん伝えたいことがあった。

 カナエの元で暮らし始めてからどんなことがあったのか。どんな人たちに出会ったのか。どんな思い出が出来たのか。

 しかし、今一番伝えたいことは一つ。


 ――わたしにも、大好きな人ができたよ。


 手を合わせて微笑みながら母に伝える。


 ――そのうち二人でお母さんに会いに来るからね。


 母が生きていたらどんな反応を見せただろう。驚くだろうか。それとも困った顔を浮かべるだろうか。

 だけど決して否定はしないでくれるだろう。根拠はない。しかし、そう思う。

 大好きで優しい母だから。


「……よし」


 結菜は頷いてからカナエを振り返る。


「帰ろうか、おばさん」

「え、もういいの?」


 カナエが目を丸くする。祖父もまた驚いたように結菜へ視線を向けたのがわかった。


「いいよ。お母さんがどこにいるのかわかったし。それに、きっとそのうちお父さんのところに帰ってくるんでしょ?」


 結菜は祖父を見ながら首を傾げた。祖父は頷く。申し訳なさそうな表情で。


「そのつもりだよ」

「じゃあ、いつでも会えるから大丈夫」

「――そうね」


 カナエはホッとしたように微笑んだ。そして祖父に「今後のことについては、また」と頭を下げる。祖父は小さく頷いた。きっとすでに大人たちの間では母を父の元へ帰す話は進んでいるのだろう。

 結菜はまだ少し話があるという祖父とカナエから離れて母が眠る墓石を見つめる。

 ずいぶんと綺麗に手入れがされている。そういえば生けられている花もまったく萎れていない。結菜たちが来るから先に生けておいてくれたのだろうか。

 そう思ったが、祖父の顔を見てそれは違うだろうと否定する。

 きっと祖父は、祖父だけは母のことをずっと想ってくれていたのだ。彼は不器用なだけで、とても良い父親だったのだろう。


 ザッと風が吹き抜けて線香の香りが流れていく。

 ここには海がない。高台にあるこの霊園から見えるのは人工的な街並みだけだ。

 少し、息苦しい感じがする。

 結菜は小さく息を吐いてスマホを取り出した。そしてそこに表示されている通知を見て目を細める。陽菜乃からだ。時間は今から一時間ほど前。

 開くと、そこにはたった一言だけが届いていた。


『行ってくるね!』


 陽菜乃はアメリカに戻ると、今のスマホは使えないと言っていた。一時的に契約を休止させるのだそうだ。

 もう彼女は出発してしまっただろうか。

 今メッセージを送ったら彼女には届くだろうか。

 わからない。

 それでも結菜はゆっくりと、一文字ずつメッセージを打っていく。


「結菜ちゃん、お待たせ。帰るよー」

「はーい」


 メッセージを打ち終えて結菜は返事をする。

 薄い雲が少しずつ晴れていき、柔らかな陽の光が結菜たちの行く先を照らし始める。


『待ってるね。あの海で』


 送ったメッセージに既読の文字がつくことはなかった。


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