8.未来の思い出(8)
そのままじっと陽菜乃が来るのを待っていると、トタトタと廊下を歩く音が近づいてきた。そして襖が開く音。
「――結菜、お待たせ。って、あれ?」
不思議そうな陽菜乃の声は「まさか、座ったまま寝てる?」と続けた。
「……起きてる」
「じゃあ、なんで顔上げてくれないのかな?」
結菜が答えずにいると、足音が近づいてきた。
「おーい、結菜?」
陽菜乃の声がすぐ近くで聞こえる。そして隣に座る気配。結菜は小さくため息を吐くと顔を上げた。すぐ横に不安そうな表情を浮かべた陽菜乃の顔がある。
「わたし、何かしたかな。あ、さっきからかったせい? ごめんね。ちょっと浮かれちゃってたから――」
「違う」
「え、違うの?」
陽菜乃は首を傾げる。結菜は頷き、視線を段ボールの方へと向けた。
「荷物、もう片付けてるんだなって」
「ああ……。うん」
陽菜乃もそちらに視線を向けながら頷く。
「使わないものは先に片付けちゃおうと思って。あんまり量はないけど、直前でバタバタするのは嫌だから」
彼女はそう答えてから「でも、なんでそれでちょっと不機嫌なの?」と結菜を見た。
「別に不機嫌じゃない」
結菜は彼女をちらりと横目で見てから再び段ボールへ視線を戻す。
「ただ、本当にいなくなっちゃうんだなって実感して――」
「寂しくなっちゃったんだ?」
ほんの少しからかいが混じった声。結菜は彼女へ顔を向けて文句を言おうとした。しかし、すぐに言いかけた言葉を呑み込む。彼女は、何かに耐えるように苦しそうな笑みを浮かべていた。
その笑みを見て結菜は自分の言動を情けなく思ってしまう。
そうだ。少し考えればわかること。寂しいのは結菜だけではないのだ。陽菜乃だって同じはずなのに。
結菜は視線を俯かせた。
「ごめん」
謝った結菜に、陽菜乃は無言で首を横に振った。そして「おいで、結菜。髪乾かしてあげる」と立ち上がった。
「うん」
結菜は彼女を見上げて手を差し出す。すると陽菜乃は「もう、しょうがないな。ほら、立って」と結菜の手を引っ張って立ち上がらせると、すぐにその手を放してしまった。一瞬だけ触れた手の温もりが寂しさを生む。
「結菜、こっち」
「……うん」
結菜は自分の手をそっと握りしめ、促されるままテーブルの前に座る。陽菜乃は結菜の後ろに回ると無言でドライヤーのスイッチを入れた。
「結菜って猫っ毛だよね。フワフワしてていいなぁ」
結菜の髪を丁寧に手で梳かしながら陽菜乃は言う。
「……陽菜乃の髪の方がいいよ。サラサラしてて」
「そうかな」
「そうだよ」
そして会話は途切れてしまった。結菜も陽菜乃の髪を乾かそうとしたのだが、自分でやるからと断られてしまった。仕方なく、先に布団に入って彼女が髪を乾かすのを待つ。
「……じゃあ、消すね?」
髪を乾かし終えた陽菜乃はそのまま布団に入ると電気のリモコンに手を伸ばした。
「うん」
部屋の電気が消え、モゾモゾと布団の音が聞こえる。
陽菜乃は何も言わない。結菜に近づくこともない。髪を乾かしている間も、その手が肌に触れることはなかった。まるで触れ合うことを避けているかのように。それがひどく寂しくて、切ない気持ちになる。
結菜は彼女の方に身体を向けた。暗闇の中で陽菜乃がどちらを向いているのか分からない。
「ねえ、陽菜乃」
暗闇に呼びかけると彼女は「ん?」と息を吐くように返事をした。
「どうしたの?」
「え、なにが?」
「陽菜乃、なんか変だから」
「変……?」
「変だよ。だって陽菜乃、ぜんぜん触ってくれない」
するとフッと息を吐くような音が聞こえた。
「結菜ってば、エロい」
一瞬、その意味を考えてから結菜は慌てて「違う! そういう意味じゃなくて!」と否定した。そして深くため息を吐いて続ける。
「あの日から陽菜乃、なんか変だよ」
「あの日って?」
「……わたしが陽菜乃に気持ちを伝えた日」
「あー、告白の日だ」
陽菜乃の声は明るい。しかし、どこか緊張が混じっているような気がした。
「からかわないでよ。陽菜乃、あの日から直接わたしに触るのを避けてる感じがする。前までいきなり手を繋いだりとかしてきたじゃん。抱きついてきたりさ。それなのに、最近は避けられてる気がする」
沈黙が暗闇に広がっていく。それでも陽菜乃の返事を待っていると、やがてフウッと静かに息を吐く音が聞こえた。そしてモゾリと動く音。
「豆電、点けてもいい?」
「うん」
すると周囲が柔らかなオレンジ色に包まれた。陽菜乃はリモコンを置くと身体を結菜の方に向けて「ねえ、結菜」と静かな声で言った。
「さっきさ、わたし言ったでしょ。やりたかったことがたくさんできたって」
「うん」
陽菜乃を見つめながら結菜は頷く。彼女は「ほんとはね、もっとたくさんあるんだよ」と続けた。
「たくさん?」
「そう。結菜としたいこと、たくさん」
陽菜乃は微笑んだ。
「もっともっと結菜と一緒に色んなことをしたい。だけど今はできないから」
彼女はそこで言葉を切ると小さく息を吐いた。
「……なんで? まだ引っ越しまでには少し時間があるじゃん。わたしは陽菜乃と一緒にまだ思い出をたくさん作りたいよ? お正月だって、初詣とかさ」
しかし陽菜乃は「ごめんね。結菜」と浮かべた微笑みを悲しげに歪ませた。
「行けないんだ、初詣」
「え、なんで」
「お正月は向こうで過ごすことになっちゃって。わたしが戻ったあとのこととか、色々と調整しておきたいってパパが」
「そう、なんだ……」
それはきっと仕方の無いことなのだろう。結菜はグッと一度唇を噛むと「いつ行くの?」と聞いた。
「二十七日から始業式の前日まで」
「そっか」
「ごめんね。急にそういうことになっちゃって」
陽菜乃は申し訳なさそうに謝った。結菜は微笑む。
「仕方ないよ。じゃ、今回は練習だね」
「練習?」
「うん。ちゃんと遠距離でも連絡できるかどうかの練習。わたし、あんまりそういうの得意じゃないから」
「機械音痴?」
「そうかも」
すると陽菜乃は軽く声を上げて笑った。
「じゃ、わたしが明日教えてあげるよ」
「うん。でもその前に出掛けない?」
結菜が言うと彼女は不思議そうに「どこへ?」と言った。結菜は笑う。
「初詣」
「……明日ってクリスマスじゃなかった?」
「いいんだよ。わたし、今年は初詣行ってなかったし。陽菜乃だってアメリカにいたんだから初詣とか行ってないでしょ?」
「まあ、そうだけど」
「だから行こう? 一緒に」
「一緒に……」
戸惑ったような表情で陽菜乃は呟く。その瞳はどこか不安そうだ。
そのとき、結菜にはなんとなく彼女の気持ちがわかってしまった。最近の彼女が結菜と距離を置いている理由も。
陽菜乃が遠くへ行く。陽菜乃と離ればなれになってしまう。それは陽菜乃にとっても同じこと。
きっと彼女は恐れているのだ。これ以上、結菜と思い出を作ることを。
結菜はいつも誰かを見送る側だった。しかし陽菜乃は見送られる側。
結菜は住み慣れた土地で大切な人と一緒に変わらず暮らしていく。しかし陽菜乃は違う。きっとその辛さは結菜以上であるはずだ。だから彼女は恐れている。思い出が増えると辛くなるだけだから。
だけど、と結菜は彼女へと手を伸ばした。
「行こうよ。陽菜乃」
そっと頬に触れると彼女は一瞬、ビクッと身体を強ばらせた。
――怖がらないでほしい。二人の思い出が増えることを。
結菜は思いながら陽菜乃を見つめる。彼女はしばらく結菜を見つめていたが、やがて柔らかく微笑んだ。
「うん。わかった」
「やった」
結菜も微笑み、彼女の柔らかな頬を撫でる。
「ねえ、陽菜乃」
「ん?」
「そっち行ってもいい?」
すると彼女は「えー」と笑った。
「襲っちゃうよ?」
いたずらを思いついた子供のような顔で陽菜乃は言う。そんな彼女を見つめながら結菜は「いいよ」と答えた。瞬間、陽菜乃が目を見開く。
「ダメだよ」
拒絶。
陽菜乃の言葉は紛れもないそれだった。彼女は少しだけ怯えたような表情で微笑んだ。
「そんなこと言っちゃダメだよ。冗談でもさ」
「冗談じゃないけど」
結菜は静かに言って「でも」と彼女の頬から手を放す。
「陽菜乃が嫌なら、いいよ。我慢する」
そう言って結菜は微笑む。
「寂しいけど」
そのとき、陽菜乃がハッとしたように目を見開いた。
「結菜、あのね――」
「わかってるよ。大丈夫、ちゃんとわかってるから」
結菜は微笑んだまま頷く。
「陽菜乃だって寂しいんだよね。寂しいから、だから、わたしと距離を置いてる。これ以上、楽しい思い出を作らないようにしてる。別れるときが辛いから」
深く、陽菜乃が息を吐き出した。そして「結菜はすごいね」と呟くように言った。
「なんでもわかっちゃうんだ。わたしのこと」
「そんなわけないじゃん。陽菜乃の方こそ、わたしのことなんでもわかってるでしょ?」
「今は、わかんない」
彼女は困ったように「わかんないよ」と繰り返した。
「なにが?」
「……結菜だって寂しいんだよね? わたしと離れるの」
「当たり前じゃん。寂しいし、不安だし、辛いし、怖いよ」
「だったらどうして? わたしは結菜の温もりを知っちゃったら別れるときにすごく辛くなる。今だって辛いのに、これ以上結菜のことをたくさん知ったらもっともっと辛くなる。思い出ができたらその分寂しくなる。そんなの嫌だよ。辛いのは嫌。なのに、なんで結菜は――」
「だからだよ」
結菜は泣きそうな表情の陽菜乃に笑みを向ける。
「たしかに思い出をたくさん作れば離れるときに辛いかもしれない。寂しくなるかもしれない。だけど離れてる間は、たくさん思い出があった方が辛くないよ? わたしは覚えておきたい。陽菜乃の身体の温もりとか、息遣いとか。そしたらきっと、また会えたときにこの気持ちが蘇ってくる気がするから」
「……この気持ちって?」
「んー、そうだな」
結菜は少し言葉に迷う。陽菜乃のことを想うこの気持ちは単純な言葉では言い表せない。結菜にもよくわからないほどたくさんの気持ちが入り交じっている。
陽菜乃に出会うまで封じ込めてきた気持ちがすべて彼女に向けられているような気がする。しかしどんなに考えてみても、この気持ちを彼女に伝えるために思いつく言葉は子供が思いつくような単純なものしかない。
「結菜?」
黙ってしまった結菜に陽菜乃が不安そうな声をかけてくる。結菜は彼女を安心させるようにもう一度その頬に手を伸ばした。
「好きだよ」
片手で頬を包み込むようにして結菜は言う。心を込めて。この気持ちが彼女に届くように。陽菜乃はじっと結菜を見つめている。
「思い出がなかったら、結菜はもうわたしのこと好きじゃなくなるの?」
そう言った彼女の視線が一瞬、部屋の隅へ向けられたような気がした。そこにはたしかテーブルがあったはずだ。そのテーブルの上にあったのはパソコンと、キーホルダー。
彼女はあのキーホルダーに思い出を託してきたのだろう。これから来る未来に作ることができるかもしれない思い出を。だから彼女は思い出を作ることを恐れている。今、幸せな思い出を作ってしまえば未来には何もなくなってしまう。そんな不安があるのかもしれない。
結菜は微笑んだ。
「そんなことないよ、きっと」
「きっと……?」
「だって、わかんないもん」
結菜は言って親指で彼女の頬をそっと撫でる。
「わたしは誰かのことを好きだって、そう心から思ったのは初めてだし、その人と離れてまた会うことができるっていうのも初めてだから、そのときわたしがどんな気持ちになるのかなんてわからない。でもきっと陽菜乃は違うんだよね」
「わたしは、違う?」
陽菜乃がわずかに眉を寄せる。結菜は頷いた。
「だって陽菜乃はずっと好きでいてくれたんでしょ? 一緒にいた思い出がなくても。わたしと再会したときに一緒にやりたいことを考えてくれてた」
実現できるかどうかわからない未来の思い出をキーホルダーにたくさん詰め込んで、そうやって彼女は結菜への気持ちを忘れないでいてくれたのだ。
「わたしたちは似てるって思ってた。だけど違うんだよね。わたしは思い出がないと不安になる。陽菜乃は思い出があると不安になる」
「結菜……」
陽菜乃の頬に触れていた手に彼女の手が重なる。結菜は彼女の肌の温もりを感じながら「でもさ」と続ける。
「ないよりあった方がいいって、わたしは思う。それに、こうしてる時間だって思い出になるでしょ? こうやって触れてる陽菜乃の温もりをわたしは忘れない。次に会ったとき、同じ温もりを感じられたら安心できると思う」
「それは、わたしだって……」
「でしょ? 離れるときにはこの思い出があるから辛いかもしれない。だけどこの思い出があるからわたしは陽菜乃のことをずっと好きでいられる気がする。それに、陽菜乃が日本に戻ってきたら今日以上の思い出を作ることだって出来るし」
「今日以上の?」
「そうだよ。だって、わたしたちは多分まだ全然お互いのこと知らない。再会したときは二人とも少し成長して、知らないことは今よりも増えてると思う。だからもっとたくさんお互いのこと知ることができるよ。それがまた、思い出になる」
「それが思い出に……」
「うん。だから、怖がる必要なんてないんだよ。何をしなくても、こうして二人でいるだけで思い出はどんどん出来ちゃう。思い出は無限に作れるんだから」
フッと陽菜乃が息を漏らして笑った。結菜は「なんで笑うの? 真面目に話してるのに」と少し首を傾げる。
「ごめん。結菜に諭されるなんて思わなかったから」
「なにそれ」
「だって結菜、少し前まで小さな子供みたいだったのに」
結菜は微笑む。
「子供だよ。わたしも陽菜乃も、まだ全然子供だよ。こんなことで不安になってるんだから」
「そっか」
「そうだよ」
結菜と陽菜乃は同時に笑う。そして陽菜乃は「しょうがないな」と小さく息を吐いて身体を起こした。つられて結菜も身体を起こす。陽菜乃は掛け布団をめくると「はい、どうぞ」と両手を広げた。
「いいの?」
「うん。結菜が寂しそうだから仕方ない」
「えー、わたしなの?」
「そうでしょ?」
結菜は軽く笑って「まあ、そうだけど」と膝をついて陽菜乃の布団へと移動した。陽菜乃は結菜を軽く抱きしめるとそのままドサッと横向きに布団へ倒れる。
「痛っ」
「畳だからねぇ。敷き布団、ぺったんこだし」
結菜は笑って「今度一緒に寝るときはベッドがいいなぁ」と彼女の胸に頬を寄せた。
「そうだね。戻ってきたときにはベッド買おうかな」
陽菜乃は結菜をギュッと強く抱きしめながら言った。
「陽菜乃、ちょっと苦しい」
「あ、ごめん。結菜があったかくてつい」
少し腕の力が弱まり、結菜は身体の位置を変えて陽菜乃と微笑み合う。
「良い思い出ができそう?」
「うん。すごく幸せな思い出ができそう」
「それは良かった」
二人は見つめ合い、そっと唇を合わせる。
柔らかな唇の感触をしっかりと記憶するように時間も忘れて長く口づける。一度呼吸のために少し離れてもう一度。そしてどちらからともなく、ゆっくりと離れる。
「……寝よっか」
陽菜乃が幸せそうな表情で言う。しかし結菜が答えないでいると、彼女は不思議そうに目を瞬かせた。
「キスだけなんだ?」
結菜が言うと彼女は驚いたように目を見開いてから苦笑した。
「結菜って、じつはエッチだよね」
「陽菜乃に言われたくないけど。あの海でいきなりキスしてきたくせに」
「たしかに」
陽菜乃は笑い、そして「今はこうして結菜の柔らかさと温もりをしっかりと覚えておきたい」と結菜の身体を再び抱きしめた。
「キスより先は、今日以上の思い出用にとっておく」
「そっか」
結菜は陽菜乃の首元に顔を埋めながら笑う。その吐息がくすぐったかったのか、陽菜乃も笑いながら結菜の身体を放した。そして互いに仰向けになると布団の中で手を繋ぐ。
「寝よう。明日は初詣だし」
「そうだね。おみくじ引く?」
「引かない。わたしそういうの信じないから」
「そういえばわたしも引いたことないかも」
「なにそれ。じゃあ、なんでそんな話出したの?」
「初詣といえばおみくじかと思って」
結菜と陽菜乃は笑いながら繋いだ手の指を絡める。
「結菜となら引いてもいいかな」
「大凶出たらどうする?」
「……やっぱ引かない」
「実は信じてるじゃん。おみくじ」
結菜はクッと笑う。陽菜乃は深く息を吐き出した。
「おやすみ、結菜」
「うん。おやすみ、陽菜乃」
幸せそうな笑みを向ける陽菜乃に結菜もまた笑みを向ける。そしてそのまま瞼を閉じた。
絡めた指の一本一本に陽菜乃の温もりを感じる。
触れた腕からは彼女の柔らかさを感じる。
そしてすぐ耳元に微かに感じる彼女の吐息。
結菜はそっと瞼を上げて彼女の方へと顔を傾ける。すると陽菜乃もまた同じようにして結菜を見ていた。二人は同時に微笑み、今度こそ瞼を閉じる。
オレンジ色の豆電球は点けたまま。
いつでも彼女の顔が見られるように。




