8.未来の思い出(7)
水道から水が流れる音が聞こえる。そしてカチャカチャと食器が当たる音。結菜は静かな部屋でぼんやりとテレビを眺めていた。
テーブルの上はすっかり片付けられ、パーティの面影はない。綾音とミチも帰ってしまったので、この家には結菜と陽菜乃だけだ。
結菜はちらりとキッチンへ視線を向ける。陽菜乃は食器を洗っている真っ最中だ。
「ねえ、陽菜乃」
「んー?」
「やっぱり手伝うよ」
「またそれ?」
陽菜乃の笑いを含んだ声が言う。彼女は振り向きもせず「いいってば。洗い物に二人もいらないし。もうすぐ終わるから」と続けた。
「んー、でも」
――落ち着かない。
結菜は膝を抱えながら軽く身体を揺らす。
綾音とミチが帰ったあと、結菜も一緒に片付けをしようと思ったのだが洗い物だけだからと断られてしまった。
静かな部屋は賑やかな雰囲気からは一変して穏やかで、ほんの少しだけ寂しい空気に包まれている。残されているのは楽しかった時間の余韻と心地良い疲労感、そして仄かな緊張感だけだ。
「よし、終わり!」
陽菜乃の声に結菜は振り返る。すると彼女は結菜の方へ近づきながら「結菜、もしかして寂しかった?」と笑った。
「え、いや別に。なんで?」
「だって、すごい嬉しそうな顔してるから」
彼女は言いながら結菜の隣に腰を下ろす。
「そんな顔はしてない」
「してるよ」
陽菜乃は笑って言いながら「もう十時も過ぎちゃったね」とスマホを見て言った。
「もうすぐお風呂沸くと思うから、ちょっと待ってね」
「え、いつの間に」
「前にも言ったでしょ。わたしは出来る子なの。みんなが来る前に湯船には水張ってたんだ。あとはボタンを押すだけにしといた」
「さすが陽菜乃」
「でしょー」
陽菜乃はそう言って笑うと小さく息を吐いた。結菜は首を傾げる。
「疲れた? やっぱり手伝った方がよかったよね」
「ああ、違うよ。そうじゃなくて。楽しかったなぁと思って」
彼女は微笑みながらテーブルを見つめている。結菜は思わず笑う。
「もう懐かしがってるの? 早すぎ。ついさっきのことじゃん」
「でも、終わっちゃったから。初めてだったんだよね。友達と一緒にクリスマス過ごすの」
少し寂しそうに彼女は言った。その横顔を見ながら結菜は思い出す。彼女もまた、結菜と同じであったのだということを。
彼女も結菜と同じように自分の気持ちを隠し、他人と距離を置いたまま生きてきたのだ。
結菜には綾音がいた。支えてくれる人が。
しかし、彼女はずっと一人で……。
「楽しかったね」
結菜が微笑むと彼女もまた微笑み、そして「結菜のおかげだね」と身体を寄せてくる。
「わたし? 逆じゃない? 陽菜乃のおかげだよ」
「ううん。結菜のおかげだよ。結菜のおかげで、今までやりたくてもできなかったこと全部できた気がするんだ」
結菜は首を傾げる。
「全部って、クリスマスだけじゃないの?」
「うん、違う。わたしがここに戻って来てから、あの海で結菜としたことは全部わたしがずっとやりたかったこと」
「あの海でしたこと……」
「そう。花火でしょ、ピクニックでしょ、映画も一緒に観たし」
「スマホだったから画面小さかったよね。字幕がよく見えなくて」
結菜は思い出して笑ってしまう。陽菜乃も「あと、ボードゲームも風で駒飛ばされちゃって大変だったよね。暗いから全然見つからなくて」と笑う。そして懐かしそうに目を細めた。
「一緒に、海を見たよね。夜の綺麗な海」
「うん。いっぱい見たね。寒い日が多かったけど」
フフッと陽菜乃は笑う。
「二人だったから寒くなかった」
「うん」
「キスもしたし、ハグもいっぱい」
「……まあ、そうだね」
結菜は恥ずかしさに頬が熱くなってくる。そんな結菜に笑みを向けながら陽菜乃は「結菜と、やりたいことたくさんできた」と続けた。
「結菜がいたから、ちゃんと自分の気持ちに素直になれた」
「それは、わたしだってそうだよ」
肩に触れた陽菜乃の身体が温かい。結菜も彼女に身体を寄せながら「お互いのおかげだね」と笑う。
「そうだね」
陽菜乃も笑う。そのとき、ピピッと音が響いた。陽菜乃はパッと身体を離して「お風呂、沸いたみたい」と立ち上がる。
「ちょっと待っててね」
言って彼女は部屋から出て行ってしまった。結菜は廊下を見つめながら小さく息を吐く。静かな部屋にはテレビの音が小さく流れている。
――そういえば、前は一緒にお風呂入ったんだっけ。
ふいに思い出してしまい、結菜は深く息を吐き出してテーブルに突っ伏した。
あのときは混乱していたので何も思うことはなかった。陽菜乃だって勢いで一緒に入っただけだったのだろう。
――今だと、絶対恥ずかしいから無理だけど。
そう思っていると「お待たせ」と陽菜乃が戻って来た。結菜は机に突っ伏したまま視線を彼女に向ける。
「何やってんの? 結菜」
陽菜乃は不思議そうに首を傾げながら「はい、これ」と手に持っていたスウェットを結菜に差し出した。
「着替え。下着は例の如く、新品のやつだから、そのままあげるね」
「……なんで陽菜乃は新品の下着をそんなに用意してるの?」
結菜は身体を起こして着替えを受け取る。すると彼女は「こういうときのために?」とニッと笑った。
「は?」
「ウソウソ。偶然だよ。まとめ買いが安いときに買ったやつが残ってて」
「……ほんとに?」
結菜が疑いの目を向けると、彼女は苦笑して「ほんとだって」と答えた。そして結菜の隣に座る。
「結菜、先に入ってきなよ」
「え、でも」
「わたしは後でいいから」
しかし、どう考えても陽菜乃の方が疲れているはずだ。準備や後片付けも、そのほとんどは彼女がやっていたようなものなのだから。
そう思って彼女を見つめていると陽菜乃はいたずらっ子のように笑った。
「もしかして、また一緒に入りたいのかな?」
「先に入ってくる」
結菜は慌てて浴室へと向かった。
「ゆっくり浸かっていいからね」
そう言った陽菜乃の声は、まったく普段と変わりない。結菜は廊下を歩きながら何度目かのため息を吐く。
まるで自分だけが意識して緊張しているような気がする。そうか。意識してしまうから緊張するのだ。だったら意識しなければいい。陽菜乃みたいに、いつも通り振る舞えばいいだけ。簡単だ。
「うん。いつも通りに……」
結菜は一人自分にそう言い聞かせると脱衣所のドアを開けた。
風呂から戻ってみると、陽菜乃の姿はなかった。誰もいない部屋にテレビの音だけが響いている。どこへ行ったのだろう。
その場に立ったまま思っていると、トタトタと足音が近づいてきた。
「あ、なんだ。もう出たの? ゆっくりしてていいのに」
「人の家のお風呂は落ち着かない」
「初めてじゃないのに」
ニヤリと陽菜乃が笑う。結菜は小さく息を吐いて「陽菜乃はどこ行ってたの?」と聞いた。
「ああ、布団敷いてたの。今、ちょっと部屋が散らかっててさ。片付けてた」
「別に、わたしだけでもここで寝たのに」
「え、なんで?」
「え?」
陽菜乃が心から驚いた顔をしたので結菜も驚く。
「一緒に寝るでしょ?」
さも当然のように彼女は言って「付き合ってるんだから」と結菜に手を伸ばした。そして結菜が肩にかけていたバスタオルを手に取ると、結菜の髪をワシワシと拭き始める。
「しっかり拭かなきゃ風邪引くよ。この家って、すきま風も入ってくるんだから」
結菜はじっと陽菜乃を見つめる。彼女は手を止めて不思議そうに首を傾げた。
「なに?」
「なんでも。髪、ありがとう。陽菜乃も早く入ってきなよ」
「あ、うん。そうしようかな」
彼女はそう言うとバスタオルを結菜の肩に戻した。
「結菜は先にわたしの部屋行ってて。暖房効いてるから。場所、わかるよね?」
「うん。覚えてる」
結菜が頷くのを確認して、彼女は浴室へと向かって行った。彼女の足音が消えるのを待ってから結菜はテレビを消して廊下に出る。
「……なんか、変だな」
呟きながら廊下を歩く。
陽菜乃の様子はいつもと変わらない。本当に今までと何も変わらないのだ。不自然なほどに。
結菜のことをからかったりはするが、それは今までもずっとそうだった。今、この場で相手を意識しているのは結菜だけのように思える。
何より、彼女はあの日から結菜に触れようとはしない。しばらくは期末試験の期間中だからなのだろうと思っていたが、それが終わってからも陽菜乃は結菜に触れようとはしなかった。
あの海で会っているときも、いつものようにお喋りをする。さっきのように身体を寄せ合って。しかし、ただそれだけだ。
優しい笑顔を向けてくれる。気持ちのこもった言葉を伝えてくれる。彼女からは温かな気持ちが伝わってくる。
しかし、結菜に触れようとはしない。
さっきもそうだ。髪を拭いてくれてはいるが、ほんの少しだけ距離があったように思う。まるで、そこに見えないラインが引かれているかのように。
――考えすぎかな。
思いながら陽菜乃の部屋の襖を開けて中に入る。そしてピタリと足を止めた。二組の布団が並んで敷かれているのは以前の記憶と同じ。しかし、以前とは違う光景がそこにはあった。
結菜は視線を部屋の隅へと向ける。生活感がなかったはずの部屋には段ボールが数個積み上がっている。まだ中身は詰め込まれている途中のようで、段ボールの周囲には日用品、そして衣類が畳まれた状態で置かれていた。
「……もう、準備してるんだ」
呟いた結菜はその場に立ち尽くした。
引っ越しは来月。まだ時間はある。そう思っていたのに、別れはすぐそこに迫っていることを唐突に思い知らされる。
結菜はふらりと足を進めると布団の上に座り込んだ。そして膝を抱えながら段ボールに詰め込まれるのだろう荷物たちを眺める。
畳まれている衣類は結菜がまだ見たことのないものばかり。生地が薄いので秋冬用ではないのだろう。きっと陽菜乃もこんなに早くアメリカに戻るとは思ってもいなかったはずだ。
結菜は部屋の隅に寄せられたテーブルに視線を移す。そこには閉じられたままのノートパソコン。そしてキーホルダーがある。
フラミンゴのキーホルダー。
今、結菜の部屋にも飾られているものと同じ。
しかし、きっとそこに詰まった想いの深さは違う。
結菜は深く息を吸い込んだ。陽菜乃と同じ香りがする。少しドキドキして切ない香りだ。
――いなくなっちゃうんだ。
一度実感してしまうと、ずっとそのことだけが頭の中を支配してしまう。
もう、目の前で彼女の笑顔を見られないのだ。彼女の温もりも、香りも感じることはできなくなってしまう。
また会える。それはわかっている。画面を通して会うことだってできる。それでも彼女に触れることはできなくなってしまう。
わかっていたことなのに、わかっていなかったことを思い知らされる。
結菜は息を吐くと、抱えた膝に額をつけて目を閉じた。




