8.未来の思い出(6)
「結菜ちゃん、今学期の成績上がってるじゃない。ずいぶん頑張ったのね」
十二月二十三日。夕食を食べ終えたあとのまったりとした時間帯。カナエはリビングのソファで缶ビールを片手に、結菜が渡した成績表を眺めながら微笑んだ。結菜はカーペットの上に座り、ソファに背をもたれながら「まあ、期末が良かったからね」と答える。
「へえ。そういえば、期末試験の期間中は勉強会してたんだっけ?」
「そう。みんなが教えてくれて」
結菜は微笑みながら頷いた。
結局、あの勉強会ではミチも含めて全員が結菜に勉強を教えてくれたのだ。結菜の為の勉強会と言ってもいいほどだった。そのおかげで成績は持ち直した。これでバイトも続けることができるだろう。
「ねえ、結菜ちゃん」
成績表を見つめたままカナエは呟くように言う。
「大学、行ってもいいんだからね?」
結菜はカナエへ視線を向けた。彼女は成績表から視線を逸らさず、グイッとビールを喉に流し込んでいる。
「……就職するよ、わたしは」
「お金の心配なら大丈夫なんだよ? 兄さんたちが残してくれたお金もあるんだし。わたしだってちゃんと働いて稼いでる。結菜ちゃん一人なら余裕で大学に行かせてあげられるんだから」
「うん。わかってる」
結菜の言葉にカナエは視線を成績表から結菜へと移した。そして僅かにその目を細める。
「変わったね、結菜ちゃん。何かあったの?」
静かに彼女は言った。結菜は笑みを浮かべて「まあ、色々と」と答えてテレビのチャンネルを変えた。
「えー。なんか、おばさん寂しい」
カンッとカナエはテーブルにビールの缶と成績表を置くとソファから降りて結菜と並ぶようにカーペットに腰を下ろした。
「寂しいって何が?」
「だって結菜ちゃん、知らない間に大人になってるんだもん」
「どこが。全然なってないでしょ。大人になんか」
「なってるよ。なんか、顔つきが違う」
「そう?」
結菜は自分の頬に手をあてて首を傾げる。カナエは嬉しそうな、しかしどこか寂しそうな複雑な笑みを浮かべて「そうだよ」と頷いた。
「結菜ちゃんは、もう大丈夫なんだね」
「うん」
結菜は微笑んだ。するとカナエは浅く息を吐いて「それで?」と身体を揺らして結菜の肩にぶつかってきた。
「何があったわけ?」
「何って……」
「あ! 待って。わかった! 恋でしょ。恋をしちゃったんでしょ?」
「おばさん、酔ってるね?」
仄かに赤いカナエの顔を見つめながら結菜は冷静に言う.カナエは「えー、酔ってないよー」と笑いながら身体を揺らしている。
「いや、酔ってるでしょ。てか、そういえばさっきご飯食べてるときも呑んでたよね? これ、何本目?」
「知らないけどー。そんなことより、どうなの? 結菜ちゃんには大切な人ができちゃった感じなの?」
結菜は「そうだなぁ」とテレビへ視線を向けながら考える。
見たことのないドラマが流れている。学園ドラマのようだ。画面の向こうでは主人公とその友人たちが楽しそうに並んで下校するシーンが流れていた。
「大切な人がいるんだなってことに気づいたし、大切な人ができたとも言える、かな」
「ふうん。そうなんだ」
柔らかなカナエの声に視線を向けると、彼女は包み込むような優しい表情を結菜に向けていた。結菜も笑みを向ける。
「その大切な人の中には、おばさんも含まれてるからね」
「え……?」
「ずっと助けてくれて、見守ってくれて、ありがとう。おばさん」
「結菜ちゃん」
カナエの瞳が一気に潤んでいく。結菜は笑みを浮かべたまま「それと」と首を傾げた。
「これからはおばさんにも自分の人生を優先してほしいな」
するとカナエは驚いたように目を見開いた。そして苦笑する。
「それは、わたしが独り身だということに対する嫌味かな?」
「違うって。ほんとにそう思ってる。もうわたしのこと優先しなくてもいいから。大丈夫だから。だからおばさんには、幸せになってもらいたい」
冗談のつもりでカナエは言ったのだろう。結菜の言葉に彼女は戸惑ったように眉を下げた。そして「もー、ほんとに大人になっちゃって!」と結菜に抱きついてくる。
「おばさん、酒臭いよ」
「いいじゃない。嬉しいんだから、ビールの三本や四本や五本」
思っていたよりも多く呑んでいたようだ。しかし、まだ泣き出していないので完全に酔っているというわけでもないのだろう。結菜は苦笑しながら「あ、そうだ」とカナエの身体を押し返して言った。
「明日なんだけど」
「大丈夫、大丈夫。ちゃんと覚えてるって。綾音ちゃんやお友達と一緒にパーティするんでしょ?」
「うん」
「わたしのことは気にしないでいいからね。今まで通り、サヤカのご飯を楽しみにしてるんだ。癸羽ちゃんもね、明日は学校のお友達の家でパーティするんだって」
「そうなんだ?」
「うん」
カナエはそう言うと少し寂しそうな表情でテレビに視線を向けた。
「みんな、成長しちゃうんだなぁ」
そう呟くと、彼女はテーブルに置いていた缶ビールを手に取った。そして残っていたビールをグイツと呑み干してから息を吐き「よーし、わたしもがんばるぞ!」と片手で拳を握った。その言葉に結菜は首を傾げる。
「おばさん、もしかして好きな人がいるの?」
「えー、内緒」
「なんでよ」
「結菜ちゃんが教えてくれたら教えてもいいけど」
「……まだ内緒」
「じゃあ、わたしも内緒」
結菜とカナエは顔を見合わせ、そして同時に笑い出す。
思えば、こんな話をするのは初めてかもしれない。今までカナエとは会話をしていても、どこか互いに踏み込まないようにしていたような気がする。
それは結菜が無意識に壁を作ってしまっていたからなのか、それともカナエが結菜に気を遣ってくれていたからなのか。あるいは、その両方だったのか。
しかし、きっとこれからはちゃんと自分の気持ちを素直に伝えることができそうだ。そうしてようやく家族になれる気がする。
「おばさん、ありがとう」
結菜は身体を揺らしてカナエの肩にぶつかる。カナエも同じように身体を揺らして「うん」と肩をぶつけた。
テレビからは、穏やかなメロディが流れてきていた。
翌日。太陽は海の向こうに沈み、街が夜の静けさに包まれようとしている頃、陽菜乃の家のキッチンは賑やかな声で溢れていた。
「すごいじゃん! 陽菜乃って揚げ物の天才じゃない?」
「たしかに。なんでこんな綺麗に揚がるの? うちの母親といい勝負だよ、これは」
テーブルの上に皿を並べながらキッチンへ視線を向けると。綾音とミチが揚げたての唐揚げやフライ、天ぷらが盛られた大皿を眺めていた。
「そんなに褒めても味は変わんないよ?」
ジュワッと音が響く。陽菜乃がまた新たに何かを揚げ始めたようだ。
「いや、もうこれ以上変わりようがないくらい美味しいけど?」
「なんでもう食べてんだよ、ミチは」
「つまみ食いはダメだよ、ミチ」
そんな声を聞きながら皿をすべて並べ終えた結菜は「綾音はどう?」と彼女の隣に立った。
「サラダ、もうできる?」
「うん。もうちょっと」
言いながら彼女はボウルを抱えるようにして中身をかき混ぜていた。作っているのはポテトサラダのようだ。
「綾音も料理できるってさ、ちょっと意外じゃない?」
そう言うミチを綾音は横目で見て「まあ? 女子として当然っていうか?」と得意げな表情を浮かべる。ミチは嫌そうに眉を寄せながら「松岡さんは?」と結菜へ視線を向けた。
「普段から料理するの?」
「まあ、難しくないものなら」
「そういえば結菜のバイト先って定食屋さんなんでしょ? 結菜も作ってるの?」
「まさか」
陽菜乃の言葉に結菜は苦笑する。
「わたしは接客と片付け専門」
「へー、結菜が接客……」
陽菜乃は頷くと何か考えるように視線を遠くに向けた。不思議に思っていると、綾音が手を止めて「陽菜乃、いま結菜がバイトの日に店へ行こうと思ったでしょ?」と言った。
「え……」
「そうなの?」
結菜が首を傾げると陽菜乃は「なんでわかっちゃうかな」と綾音に苦笑を向けた。
「わかるでしょ、そりゃ」
綾音は笑って「わたしは行ったことあるけど?」と再び手を動かし始めた。陽菜乃はムッとした表情を浮かべると「結菜」と真面目な顔を結菜に向ける。
「え、なに」
「次のバイトっていつ?」
「明後日だけど」
「わかった。行くね」
「いいけど――」
結菜は首を傾げて「なんで?」と訊ねた。陽菜乃は「なんでも」と真面目な表情のまま頷くと、最後の揚げ物をすくい上げてコンロの火を止めた。
別にバイト先に来てくれることは構わないが、仕事中なのでお喋りだってできない。綾音が来たときも普通に接客をしていただけだ。
「別に何も楽しくないと思うけど……」
呟いた結菜にミチが「松岡さんって、そういうところがアレだよね」としみじみ言いながら肩を叩く。
「なにが?」
「あー、いや。なんでもない。綾音、できた? お皿いる?」
ミチは言いながら綾音にサラダ用の皿を持って行く。結菜は首を傾げながらテーブルのセッティングに戻った。
こうして皆で準備したクリスマスパーティは、結菜が想像していた以上に楽しいものだった。
学校のこと、最近見たテレビのことやくだらない日常の出来事を話しては盛り上がり、そして話題は自然と陽菜乃が転校して来たばかりの頃のことへと移っていた。
まだあれからそんなに経ったわけではない。しかし陽菜乃が来てからの数ヶ月でたくさんのことがあった。それは結菜にとっても、綾音にとっても、そしてどうやらミチにとってもそうであるようだった。
「陽菜乃、来月の今頃にはもういないんだよね」
ひとしきりお喋りが終わったあと、ミチがケーキの皿を見つめながらポツリと言った。
クリスマスプレゼントの代わりにと全員でお金を出し合って買ったワンホールのクリスマスケーキは、すでに半分以上なくなっている。赤いイチゴと一緒にクリームの上に乗っていたサンタの砂糖菓子は誰にもらわれることなく、切り崩されたケーキの近くに転がっていた。
「なんでミチがしんみりしてんの?」
綾音が不思議そうに首を傾げた。するとミチは不服そうに「そりゃ、しんみりもするでしょ」と綾音を睨む。
「陽菜乃が来てから、わたしもけっこう学校生活変わったんだからね」
「え、そうなの?」
「そうだよ。ねえ、二人もそう思うでしょ?」
ミチが綾音と結菜に聞いてくる。しかし、陽菜乃が来る前までのミチとはあまり関わりがなかったので結菜は首を傾げるしかない。
「……松岡さん、もう少しわたしに興味を持って?」
「ああ、ごめん。今のミチのことは知ってるけど陽菜乃が来る前までは全然話したこともなかったし」
「それよ、それ。わたしの学校生活の変化」
ミチが結菜を指差しながら言った。
「たしかに、陽菜乃が来る前まではミチって別グループにいたもんね。陽菜乃が来てからは、なんかだんだんこっちに移ってきたけど。なんで?」
綾音の問いにミチは「いや、何でと言われても」と彼女自身も不思議そうに首を傾げた。
「んー、なんかさ、最初は綾音が変わったなって思ったんだよね」
「わたし?」
「うん。綾音も、そして松岡さんも少し変わったような気がして。それが気になったのかなぁ」
ミチは両手を畳の上に突くと身体を反らして微笑みながら結菜と綾音を見た。
「二人の関係ってさ、周りから見てもちょっと特別な感じだったっていうか。わたしたち他人が入り込めない感じがあったんだよね。でも、陽菜乃が来てから、その雰囲気が少し変わったような気がして」
ミチが陽菜乃に視線を向ける。陽菜乃はどこか困ったような笑みでミチを見返し、その視線を結菜に移した。
「だからちょっと心配だったていうか。特に綾音なんだけど」
「心配? なんで」
心から不思議そうにする綾音にミチは「そりゃ心配するって」と笑った。
「だって綾音、松岡さんに対する過保護度がすごい増してきたんだもん。それに、だんだん余裕もなくなってる感じでさ。最近はけっこう張り詰めてる雰囲気だったから」
「……マジで? そんなわかりやすかった? わたし」
「まあね。自分では隠せてるつもりだった?」
ミチは笑いながら言う。綾音は「マジかぁ。わたし、ダサいなぁ」と呟きながら頭を掻き、そして結菜を見た。結菜は首を傾げる。
「綾音、過保護だったんだ?」
「なに、松岡さんも気づいてなかった感じ?」
「うん。過保護っていうのは全然」
「結菜にとって綾音はそういう存在なんだもんね」
そう言った陽菜乃に綾音と結菜は視線を向ける。
「綾音はいつだって結菜のことを守ってくれる存在でしょ?」
「なんか、陽菜乃に言われるとモヤッとするんだけど」
綾音がジトッとした目を陽菜乃に向ける。陽菜乃は苦笑しながら「でも、そうでしょ」と続けた。綾音は深くため息を吐いて「まあ、そうなんじゃない? 過保護なくらいに守ってあげますとも」と結菜へ視線を移して微笑んだ。結菜はどうしたらいいのかわからず、ただ彼女を見返す。
「――なんかよくわかんないけど、雨降って地固まった感じ?」
ミチがテーブルに頬杖を突きながら言った。
「そう見える?」
綾音が問い返すと彼女は「うん。みんなの雰囲気、またちょっと変わったからね」と頷いた。
「何があったかは聞かないんだ?」
陽菜乃が言う。ミチは頷いた。
「そこまで深入りしようとは思わないよ。自分だけ仲間はずれみたいでちょっと寂しいけど。でも今はそれよりも、今さら元のグループには戻りにくいなぁっていう自分の心配の方が大きい」
「別に戻らなくても良くない?」
結菜は不思議に思いながら言った。ミチは目を丸くする。
「え、でも」
「あ、もちろん戻りたいんだったら協力するけど。ね、綾音?」
「うん。そりゃね。でもミチなら一人でしれーっと元のポジションに戻りそうだけど」
「……もし、このまま綾音と松岡さんのグループに入りたいって言ったら?」
ミチが窺うように結菜と綾音を見つめてくる。結菜は首を傾げた。
「それは、別に今と変わらないよね?」
「だなぁ。ミチって最近は気づいたらいるし」
「陽菜乃がいなくても?」
「わたしは関係ないでしょ」
陽菜乃が優しく微笑みながらミチに言う。ミチは陽菜乃を見返し、そして「えと、じゃあ」と少し照れたように笑った。
「これからもよろしく、二人とも」
「うん、よろしく。ミチ」
「まあ、二年でクラス別れるかもしれないけど」
綾音がニヤリと笑う。瞬間、ミチが怒ったように頬を膨らませた。
「なんっでそういうこと言うわけ? 綾音って、ほんとそういうとこがアレだよね!」
「なによ、アレって」
綾音は笑いながら答えてから、ふとスマホに視線を向けた。そして「あー」と低く唸るような声を上げた。
「いきなり、なに。綾音」
結菜が問うと彼女は「うん。親からメッセ来たんだけど」と眉を寄せた。
「あ、もしかして早く帰れって? うわ、もうこんな時間じゃん」
ミチがスマホを見てから声を上げた。結菜も時間を確認すると、時刻はいつの間にか二十一時を過ぎていた。
「まあ、それもあるんだけど……。結菜」
綾音が真面目な表情で結菜を見つめる。
「え、なに」
「残念なお知らせです」
「え……」
「カナエさんが酔いつぶれて帰れません」
それを聞いて結菜は深くため息を吐いた。
「まあ、なんとなく予想はしてた」
「だよね」
綾音は笑って「だからさ」と言いながら立ち上がった。
「今日はここに泊まっていけば?」
「は?」
「え?」
結菜と陽菜乃の声が重なった。綾音はニヤリと笑って「いいでしょ、別に。ね、陽菜乃?」とテーブルの皿を片付け始めた。
「そりゃ、わたしはいいけど」
少し困ったような陽菜乃の声。
「いやいや、待ってよ。なんでそういうことに」
「なに、いいじゃん。前も泊まったんでしょ? 結菜」
綾音がニヤニヤと笑いながら皿をキッチンへと運んでいく。
「それは、そうだけど……」
しかし、あのときと今では陽菜乃との関係性が違うのだ。そんな気軽に泊まったりできるほど結菜の神経は図太くない。
思いながらちらりと陽菜乃を見ると、しっかりと目が合ってしまった。彼女はニコリと微笑む。その視線に、結菜は頬に熱を帯びてくるのを感じた。
「あ! じゃあ、みんなでお泊まりするっていうのは?」
ミチが嬉しそうに言いながら、綾音と同じように皿を片付け始めた。
「却下。あんたとわたしは家族が心配するから家に帰るの。それにこの家に四人分の布団があるとは思えないし」
「うん。四人分はないかな。ごめんね、ミチ」
「えー……」
「ついでに、わたしたちにはこの余った料理を持って帰って家族に食べてもらうという義務もあるからね」
「ああ、それはたしかに。もったいないもんね。陽菜乃、タッパーか何かある?」
「あ、うん。待って。今出すから」
答えながら陽菜乃もキッチンへと行ってしまった。テーブルの前に一人残された結菜は、頬に手を当てながら息を吐いた。
「わたしの意見は無視なのか」
呟いた声は誰にも届かない。なんだか緊張で胸がドキドキしてきた。
「結菜、ケーキのお皿も持ってきてくれる? それもみんなで分けるから」
いつもと変わらない陽菜乃の声が結菜を呼ぶ。返事をして皿をキッチンへ持っていくと「ありがとう。その辺に置いてくれる?」と陽菜乃が笑顔で言った。
彼女の表情も態度もいつもと変わりない。もしかすると意識してドキドキしているのは自分だけなのかもしれない。
結菜は深くため息を吐いて空いているスペースに皿を置く。その拍子に、サンタの砂糖菓子がコロンと皿の上を転がった。




